八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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9月に入りました。高校生は学校、大学生は天国の時期ですね。

長いです。でも読んでもらえると嬉しいです。

感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。


9月①

 

 

 三浦優美子は揺蕩っていた。

 

 少し荒い息が背中越しにも伝わってきていた。少しの上下を伴いながら進むそれは、ゆりかごの様でもあり再び意識が朦朧とし始める。回らない頭で、何とか思い出す。

 確か、飲み会に誘われて、結衣も一緒に行こうと誘った。

 そこまで考えたところで、頭に激痛が走る。嫌な記憶を抑え込もうと、固く閉ざした門をこじ開けるような痛みだった。いくつもの針に思考がかき乱され、一瞬、諦めそうになる。しかし、結衣の事だけが気にかかる。結衣だけは。

 それに気付いたのは偶々だった。喉からせりあがるものがあり、何とか抑え込んだ時、耳元で会話が聴こえてきた。

「優美子…暮らししてるから……った事あるから」

 断片的ではあるが耳が音を拾い始める。結衣の声だ。哀し気な色を含んでいて、今にも泣きだしそうに震えている。

 結衣を傷つけられた。そう思うと頭の中が沸騰するようで、意識が明滅する。激しい頭痛が、火花の様に後頭部でばちばちと音を立てている。

 どうしようもない状態を打破しようと、とにかく目の前にあるものを叩き、燃え上がらせなければと身体を動かしたとき、背負われている背中が震えた。

「由比ヶ浜は…、なにもされてないか」今度ははっきりと聞こえた。動かしかけた身体が重力に引っ張られ、落ちそうになるのを細い指が抑える。少し骨ばった背中が一度大きく揺れ、再び背中に収まった。

「うん、ヒッキーが来てくれたから…」結衣の声だ。

 よかった。そう思うのと同時に、背中の筋肉が弛緩したのが分かった。こいつもずっと緊張していたのだろう。また一つ、居心地がよくなった支えに、意識は飛び始める。

 背中が一呼吸おいて大きく揺れた。振り返ったと推測できるその横揺れがとどめとなった。

 

 隼人じゃないんだ。

 

 曖昧な記憶は、そこで途切れている。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 夢と現実を彷徨っている意識を楽しみながら寝返りを打つと、カーテンの隙間から刺激的な光が刺す。

 あまりの眩しさに目尻に皺を寄せ、続いてあまりの痛さに顔全体に皺を寄せる。

「いっ」

 飛び跳ねるように起き、傷口のある目尻に手を添える。そうすると心なしか痛みが和らいだ気がした。

 昔から”手当て”というように人の手には不思議な力があると言われている。患部に手を添えることで身体の緊張が解けることが理由だそうで、腹痛時にお腹を抑えるのもそれが発端らしい。確かに小町とかに撫でられたら骨の一つや二つくらいくっつきそう。(無理)

 携帯の画面を表示させ、時刻と日付を確認する。9月1日、木曜日、もう出ていったか。

 充電器を抜き無造作にポケットに入れる。足早に部屋を出て階段を降りる。表情を動かし、痛みの度合いを確認した。顔をしかめる。

 あれから一週間以上経過しているが、傷口は未だ生々しさを帯びている。幸いというべきか綺麗に切れていて、塞がりも早く治癒も早いことを期待したが、やはり深さは侮れず、今も苦しめられていた。

 由比ヶ浜とは連絡を取っているが、三浦自身からは何の音沙汰もない。別に何かを期待している訳でもなく、ただ単純に気になっているだけなのだが、由比ヶ浜とやり取りで様子は把握できるため杞憂にも思えた。

 

 あの夜、三浦を背負って二階建てアパートの一室に足を踏み入れた俺は、記念すべき三人目の女子の部屋というものを数えた。しかしそれは思っていたものとは程遠く、いや雪ノ下が異常なだけだろうが、物が氾濫していて思わず首を巡らせてしまった。由比ヶ浜の苦笑に悲しみが含まれていたのには辛うじて気付いた。

 テレビショーで紹介されるごみ屋敷とは程遠いが、メイク道具や洋服、下着、通販で届いたのだろう段ボールが崩されず積まれていて、人ひとりにために造られた獣道があるだけだった。キッチンには即席麺やコンビニ弁当のゴミが散乱していて、その食生活が窺える。水垢ひとつないシンクが不釣り合いに浮き上がって見えた。

 ベットに横たえると可愛らしいおへそがちらりと見え、そのウエストも相まって胃下垂かな?と思う。

 彼女の状態はキッチンから想像できないほど健康的で、意外と自炊もしてるのかなと考えたが、厚い化粧でも隠せない隈が不安を煽った。

 目のやり場に困った俺は早めに退散をしようとしたが、由比ヶ浜に制止され、どこからか救急箱を取り出すと消毒液を垂らした。キッチンは綺麗で救急箱は置いてあるとかやっぱりオカン体質なのかな、とガーゼの当てられた目尻に力が入る。

 ガーゼで抑え、由比ヶ浜にお礼を言うと、その日は別れた。

 

 ぼーっと階段を降りきると、小町が玄関で靴を履いているところだった。ローファーのつま先を軽快に鳴らした。

「あ、お兄ちゃんおはよう」小町が鞄を背負い直し、笑う。

「おお、おはよう」今日からか、と声を掛けると「うん、夏休みは昨日で終わり」と言い、小町の表情が沈む。

 分かる、分かるわー。登校初日ってなんかこう、死にたくなるよね。

 それでも、二日、三日と経てば身体は馴染み、空気は整い、カースト上位は騒ぎ始める。いやあいつら初日からはしゃいでたわ。どんだけ学校好きなんだよ。お前の焼け具合とか知らんわ。

「小町はミディアム派だもんな」俯きがちな小町の髪の毛に語り掛けると、顔を上げて冷たい視線が返ってきた。冷凍食品派でしたか…楽だしね…。

「傷はどう?」小町がこちらに手を伸ばしてきて、思わず避けた。心臓が鳴る。「ど、どうしたのお兄ちゃん」

 あの日の出来事はトラウマに近いものとしてカウントされたらしく、不意に顔に何かが向かってくるのに過剰に反応するようになっってしまった。

「いや、すまん」居住まいを正し、傷のある顔の右側を小町に向ける。傷ができた理由は言っていない。

「うーん、結構深いねー」小町が手を傷口に添えるが、もちろん治ったりはしない。「走ってて転ぶなんてお兄ちゃん運動不足じゃないの」ジョギングでも始める?と腕を振る。

「おっさんかよ…」

「それは偏見だよお兄ちゃん…今のご時世ジョギングは趣味にもなるんだよ。あれ? ランニングかな? あれ?」

 壊れた人形のように首を傾ける彼女が可笑しく、笑みがこぼれる。「なんでもいいけど学校遅れるぞ。生徒会の仕事あるんだろ」

「あーそうだった! 行ってきますお兄ちゃん!」

 慌ただしくドアを閉め、ガチャガチャと自転車を出す音がする。「気を付けてな」呟き、踵を返す。

 食卓には朝食ができていて、申し訳なく思う。どうせ早起きだから小町が作るよと、言ってはくれたがやはり明日からは俺が作ろう。

 椅子を引き、携帯を取り出しながら座る。電話帳を開き、や行までスワイプする。〈雪ノ下雪乃〉をタップし、メール画面を開く。

――――――――――――――――

〈雪ノ下雪乃〉

 聞きたいことがある

 

 雪ノ下さんの誕生日教えてくれ

――――――――――――――――

 我ながら無駄な贅肉が削ぎ落された文に納得しつつ送信ボタンを押す。朝も早い為返信は来ないと思い、机の上に伏せるが、その瞬間に通知音が鳴る。レスポンスの速さに驚きながら開く。

――――――――――――――――

・受信メール

〈雪ノ下雪乃〉

Re:聞きたいことがある

今日7:56

 

 自分で聞いて頂戴。

――――――――――――――――

 ですよね。

――――――――――――――――

〈雪ノ下雪乃〉

Re:聞きたいことがある

 

 了解

――――――――――――――――

 まあ仕方ないな、雪ノ下の言い分が正解だ。誕生日のお祝いをしてもらった以上、お返しをしないのは礼儀知らずというものだろう。あんなディナーは御馳走できないが、些細なプレゼントなら用意できるはずだ。

 陽乃さんに会うと考えるだけで、なぜか顔が熱くなる。思い違いだと振り払った記憶は、手を振り回せば振り回す程絡まり、思考が占領される。彼女の蠱惑的な笑みだけが、頭を埋め尽くしていた。

 やり取りは終わったと高をくくっていた為に、新たな通知音に味噌汁が気管に侵入しかける。数回咳をして追い出すと、再び携帯を持ち上げた。

――――――――――――――――

・受信メール

〈雪ノ下雪乃〉

Re:Re:聞きたいことがある

今日8:05

 

 7月7日よ。

――――――――――――――――

 なんだこいつ、ツンデレか。

 変わらない彼女の姿勢に、思わず苦笑する。軽い指を動かし、礼をした。

 そうか、もう過ぎてるか。じゃあ仕方ない、で済むような人じゃないよなあ。

 彼女について知る度に一歩ずつ沼に足を踏み入れている錯覚を覚え、足を止めようかと悩む。しかしもう遅いようで、ずずずと沈んでいくように、指が動いた。

 自分の奥底を隠すように、白飯をかき込んだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 どうしてこうなった。

 ガタンゴトンと車輪が継ぎ目を通るたびに音が鳴る。夏はレールが熱膨張するから隙間が空いているのだといつかのバラエティで紹介されていた。

 つり革に掴まるのにも飽き、手首をひっかけて鉄塊の空中散歩に身を任せる。隣では鼻歌交じりにご機嫌なめぐり先輩がいた。

 

 総武高校の始業式が行われた木曜日、固定シフトであるバイトに勤しんでいた俺は、同僚の休みに代打として打席に立っためぐり先輩に陽乃さんへのプレゼントの相談をした。右目の傷については追及されかけたが、俺の反応を見るとすぐにやめた。こういうところも人からの信頼につながるんだなと思った。

 めぐり先輩は終始にこやかに応じてくれたが、結局まとまらず、諦めかけたところで一つの提案をされた。大学生の特権である九月の休みを利用して、一緒に買いに行こうと。

 偶然にも葉山の用事で金曜日の車校がなかったが、もちろん俺の買い物に付き合わせるのもおこがましく、一度は拒否した。しかし結果は今のこの状態である。

 最近気づいたが俺は押しに弱いのかもしれない。まあ押して駄目なら諦めろがモットーですし、押されたら諦めるに決まってますよね。

 

「あの、これどこに向かってるんですか?」またもや目的地を知らされない旅に不安がよぎり、聞く。

 めぐり先輩は鼻歌を止め、こちらに笑いかける。「私の通ってる大学だよ」思いもよらない返答に、頭が混乱していると、めぐり先輩があははと笑う。「ごめんごめん、正確には大学の最寄り駅近くの雑貨屋さんかな」

「ああ、なるほど」店と聞いて、合点がいく。めぐり先輩の通う大学は確か女子大で、その周りには専用とも取れる女性向けの店が乱立していた。「そこに目当てのものがあるんですか?」

「うーん、あると言えばあるんだけど、雑貨屋さん沢山並んでるから」顎に手をやり、悩まし気に呟く。「はるさんの趣味かあ」

 めぐり先輩の真似ではないが、顎に手を持っていき思案する。陽乃さんの趣味。数回しか見たことはないが、私服はナチュラルなものから赤い刺激色を散りばめたものまであり、好みまでは想像できない。

 めぐり先輩へと視線を向けると、困ったように眉を下げるだけだった。

 電車は緩やかに速度を落とし、めぐり先輩がドアの近くに移動する。降りる駅だと目配せをされてそれに続いた。

 

 改札にICカードを通し、白い日差しの下に出ると、めぐり先輩は眩しそうに手で光を遮る。肩の出ている花柄の白いワンピースは太陽の元でさらに輝き、白い肌を際立たせる。視線に気づいたのかこちらを見ると、頬を赤らめ目を逸らす。申し訳程度に肩に手を添え隠された。

 凝視してしまった罪悪感と少しの背徳感に、嗜虐心が芽生える。

「どうしましょうか」近づいて、横に並ぶ。

「う、うん、どうしよっか。えっと、とりあえず順番に見ていこっか」

 恥ずかしそうに眼を逸らしたまま答えるその姿はか弱く、陽乃さんがめぐり先輩に執着を見せる理由が少しわかる気がした。

「分かりました」足を踏み出し目で方向を問うと、そそくさと先を行く。くるぶしに光るアンクレットが誘うように揺れた。

 

 綺麗に舗装された街並みはどこか西欧の雰囲気すら感じさせ、異国に迷い込んだ気分になる。めぐり先輩の通っている大学のイメージとぴったりだなと思う。片側一車線の道路の両脇には雑貨屋をはじめ、おしゃれなカフェや洋服屋が並んでいて、気品が漂っていたが時折聞こえる大学生の甲高い笑い声が全て台無しにしていた。

 九月の平日など外に出ているのは大学生しかいない。人が少ないのは大歓迎だったが、目障りな学生が一層際立ち、苛々に拍車がかかった。

 めぐり先輩の買い物にも付き合いながら一帯の雑貨屋を回り終えると一時間半ほど経っていて、昼食にとイタリアンのレストランへと足を踏み入れた。一応言っておくがサイゼではない。

 座席に案内され、メニューからそれぞれに注文を終えるとめぐり先輩が少し気難しい顔をする。

「うーん、やっぱり難しいね」

「そうですね」水を一口含み、転がしてから飲み込む。「でも、決まりました」

「え、決まったの?」

「はい、城廻先輩のお陰です」店名を思い出しながら伝えると、「お店がいいだけだよ」と照れ臭そうに笑う。

 それから少し他愛のない話をしていると、料理が運ばれてきて食事を取る。

 皿の上のパスタが残り少なくなってきた頃、めぐり先輩がフォークを置いた。

「ひ、比企谷君にお願いがあるんだけど…」

 俺はと言うと最後のひと巻きに苦労していた為、少し恥ずかしくなる。

「な、なんでしょう」誤魔化しつつフォークを持ち直す。

「えっと、比企谷君に服選んでほしいんだけど…」そう言うと小さな鞄から携帯を取り出し、写真フォルダを開くとこちらに向くように置いた。

「俺センスないですよ?」女性の服選びなどという重役に耐えきれる訳もなく、言い訳が口を突いて出る。「今の服装だって小町に選んでもらったやつですし」

「そんなに身構えないで? この二つで迷ってて比企谷君ならどっちがいいかなって」

 細い指を画面の上で左右に振り、二枚の写真を交互に見せて来る。

「ああ、なるほどそれくらいなら…」

 先のショッピングで試着した姿を写真に収めるように頼まれたのはこの為かと合点がいく。俺がシャッターを切ったそれは全身が映されていて、恥ずかしそうに斜め下を向く彼女がいた。カシャリという音に身をよじる姿には妖艶さすら感じさせたが、新しい扉はノックするだけに留まった。

 自分が撮影したものにも関わらず、被写体が良いのか映りはモデルの様だった。女性誌の表紙を飾っても不思議ではない。言わないけど。

 二枚を見比べ、首周りの開いた方を指差す。袖にフリルが付いていて彼女の雰囲気に合っているように思えた。

 俺の選択に満足げに頷くと、料理を完食しためぐり先輩は手洗いに立った。その隙に会計を済ませると、彼女は頬を膨らませ、しばし財布を取り出させない攻防が続いたが最後は受け入れてくれた。

 なんで俺は小町に選んでもらったなどと嘯いたのだろう。わだかまりだけが残った。

 

 ここまで来たら後は自分で選ぶもの、と言われめぐり先輩と別れた。とはいえ既に中身まで決まっている為一瞬で会計を済ませ、記憶を頼りに俺の選んだ店まで行くと、城廻先輩を含む女子大生数人の塊が目に入り、街灯の下に隠れた。怪しまれないように携帯を取り出す。

「めぐりどうしたのこんなところで」茶髪の女性が言う。めぐり先輩の友人だろうか。

「ちょ、ちょっと買い物に…」めぐり先輩は少し困った声を出す。

「へえ、何買ったの?」こちらも茶髪の女性が言い、めぐり先輩が手に持つ紙袋を覗き込むと避けるように抱える。「もう、恥ずかしいからダメだよー」

「お、可愛い服ー」後ろから覗き込んだまたまた茶髪の、って茶髪しかいねえじゃねえか!

「あ、えへへ、ありがとう」困っていた声も、その時だけは少し明るくなった。気がした。

 それにしても、傍から見たら女子大生の休日エンカウントも、目を凝らすと若者のカツアゲにしか見えなくなる。めぐり先輩のことを知っているからだろうか。

 そこで茶髪一がめぐり先輩の肩に手をやり、「どうしたのめぐり、こんな肩出して」と言う。茶髪二と三もそういえばと言わんばかりに声を上げる。

 確かにずっと気になっていた。バイト先ではズボンで、制服も決まっていた為に、今日初めて見た私服は普段の彼女からは肩だけとはいえ刺激的とも取れる格好で、微かな高揚と微かな失望を抱いたのを思い出す。しかし茶髪団の口ぶりから、同級生でも珍しいことが分かった。

「え、あ、まあちょっとね…」めぐり先輩が歯切れ悪く言うと、茶髪団はさらに喰いつく。

「怪しいなー。めぐりのこんな格好初めて見たし、もしかしてデート?」

「え! めぐり彼氏できたの!?」

「大丈夫? めぐり」

 そう言う彼女達の口調には不思議と嫌悪感は湧かず、むしろめぐり先輩を心配するようなセリフも聞こえてきた為に認識がまとまらない。

「うん、大丈夫。ありがとう」めぐり先輩の声は懐かしむようなものに変わっていた。

「そっかそっか、で、もしかして後ろの人が彼氏?」

 突然の指名に体が跳ねる。名探偵でももうちょっと溜めるぞおい。

 俺の事ではないと態度で表すよう、携帯のホーム画面を右へ左へ往復させる。

「あ、比企谷君!」めぐり先輩の声も跳ね。俺の肩も共鳴した。

 仕方なくそちらに向き直り、「ど、どうも」と挨拶をすると、茶髪団の視線が一斉に俺に注がれ品定めを始める。顔に始まり服のセンス、頭髪のセット具合。全てにランクをつけ、俺の評価がめぐり先輩の評価になる。こうなるなら髪の毛のセットでもしてくるんだった。やり方知らないけど。

 申し訳ない気持ちと、逃げ出したい気持ちが同居して、気分が落ちていくのが分かる。比例するように顔が下がっていく。そこで視界に白い手が侵入してきた。俺の腕を掴む。

「じゃあみんなまたね!」

 めぐり先輩の声に、弾かれるように足を動かした。小走りで先を行く彼女に手を引かれ、連れていかれる。後ろを振り返ると「今度話聞かせてねー!」と叫ぶ茶髪団が見えた。

 

「はあ、はあ、ご、ごめんね」両ひざに手を付いていためぐり先輩が顔を少し上げ、笑う。謝っているのに、その顔には清々しさが滲んでいて、はかれない。「あの子達、おんなじ学部なの」

「いや、全然大丈夫ですけど…」俺も少し息が切れている。

「はあ、あ、比企谷君買えた? 走ってきちゃったけど…」

「それなら大丈夫です。ちゃんと買えました」見せつけるわけではないが、めぐり先輩の顔の前に小さな紙袋を持ち上げる。「ありがとうございます」

「そっか、よかったー」

 めぐり先輩は一度大きく息を吐くと、大きく伸びをする。ショルダーバッグのベルトが食い込み、主張が激しくなったそれから目を逸らす。

「これで目的は達成だね」めぐり先輩は笑いかけ、腕時計に目を落とす。「まだお昼過ぎだけど、比企谷君この後予定ある?」

「いや特には…」

「じゃあ、ちょっと行きたいところあるんだけど、一緒に行ってくれないかな…」

 上目遣いに覗き込んでくる。赤く可愛らしい髪留めがきらりと光り、長い睫毛に気付く。

「別にいいですよ、どこへでも」

 自分一人では完遂することのできなかった用事を手伝ってもらい、昼食代だけではお礼のしがいもないと思っていたところでの申し出に快諾する。

「ほんとに?」念を押してくる。

「本当に、です」念を押し返す。後で後悔する。

「やった」手を握りこみ、小さくガッツポーズをする姿は愛らしいと思う。「じゃあ行こうか」

 少し先に進み、駅に続く階段を数段昇ったところでクルリと振り返る。

「あ、あの比企谷君。今日の服、どう…かな」

 唇を浅く噛み、俯き気に立つ彼女は、テストの答案用紙を待ってるようで不安がありありと分かる。言われて、朝から服装について触れていないことに気が付く。小町的にポイント低い。

「すごく、似合って、ます」いつまでも慣れない言葉に詰まるが、噛み締めるように紡ぐ。「でもちょっと、意外でした」

 そう言うとめぐり先輩は腕を交差して肩を抑える。顔は赤らんでいた。

「いや、でも、すごく」慌てて言葉を繋げる。「か、可愛い、と思います」

 いつも間にか自分も唇を噛んでいて、薄い痛みに後から気付く。何とか顔を上げると、彼女の手をへその辺りで組み、指を遊ばせているところだった。

「そっか、えへへ。そっかそっか」

 楽しそうに笑うと、踵を返し階段を上り始める。跳ねるように進むせいでワンピースは風に乗り、白い太腿が見え隠れする。咄嗟に顔を後ろに向け、他に人がいないことを確認する。

 再び上を向くと、既に昇りきっていた彼女が手を振っていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一通りの皿を洗い終えると、ソファでくつろぐ妹に声を掛ける。「コーヒー淹れるけど飲むか?」

 ひと月半ぶりの学校に疲れたのだろう、首だけこちらに向けるとこくりと頷く。テレビでは毎週生放送の音楽番組がやっていて、若手アーティストの疾走感だけがウリと言うような曲が流れていた。頭が空っぽにできるという意味では今の小町には最適なBGMかもしれない。

 市販の粉棚から取り出したところで、思い直してコーヒーメーカーを出してくる。電源を差し、スイッチを入れる。専用のカップをセットしてお湯を入れる。少し時間が経つと、黒く光る液体が流れだしてきてマグカップを満たしていく。

「珍しいねお兄ちゃん」

 気付くと、オープンキッチンの角で両肘をつき顎を支えている小町がいた。リビングのテレビではトリなのか高齢バンドの中途半端に荘厳な曲が流れていて、俺の準備に焦れたのか曲に焦れたのか分からない。

「ああ、ちょっとな」言い、昼間のデザート地獄を思い出す。甘いことに耐性、どころかむしろ弱点まである俺だが、雰囲気の甘さには定評はなかったらしい。

 

 めぐり先輩に連れられて訪れたのはデザート食べ放題がメインのレストランで、壁、椅子、机はピンク、皿もピンク、ついでに客層もピンクとどこかの魔法学校の拷問ピンクババアを思い出す。店内を見渡しても女性が九割を占めていて、いたとしてもカップルの男性に限られた。傍から見たら俺とめぐり先輩もそう見えるとは後になって気付いた。

 拒否も考えたが、めぐり先輩の楽しそうな表情を見ると言葉に詰まった。

 ケーキにゼリー、アイスにシュークリーム。取るもの取るものすべてが甘く、あるとしてもパスタやピザ。口の中の甘味パラダイスには流石の俺もコーヒーに砂糖を入れなかった。その店の記憶が甦り、何となくブラックで飲もうと現在に至る。

 

 ポタポタと垂れる黒い雫が止まるのを待ち、カップを取ると差し出す。小町は熱そうに受け取ると、フーフーと息を吹きかけ冷まし始めた。冷房をつけて毛布を被るのと似た背徳感が少し見える。自分の分を作ると、冷蔵庫の下の段から氷を二個取りカップに沈める。ピシッと音を立てて氷にひびが入った。

 小町の隣に腰掛け、いつの間にか映画に変わっていたテレビに視線を向ける。

「おや、こりゃ珍しい」小町が俺の手元を覗き込む。「どしたのお兄ちゃん。何かあった?」

「いや別に…、あ、そうだ小町知ってるか」今日行った甘い店名を言う。

 小町は知ってる知ってると言い、一色と行ったことがあると教えてくれた。そう言われると型にはまったようで、ストンと自分の中で落ちた。なるほど、一色が行くようなところね。

 へらへらと笑うと、小町が怪訝な表情をする。しかし俺がブラックのコーヒーを口に付けると、納得がいったように手を鳴らす。

「誰と行ったの?」

「城廻先輩」

「あー、あのほんわかした人」うんうんと更に頷くと、考えるように唸り。「あの人もいいよね、うん」ともう一度大きく頷く。

 何がだ、とは面倒くさいから言わない。代わりに息を吐き、小町の瞳を見つめる。

「ちょっと頼みがある」

 小町の眼が少し開き、そのあと目尻が下がった。

「うん、なあにお兄ちゃん」

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 パソコンの画面に表示された印刷実行のボタンをクリックし、慌ただしく階段を降りる。リビングに転がるように入るが小町は学校に行っている為誰の反応もない。昨晩小町に謝り、作り置いてもらった朝食をかき込みシンクに皿を置いて水を溜めるだけに留める。プリンターから念のため二部刷った紙束を取り出しリビングを飛び出す。歯磨きもそうそうに着替えると鞄をひったくり今度は家を飛び出した。

 自転車を俺史上最高速で飛ばし、駅の駐輪場に止めると改札に走る。ちょうど入ってきた電車に飛び乗った。

「ふうう」

 扉に向かってか細く息を吐き出すと、ようやく肩の力が抜けた。諦めないで、と心の中で励ましてくれた真〇みきさんにお礼を言う。

 そういえば顔洗うのを忘れていた。目ヤニが気になり指を動かすと、見えない壁に遮られる。窓に薄く反射した自分の顔に目を凝らすと眼鏡を掛けていることが分かる。昨晩から徹夜で行っていたPC作業で使っていたのだ。

 外し、少し目を掻いてからどうしようかと悩むが、眼鏡ケースも置いて来ていた為にレンズを軽く拭いてからかけ直す。そういえば由比ヶ浜がなんか言ってたけど、まあいいか。壊す方が嫌、いや、面倒だ。

 

 大学の最寄り駅に到着し、電車が材木座の吐く息の様な音を出す。うっ、朝から嫌なものを思い出してしまった…。

 次の電車だったら間に合わなかったなと思いつつ階段を昇ると、前方に知った金髪が見えた。癪だがレポートの存在を教えてくれた為、礼の一つくらいは言っておくべきだろう。

 早歩きで近づき、横に並ぶ手前で声を掛ける。「よお」葉山は振り返るとこちらに笑いかける。「おはよう比企谷、終わったか?」

 その笑顔に少しの嘲笑が入り混じっているのが分かり、礼を言うのが億劫になったが何とか搾り出す。

「ああ、昨日はサンキューな」視線は逸らした。

「はは」葉山が笑い、「ラーメンでいいよ」と続けた。

「替え玉はなしだぞ」

「替え玉がメインじゃないのか?」

「お前ラーメン屋に殺されるぞ…」

 そうこう喋っている間にも、葉山の視線は俺の顔の辺りを彷徨っていて、眼鏡を見ているのか絆創膏を見ているのか分からない。

「なんだよ」

「いや、どうしたのかと思って」

「どっちがだよ」苛々を隠さず言うと、「どっちもだよ」と葉山は肩を竦めた。

 簡潔に嘘を交えつつ真実をひた隠し曖昧に答えると、葉山は政治家にはぐらかされる記者の様な表情をした。やだ、八幡政治家向いてるかもしれない! 汚いところとか叩かれると弱いところとか! ゴキブリかよ…。

 世の善良な政治家に謝罪しながら歩みを進めると、いつもの講義室の扉が見えた。葉山の先導で入ると教室はほとんど埋まっていて、視線が集まる。ついでに講師も教壇に立っていて同じようにこちらに一瞥くれた。知らず肩が縮こまるが、葉山は見られているのに慣れている様子でスイスイと進む。

 いつもの場所はぽっかりと二席分空いていて、まるで汚してはいけない神聖な空間を演出しているように見えた。

 女子の視線はさることながら、男子の羨望と嫉妬の視線も受ける葉山は光って見え、改めて人間としての箔が窺えた。しかし今日は少し様子がおかしい。いつもは葉山に視線が集中していて気にならないのに、なぜかこちらを向いている気がしてこんなに考えてしまう。それも、誰? といったよく向けられていた視線に近いもので、一瞬トラウマが顔を出し始めるが、どうにもそれがプラスのものに感じられ、益々分からない。マゾへの覚醒を遂げてしまったかと思ったが、めぐり先輩との買い物の後では、むしろサドの扉をノックしただけに違うと推測する。

 席についてチラリと前を向くと、知らない女子と目が合ってしまう。慌てて逸らそうとするが相手の方が早かった。通常の場合、こちらへ軽蔑の視線を向けた後、ひそひそと隣の女子と俺の気持ち悪さを共有、今流行りのシェアをし始めるのだが、はっ、俺は流行の発信源だったのか!(違う)今回のそれは訳が違うように見えた。ていうか俺の通常異常すぎ…。

 チラチラと視線を感じながらも、講座は始まり、ペンを取り出した。

 

 途中、眠気に負けて数回落ちたが、何とか昼過ぎの休憩に入った。

 毎回の例に習えば、コンビニの袋を持っていればそれで飯を食い、二人とも持っていなければ何故か葉山が付いて来て一緒に飯を食いに行っていた。夏休み中は小町が偶に弁当を作っておいてくれたが、九月からはずっとコンビニおにぎりだ。今日はご存知の通り遅刻ギリギリだったのでコンビニに寄る時間もなく手ぶらだった。

 いつもの流れで黙って席を立とうとすると、前に座っていた女子二人組が急にこちらを振り返り、金髪の方が笑いかけてきた。「ねえねえ、一緒にお昼食べない?」

 金髪ロングに黒髪ボブと髪型は個性を出しているが、化粧や顔の系統は二人して似ていた。アイデンティティに縛られ、テンプレに望んで沿いに行っている印象を受ける。どちらも綺麗な顔立ちをしていることに変わりはないが。

 葉山の価値を測りかねているのか、周囲の女子は互いに牽制し合っている様子を見せていて、誘いがあったのは初めてだった。周囲でごくり、と何かを飲み込む音が聞こえた気がした。

 葉山を一瞥して、席を立つ。

「あ」と金髪とは違う声がした。聞こえてはいたが、振り返っても恥をかくだけなので気のせいだと言い聞かせる。望んでいるのは葉山なのだ。窓の横の通路を進むと、「ごめんね」という葉山の声がした。

「また誘うねー」と言葉の威勢はよかったが、先ほどよりは沈んで聴こえた。

 ポケットに無造作に手を突っ込んで階段に続く扉を通ると、パタパタとスニーカーを鳴らした葉山が隣に並ぶ。

「いいのか」葉山の性格を分かっていながら、ぶっきらぼうに聞く。

「それはこっちのセリフだよ…」ため息交じりに葉山は呟いた。

 返答の意味が分からず、思わず葉山の顔をまじまじと見つめてしまう。「は?」

「無視なんかして」

「俺を誘ってるわけじゃないんだからいいだろ別に」階段を降りる二つの足音が反響する。

「気付かなかったのか?」

「はあ? 言ってる意味が分からん」また鬱陶しい言い方を、と手をひらひらさせる。

「まあ、比企谷がそれでいいなら」葉山は苦笑する。

「それだよそれ」

 毒づくと、それきり沈黙が流れる。

 ラーメンで眼鏡が曇るという初の出来事に少し興奮を覚えたのは内緒だ。

 

 講義をすべて終え、鞄に教材をしまっていると葉山が確認してくる。

「今日は比企谷用事あるんだよな」

「あ?」

 言ってから思い出す。小町に協力を仰いで手に入れた連絡先。夕刻すぎに入れた予定を葉山に言った覚えはなく、なんで知ってんだと言いかけたが、最初のスケジュール決めの際あまりに俺と葉山の予定の埋まり具合の差に落胆、そして虚勢を張ってありもしない予定を突っ込んだのだった。何故かこの月曜日だけ空いていて不思議に思っていたが自分の所為でしたね。

「あ、ああ、そうだな用事だ」

 歯切れの悪い俺を見つめて来るが、それ以上の追及はなかった。葉山も机の上を片付け始める。

 指定された喫茶店への行き方を思い出す。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 通学に利用する路線を途中で降りた。定期区間内は余計な出費もなく、ラッキーだなと思いながら改札を潜る。

 日が傾き始めたとはいえ今は九月、汗は滴りTシャツが嫌に張り付く。指先でつまむとパタパタと風を通す。気休めは気休めでしかなく、仕方なくタオルを出して拭う。

 携帯のGPSを利用して、赤いピンの指し示す場所へとスムーズに進む。住宅街に入ってほどなく現れたそれは、ウッドデッキの設えられたただの一軒家にも思えたが、煉瓦を埋めて作られた小道の先にOPENと書かれたプレートがぶら下がっているのが見えた。

 少し見とれてから、ゆっくりと進む。コンクリートを叩く足音が、草を踏む柔らかな感触に変わり、汚してしまった罪悪感が並ぶ。

 扉を開けると、小さなベルの音と共にクラシックが聞こえ始めた。視線の吸い寄せられた先には黒い円盤がクルクルと回っている。いや、遠目では回っているか判断はつかない。しかしそこから音が出ているのは確かで、金属製の大きなラッパから重厚な音色が流れている。

 正面からは分からなかったが奥に続いているらしく、カウンターを抜けると小さな空間があった。四人掛けのテーブルが二席しかなく、彼女らの姿はすぐに捉えた。

「ひ、比企谷、こっち…」遠慮がちに青いポニテが揺れる。

「はろはろ~」特徴的な赤い眼鏡を光らせ、ひらひらと手を振っている。

 彼女らを呼び出したのは他でもない俺の訳だが、イレギュラーな事態に少々頭が混乱している。予期していなかった三人目の美女、になる予定の彼女がいた。

「はーちゃ…、はーちゃん?」

 小さな物体がトコトコと走り寄るかと思えば一度停止して、再び近づいてきた。そういえば眼鏡をしていたままだった。俺の前まで来ると両腕をピンと伸ばして挨拶をする。遠い昔の小町の事を思い出し、腕の下に手を入れると「よっ」と声を出して持ち上げる。

「よー、けーちゃん。元気だったか?」いつか会った時よりも身長は伸びていて、成長の速さを感じる。俺の方は未だ立ち止まったままだというのに。

「うん!げんきー!」声で判断したのか、いつもの京華に戻る。

 ひまわりの様な笑顔を向けられると、太陽になった気分になる。え、大丈夫だよね?八幡まだ大丈夫だよね?

 左手で抱え、余った方の手でこめかみの上を触る。だ、大丈夫のはずだ…。

「けーちゃんっ、ひき…、はーちゃん困ってるよ!」川なんとかさんが慌てて言う。

 その横にいる海老名さんは不敵で、微かな不安を覚える。

「別に困ってないからいいぞ」軽く抱え直して、体勢を崩しながら椅子に座る。

 京華は俺の膝の上でもぞもぞと動くと、胸にもたれるようにしてくつろぐと大人しくなった。定位置が決まったようだ。

「はーちゃんひさしぶりー」ニコニコとした表情のまま、こちらを振り向く。

「そうだなー久しぶりだなー」軽く受け答えをして、向かいに座る二人の女性を見やる。

 申し訳なさそうに困った顔を見せる川崎に対して、海老名さんは余裕の表れか悠々とカップに口をつけている。

 何が余裕なのだと、頭の中で誰かが叫ぶ。そんなことを考えるのは自分に余裕がないからではないか。

「ご、ごめん比企谷。姫菜が連れて来いって言うから…」川崎に顔がさらに曇る。

 海老名さんの事を姫菜と呼ぶのか、と気になったが、今はそれどころでがなかった。海老名さんの方を向き睨め付ける。何を考えているのか。

「はーちゃん顔こわい…」

 京華の怯えた声がする。はっとして下を向くと、俺のシャツを握りこむ彼女がいた。そういうことかよ。

 軽く舌打ちをしたい気持ちを抑え、水を持ってきてくれたマスターにそのままコーヒーを頼む。姿勢の良い背中を見送ると、今一度海老名さんを見る。

「急に呼び出してすまん」京華に当たらないように少し首を垂れる。目が合った京華に笑いかけると、はしゃいだように手を動かした。

「全然いいよ~」海老名さんが表情を変えずに言う。

「お、同じく…」控えめに川崎も続く。

「ちょっと聞きたいことがあって」こうなってしまえば仕方なく、本題へと入る。「葉山の事で」

 俺の言葉に、ぴくりと眉が動いたのが分かる。しかしそこで横槍が入った。「その前にいいかな…」川崎だ。

「なんだ?」

「その、目、大丈夫?」腫物を触るように聞いてくる。

「ん?ああ」絆創膏の貼ってある右目付近を撫でる。「なんでもない、転んだだけだ」

「はーちゃんいたそー」京華が手を伸ばし、思わず目を瞑った。「よしよし、いたいのいたいのとんでけー!」

 目尻と右肩に力が入ったが、幸い二人には気付かれなかったようだ。「あらがとな、けーちゃん」ぽんぽんと頭を撫でる。川崎の表情も先ほどより大分柔らかくなった気がする。もしかしたらずっと俺の傷を心配していたのかもしれない。自惚れか。

「隼人くんの事、でいいの?」海老名さんが突然口を開き、確認とも取れない言葉を発した。

「あ、ああ、そうだ」

「そう」興味なさげに呟くと、視線を窓の外に向けた。

 そうしていると彼女もまた整った容姿をしていると分かる。パーツは整っていて、今日葉山に話しかけてきた前の席の二人組を思い出す。生かさない個性が、浮き彫りになって光る。

 陽が沈む手前で、室内には暖色の筋が入り始める。

「高校三年の時の事を、できるだけ」膝にのる京華は、先ほど運ばれた俺のストローで遊んでいた。

「何から話そうか、概要は?」

「キッカケといざこざの内容くらいだな」

「じゃあもう大体知ってるんだ」

 こちらを見据えているのに、俺の事は見ていなくて、それが何かを伝えようとしているようにも思えた。

「戸部と三浦が原因で、あとは葉山が拒否をしているで間違いはないんだな」

「それは誰に聞いたの」声は冷たい。

「戸部だ、あと由比ヶ浜にも確認した」

「結衣か…」再び窓の外に視線をやると、目が細められた。過去の自分にピントを合わせるのに苦労しているのかもしれない。「結衣はクラス違ったから、まあでも、合ってるよ、それで」

 煮え切らない返答に、焦れる。

「他に何かあるんだな」少し身を乗り出すが、膝の可愛らしい物体がそうさせない。

「とべっち、言ってなかったの?」

「戸部…?」雨の喫茶店を思い出す。「必死に繋ぎ止めようとして…失敗したとしか…」

「必死、ね」乾いた笑みが、海老名さんから零れる。

 舌が乾くような空気に、自動車学校の戸部がフラッシュバックする。舞台を整え、台本まで用意したあの劇場を。

「違うのか」自分の思考をケーズごとにしまい込み、整理するように言葉を紡ぐ。

「うーん、違うと言えば違うし、違わないと言われれば」海老名さんは一度溜め、「違わないで合ってるよ」と言う。

 京華は飽きてしまったのか、膝の上からぴょんと降り川崎の元へと歩いていく。それを見送り、一度黒い液体を喉に通す。混沌としている思考を、冷ますように煽る。

 所々否定や肯定を繰り返す海老名さんは、俺の事をからかっている風ではなく、どちらかと言えば苦しんでいるようにも見えた。

「皆勘違いしてるんだよ。何も変わってないのに、勝手に傷ついて、勝手に被害者面して、まあ、こういってる私も被害者面ってやつをしてるんだろうけど」海老名さんは自嘲気味に笑う。「できるって信じてた…」

 雫が零れるように漏らされたそれは、なぜか彼女の本心だと分かった。瞳に、煌めくものが見えた。

「本物…」

 何を連想したのか、口から出た。思わず口を塞ぐ。

「あの、比企谷…」ここまで沈黙という方法で場を提供してくれていた川崎が口を開き、聞かれていたかと身構える。「ごめん、京華連れてきたから、そろそろ帰らなきゃいけなくて…」彼女の腕に収まる京華が眠たそうな顔をしていた。

「ああ、すまん、そうだよな」心配は杞憂に終わった。

「どうする?姫菜ともう少し話してく?」

 川崎は海老名さんと俺に視線を彷徨わせながらおどおどと聞く。こいつ今日ずっとこんなんだな。

 しかしそれより先に京華が動いた。

「はーちゃんとかえる…」

 空気を掴むように伸ばされた手は小さく、紅葉のように可愛らしいものだった。

「こら、けーちゃん、はーちゃん困るでしょ?」その呼び方の方が困ります川崎さん。

「いいぞ、もう十分だ」

 十分ではなかったが、これ以上は話してくれないだろう。海老名さんは昔からそういう人だ。それに、川崎にも聞きたいことがある。

「私はもう少しゆっくりしてくから」空になったグラスを持ちながら言う。

「そう、じゃ、じゃあ比企谷、駅まで一緒に行こうか」

 西日なのか、川崎の顔はオレンジ色に染まっている。京華の鞄やらを用意して忙しない。当の本人は眠そうに立っているだけで、羨望の視線を送ってしまう。本当に羨ましい…。あ、世話されることにだから! だから!

「これは確認なんだが」窓側の席に顔を向ける。「海老名さんは変わってないんだな」

 海老名さんは窓の外に向けていた視線をすーっとこちらに返すと、ぐぐぐっと溜めて喋り出す。

「そ・れ・よ・り・ヒキタニくん! 隼人君と同じ大学って聞いたけどそれどこの運命!? 私の事殺す気なの? 腐乱死体にする気!? あ、腐乱ってなんか卑猥…」

 早口言葉のように捲し立てられ、川崎は口がぽかーんと開いている。手に持ったままの京華の帽子が空中で静止していた。

「お、おお…、戸部も一緒だけどな…」

「三角関係キターーーーーー!」

 ぶしゅっと音を立てて鼻血を出す。慌てて川崎がティッシュを取り出した。

「な、なにやってるの姫菜…今日それやってなかったじゃん」

 あ、いつもはやってるんですね…。

 川崎が興味のない話をして、勝手に鼻血を出して世話を掛ける。そんな情景がありありと浮かび、微苦笑を浮かべてしまう。

 そして、これが彼女の答えだ。

 血も止まり、来た時同様ひらひらと手を振る海老名さんに見送られ、川崎姉妹が先に行く。付いていこうとすると背中に語り掛けられる。

「隼人くん、とべっちが頑張ってた頃、他の事で悩んでいたみたいだよ」

 彼女の声は透き通るように耳に届いた。振り返ると、そこにいたのはいつもの読めない笑顔を称えた彼女だった。踵を返し、ドアへと向かう。

「おいしいの、期待してるから」

 そう聴こえたのは、あの時の幻聴か、確認はしなかった。

 

 

 駅へと向かう道すがら、耳元では小さな寝息が聞こえていた。チラリとみると、当たり前だが既に瞼は閉じられていた。

「ごめんね…」

「気にすんな」

 おねだりをされたら弱い。世の中のお兄ちゃんはおねだりに弱いのだ。むしろお兄ちゃんじゃないお兄ちゃんの方が弱いまである。なにこれ哲学。

 おんぶして少し歩くとすぐに京華は動かなくなった。

「今日は助かった、急に合わせてくれてサンキュな」

「ううん、京華連れてきたり、早く帰ったりしてごめん」

「いや、俺も会いたかったしな」

「へぇっ!?」川崎が奇妙な声を出し、数歩後退った。「え、あ、いや、私も会いたかった、けど、そんな…」

 うーん、勘違いどころかもう駄々洩れ。

 あまりに恥ずかしいから訂正しないでやんわりとレールを戻すことにする。

「いやその、聞きたいことがあって」

 ワオ、川崎さんの表情が怖い。いやむしろ恐い。

 京華を背負っているアピールをすると、上げかけていた拳を納めてくれた。危なかった…。

「はあ、で、聞きたい事って?」

「川崎高3の時に仲良くなったグループあったよな」

「ああ、うん、あんた知ってたんだ」

「いやまあ、ちょっとな」知人が楽しそうにしている姿を多く目にするのはシンプルに気分がよかった。だから自然と目で追っていたのだろう。「今も仲いいのか?」

「うん、でも誘ってもらってばっかりだけどね」照れたように笑う彼女は、年相応の女の子だった。

「どうやって仲良くなったか教えてほしいんだが」

 できれば海老名さんとの馴れ初めも、と付け加える。

「どうって言われても」思案するように言い淀むが、先はスムーズだった。「あんたも知ってるだろうけど、あたし、こんなんだからさ、遊びに何回も何回も誘ってくれて」川崎は大切な思い出をノートに書き留めるように紡ぐ。知らない名前が出てきたが、その中の良い女の子たちの事だろう。「姫菜も一緒、あたしからは誘えなくて、それでも何回も誘ってくれて。楽しかったし、嬉しかった」

「そうか」胸の内に温かいものが広がり、零れるようにして声が出た。

「なに」

「す、すみません」

 恐らく頬が緩んでいたのだろう、聞いているだけで、彼女がその子達と海老名さんを大切にしていることが伝わってきた。逆もまた然りだと容易に想像できる。

「まあ、そんな感じ」川崎はプイっと照れたようにそっぽを向いた。

 陽は光を失いかけ、紺色の勢力が増しているにも関わらず、彼女の頬はまだ赤かった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 電車の音で目を覚ました京華と川崎に手を振ると、車掌の笛と共に扉は閉まる。

 短い腕をぶんぶんと振り回され、苦笑しながら返した。見えなくなると突然静寂に包まれた気分になるが、いつもの事だと言い聞かせる。

 携帯の画面を表示させると、一件のメールが届いていた。

――――――――――――――――

 

〈☆★ゆい☆★〉

無題

今日18:56

 

優美子が直接会って話したいって

 

 

――――――――――――――――

 由比ヶ浜にしては簡素なメールだが、それが不必要な不安をあおった。三浦の腕を思い出す。

 了解と簡単な予定だけ送り、画面を閉じる。

 

 川崎とは同じ高校なだけあって数駅しか離れおらず、ものの数分で自分の最寄り駅に着いた。

 ホームに降りると、ため息が出た。電車が駅ごとにプシューと言うのも分かる気がした。それある!と心の中の折本が共感してきた。

 同じ大学、同じ高校、ときたら。当たり前だが、今まで遭遇しなかったのが逆に偶然だったのかもしれないと気付く。それある!なんて考えなければよかったなと、意味のない後悔だけが尾を引く。

 駐輪場で鍵を取り出し回すと、カシャッと軽率な音を立てる。夕暮れを過ぎたカラスが鳴いた時だった。

「あれ、比企谷じゃん」

 折本かおりは、いつだって折本かおりだ。

「ひっさしぶりー」

 そう、いつだって。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 海老名姫菜は回顧していた。

 

 読みふけっていた本から視線をずらす。だいぶ前に空になったカップには蒸発したコーヒーが影のように残っていて、自分の内を表しているようで居心地が悪い。

 外に目を向けるが、そこは知っている景色ではなく。暗がりだけがあるだけだった。鏡のように反射する窓が、髪型もメイクも変わらない自分を映し出す。

 ガラスの向こうの世界は学校で、馬鹿みたいに騒ぐ彼ら彼女らがいた。私は輝いている。俺は充実している。別にそれでよかった。一度も否定などしたこともなかった。冷めた視線を送る人間の存在には気付いていた。嫉妬や羨望、恥辱を含んだそれには寧ろ心地よさすら感じさせたのだろう。それが彼らの栄養源で、骨格だった。

 良くなかった。勘違いは勘違いを助長させ、気付いた時には全身へと回っている。悪性の細胞は望んで悪性になった訳ではない。気付かないうちに生まれ、気付かないうちに侵食していた。思えば、アレが癌細胞だったのかもしれない。あの女が。

 ただ、できたはずの対処に反応できなかったのは彼と彼女の罪咎だろう。それにすら気付いていないのなら論外。必要はない。

『おいしいの、期待してるから』

 つい口をついて出てしまったが、囁くように叫んだ声は流石に聞こえてないはずだ。

 

 何故だろう。彼が動き出してからおかしい。身体を貫く何かが震え、まだかまだかと期待をしている。

 一つ一つの細胞を治癒していくように、彼の動きを結衣から聞くたびに自分が許されていくような錯覚がしていた。悪しき細胞に取り込まれていたのは自分も同じだったのかもしれない。それが今日、やっとわかった。

 彼に引き出された言葉たちは、罪を降ろし自分の元へと帰ってきた。その錘は、彼が背負ってしまったのだろうか。

 

 期待など、してはいけないと分かっているのに。

 秒針が動き出した気配がする。

 

 

 





読んでくださってありがとうございます。
年内の更新はこれで最後なので、続きはまた来年になりますね。

クリスマスの2,000字に満たない短い話でも、沢山の人に読んでもらえてすごく嬉しかったです。ありがとうございます。

意見、感想、アドバイスなんでもお待ちしております。

ではまた、良いお年を。

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