八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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8月の最後です。

長いです。今回も長いです。
一色いろは回ですかね。

読んでいただけるだけで嬉しいですが、感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。




8月③

 

 

 城廻めぐりは躊躇していた。肩が上下する。

 

 土曜日の夜中なのに、いや、夜中だからというのが正解かもしれないけど、休みの前の日は皆遅くまで買い物してたりするものじゃないだろうか。店内をざっと眺め、客の少なさに肩を落とす。なんとか店長の力になりたいんだけど。

 八月の二週目、月曜日は横にいる比企谷君の誕生日だった。彼への誕生日プレゼントは難しかったなあ。いつも本読んでるから私なんかのオススメは既に手に取ってる可能性が高い。芳香剤なんかあげて合わなかったらちょっとショックだし、何より気を遣わせたくない。

 結局は無難にハンカチを渡してしまった。嘘です無難じゃないです。すごく選びました…。

 ショッピングモールで比企谷君に合うハンカチを選ぼうにも、彼の雰囲気や性格からするとなんというか、おじさま方御用達といった店で選ぶことになってしまい、店員さんにお父さんへのプレゼントかと思われてしまった。

 ロッカーに入れておこうかとも思ったけれど、直接会って渡したくて未だ渡せずにいる。バイト帰りにちっぽけな勇気を出さなければ。

 

 チラチラと比企谷君の顔を見ていた所為で、視線に気づいた彼がこちらを向く。

 

「ど、どうかしました?」平静を装いつつも少し目が泳ぐ。

 

「ううん、なんでもないよ!」

 

 比企谷君と一緒に仕事をしている時間は、まるで白昼夢を見ているようで頭が彼で埋め尽くされる。目が合うとなおさらだ。

 

「あ!ゴミ出ししてくるね!」ちょっと離れなければ。

 

「え、ああ俺行きますよ」

 

「大丈夫!一人でできるよっ!」右腕でマッスルポーズをする。まかせなさいと言わんばかりに力こぶを逆の手で叩いた。

 

 彼は微苦笑を浮かべながら、首肯で下がる。ゴミ袋を抱えてから子供っぽすぎたかなと反省した。

 

 自動ドアをくぐり、店の裏側に設置されているゴミ用コンテナへと歩を進める。

 比企谷君は優しいなあ。

 ニヤニヤが抑えきれない頬を掌で揉み解す。既にほろほろに砕けているからなんの意味もなかった。

 

「うよっと」コンテナを開け、ごみ袋を放り込む。蓋が重くていつも変な声が出てしまう。

 

 そこで建物の角に人影が見えた。若い子がたむろしているのかなと思い、少し様子を見ようと足を一歩踏み出したところで自分が今置かれている状況と、一年前の光景が重なる。蒸し暑い夜だった。

 人影が少し動き、赤い袖が見えた。

 その色に、また記憶が刺激される。どうしよう。

 お店に戻らなきゃ。

 

 震える足を何とか動かし店へと戻る。少ししてから自分が走っていることに気付く。パタパタと鳴るスニーカーに、もう一人の足音が反響しているように聞こえ、嫌な汗が噴き出した。振り返れない。

 自動ドアに半ばぶつかるようにして、煌々と光る店内へと体を投げ出した。

 

「はあ…はあ…」息が切れている。心臓が熱い。

 

 後ろに人がいるのに気が付かなかった。

 

 背後の気配に、ゆっくりと首を向ける。一秒もかからない動作なのに、一分以上かかっているのではないかという程に世界が止まる。思わず目を瞑った。

 薄目で確認すると、怪訝そうな瞳をこちらに向けている女性がいた。

 

「あ、すみません!いらっしゃいませ!」

 

 慌てて道を開ける。横を女性客が通り過ぎた。

 自動ドアの外に目を向けるが、駐車場には誰もいない。

 

 息を整え、レジを見ると心配そうにこちらを伺う彼がいた。今にも走り寄ってきそうに見えた。いや、そうしてほしかったのかもしれない。

 どうしよう、比企谷君に言うべきか、でも…。浅い呼吸に、肩が上下する。どうしよう。

 

 恐怖と迷いが思考を包み込んだころ、階段から聞きなれた足音がする。そちらに目を向けると店長が下りてきていた。

 その姿を見るだけで、肩に重くのしかかる何かが下りた気がした。

 震えている私を見て、店長の足取りが早くなるのが分かった。大分呼吸が楽になる。

 

 

 店長と戸惑う比企谷君が話していたのは覚えている。詳しい会話は頭に入っていなかったが、帰りに比企谷君は私が車に乗るまで何も言わずに付いて来てくれた。

 

 

「ごめんね、ありがとう」ちゃんと話せているだろうか。

 

「全然大丈夫ですよ」そう言う彼はどこかで見たことのある瞳をしていた。

 

 そうだ、奉仕部だ。あの空間だ。雪ノ下さんや由比ヶ浜さん、それに一色さんに見せるその暖かい視線を、私に向けてくれている。そう思うと、感情の波が喉からこみ上げて来る。全部話せば、全部話せば…。

 

 彼は私を助けてしまうだろう。

 

 何度も留飲を下げる。

 

「ごめんね、心配かけて。あ!これ誕生日プレゼント!」

 

 助手席に置いてあった紙袋を彼に押し付けるように手渡す。ハンカチだから大丈夫だろう。

 

「え、あ、なんかすみません…」

 

「お誕生日おめでとう!」そう言い、送ったメールを思い出す。

 

『悩みとかあったらなんでも聞くからね!』

 

 あれは、私のどこから出た言葉だったのか。

 

 別れを告げ、ギアをドライブに入れる。逃げるようにアクセルを踏んだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 なんとなく。無意識に依然と同じ場所に立ってしまった。

 耳鳴りの様に脳内でこだまするクラクションが嫌でも思い出させる。いや別に嫌な思い出って訳じゃないんだけど。

 携帯を確認する。まだ待ち合わせの時刻には五分ほどあった。首を巡らせて移動する場所を探すが、誰しもが日陰に陣取り丁度いい場所はない。かくいう俺も日陰を理由にここに立っている訳で人の事は言えないのだが。

 

 さて今日はどれくらい待たされるのだろう。十分か十五分か。おいおいもしかして呼び出しておいて来ないとかいうあれか?脱水症状で弱ったところを狙っているのか?

 どこからか汗が滴り、鎖骨を通る。駅の中で待っていればよかった。

 日課になっているソシャゲへのログインだけを淡々とこなしていると、昨日の出来事を思い出す。

 

 ぎこちない笑顔のめぐり先輩に、深刻な表情でしきりに店の周りを見に行く店長。夜は危ないからとすぐそばの駐車場まで付き添いを頼まれた。距離の短さが、事の大きさを物語っているように聞こえた。

 店に駆け込んできた時、駐車場で何かを言おうと口を開きかけた時。彼女は助けを求めているように見えた。

 

 ハンカチのお礼を言っていないと思い出して、メールアプリを開いたところで後ろから声を掛けられた。

 

「先輩、また手ぶらですか」

 

 振り返ると、右手に結露をみせるペットボトルを持って立つ一色いろはがいた。

 

「おお…」

 

 少し、見とれてしまう。懐かしさか、後悔か。そのどちらも含んだ感情が湧き出て来る。毎日目にする小町の姿とはまた違った。

 一色は俺の視線に気づいたのか、ローファーを鳴らしクルッと一回転する。スカートが重力に逆らい、落ちる。

 

「どうです先輩、制服ですよ。JKですよJK」スカートの裾をチラっと持ち上げ言ってくる。

 

 いけないものを見てしまった気分で、思わず顔を背ける。どうして女子高生はJKブランドを自称してしまうのか。それが数年後の自分に返ってくる呪いとも気付かないで。

 

「べ、別に普通だろ。小町の制服姿も毎日見てるし」

 

「え…先輩気持ち悪いです…」

 

 若干、どころかドン引きと言った様子で俺から距離を取る。お前が言ったんだろうが…。と思いきや軽口も少々、右手を持ち上げ先ほど目に入ったペットボトルを差し出してくる。

 

「これどうぞ、暑い中待たせてすみません」

 

「お、おお…」おずおずと手を伸ばし、受け取る。

 

「なんですかその顔は」

 

「いや、一色が気を遣ってると思って…」

 

「だから私をなんだと思ってるんですか…」俺に向ける視線に蔑み要素が追加された。「待たせてるんですから、これくらいは当然です」

 

 うーんいつぞやの時はハチ公並みに待たせたような気がするんだけどなあ。俺まじ忠犬。銅像になっちゃう勢いだ。俺だったら自分の銅像の除幕式になんか出席したくないけど。いらん心配だこれ。

 

 一口含み尋ねる。「いくらだった」しかし一色は学生鞄をガサゴソしたまま「いいですよそれくらい」という。

 

「いやそういう訳には」

 

「もういいですか?」一色はこちらに手の平を差し出すようにする。

 

 お手かな…?ついに俺も忠犬デビューか…。

 微かなプライドと格闘してると、一色は鞄に突っ込んでいた左手を引っこ抜く。カラフルで可愛らしいペットボトルケースを持っていた。

 丁度プライドが負けたところで合点がいき、ペットボトルを差し出す。危なかった。

 

「先輩のお茶、一緒に入れておくので欲しかったら言ってくださいね」

 

 遅刻もせず、ニコッと微笑み気遣う様子は完璧超人にも見えた。「あ、間接キスじゃなくて残念でした?」いやそんなことはなかった。

 

「なわけねえだろ」嘘です。「なんか悪いな」

 

「いえいえ」と言い、俺の前を通り過ぎる。「じゃあ行きましょうか」

 

 どこに行くとも聞かされていなかったが、どうにも電車を使うらしい。やはり駅の中で待っていればよかった。

 遅れて、一色の後をついていく。亜麻色の髪は見覚えのある髪留めで一つに纏められている。一色が歩くのに合わせて、右へ左へ揺れ、誘われている気分になった。

 

 駅構内へ入り、歩を早め横に並ぶと一色に向かって手を差し出す。伝わるか心配だったが、一色は遠慮の色を見せつつ観念したように鞄を肩から落とす。ワイシャツのボタンが一番上まで留まっていることに気付いた。

 それを受取ろうとしたところで、一色が何かを思い出したようにブレザーのポケットに手を突っ込んだ。「ちょっとあっち向いててください」言われた通り、過ぎ行く駅の広告に焦点を当てていると鞄のチャックを開ける音が二回、内ポケットだなと高校時代の記憶が言う。

 家の鍵か何かだろう。仕舞い終わった一色から鞄を受け取り、肩に掛ける。ずっと気になっていた疑問を口にした。

 

「聞いていいか」一色がこちらを向く。キョトンとした顔は悔しいが可愛い。「今日日曜だけど、なんで制服なんだ?」

 

「ちょっと学校に用事がありまして」一色は少し思案し答えた。

 

 この時期ということもあり聞かな方がいいかとも考えたが、一色の口調が思いのほか軽く、目だけで続きを促してみる。

 

「ああでも、もう大丈夫ですよ」一色が悪戯めいた顔をする。「もう大丈夫なんです」

 

「そうか」

 

 一色の真意は読み取れないが、無理をしていないことは伝わってきた。

 これなら、今日は息抜きしてもらって大丈夫そうだ。

 

 未だ目的地は知らされていないが、買った切符で東京に行くことだけは分かった。

 

「私まだ行ったことなかったんですよねー」

 

 楽しそうにしている彼女を見ていると、自然と口から出た。

 

「その…似合ってる…」囁きにも似た言葉だったが、確かに届いたらしい。

 

「あ、ありがと…ございます」

 

 同じような囁きが、鼓膜に響いた。

 

 

―――

 

 

「次なんか買うときは俺が出すから」横に座る一色に声を掛けた。

 

「スカイツリーの近くってブランド店ありますかね」

 

「勘弁してください…」

 

 電車に乗り込んで数駅、偶然にも二人分空いた席に座った。一色の肩が触れるが、逆側に詰める訳にもいかず素数を数えてやり過ごしている。

 一色と並んでいるとやけに視線を感じた。嫉妬や疑念を含んだそれは身体に刺さる。あのそういうやつじゃないんで通報とかやめてくださいね?

 

 電車に揺られ20分ほど経った頃、年配のご婦人が乗り込んできた。席は埋まっている。優先席ではない為義務ではないが、車内に牽制ムードが流れる。人と人とではなく、自らの意志と身体の。

 

「どうぞー」

 

 そんな葛藤などどこ吹く風。颯爽と立ち上がった一色は軽い口調でおばあさんに席を譲る。すげえ。しかしここからだ、ここからスムーズにいくのであれば誰も躊躇などしない。両者の社会性、しいては人間性まで試される。

 

「あら、御親切にありがとう」にこやかに礼を言い、俺の隣に座った。

 

「いえいえー」一色は笑っている。

 

 スムーズにやり取りされるそれはお手本のようなものに見え、どこかでカメラが回っているのではないかと首を巡らしたくなる。

 例え断られたとしても、老人扱いするなと叱責されても、彼女の行動は誇らしく勇敢なものだ。それにどんな結果になろうと俺は彼女に対してプラスの感情しか抱かない。

 無言で俺も席を立ち、一色の隣に立つ。一色とおばあさん両方が訝しい視線をこちらに向けてきた。

 

「どうして先輩まで立つんですか…」

 

 理由を考えていなかった。一色だけ立たせて自分だけ座っているのは気分が良くないし、距離が離れると話しにくい等あるが、どれも気恥ずかしく言いたくない。

 適当なことで言い逃げしようとしたところで電車は次の駅に着き、こんどはおじいさんが乗り込んできた。そしてそのまま俺が先ほどまで座っていた場所にゆっくりと座る。

 失礼ながら追ってしまっていた視線を剥がし、一色に向ける。

 

「未来予知的な…ね…」

 

 ここぞとばかりに理由をでっちあげるが、一色の冷たい目の温度がさらに下がっただけだった。ふええ怖いよお…。

 

 

―――

 

 

 一度乗り換えをして再び電車に揺られること数分、電車はホームに滑りむ。一色は我先にと降りると、両腕を上に上げて伸びをした。

 続いてぞろぞろと人が下りる為、一色の背中を軽く押して先を促す。咄嗟の事で動いたが、意識すると腕が固まった。

 少し進むと一色がこちらに向きなおり、不自然に上がったままの腕を見つめる。

 

「なにしてるんですか」

 

「いや別に…」

 

 ぎりぎりと骨が鳴るような錯覚を覚えつつ腕を下げようとするが、途中で手を掴まれる。

 再び固まる俺を他所に、一色は楽しそうな声を上げた。

 

「そんなことより早く行きましょうっ!」

 

 否応なく引っ張られ、脚がつんのめりながら階段を上る。

 口角が上がっているのには気付かれていないだろう。

 

 

 

「わあ…」空を貫くような巨大な槍を見上げ、一色が感嘆のため息をつく。

 

「おお…」右に続く。

 

 首を限界まで曲げても天辺が見えず、なぜか不安を覚える。

 

「先輩も来たことなかったんですか?」

 

 いつの間にか手元に携帯を出し、ポチポチと何やら検索をしながら聞いて来る。携帯の画面には有名な検索エンジンが表示されており、〈スカイツリー お昼ご飯〉と打ち込んでいるのが見えた。

 

「ああ、初めてだな」もう一度上を見上げるが、展望台までしか見えない。「いまさら感もあって来るタイミング逃した」

 

「ですよねー」

 

 携帯に噛り付いているからか返事はおざなりだった。まあわざわざ飯の事を調べてもらっているから何も言うまい。それにおざなりにされるのは慣れてるからね!クラスメイトにも親にも!親にも…。

 昼を少し過ぎ、お腹の中身も空っぽになってきたところだった。

 手持無沙汰に周りを見渡していると、水族館のパネルが目に入る。ペンギンがいるらしい。こんな都会にペンギンかよ。

 

「先輩お腹すきません?」一色はパッと携帯から顔を上げ言う。

 

「すいたな」

 

「もんじゃ食べません?」

 

「食べるか」

 

「じゃあレッツゴーです!」

 

 少し進むと、スカイツリーの下にあるショッピングモール内へ入る。お土産から服まで色々な店が入っている複合施設らしい。一色を先に行かせ、七階のレストランフロアへ行くためにエスカレーターを昇る。

 

「こんなに近くにあるのに来なかったなんて」上をいく一色が身体ごとこちらを向き言う。「灯台元暮らしってやつですね」

 

 ひらりと舞うスカートは脚が露出していて涼し気だが、制服だと重みがあってかそこまでの印象は抱かなかった。対して俺は黒色の長ズボンで普通に暑い。大学には小学生の短パンみたいなのを履いている奴がうじゃうじゃいるが、全然分からない。モードからリアルクローズとか言うらしいが、全然降りて来てないぞ。あれか、本当はダサいって言いたいけどその感情をリアルの圧力でクローズさせているのかな?

 

「そうだけど、使い方間違ってるからなそれ」

 

 何度目かのエスカレーターを降り、通路をジグザグに進むと目的の暖簾が見えた。潜ると途端にいい匂いが鼻孔をくすぐり、お腹が鳴る。食べ終わる時間と重なってか、席は少し空いている

 立ちすくんで首をキョロキョロしている一色に気付いた店員がこちらに近づいてきた。

 

「いらっしゃいませ、二名様でよろしいですか?」中年の店員が言う。

 

「はいー」一色が答える。

 

「席へご案内しますね、こちらへどうぞー」腰に巻くエプロンで手を拭いていた。

 

「ありがとうございますー」

 

 あまり広いとは言えない店内は賑わっていて、そこかしこで笑い声と鉄板で生地の焼ける音がする。一番奥の席に通された。

 

「座席を開けると荷物置きになっていますので、注文が決まりましたらお呼びください」

 

 そう言われ、蓋になっている座席の上部を持ち上げると中に空洞があった。なるほど。

 

「鞄入れとくか?」一応確認を取る。

 

「あ、もらってもいいですか」

 

「ん」

 

 聞いておいてよかった…。社畜魂に感謝だな。はっ!いくない!はちまんいくないよ!

 一色が自分の隣に鞄を置いたことを確認し、逆さにメニューを広げる。一色も押し返してきてせめぎ合いが始まったが横で落ち着いた。

 

「何にします?」一色が聞いてくる。

 

「ううん、これにするかな」パッと目についた東京スカイツリー名物のもんじゃを指さす。

 

「まあ無難ですよねー」

 

 え、なに駄目?無難駄目?それとも俺がダメ?

 

「一色は何にするんだ」

 

「先輩、女の子を急かすのは駄目ですよー」

 

 メニューに視線を落としたまま説かれる。いや、先に聞いてきたの君なんですけどね。

 

「す、すまん」納得はしていないが、急かしたように聞こえた可能性もあったので一応謝る。

 

「なーんて、冗談ですよー」

 

 一色は言いながら俺の肩をバンバンと叩いてくる。しかし視線はメニューに固定されたままで、誠意のなさを感じた。社畜失格だな。社畜たるものどんなに不当な扱いをされても謝罪の姿勢は崩しちゃいけない。クレームおやじを思い出して苛々してきた。いかんいかん。

 店員をやると否が応でも店員に優しくなる。やる前は接客クソとか思っていたけど、どこぞの接客業必修化という持論は超賛成。

 

「決まりました!」

 

「早いな」

 

 待ちモードに入ろうとしていただけに驚いてしまう。これが小町だったら五分は覚悟するところだ。カップ麺作って食えるまである。ごめんなさい盛りました。

 

「私あんまり迷わないんです」そう言い、手を挙げる。「すみませーん」

 

 店員に注文をして、立ち去るのを見届ける。

 

「私の半分あげるので、先輩の半分くださいね」

 

 悪戯めいた顔でそう言う。

 

 

―――

 

 

「あー腹いっぱい」

 

 会計を済ませ、暖簾をくぐって外に出ると白い眩しさに目を細める。

 

「ちょちょちょ先輩だめですよ」一色は先ほどから俺の肩に掴みかかっている。「財布出させてください」正確には俺の肩にある学生鞄。

 

「はいはい次行こうぜ」無視して進む。

 

「ちょ、先輩ってば」

 

 適当に進んでいると、お土産コーナーがあったので誘われるように踏み入れる。一色はむくれていたが、俺の鉄のように固い意志を認めたのか諦めてくれた。

 折角ここまで来たし、小町にお土産でも買っていくかと物色するが。スカイツリーペンやスカイツリーマグカップと実用的でないものが溢れていて中々手が伸びない。さらに少し進むとキーホルダーコーナーが目に入り、近づく。そこで一色に「先輩、買い物するので鞄貸してください」と言われたので渡す。キーホルダーって旅行中はいいものあったわーとか、現地っぽくていいわーとか思うけど実際貰ってみるとつける場所もなくて結局机の上の肥やしになるだけなんだよなあ。

 結局何も買わないまま、店を後にする。

 一色から鞄を受け取ろうと手を伸ばすが、親の仇の様な視線を向けられ断られた。

 

 

 ガラスの先に青い世界が広がっている。その空間までもが海に沈んでいるようで、空調を伴っていっそ寒々しさを覚えるほどだ。

 事実、一色は二の腕をさするようにして腕を組んだので、羽織っていたカーディガンを脱ぎ肩に掛ける。

 

「え、あ、大丈夫ですよ?」

 

 一色はすぐに脱ごうとするのを手で制す。どうせ断られると思い直接羽織らせたのは正解だった。

 

「いい、暑かっただけだ」

 

 無視して、さらに深く進む。

 水の反射する景色に誘われ、厚さ三十センチを超えるであろうガラスの前に立つ。これほどまでに分厚い壁に遮られているのに向こうの世界は透き通り、手を伸ばせば届くのではないかと勘違いする。

 後ろから、俺のカーディガンに袖を通した一色が歩いてきて横に並ぶ。水槽を見上げて口を少し開いていた。俺がそうしたら間抜けと揶揄されるだろう表情にも可愛らしさを確かに含んでいる。

 

「すみません、ありがとうございます」

 

 青白い顔をして言う。俺も同じだろう。

 

「気にすんな。風邪ひかれても困る」ぶっきらぼうに答える。

 

 余った袖をくしくしと遊ばせると、ぎこちなく手を差し出してくる。顔は伏せられていて、表情は窺い知れない。鞄を握る手が震えているのは見えた。

 俺の反応がないことに焦れたのか、限界だったのか、口を開く。

 

「はぐれるといけないので…」

 

 首を巡らせずとも、休日の水族館は人が多く歩くのに気を遣うほどだった。今も背後にはまだかまだかと人がいるはずだ。

 様々な情景が頭をよぎるが、答えはシンプルなものだった。

 

「そう…だな。はぐれるといけないから、な」

 

 ズボンで軽く手汗を拭き、一色の拠り所を求めて彷徨う手を握る。握ったとたんに手が湿るのが分かり、意味なかったなと思う。

 恥ずかしさを捨てていかないと次に進めない気がして、意を決して足を動かす。一色も同じだったのか一緒に動いた。

 カラスの集団の様に背後に群がる人々に、置いてきたものを喰い散らかしてもらう。

 

 

 魚の空間を数個回ったところで、ようやくいつもの勢いが戻ってきた。一色に手を引かれクラゲの漂う水槽に顔を近づける。

 ふらふらと漂う彼らは、拠り所を探し続けているようで手を差し出したくなる。差し出した結果がこれなので既に限界なんですけど。お察しの通り勢いが戻ったのは一色だけですね。

 俺の不甲斐なさに慣れてしまったのか、右へ左へ手を引き連れ回される。

 

「あっち行きましょう!」「おお」

 

「あ、あれなんですか!」「ああ」

 

 一色はゾンビでも飼ってるのかな、カメラ止めちゃダメなのかな。思考が回らない。

 柔らかく細い手は強く握ると壊れてしまいそうになる。前が見えていないのか、猪の様に人ごみに突っ込んでいった。一色の手が離れそうになる。なぜか分からないが、離してはいけない気がした。

 ぎゅっと強く握ると、人とぶつかりそうになった一色がつんのめり俺の胸に背中から飛び込んでくる。

 

「すみません」怪訝な視線を向けてきた男性に謝り、人のいない壁際に誘導するように手を引く。

 

 忙しなく歩き回った所為でいくつかの水槽は見れなかった。手を取ったまま目の前で項垂れる彼女が言葉を発さない為、顔を覗き込む。そこには大きな瞳に涙を溜めた少女の表情があった。

 

「え、な、どう…」狼狽えてしまう。

 

 零れてはいないものの今にも頬を伝いそうに涙を溜めている。顔を上げた彼女は唇を噛んで何かを堪えていた。吐き出すように、言葉が漏れる。

 

「せんぱい、楽しくないです…かね…」ギュッと目を瞑ると、一粒の涙が零れ落ちた。「すみません…変なこと頼んで…」

 

 一色の手から力が抜け、するりと逃げていく。

 

「ごめんなさい、次の水槽行きましょうっ」絞り出すような声を出し、涙を拭おうとする。寸前で俺のカーディガンを着ていることに気付き、ゆっくりと腕を下げる。彼女の動きは電池が切れるように停止してしまった。

 

 俺は、俺は何をしていたのだろう。震える彼女の手を取ったくせに、何も責任など取らず、任せ、しまいには泣かせてしまった。彼女は俺の手を引いている間、どんな顔をしていたのだろう。もしかしたらずっと泣いていたのかもしれない。俺の性格を知って、彼女は手を差し伸べたのだ。

 いじけて膝を抱えていた俺に、優しく何度も手を差し伸べていたのだ。

 

「嫌…なんかじゃない」だらりと下がる一色の腕を取る。

 

 精いっぱいだった。自分で自分を嗤うのが分かる。今まで嘲て、貶して、欺瞞だと吐き捨てたものを振り返る。

 本物など、未だ手に入らない。いや、あの時から探してなどいなかったのかもしれない。切り捨て、選ばず、停滞を選んだ。捕まっていれば、地球が運んでくれるのではないかと。

 進みなどしなかった。過去に囚われ、周りの景色だけが進んでいく。勘違いできる鳩の方がまだマシだ。

 成長や進歩、日々足を止めない周囲に取り残され、自分だけがあの場所から進んでいないことを騙すために先の話を無理にでも考えた。それでも見えない自分に苛立ち、透き通った世界を羨む。

 

 陽乃さんの依頼を受けた理由。戸部の下げた頭に声を発した理由。停滞している彼ら彼女らに触れることで、自分のなにかを許し、騙し、留め続けていたのかもしれない。

 俺は、自身に課したままの依頼を未だ解決できていない。あの時へと延びる影を未だ許している。

 そろそろ、立ち上がらなければいけないのかもしれない。

 

 一色の顔が、綻び、また唇を噛む。「いいんです」

 掴んだままの手と逆の手を上げ、一色の頬を流れる一筋の涙を拭う。

 

「ちゃんとつかまっとけ」握った華奢な腕を俺の腕に誘導させる。責任も男気もあったもんじゃない。「はぐれたら、見つけられないぞ」

 

 全てが終われば、すべてが終われば。

 

「せんぱいは優しいから…」辛うじて捕まったままの手に力はない。

 

 優しいか、本当に優しい奴はもっとちゃんとしているのではないだろうか。何様なんだろう。自分では動けないくせに。本当に面倒くさい。

 

「すまん…」

 

「…嫌です」

 

「…すまん」

 

「…許しません」

 

 何も言えない俺に、一色は何かを要求するように言い続ける。

 

「どうしたら許してくれる…」

 

 一息つき、一色はようやく言葉を紡ぐ。

 

「ていうか…許してくれるって思ってるのがいけないんですよ。女の子から勇気出させておいて反応なしとかありえます?私がどれだけの気持ちで手を差し出したのか分かります!?」

 

 ぼそぼそと繋げるような口調が、徐々に熱を帯びてきて最後には叫びになっていた。いつの間にか手は離れている。

 

「すまん…」

 

「謝ればいいってもんじゃないんです!」

 

 そこで一色は肩に掛けていた鞄のチャックを乱暴に開け、これまた乱暴に中身を漁る。突然のことに呆けている俺を他所に一色は財布を取り出し、中から数枚のお札をひったくる。それを俺の胸に突きつけた。

 

「はいっ」

 

 意味も分からず一色の意図を図りかねていると、チッと舌打ちをして俺のズボンのポケットにくしゃくしゃになるのも厭わずに押し込んでくる。

 

「ちょ、おい…」言い、思い出す。おおよそ昼食の金額だった。

 

 ああ、なるほど。縁を切る男から金なんて借りていたくないよな。押し込められたお札を取り出し、なるべく優しく開く。

 今日はここで終わりか。一緒の電車で帰るのもあれだしどっか本屋でも探すか。

 帰りのプランを頭の中で自作し始めると、唐突に腕を掴まれた。

 

「ほら、次行きますよ!」

 

「え」

 

「え、じゃないですよ。ペンギン見るんですペンギン!」

 

 グイっと引っ張られ、足がもつれそうになる。我に返り辺りを見渡すとこちらを遠巻きに見る人がいた。大きな声を出していたからだろう。

 

「いや、お前…縁切るんじゃ」そう言ったところで一色が急に立ち止まり、振り返る。

 

「は?」怖い。

 

「いやだって、金返してきたからそういう…」言葉の途中でも一色の眼が冷たくなるのが分かった。

 

「はあ…」一色は大仰なため息をつき、肩の鞄を背負いなおす。「これだから」

 

 口が悪いよこの子。

 

「いいですか、女の子は、本気の相手には奢られたくないんです」一色は俺を説き伏せるように人差し指を立てる。「お金の問題はデリケートなのに、親密になればなるほど曖昧になっていくんです。そこに甘んじて『今日はいいかな~』とか『彼氏出してくれて~』とかふざっけんなって感じです。親しき中にも礼儀あり、親しくなりたきゃ仁義ありです!」

 

 長ゼリフを言い終わると、肩で息をする。俺はというとあっけに取られていた。

 

「どうでもいい相手なら『ソフトクリーム買ってくるよ!』とか『クレープ買ってくるね!』とかにも甘える奴はいますよ?あ、私は後々面倒になりたくないからそういうのはしませんけど。好きな相手にはそういう奴だって思われたくないんです。一回目奢ってもらって次は私がなんて方法もありますけど、次会える保障なんてどこにもないんですよ!特に先輩みたいな人は!ひょっこりどこ行ってるか分からないんですから!」

 

 さらに肩が上下する。

 

「お、おお…」

 

「ぜえ…分かりましたか…はあ…はあ…」

 

「はい…」

 

「はあ…まあ、ならいいでしょう…」

 

 いろはす怖い…。ていうか女子怖い…。

 

「ああもう!今日は最後まで付き合ってもらいますからねー!」

 

 うがーといい俺の腕を取ってグングン進む。

 触れた一色の掌はほんの少しだけ湿っていて、それだけが真実だと感じられた。

 

 

―――

 

 

 再びショッピングモール内に入った。ベンチに座っている。隣の亜麻色の髪をした少女は、掌で顔を覆うようにして表情を隠していた。かれこれ十分はそうしている。

 ペンギンを愛で、数枚の写真を撮り、一周水族館の中を回った。一色はずっと俺の腕にしがみついていたが、水族館から出たあたりで様子がおかしくなり、音もなく進むとベンチに腰掛けて顔を覆ってしまった。

 

「あ、あの、一色さん?」

 

「すみません話しかけないでください…」

 

「お、おお…」余りに恐ろしい声色にこちらの声も震える。

 

 ありったけの勇気をかき集めたが、届くことはなかった。もっと動物や植物、大地や水からオラに元気をわけてくれー!ってやらなきゃいけなかったかもしれない。あと十分一色がこのままだったら両手を天に掲げよう…。

 

「こんな…こんなはずじゃ…」覆っていた手を離し、今度は頭を抱えるようにして項垂れる。

 

 やがて、顔を上げると何かを諦めたような視線をこちらに寄越しながら、「まあ、先輩ですしね…」と呟く。

 ぐうの音も出ない。

 

「すまん…」謝罪はすんなりと出るが、言ってから気付く。「あ、いや今のなしだ」

 

「…次謝ったら、あの二人にチクりますからね」

 

「すみ…、げふんっ、はい…」

 

「これは私が好きでやってるんですから、いいですね!?」念を押すように、腕も押してくる。

 

「ああ…」

 

 俺の反応に怪訝な視線を向けつつも、切り替えは早いらしい。ぱんっと手を鳴らし、勢いよく立ち上がる。

 

「さあ、陰気臭い話は終わりです」俺に向かって手を差し出してくる。「メインディッシュですよ!」

 

 その手を掴み、立ち上がる。西向きの全面ガラスに目をやると、既に太陽は彼方に沈んでいた。辛うじて光を伸ばし存在を誇示しようとしているようにも見えた。忘れられないように、消えてなくならないように。

 一色に手を引かれ、スカイツリーの展望台に足を向ける。

 

 

 大きな箱に敷き詰められると、案内人の合図で扉が閉まった。

 間もなく微かな重力を伴い、空に運ばれる。上に上に、そのまま突き抜けてしまうのではないかと思わせるスピードに、俺の胸に収まっている一色がしきりに顔をしかめる。気持ちはわかる。耳がツーンとする。

 そんなことも、開いた扉の先の景色で消えてなくなる。360度の大パノラマだ。雪崩のように降りる乗客から次々に悲鳴にも似た小さな歓声が上がる。

 波に乗り遅れた俺たちは、ゆっくりとガラスに近寄る。周りがはしゃいでいると突然冷静になるあの現象ない?旅行の計画立てている時が一番楽しいやつみたいな。

 

「わあ…」一色が溢すように言う。

 

 眼下に広がる夜景は、日本一に相応しいものだった。ついでに言うと値段にも釣り合うように見えた。口には出さないけど。

 窓に額をつけるようにして下を覗き込むと、直下に赤いテールランプが縦横無尽に軌跡を残していた。

 一色も同じように下を見つめ、俺の腕をつかむ手に力が入ったのが分かる。「痛いです一色さん」

 

「あ、ごめんなさいっ」パッと手を離すが、すぐさま掴まれる。

 

「すげえな」

 

「はい…」

 

 隣で同じように夜景を楽しんでいたカップルが、「綺麗」「君の方が綺麗だよ」と言い始めたので、一色に目配せして移動する。

 ぐるりと一周すると、大体の構造が分かった。この展望デッキの上には展望回廊というさらに高い位置から景色を楽しめる場所があるそうだ。しかしそこに行くのにもお金がかかるため、一色と相談して今回はやめておいた。

 

「まあ、またいつでもこれんだろ」

 

 一色が驚いたようにこちらを向き、すぐさま冷たい目になる。「それ来る気ないやつですよね」

 

「よく分かったな」

 

「どうせ先輩ですからねー」

 

「はいはいどうせですよ」

 

「でも、今日は沢山お金使ったので、今度はピクニックにでも行きましょうか」

 

「このくそ暑い時にか…」

 

「やだなあ、こんな時に行くわけないじゃないですかー。日焼けしちゃいますよ」

 

「確かにそうだな、もったいな…」言いかけてやめる。

 

「え、何か言いました?」

 

「いや、ただでさえ日に当たりすぎて髪の色変わってるしな」

 

「そうなんですよねー、こんなに痛んじゃって…って地毛ですよ!傷んでませんし!」

 

「自分で言ったんだろ…」

 

「先輩が言わせたんですー」

 

 やんややんや言いながら、フロアを一つ降りる。先ほどはカフェは設置されていたが、こちらはレストランらしい。そこそこ賑わっていた。この絶景を観ながら食事できるなら当然だろう。遅めの昼食を取った俺たちには縁はなく、フロアを回る。やがてお土産が置いてある小さな店に着いた。

 

「ここにもあるのか」小言を言いながら近づく。内容は下のショッピングモールと似たり寄ったりだった。

 

「まあ、どこにでもありますよねー」一色は言いながら、なにか思案する顔になる。

 

 特に見どころもなく、最後のフロアへ向かい階段を降りる。一色は俺から離れ、なにやら鞄を漁っている。

 フロアに降り立つと、目の前にまたカフェがあった。ここまで用意されると、何か一つ飲んでいかなければいけない気がしてくる。

 

「なんか飲むか?」後ろにいるはずの一色に声を掛ける。

 

 振り返ると、一色は手に小さな紙袋を握っていた。首を傾げ何か尋ねると、紙袋を開け始める。中から出てきたのはスカイツリーを模したキーホルダーだった。二つ。

 

「これ…」一色が差し出してくる。緑が俺のものらしい。

 

「くれるのか…?」一色の手元に残ったのはオレンジ色のものだった。

 

「なにか、思い出になりそうなものが欲しくて…」

 

「そ、そうか。さんきゅーな」いくらか聞くのは不躾というものだろう。あとで何か買ってやらなければ。

 

 あれほど嫌厭していたのに、今は自然とどこに付けようか脳が心当たりを探し始めている。

 

「あれだったら別に付けなくても…大丈夫ですから…」

 

 一色がこちらを向かずに、言ってくる。後ろの階段から降りて来る人がいた為、背中を押して誘導する。人が固まっている場所があった。目を凝らすと床に穴が開いている。

 

「一色、あそこ」指さすと、彼女も顔を向けた。

 

「あ、ガラスの床ですよあれ」

 

「ああ、透ける奴か」テレビで良く紹介されていた気がする。建設当初。

 

「行きましょうっ」手を引かれる。

 

 少し待つだけで、ガラス床の前に来る。本来上に乗るものなのだろうが。周囲の人がそれぞれに気を遣い誰も乗ろうとしない。ガラスの窓を覗いているだけだった。

 

「大学で使ってる筆箱にでも付ける…」

 

 覗き込んでいた一色の背中に呟く。肩がピクリと動き、届いたと分かった。

 

「…はい」

 

 優しく、強い返事が返ってきた。

 

 

 地上へと降りるエレベーターに乗り込むと、先ほどのカップルと思わしき男女が乗り込んできた。「ごめんって」謝る彼氏を、彼女は無視している。

 またも一色と顔を見合わせ、苦笑しそうになるのを抑えた。

 

 

―――

 

 

 昼過ぎに集合した駅に舞い戻ってきて、夕食を取った。日は沈もうとも空気は湿気を多く含みじっとりと肩にのしかかってくる。改札はすぐそこだ。

 俺の腕を確かめるように撫でまわしていた一色が顔を上げ、話しかけて来る。

 

「先輩、今自動車学校行ってるんでしたっけ」

 

「ああ」

 

「へえ…」腕からすすすっと下がり、俺の手を握り込んでくる。狙ってやっっているわけではないのだろうが、艶めかしい動きが心臓に悪い。「助手席、乗らせてくださいね…?」

 

 恥ずかし気に顔を逸らしながら、ぼそぼそと呟いた。

 

「…乗せられるようになったらな」

 

「やった…」一色は小声で喜ぶ。

 

「ほら、離れろ」

 

 改札を通り、一色を待つ。小町からもらった財布はまだ固く、新品の匂いをさせていた。遅れて一色も改札を抜ける。

 

「じゃあ、気をつけて帰れよ」

 

「はい、あ…」一歩踏み出した俺に、名残惜しそうな声を出す。そんな声出されたら帰れないだろう。

 

「どうした」

 

「あ、いや、ホームまで送っていきますよ!」

 

「なんでだよ…」

 

 当然の疑問に、身を引いてしまう。しかしむくれた顔の一色は詰め寄ってくる。

 

「むう、これだから女心が分かってないって言われるんですよ!」

 

「へいへい」言い、ホームへ続く階段に足を向ける。

 

「え」一色は驚いた声を出す。「なんでそっちなんですか」

 

「見送られても心配だからな、まだ見送る方がマシなだけだよ」首だけ振り返り言う。

 

 それを聞いた一色は顔を輝かせ、たたたっと付いてきた。階段を降りる。

 

「やればできるじゃないですかー」

 

「なにがだよ」

 

「女心ですよ女心。今のは満点です!」

 

「さいですか…」

 

 階段を降りきると同時に、電車がホームに突っ込んでくる。生暖かい風が顔にかかり、顔をしかめながら一色に聞く。

 

「一色、この電車か」

 

 こちらは前髪の辺りとスカートの裾を抑え、風から逃れていた。いじらしく布がはためく。

 

「っはい…」

 

 歩き、階段とホームの先の真ん中あたりに陣取る。少し時間が遅くなったため、人は少なかった。

 耳障りなブレーキ音を響かせ電車が止まる。数人が降り、続いて一色は乗り込んだ。

 

「気をつけて帰れよ」二度目の言葉だ。

 

「はい、今日はありがとうございました」恭しく頭を下げられる。

 

「ああ、ありがとな」

 

「またデートしましょうね!」

 

 一色は届かないのに、握りこぶしに小指を立て指切りのポーズをした。電車の発車ベルが鳴り響き、一歩下がる。右手を肩の高さに上げる。

 

「また今度…な」

 

 自分の小指だというのに、言うことを聞かずプルプルと震えている。冬でもないのに、悴んでいるようだ。

 一色はあどけない少女の様に笑い、可愛らしく右手を振った。

 

「はい!」

 

 無情にも、扉は閉まる。見えなくなるまで一色は手を振っていた。音が止むと、上げていた腕を無造作にポケットに突っ込んだ。家に帰り小町に指摘されるまで、カーディガンがないことに気が付かなかった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「はあっ…はあっ…」

 

 自分の息切れが耳に響く。心臓の音は五月蠅く、肺が焼けるように痛い。

 住宅街に不自然な木々が見え、あそこかと呟いた。

 

 

 由比ヶ浜の電話に気付いたのは偶然だった。大学へ行く日は常にマナーモードにしていて、家に帰ってから解除することが多い。偶々携帯を手に取っていてよかった。

 

『駅の近くの公園にいるんだけど、ヒッキー助けて』

 

 電話口から聞こえた悲痛な叫びに、俺の足は突き動かされた。どこにいるかも分からない。もしかしたら家かもしれないし、旅行に行っているかもしれない相手に向け、いの一番に助けてと言う事態など俺は遭遇したことがない。だから走った。

 車校帰りだったのも幸いだった。ついでに葉山に言われ夕食を共にしたのも幸いだ。車校のスケジュールの事で話す時間が必要だった。

 電車を飛び出し、改札をつんのめりながら抜ける。人にぶつかりそうになりながら北口を目指した。

 

 

 公園の入り口にある鉄パイプに手を突く。一瞬、息を整えて公園を見渡した。連絡があってから十分少々と言ったところか。

 

「だから、大丈夫って言ってるじゃん!」叫び声が聞こえる。

 

 夜闇に紛れる空間に、スポットライトの様な明かりを見つける。その下のベンチに人影が見えた。近づくとベンチの傍に二人、囲むようにして立っているのが分かる。

 

「だから、俺たちが運んであげるって言ってるだけじゃん」髪の色の抜けた、長身の男が声色は優しく言う。

 

「そうそう、結衣ちゃんだけじゃ無理だって」隣の黒髪の男も同調する。

 

「だから、もうすぐ友達が来るからいいって!」由比ヶ浜の声が、ひときわ響く。

 

 切らした息をそのままに足を引き摺りながら近づくと、土を擦る足跡に三人が一斉にこちらを向いた。由比ヶ浜の表情が晴れる。

 

「ヒッキー!」

 

「…何してんだ」

 

 スポットライトから外れ、顔の見えない俺に男二人が怯むのが分かった。

 

「いや、別になにも…」

 

「…何もしてないことはないだろ。じゃなきゃこんなに叫ぶか」

 

 結構な距離を走り、頭が沸騰していたのが功を奏して言葉がすらすらと出てくる。由比ヶ浜の心配そうな視線が見える。

 脅しでもなんでもいいか。どのみちなんかあってからじゃ遅いし。

 

「ちょっと警察呼ぶから、待ってろ」

 

「は、なんで」

 

 男が砂を蹴り、近づこうとしてくる。無視して携帯を取り出し110番を押す。見えるように一度、彼らに画面を向けてから耳に当てる。

 男の腕は空中を彷徨ったままだ。まだ焦りが脳を支配しているだろう。冷静になればなんともないことも、畳み掛けられるとパンクする。

 耳元で硬質な声がした。

 

「すみません、駅近くの公園で女性が絡まれて困っているんですが」

 

「は、まじかよ」「なんだよこいつ」

 

 口々に由比ヶ浜に向かって口を開いている。ここで俺に向かってこない辺りも近頃の若者という感じだ。

 

「はい、茶髪と黒髪の大学生らしき人ですね」そこで携帯を離す。「今帰れば、やめるけどどうする」

 

 二人の動きが停止する。頭の中で思案しているのだろう。メリットデメリット。必要不必要。現在将来。今日明日。

 彼らに効果的な言葉は分からないが、今は続けるしかない。

 

「大学に連絡するのもやめる」

 

 二人の肩がビクつくのが分かった。ここか。

 

「はあ、もういい。親でも大学でも迷惑かけろ」携帯を耳に当てると、茶髪が動いた。「やめろ!」

 

 飛んできた手が俺の手と携帯を弾く。爪が目尻にかかり、瞬間的な痛みが走る。携帯が地面に落ちる音がして静寂に包まれた。

 頬を何かがゆっくりと伝う。それに触れると、指先が赤い粘性をもった液体で染まる。電話口で警察の声がくぐもって響いている。

 

「あーあ、終わりだな」震える口で、言葉を紡ぐ。

 

「ヒッキー!」由比ヶ浜が叫ぶが、膝にのせているものの所為で動けないのだろう。

 

「おい、逃げるぞ!」「は!?」

 

 男二人は混乱していた。肉食獣のくせに、草食男子で、こういうときだけ牙をむくのかよ。しかし、彼らの様子からこれ以上悪化することはない様に見えた。近づき、比較的おとなしそうな黒髪の肩に触れる。拭うように手を下げると、彼の爽やかな青色のシャツに血が滲み、その部分だけ黒くなる。

 

「お、俺関係ないから!」走り出してしまった。

 

「おい!」茶髪が逃げる黒髪に叫ぶ。しかし止まらない。

 

 頭が混乱しているのか、茶髪の足は動かない。その隙に携帯を拾い、警察の声が響くスピーカーを彼に向ける。

 

「今離れたら、切ってやる」噛まないように、無機質に言う。

 

 茶髪は一瞬思案したが、すぐに走り出した。確認して、通話を切る。

 

「はああああ…」思わずへたり込んだ。

 

「ヒッキー!」膝のものをどかせたのか、由比ヶ浜が近づいてくる。ハンカチを取り出し俺の目尻に当てる。

 

 呟くようにごめん、ごめんと繰り返していたが、やがて何かが切れたように由比ヶ浜の瞳から涙が溢れてきた。

 夏休み中にこんなに涙を見るとは思わなかった。

 

「ごめん、ごめんねヒッキー…」

 

 携帯がけたたましく鳴り始めた。見ると知らない番号だ。右目が抑えられているために、左耳に当てる。「はい」

 

 電話の向こうから聞こえてきたのは再び硬質な声だった。警察だ。かけ直すに決まってるよなあ。

 

「あ、はいもう大丈夫です。いなくなったので。はい、特にないみたいです、すみません」

 

 大丈夫という旨を伝えると、そさくさと電話を切る。

 

「…ヒッ…キー」ぐずぐずと鼻を鳴らし言葉ともつかない何かを口にする。

 

「大丈夫だ」言い、立ち上がる。「それより早く離れるぞ」

 

「え…」由比ヶ浜は目を聞いてくる。「なん…で」

 

「その内警察が来るだろうから、早く離れよう」

 

「でも、今…大丈夫って…」

 

「一応通報があったんだ、大丈夫と言われようとパトカーは回すだろう。そこに俺たちが座っていればどうせ聞かれる」

 

「やっぱり、警察行った方が…」

 

「いいんだよ、行くぞ」

 

「ヒッキー血!絆創膏だけ、貼らせて」

 

 由比ヶ浜の厚意に甘え、止血だけする。ベンチに近づき、横たわる彼女を由比ヶ浜に手伝ってもらいながら背負う。

 首に金髪の縦ロールがかかり、こそばゆい。抱えた太ももは素肌だったため指が沈むが何とか抱える。

 

「ていうか、どこに向かえばいいんだ」

 

「優美子、一人暮らししてるから、そこに。あたし行ったことあるから」由比ヶ浜が先に行く。まだ袖で目を拭っている。

 

「そうか」寝ている人間を抱えるのは辛く、なんども背負い直す。

 

「だから、あの人たちに付いて来てほしくなくて…」振り返り、赤い目で漏らす。

 

「知り合いじゃないのか」

 

「うん…今日初めて会った。優美子の飲み会に着いていって。優美子、ずっと調子がおかしくて」

 

 調子がおかしいというのは、体調の事ではないのだろう。調子がおかしい奴等なら、良く知っている。

 

「由比ヶ浜は…、なにもされてないか」

 

 正直なところの一番の危惧を尋ねる。それだけがずっと気がかりで、それだけの為に走ってきたと言っても過言ではない。ずれてきた背中の彼女を、由比ヶ浜の手を借りてまた背負い直す。

 

「うん、ヒッキーが来てくれたから…」

 

「そうか…」ならよかった。

 

「ごめんね、途中で休もうね」

 

「大丈夫だ、早く行こう」何故か分からないが、足の疲れは麻痺していた。アドレナリンという奴だろうか、分からない。

 

 そこで由比ヶ浜が目を見開き、後ろをチラと振り返ると公園から赤い光が見えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色いろはは包まれていた。

 

 それに気付いたのはお母さんに言われてだった。お父さんじゃなくて助かった。深く詮索される前に、自室に逃げ込む。

 キーホルダーだけ取り出し、鞄を部屋の隅に放り投げる。ベッドに腰掛けた。

 揺れる銀色に目を奪われてしまう。こんなに輝くキーホルダーは初めて手に入れたかもしれない。買った時より光っている。

 そのまま後ろに倒れて、後頭部の違和感に気付く。先輩に貰った髪留めだ。あれからほぼ毎日付けていて、昔からつけているかのように馴染んでしまった。抜き取るように外し、目の前に持ってくる。頬の筋肉が緩むが分かった。

 そこで、何度も焦がれた香りがした。今日、ずっと近くにあった香りが。袖口を握り鼻の近くにもってくる。

 

「せんぱい…」

 

 どうしよう。どうしよう。私変態なのかな…。普通…じゃないよね多分…。先輩の匂いだ。

 心配する気持ちとは裏腹に、匂いを放つそれから離れられない。まるで抱き締められているようだ。先輩に包まれている。

 そういえば、結局先輩からくっついて来てくれることはなかった。思い出したら少し腹が立ってきたが仕方ないだろう。私はまだ何も言っていないし、先輩の口から何かを聞いた覚えもない。これでいいと選んだのだ。今はまだ。

 決意したその日に曖昧な彼と自分に腹が立って、臆病な私は泣いてしまった。それからは吹っ切れてすごく楽しかったんだけど。面倒くさい女だって思われたんだろうな。

 

「先輩が悪いんですよ」

 

 先輩が背中にいる気がして、ぶつけるように言ってみる。当たり前だが返事はない。どうせすまんとか言うんだろう。

 でも、決めたのだ。

 携帯を取り出し、メールアプリを開く。メールなんて先輩だけだ。今度会ったらLINE入れさせよう。

 

――――――――――――――――

〈せんぱい〉

楽しかったです。

 

途中、迷惑を掛けてしまってすみません。

でもすごく楽しかったです!

先輩はどうでしたか…?

 

次はピクニックにでも行きましょうね!

私お弁当作りますから!

先輩の好きな食べ物教えてください。

あとカーディガンはまた今度返しますね。

添付ファイル:1

――――――――――――――――

 

 次は、のあたりで指が一瞬躊躇したが、自分を奮い立たせて打ち込んだ。これくらいで落ち込んでいては先輩の相手などできない。止まってはいけない。私はあの二人より遅いのだから。

 

 携帯を充電器に差し、制服にしわが付かない内に着替えることにする。

 スカートを専用のハンガーに掛け、ラフなTシャツに首を通したところで携帯が鳴った。自分史上最速で手に取る。

 画面に表示される〈メール:一件〉に触れる。

 

――――――――――――――――

〈せんぱい〉

Re:楽しかったです。

今日21:38

別に気にしてない。

謝る代わりになるか分からんが、俺も

楽しかった。

 

なんでもいいけどトマトは入れないで

くれ。

あと恥ずかしいから送るな。

―――――――――――――――

 

 だめだ、しっかりしろ表情筋。いや、今日一日頑張ったから許すべきか。口角が上がっていく。

 写真アプリを開き、送った写真を見る。

 バックにはライトアップされたスカイツリー、その手前に映るは私と首根っこを掴まれた先輩。恥ずかしそうに眼を逸らしている。すごくかわいい。

 壁紙にしてもいいかな。何か言われるかな。学校が始まる前に変えればいいか。

 

 下の階から、お母さんの声がする。お風呂に入れと言っているのだろう。

 

「はーーい!」

 

 聞こえる声で返事をする。

 返事はすぐにしちゃだめだって誰かに聞いたことあるけど、駆け引きなんてできない。やっとわかったかもしれない。軽快に指が動く。送信。

 返信が来る前にお風呂に入ろう。

 部屋を出るところで下に何も履いていないことに気付く。どれだけ頭がいっぱいなんだと、自分に苦笑するしかなかった。

 

 先輩のカーディガンは、まだ洗わなくていいよね。

 

 

 

 




高校生の夏休みは終わりですね。大学生はまだまだです。

すみません、次の更新は2週間程空くかもしれません。
ではまた。

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