八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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お久しぶりです。9月②です。大学生の夏休みも終わりに近づいてきましたね。

今回も長いですが、読んでもらえると嬉しいです。

感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。


9月②

 

 折本かおりは憂いていた。

 

 揺れる電車内でLINEを開く。赤い丸の数字が付いた新規メッセージが画面を占めていた。

 意味のない内容に意味のない返事を返していく。深く関わらず、されど切らず。女子同士の面倒な関わりはお手の物で、大学でもすぐにグループができた。しかし、最近はそれも酷く、Twitterや動画投稿アプリなど事あるごとに手を取り合う。

 中学から連絡を取り合っている女子へのLINEも最近はおざなりだ。なんというか、少し寂しがりな子だから、連絡をとる相手がいなくなるとあたしのところに来るのだろう。別にいいけど。

 電波だけの繋がりだと分かっているのに、誰もが縋り、癒され、救われる。私も例外ではないかもしれない。いや、一つ訂正した方がいいかな。誰もがではないことをあたしは知っている。

 すべての通知に返信し終えたところで、また一つ新着メッセージが追加された。〈かいちょー〉そう名称登録された海浜総合高校元生徒会長からだ。少し、頬が緩む。

 軽くなった指を滑らし、内容も軽快に送信ボタンを押す。

 それから意味もなく画面をスクロールしていると、サークルでの出来事が脳裏をよぎった。涙目で訴えて来る彼女の瞳が、反芻する。

 

 バドミントンサークルというのは名ばかりの、所謂飲みサー。しかし体裁としてバドミントンの活動は行われていて、サークルに所属する三割ほどの学生はそちらにも参加していた。バドミントンをおまけみたいにするのはどうなんだろうかとも思いながら『結構体力を使うスポーツだから運動不足解消に』と毎週健気に参加する一人の友達に流されて行っていた。

 ただその子の目的が違うことはすぐに分かった。サークルで人気のある先輩を狙っていたのだ。一緒に行こうと言いながら、体育館ではその先輩にべったり。春学期の途中からは先輩二人と、私と彼女の四人で組むことが固定になった。どうでもいいスポーツにどうでもいい男が二人、自負するコミュニケーション力で上手くやっていたが、友達が狙っていた先輩が彼女を送っていくようになり私は用無しかなと判断し、夏休みからサークルに行くのをやめた。しかし、想定外の事が起きた。その先輩までもがサークルに来なくなったという。夏休みのサークル初日、私がもう来ないことを伝えると次から来なくなったそうだ。試験期間から連絡が来ていたのはそういうことかと、後から気付いた。

 本当に面倒くさい。

 仕上げに今日の集まりだ。飲み会に呼び出されてみれば帰り際、涙を浮かべて私を糾弾するように叫んだ。サークルのみんなが帰った後だったのは彼女なりの最後の気遣いなのだろうか。もう笑うしかない。

 男が絡むと女は戦争なんてよく表したもので、誰が始めるとも知らず開戦してしまう。

 

 空は夕暮れに染まり、赤く透き通っている。シャッターを切って残したいと考えるが、画面越しに見る瞬間すらももったいない気がしてしまう。

 けたたましいブレーキ音に続いて扉が開く。きゃっきゃと楽しげな声が聞こえ、そこで子供が乗っていたことに気付く。考え事に耽っていて、もうすぐ家の最寄り駅だった。

「はーちゃんばいばーい!」

 小さな女の子と、思わず二度見してしまった青髪の美人が電車から降りた。手を振り返す男は猫背が様になっていて、後姿から冴えない。

 扉は閉まり電車が動き始めると、手を下げたその男が少し肩を落とし、反転すると壁にもたれかかった。

 眼鏡に伏せられた目は憂いを帯び、流すように車両を見渡す視線は湿気を孕んでいた。魅力的を通り越して、官能的ですらあった。

 一瞬、目が合った気がして思わず逸らす。彼の瞳に見据えられると、心の中まで見透かされそうだった。

 そういえば、彼女らはどうしたのだろうか。あの二人は。確か奉仕部とか言ってたっけ。

 二人の比企谷に向ける視線は明らかに他と違っていた。恋愛の要素は溢れるほどに見受けられたが、それだけで説明するにはあまりに失礼な気がした。

 ファミレスの一幕に、仲町千佳を思い出す。懐かしいが、特に感情は湧いてこなかった。葉山くんの後ろを歩く、比企谷の猫背が、重なった。

 ぱっと顔を上げる。デニム調の靴に紺のパンツ、白シャツにカーキのカーディガン。無造作な髪型に、特徴的なアホ毛が跳ねる。

 見覚えのない眼鏡で分からなかった。

 比企谷だ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 自転車の鍵とにらめっこしていた視界に、肌色の脚が侵入してきた。ヒールの付いた靴をコンクリートに鳴らし、不自然に立ち止まったそれに顔を上げる。

「あれ、比企谷じゃん」折本かおりが、そこにいた「ひっさしぶりー」

「お、おお」曖昧な返事とは裏腹に手は自転車を出そうと素早く動く。

「やっぱりねー、電車で見かけてさー、ていうかそんな眼鏡してたっけ?」

 一色や由比ヶ浜とは違い余計なスキンシップがない分、容易に抜け出せると考え曖昧に返事をする。

「いや、ちょっとな」急いで出そうとした為、隣の自転車に引っ掛かってしまう。ガチャガチャと音を立てていると、折本が手を伸ばしてきた。「あーあー、引っ掛かってるから無理だって」

 よっとか、よいしょっとか言いながら器用にペダルを回す。知恵の輪を解くように鉄を器用に動かすと、外れたのか急に自転車の重みが腕にかかった。

「す、すまん助かった」手をパンパンとはたく折本に礼を言う。さっさと逃げ出したいのが本音だが。

「いーよいーよ」折本かおりはいつもの笑みを浮かべる。何かを思い出したように手を鳴らした。「あ、そうだ。偶然だし途中まで送ってよ」彼女の指さす方向は中学の方面。つまるところ俺の家もある方角で、断る理由が咄嗟に思い浮かばなかった。

 

「へー。比企谷あの大学なんだー。やっぱり頭良かったんだー」

 感嘆という言葉でしか形容しようのない反応で、折本は笑う。押して歩く自転車は邪魔な鉄塊でしかなく、少しの苛立ちをぶつけるようにブレーキレバーを軽く握る。

 パコパコと鳴らす靴は黒く、引き締まった脚から視線を上げるとこちらも黒のショートパンツを履いていた。更に上半身に目をやると、ポンチョを改造したジャケットの様なものを着ている。柄はシャーロックホームズに出てくるチェックだ。耳元にはリングのピアスを付けていた。

「ん? なんかついてる?」視線に気付いた折本が身を捩り、自らの服装を見直す。

「いや、なんでもない」少し失礼な見方をしてしまい、慌てて弁解する。「ホームズみたいだなと思って…」

 我ながら酷い展開だと苦笑しそうになるが、折本は俺の話など聞いていないかのように「なにそれ、意味わかんない! ウケるんだけど」と腹を抱える。

「いや、ウケねーから……」

 ひとしきり笑うと、指で目元を拭う仕草をする。涙など出ていないのに、相手を持ち上げる為だけに行われる仕草には、すこしの哀愁すらあるように見えた。

「その奉仕部の二人は違う大学なんだー」折本が足元の小さな石を蹴りながら口を開いた。

「ああ、まあそうだな」適当に相槌を打つ。

「なにそれ、喧嘩別れ?」

 喧嘩別れ、という言葉に反応するよりも、折本の喰いつき方に驚いた。首を傾げるようにして誤魔化しているが、前のめりになっている姿勢と言葉は隠しきれていない。

「いや、違う…が」

「ふーん、そうなんだ」折本の感情は落胆にも安堵にもとれる。

 いつか見たときより明るくなっている髪色に、今一度折本かおりという人間を意識する。こうやって自転車一つ挟んで並んでいることも、折本にとっては日常の一幕でしかない。数多ある状況の、ひとつにすぎない。そしてそんな彼女に、本物はあるのだろうか。

 嗤い飛ばした感情を、理解するために言葉を繋げる。彼女にこんな質問をするときがくるとは。

「なあ、折本」前を見ていた彼女がこちらに向き、目をしばたたかせる。「親友っているか…?」

 親友なんて幼稚な言葉に思わず目を細める。いつかあこがれ続けたそんな存在に。いつからか諦めてしまったそんな存在に。

 てっきり軽口が返ってくると思っていた彼女の足が止まり、ハンドルを持つ手に力を込めて停車する。

「…なんで?」声に覇気がない。

 何故足を止めたか分からず彼女の顔を確認するが、少し伏せられた目に前髪がかかり窺い知れない。微かに口元に力が入っている気がする。

「いや、深い意味は無いんだが…。あのほら、いつか葉山と一緒に出掛けた女子とか」葉山という言葉に、折本の肩がピクリと動いた。「あ、いや覚えてないか…」

 それもそうだ、俺の人生におけるハイライトなど、折本にとってはただの一幕に過ぎない。

 そういえば誰かが言っていた。『人生は要約できない』と。

 出生、入学、進級、受験、就活、転職、結婚、出産。人生の岐路となった華々しいシーンだけを切り取って、人の一生はこうこうこうでした。なんて要約される。しかし、実際は違う。人を作り上げるのは、トピックとして扱われない、地味で、無味な、毎日だ。ハイライトに残らない一幕の積み重ねが人格を作り上げる。

 正に無味乾燥、無職童貞な毎日を過ごした人生は積み重ねられ、俺という人格を作り上げた。なら彼女はどうだ。俺にとってハイライトとして記録されるような毎日を、消化するだけで過ごしてきた彼女は。

「あはは…、千佳は違うかな…多分…」呟くように聞こえてきた。

「そうか…」

 これ以上踏み込むことを、なぜか自分が拒否していた。聞きたくないとすら叫んでいた。

 力の入っていた手をハンドルから離し、ズボンで汗を拭った。握りなおすとゆっくり自転車を進ませる。

「比企谷は…」背中越しに折本の声がする。「比企谷はどうなの…」

 振り返ってはいけないのか、振り返りたくないのかは定かではなかったが、そのまま口を開く。「……分からん」

「そっか…、うん、じゃあ私も分かんないかな」

 彼女のヒールがまたコンクリートを奏で始め、俺も歩を進める。

「仲悪くなったのか?」その千佳なんとかさんとやらと、と続けた。

「ふつー女子にそういうこと聞くー?」隣に並ぶとクスリと笑い、手をグーにして肩を軽く殴ってくる。

 さっきよりは明るい表情をしていた。自分の中の影も、今はいない。

「すまん、ちょっとな」

「ふーん、比企谷ってそういうの気にするんだ」

「いや、まあ、それでいい」いつ彼女と別れるか分からず、この答えだけ聞きたくて促す。「やっぱり合わなかったとかあるのか?」

 クリスマスやバレンタインイベント、プロムと多少関わっていたのが功を奏してか、質問を投げかけるのにそう躊躇はしなかった。

「合わなかった、っていうのはもちろんあるんだけど」折本は回顧するように暗くなった空を見上げた。「元々ずっと一緒にいられるような友達じゃなかったかな」

 折本の横顔に少し見惚れていると、沈黙を受け取ったのかさらに言葉を紡ぐ。

「一緒にいたかったら、多分こうなってないと思う。どっかで合わないって分かってて、でも一人になるのが怖くて続けてたのかも」

 見上げる瞳には、うっすらと光るものが見えた。

「そう…か」目を逸らすのに精いっぱいで、言葉が詰まる。

「あー、なら中学の同級生とかの方が一周まわって気合うのかなー」

 そう付け足すと、彼女は携帯を取り出して緑色の画面を表示させた。ああこれがLINEか。

 最後の独り言に返す言葉もなく、すこし広めの道路に突き当たる。

 何やらメッセージを送ったのか、折本は少しの間を置いて顔を上げる。「あ、私こっちだけど、比企谷は?」

「俺はあっちだ」折本とはほぼ逆方向を指差す。

「そっか、送ってくれてありがと」

 電車で見た瞬間よりは少し表情が明るくなった気がする。理由は分からないが、電車で目が合ったことも気が付いてなさそうだ。

「じゃあ」惜しむ別れでもなく、自転車に跨りペダルに足を掛ける。

「うん、じゃあまたね」手をひらひらと動かし、なにかに気付いたように止めた。「そういえば、比企谷も同中じゃん。親友かもね」

「はっ、それはねーだろ」思わず鼻で笑ってしまう。乱暴にペダルを漕ぎ始める。

 自転車のチェーンが久しぶりの仕事に景気よく音を鳴らす。背後で折本の笑い声がした。「確かに、ウケる」

「……いや、ウケねーから」

 錆び付いたブレーキ音で、かき消すように囁いた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 家に帰ると既に小町が夕食を作り上げていて、お礼を言って口をつけた。

 眼鏡をしていた俺を見るなり、結衣さんごめんなさいなどと呟いていたが、すぐに切り替えたのか食事中ずっと学校で何もなかったか詰問された。

 

 カチャカチャと皿を洗いながら、頭の中を整理しようともがいているが靄がかかるように思考は遮られ、集中できない。

 葉山の状態。戸部の逃走。海老名さんの依頼。

 ピースが足りない。やはり三浦に話を聞く必要がありそうだ。

 タオルを取り、皿を拭き始める。一つ一つ丁寧に、ピースを精査するように、汚れを見逃さないように整理する。しかし、何も思い浮かばない。

 最後のコップを食器棚にしまい、扉を閉めると磨りガラス越しに食器がぼやけて見える。

 一枚一枚磨いたはずなのに、ケースに入れるとぼやけてしまう。

 ガラスに指を這わせると、嫌な凹凸が撫で、不快感に神経が揺らぐ。

「…何してるの?」

 不意に掛けられた言葉に驚いてしまう。振り返ると小町がバスタオルを頭に巻いて立っていた。

「いや、何でもない。早いな」手に持つタオルを置く。

 食事を終えて風呂に向かった為、まだまだ戻ってこないと思っていた。まだ十五分も経っていない。小町にしては早い帰還だった。

「いやあ、録画しようと思ってた番組のこと忘れてて」そう言いテレビに近づくとリモコンを手に取る。

「普通に観ればいいじゃねえか…」

 ポケットから携帯を取り出し、メール画面をスクロールする。

「8時から友達と電話する約束しててさー」リモコンを操作して番組表を表示させながら言う。「見れないんだよー」

「電話って約束するもんなの?」

「いやまあ、確かにそうだけど…ほら、LINEって通話無料でいくらでも長電話できるから」

「マジか、すげえな」そんなに長電話する友達がいることに驚きだわ。

 キャリアの回線は未だに三十秒何円とかやってるのに、そんなんあったらもう使わねえじゃん。まあ、通話する相手いないから関係ないけど。

 画面スクロールを続けているが、最近通販したものが多いのと、大学と公務員準備講座からメールが多く届いていて目的の内容が見当たらない。

「よっしできたー!」小町が飛び跳ねると、たたたっと冷蔵庫に近づいていく。

 ようやく見つかったメールを開く。あれから戸部との連絡は途絶えていたのに加え、色々あった為最後の会話も忘れてしまっていた。

「なあ、LINEってメール探すの簡単か?」内容を見返しながら小町に尋ねる。

 小町は牛乳を取り出していて、コップに注ぐ手前で止まった。「お兄ちゃんそれ頭痛が痛いみたいになってるよ…」

「え、なんで」

「LINEとメールは別だよお兄ちゃん…」小町は憐れんだ目でこちらを見るが、「LINE入れたいの?」と言うと今度は心なしか目が輝いているようで思わずたじろぐ。

 今しがたのメール捜索に嫌気が差し、それが楽になるならと小町に伝えると、どうにも一人ずつの会話画面があり、すぐに分かるらしい。さらになんと会話が画面に常に表示されるためいちいち前のメールを開く必要もないという。

「なにそれめっちゃ便利じゃん」

「だからみんな使ってるんだよ…」

「頼んでいいか?」携帯を小町に渡すと、おろろと泣き真似をして受け取る。「お兄ちゃんがついにLINEデビュー…、小町は嬉しいよ…」

「はいはい、じゃあ頼んだ。パスワードはメモにあるから」

 なんだかむず痒く、小町の方を向かずに言う。リビングを出て風呂場に直行する。

 バタバタと出てきたのだろう、水滴はあちこちに飛び、下着やシャツが散乱していた。それらを摘まみ上げ洗濯機に投げ入れる。

 自分の服も入れ、風呂場に入ると先に身体を洗い湯船に浸かる。夏場は別にシャワーで良かったが、小町はお湯に入りたいらしく、毎日溜めていた。

 大きく息を吐くと、身体が思い出したかのようにどっと疲れがのしかかる。そういえば一日外に出っぱなしだった。

「はあぁぁぁ……」更に息を吐く。

 天井を見上げ、もう一度ピースの精査を始める。川崎と折本の会話が頭を掠めるが、特別収穫もないと判断して取っ払う。瞑目すると意識が遠くなる気がした。

 風呂で寝るのは危険らしい。ぼーっとしてしまうのは眠気ではなく、失神に近いそうだ。

 汗は昼間に図らずとも流していたため、すぐにあがることにした。

 

 リビングに戻り時計を見ると八時を少し回っていて、すでに小町の姿はなかった。テーブルに携帯が無造作に放置されている。

 クーラーが効いたままの室内は心地よく、ソファに寝転ぶと再び眠気に襲われた。今度は逆らう気力も体力もなく、意識は沈んでいった。

 

 

―――

 

 

「んん…」息苦しい。何か乗せられているようだ。確かな質量をもったそれが腹部を圧迫し、気道が締め付けられる。

 錘を背負ったつもりはない。身体を動かすが、それは揺れるだけで離れなかった。意識が半分覚醒し、夢であることを認識し始めるが、従うことしかできず身を捩る。

 場面が変わった。目の前には大きな箱がある。長方形のそれは磨りガラスで覆われていて、中身が確認できない。近づいてガラスを触るが、不快感のみが指を這う。顔を近づけるとさらにぼやけた。

 仕方なく離れることにした。少しの距離を取りながらその長方形を見回る。

 ぐるぐると回っているうちに色が付く。懐かしい色合いが、脳裏を刺激する。

「教室…か」声にならない声で呟く。

 全体を俯瞰すると、沢山の机に黒板らしきものも確認できた。すると黒い塊が床から湧き始める。生徒だ。

 教室の後ろと思われる位置で立ち止まると、窓際後方、つまり俺の目の前に黒い集団がある。笑っているのか、良く動く。何故か近づくことが躊躇われ、再び周回すると恐らく廊下側、真ん中あたりの席に小さな塊があった。違う。人が突っ伏しているのだ。

 そこで、霞がかっていた箱が崩れる。壁がこちらに倒れてきて思わず叫んだ。しゃがんでしまった身体を起こし倒れたはずの壁を見るが、塵ひとつなく消え去っている。

 急に日が差し込んだように明るくなったそこは紛れもない教室で、壁もないのに笑い声が反響していた。教室後方には相も変わらず生徒が溜まっていて、よく見ると、いやよく見なくても葉山のグループだった。

 いつか嗤い、憧れ、何度も観察した彼らの姿だ。

 目の前に突っ伏していた生徒が急に立ち上がり、こちらに近づいてくる。見覚えどころじゃない。俺だ。

 一歩一歩足を引き摺るように歩いてくる俺から逃げられない。身体が動かない。そこまで考えさっきの周回も自分の意志ではなかったことに気付く。

 ぶつかる。

 衝撃に備え肩を縮こまらせたが、そうはならなかった。背後を振り返るともう一つ箱があった。

 扉を開けてもう一人の俺がその中に入ると、再び壁が倒れ始める。四方に割れ、中から顔を出したのは夕日に染まった奉仕部だった。

 いつもの定位置に雪ノ下、由比ヶ浜、俺。そしてなぜか一色がいた。

 脚が自然と動く。眩しいほどのその場所に、近づく。近づく。そして気付く。

 由比ヶ浜がいる。

 謎の悪寒が背筋を走る。先ほどまで聞こえていた笑い声が、いつの間にか止んでいた。

 後ろを振り返っていいのか考えるよりも先に、身体は勝手に動く。まるでシナリオに踊らされる人形のようだ。

 教室は薄暗く、目を凝らすと葉山のグループだけが見えた。言葉も発しずただ虚空を見つめている。葉山の首が持ち上がり、穴が開いたような瞳がこちらに向けられた。

 咄嗟に、逃げなければと思った。あの暖かい空間に。

 踵を返し奉仕部に身体を向けるが、そこには暗闇があるだけだった。

 

 どしんっという大きな音と身体に響いた衝撃で目が覚めた。カシャカシャと爪を鳴らしながらカマクラが全速力で離れていく。

 ソファから落ちたと気付くのにそう時間はかからなかった。薄手の掛け布団が身体に巻かれていて、小町に心の中でお礼を言った。

 クーラーが切れて時間は経っているが、それとは明らかに関係のない汗でTシャツがはりつく。壁に掛けられた時計を見ると五時を少し過ぎた頃だった。立ち上がり、風呂に入ってから忘れていた携帯をテーブルに取りに行く。

 嫌な夢を見たのは確かだが、内容をしっかりと思い出せない。少し頭が痛い。

 食卓の椅子を引き、腰掛ける。携帯を開くと見知らぬアプリアイコンがあった。LINEとかかれたそれをタップすると、一番上に小町と書かれた欄があった。赤い数字で①と表示されている。

『可愛い妹小町だよー!』

 開くとそんな一文が目に飛び込んできて、思わずキュンとしてしまう。我が妹ながら恐ろしい子っ。

 その下のゴミのスタンプは見なかったことにした。

 ポチポチと弄っていると、友達追加という画面に移った。電話番号から友達追加という説明文が見え、スクロールすると知った名前や知ってるけど分からない名前が表示されていた。

〈雪ノ下 雪乃〉これは確実に雪ノ下だな。プロフィールの画像猫だし。

〈☆★ゆい☆★〉これは由比ヶ浜かな。画像はプリクラなのか、雪ノ下と一緒に写っている。今知ったけど、プリクラって元々可愛い人は撮らない方がいいな。目とかでかくて変。ってことは可愛くなる人は、あっ…(察し)。

 他にも名前が並ぶが、ひとつの名前に引き付けられた。〈平塚 静〉プロフィール画像はスポーツカーで、ホーム画面はラーメンだった。もしかしてこの人結婚する気ない…?

 外でバイクの音がして、カタンと新聞が投函された。こんな朝は久しぶりだなと考えながら思い出す。平塚先生にヒントを貰い、奉仕部に自分の答えを導き出したことを。

 窓に近づきカーテンを引くと、昇り始めた太陽が光の柱を何本も空に伸ばしていた。あの夜の時計の進む様子はよく覚えている。答えは出ているのに何度も問答して、引き出していった。平塚先生の言葉は今でも焼き付いているが、今回の場合は自分の事ではなく、いくら試行錯誤しても事実は変わらない。ピースは殆ど出揃い、取るべき行動がない。

 もう一度手に持つ携帯を見る。平塚先生の画像は数分前と変わらないスポーツカーで、記憶を刺激してくる。

『心理と感情は常にイコールなわけじゃない』

 そんなことは戸部を見ていれば分かる。

『計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ』

 あいつらの気持ちは恐らく一致している。

『考えるときは、考えるべきポイントを間違えないことだ』

 考えるべきポイント…。ポイントは間違えていないはずだ。ひとつずつ確認してきた。ひとつずつ…。

 そこで夢で見たシーンが甦る。箱。教室。視点。誰の視点だ。俺は誰の視点に入っていた。

『それは比企谷だけだろ』また一つ、こめかみに響く。頭痛に紛れてガンガンと響く。『俺と君は違う』

 ああ、そうだ。あいつは何も変わっちゃいないのだ。海老名さんと一緒だ。

 彼らの依頼は、破壊でも透過でもない。

 それだけは確かだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 数十分前はせかせかとペダルを漕いでいたのに、今はエンジンを吹かして風を切る、というより貫くようなスピードを出す白い外車に乗っているのだから、人生は分からないなと思う。

 因みに言うと今いる場所は高速道路で、向かっている方角は南。

 鼻歌交じりにハンドルを握り、暴れ馬を操って追い越し車線を悠々と走る。馬力が違うのか、それなりの速度にも関わらず乗り心地は良かった。

 カーナビに目を向ける。俺が乗車した時にはすでに目的地は登録されていて、操作すれば分かるのだろうが、何かしらのルールに反する気がして手が伸びない。

「あの…」何となく高速道路の合流は神経を使うのではないかと考え、先ほどから黙っていたがそろそろいいかと口を開く。「どこに向かってるんですか?」

 運転手は軽く首をこちらに向けた。未だ自動車学校の第二段階である路上講習に出たばかりの俺からしたらとんでもない仕草で、思わず背筋が凍る。

「どこかなー?」チラリと視線で前方を確認し、再びこちらを見た。優先順位が逆ではないかと言いたくなる。「当てたらご褒美あげるよ」

 ご褒美、という言葉にあまりワクワクしないのは彼女の日ごろの行いの所為だろうか、と考えたところで、彼女が、雪ノ下陽乃が不意に唇を触った。

 トン、トン、と誘惑するように跳ねる指先に俺の目線は釘づけになる。今盗塁したら絶対アウトだなと下らないことが頭を掠めた。

 専業主夫に経験値全振りする(予定)俺には今の状況に対処する術はなく、言葉が出てこなかったが、陽乃さんはフロントガラスに顔を戻したことでやっと息を吸うことができた。

 視線が合っていないうちに、早口に言う。「か、鎌倉とか…」残像を残し過ぎ行く看板に、頻繁に表れた地名を出した。距離的にも一番無難だと思う。べ、別にご褒美とか意識してないし!

「ふーん、なるほどー」陽乃さんは片手をハンドルから離し、顎に手をやる。またヒヤリとしたが、その仕草は雪ノ下雪乃と瓜二つに見え、少し微笑ましくなる。「正解発表は、CMの後で!」俺の視線には気付かず、陽乃さんは悪戯めいて笑った。

「テレビじゃないんですから…」と陽乃さんに言い、ついでに「この人結局教えてくれないんだけど」と心の中で雪ノ下に毒づいておく。

 

 

―――

 

 

 コインパーキングに停めた車から降りると、独特の匂いを含んだ潮風が鼻孔を掠めた。沿岸部で風は強く、一瞬愛する千葉を思い起こさせたが、辺りに散りばめられた観光客に首を振る。見渡してみれば外国人も多く見受けられ、この場所の人気が窺えた。平日でこれなら休日はやばいんだろうなあ。

 チラリと渡ってきた橋を見ると、向こう岸の本土と繋がっていて、ここが島であることを改めて実感した。背後には江の島タワーが聳え立っているはずだ。

 運転席から降りた陽乃さんを見るが、自然と口元に視線が吸い寄せられた。ひと月前の出来事は頭から取り払ってこの日を迎えたが、会ってしまえば淡い抵抗は難なく突破され、期待が鼓動となり響いた。

「比企谷君、お昼抜いてきたんでしょ?」車の鍵を遠隔で閉めた陽乃さんが聞いてくる。そういえば、昨夜小町に食べるなと釘を刺されていたために我慢をしてきていた。

「はい、ちょっとお腹すきましたね」嘘だ。めちゃめちゃお腹空いてる。お腹空き過ぎて腹痛が起こる謎現象も発生し始めた。胃が空っぽという表現がどんぴしゃりな気がした。

「あはは、ちょっとじゃないでしょ」陽乃さんが軽快に笑う。「もう二時過ぎだよ?」

 腕時計をする習慣はない為、携帯を取り出して時刻を確認した。空腹も妥当な時間だと認識すると、さらに拍車がかかり胃が悲鳴を上げる。

 携帯の画面には時刻の他に、数件の通知が来ていて軽く確認する。小町からのツーショットがなんちゃらと、由比ヶ浜との日程相談の内容だった。そう急ぎでもない上に、小町に至ってはついに本性を現しただけに無視する。

「すみません…、かなり空きました…」お腹に手を当てる。

「ううん、ごめんね無理させて」彼女の表情は本当に労わっているようで、少し安らぐ。「お詫びに美味しいお店知ってるから、案内するね?」と言い、俺に目配せをして先の階段を昇っていった。

 後ろ姿を追う。風は強いが、今日の陽乃さんの格好は膝丈のタイトスカートで、俺が何かを心配することはないなと思う。日焼け対策なのか薄手のカーディガンを羽織っているのと、鍔の小さな麦わら帽子を被っているのが印象的だった。

 夏らしい、低いヒールの付いたサンダルからは健康的なアキレス腱が浮かび上がり、誘うように上下する。

 

「まさか比企谷君の方から誘ってくれるなんてねー」

 陽乃さんは器を空にすると口を開いた。俺の方は既に完食していて、窓の外に見える非日常の風景を堪能しているところだった。

「いや、まあ…」遅めの誕生日プレゼントを渡すためとは言えず、言葉を濁す。「そういえば雪ノ下さんは四年生でしたよね」

「うん、そうだよ?」小首をかしげる姿も可愛らしく、少女の雰囲気すらあった。

「就職とかって決まってるんですか?」

「ああ、うん決まってるよ。父の会社を手伝うことになってるの」陽乃さんはそこまで言うと、息を吐くように「前からね」と続けた。

「そうなんですか…、すみません」旅行中に話すことではなかったなと思い、すこし反省するが、陽乃さんが被りを振った。「ううん、今は両親に感謝してるの」

 今は、の部分に苦笑しそうになるが、黙って促す。

「あの子より先に行けるから」

 そう言い彼女の瞳は外の景色に向けられた。釣られて首を動かすと、遠くに海が見えた。すべてを飲み込んでしまう余裕すら感じられた。

 彼女は変わったなと思う。あの頃の様な歪んだ言葉も態度もなく、ただただ真っ直ぐに進んでいく。彼女の邪魔をするものはなにもない様に見えた。

「じゃあ、いこっか」陽乃さんはこちらに向き直ると無邪気に笑った。

 その合図で席を立つ。

 

 

―――

 

 

 石階段の一番下に腰掛け、夕暮れ前の海に目を向けると、分かっていても言葉が奪われた。

 沈んでいく太陽はその存在を最後に誇示するかのように輝き、人々の瞼に焼き付ける。

 

 食事を終えた俺たちは土産屋や人気のジェラートが食べられる店などを巡った。折角だからと妹に喜ばれるお土産対決を申し込まれたが、陽乃さんが選んだものは写真立てで、中には最初からなのか猫の写真が入っていて勝てる気がしなかった。

 日が傾き始めると、陽乃さんの主動でこの砂浜に案内された。ごめんなさい今日ずっと陽乃さん主動でしたつよがりました。

 

 この砂浜は夕焼けが写真に映える人気のスポットらしいが、そこまでの人ごみでもなかった。沈む直前は太陽の力で声帯が燃やされたのかと思うくらいに、皆が景色に見惚れ、記憶しようとしていた。今しかない、と思った。

「雪ノ下さん」隣に座る陽乃さんに小さく呟くと、夕焼けに照らされた彼女がこちらを向いた。景色の邪魔をするなという趣旨の視線はなく、すこし安心する。「遅くなりましたけど、誕生日おめでとうございます」

 元々間に合わせるといった状況でもなかったため、謝るのはやめた。

 陽乃さんは俺の手元にある小さな箱を見ると一瞬言葉を詰まらせたが、手を伸ばしてきたのでその上に載せる。

「ありがとう…」か細い声だった。

 弱弱しい彼女は見ていけない気がして顔を逸らした。陽は海に沈み、残照を伸ばすばかりだった。観光客は続々と浜から引き返していく。

 開けていいかと聞かれ、了承する。江の島タワーには光が灯り、海に向かってメッセージを発し始める。誰にとも分からず、ただひたすらに信号を発し続けるその姿は往々しくも、痛々しくも見えた。

 陽乃さんの反応がなく、焦れてきたころに声がした。「かわいい」

「ほんとですか?」ポジティブな反応に、ようやく肩の力が抜けた。

「うん、可愛い」今度の言葉は噛み締めるようだった。

「それはよかったです」

「こんなに可愛いの、比企谷君が見つけたの?」

「ええ、まあ」

「絶対女性ものだよね、一人でお店入れたの」

「え、ええ、まあ…」

 同じセリフを言うだけなのに、つい詰まってしまった。その反応に陽乃さんの声が少し湿る。

「嘘」陽乃さんは口を尖らせた。「嘘つきだ」

 拗ねるように膝を抱える。可愛らしかったが、慌てて否定する。

「城廻先輩に教えてもらったんです。いいお店があるって」

「一緒に行ってないの?」

「それは…」再び詰まると、顔をぷいっと逸らされた。「いや、付いて来てもらっただけですよ、ちゃんと俺が選びましたから」

「このトカゲも?」

「はい」

「この装飾も?」

「はい、全部です」

「そっか…」陽乃さんはそこまで聞いたところで満足したのか、抱えていた膝から手を離した。「つけてもいい?」

「あげたものなので」と言うと、陽乃さんは会った時からつけていたイヤリングを外す。

「ちょっと持っててくれる?」

「あ、はい」

 外したそれをこちらに渡し、俺のあげた方をつけた。

「どうかな」陽乃さんは髪を耳に掛ける。その仕草はずるく、良いなと思ってしまう。

「に、似合ってます…」

 トカゲなのかは分からないが、爬虫類をモチーフにしたイヤリングは赤く透き通り、その周りには葉の装飾も揺れている。似合っていた。しかし自分のあげたものを似合っているというのは変な感じで、むず痒くなる。

「あはは、ありがとう」と言い、指先で弄ぶ。「嬉しい…」

 やはり気恥ずかしく、視線を彷徨わせるが観光客はもう殆どいなかった。ぼそぼそと何かが耳に届き、陽乃さんを見るが、両手の平で顔を覆っていて伺えなかった。

 

 車に戻る道すがら、陽乃さんは「そのイヤリングあげるよ」と俺が預かっていたものを指差した。断ると「だって、もうこれしか着けないし」と言い、小悪魔のように笑った。

 再び髪をかき上げて現れたイヤリングは、陽の光を溜めていたかのように赤く煌めいて見えた。

 

 

―――

 

 

 夕食はこちらも陽乃さんがよく行くというお洒落なパン屋でとり、鎌倉の夜景を見に行くことになった。

「せっかくくれるならもっと早くてもよかったのに」陽乃さんは少し愚痴るように言った。

「え、プレゼントって早い方がいいんですか」

「そういう訳じゃないけど…」陽乃さんはハンドルを回す。「今日一日つけられたから…」車体は戻ったが、俺の心は遠心力で揺れたままだった。

 

「着いたよ」最新の車は停車もスムーズで、車校の旧型セダンとは比べ物にならなかった。

 促されるままに車から降りると、そこには白い巨塔…ではなく白いホテルがあった。なにこのデジャブ。

「え、夜景観に行くんじゃ…」そう言いかけるが、当の連れてきた本人はスタスタと扉の前で姿勢よく立つホテルマンに近づいていく。

 一言二言話すと、手招きされた。

 派手なエントランスを横切り、重厚なエレベーターの前に立つ。陽乃さんがボタンを人差し指で押すと、すぐに開いた。陽乃さんに続いて乗り込む。

 扉が閉まったところでようやく会話ができた。

「あの、夜景は…」ご機嫌に揺れる彼女に声を掛ける。

「ん? 夜景観に行くのよ?」

 何を言っているの? と言わんばかりの視線を向けられ、何言ってるんですか? という視線を向ける。

「何言ってるんですか?」考えが口から洩れた。

「あはは、比企谷君の顔おもしろーい」陽乃さんは口元を抑え、くすくすとわざとらしく笑う。

「ずっとこの顔ですよ…」答えるのも億劫で軽く受け流すが、陽乃さんは目を細め、「知ってるよ」と呟く。

 声に艶めかしさが乗り、思わず身を引いてしまう程の色香だった。

 エレベーターが開くと、そこにはまた同じような重厚感のある扉が現れた。両脇に置かれた観葉植物を見ると、玄関と言えなくもない。

 陽乃さんはどこからかカードを取り出し、ドアノブの上の隙間に差し込むと、抜くと同時にピッと軽やかな音が鳴った。そのまま手を掛け、押し込むように開く。

 そこまでの重さはないはずなのに、扉の存在感が強く、開くのが遅く感じた。

 長い廊下を突き抜け、その先には夜空が見える。そこでようやく、このフロアすべてが一部屋だということに気付いた。恐る恐る足を踏み出す。

「両親の出張とかでよく使うの」先を行く陽乃さんがこちらを振り返り言う。「偶々空いていたから、ここから見ようと思って」

 慣れた手つきで全面ガラスの窓を開けると、ベランダに出る。昼間もからっとした天気で過ごしやすかったが、夜になると程よい風が肌を撫でた。

 手すりに手を掛け、俺を促すように手を差し伸べて来る。あまりに優雅なその仕草に思わず手を取ってしまう。その瞬間だけ、世界には二人きりの様な気がした。

 言葉は出なかった。眼下には夜を彩る街並みが広がり、少し先に目を向けると、昼間に登った江の島タワーが姿を変貌させていた。キャンドルのように揺れるその光は、俺の言葉を奪うのには十分すぎた。

「どう?」陽乃さんが語り掛けて来る。ぼんやりと耳に響いたその声にゆっくりと返す。「…綺麗です」

「あは、それは私の事?」陽乃さんはこんな時でも笑う。

「陽乃さんの事はいつも綺麗だと思ってますよ」

 視線は固定したまま、流暢に口が動いた。内容も分からず出た言葉は、きっと本音なのだろうなと思った。

 少しの沈黙の後、「もう…」と呟いた。「ずるい」

 手を引かれ、室内に戻ると、隣の部屋に移る。寝室なのか、二人が寝ても余裕のあるベッドが中央に鎮座していた。同じような全面ガラスはベランダがない代わりに、ベッドからでも夜景が一望できた。

 景色から引きはがされた名残惜しさと、期待感に思考のバランスが取れない。

 そのままベッドに腰掛ける。視線を外に向けるとキャンドルが揺れ、名残惜しさは消えた。

「ねえ、比企谷君」陽乃さんが首に手を回してくる。「キスしてもいい?」

 艶めかしい声は鼓膜に届く。妖気すら孕んで、確かに響く。

 しかし俺はそれに答えられない。何も言えない。

 視線が下がり、すこし俯く形になってしまう。

 陽乃さんはそれを首肯と捉えたのか焦れたのか、左の頬に唇が当たる。そのまま離れず、欲しい欲しいと何度も啄むように吸われた。

 力強く抱き寄せられ、陽乃さんの双房が腕に絡みつく。

 頬から首へ、小鳥のように突いたり離れたりを繰り返し、下がっていく。彼女の左手は俺の胸元を撫でるように上下していた。

 頭は回らず、ただただ堕ちていく。そんな感覚に助け舟を出してくれたのは、皮肉にも堕天使本人だった。

「…いいよ」耳たぶを掠め、囁く。「答えなくても」

 それは駄目だと、心の内が叫んでいる。汚れた期待を抱いていた自分を呪う。

 叫んでいるのに、心の内から出てこようとはしない。

「私が好きなだけ」陽乃さんは猛毒を吐く。「好きなだけだから」

 両肩に手が添えられ、力づくでベッドに押し倒された。そこで初めて陽乃さんと目が合う。

 赤かった。顔も目も。おそらく心も。

 一瞬だった。

「…ん」どちらの声か分からない。どちらともの声かもしれない。合わさった唇の隙間から、漏れた。

 陽乃さんの息は荒く、欲しがる子供のように何度も何度も口づけをした。

 子供の頃に見た、結婚式で見た、華やかなものではなかった。

 とても醜く、とても酷く、爛れたキスだった。

 

 帰りの車内で、陽乃さんの「また会ってくれる?」という問いに頷いたのは、誰の罪だろうか。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 恥の多い夏休みを送って来ました。

 夏休みも残すところあと数日。五十日にも及ぶ長期休みは、あれよあれよという間に終わりを迎えてしまう。

 無事前期の単位をすべて取得した俺は、秋学期の時間割を決める作業に追われていた。というのも履修登録の存在を忘れていて、今日が最終日だったのだ。

 公務員講座で葉山に言われたことを思い出す。後期も一緒にサッカーの授業を取らないかというものだ。もちろん舌を突き出して断ったが、現在、登録最終日の俺にある選択肢は定員の空いているサッカーだけだった。

 火曜日と木曜日、どちらかの授業に葉山はいる。南無三! と唱えつつ木曜日の四限にチェックを入れた。

 机の上にある電波時計に目を向ける。9月15日(木)11時12分。学生の履修登録に時間を充てる為、その期間だけ公務員講座は午後からだった。

 パソコンを閉じ、鞄を引っ掴むと家を出る。

 空には厚い雲が充満していた。

 

 自転車のペダルに力を込める。ぬるく湿った風が口元を撫で、下唇を噛んだ。

 ファーストキスなんて勿体ぶっても、所詮は肌の接触。味もなければ感動もない。想像や妄想を膨らませ続け、理想を描いたそれを済ましても、世界が、景色が変わることはなかった。なのに。

 なのに、内の火照りが消えないのはなぜだろう。

 

 駐輪場に自転車を置き、改札を潜り抜けるとホームを進む。

 歩きながら出した携帯に戸塚からもらったイヤホンを挿す。白色のそれは以前の物より音質が良い気がした。戸塚補正がない気がしないでもない。

 家での音漏れチェックも欠かさず、音量に注意しながら再生ボタンを押す。一世代前のアニソンは気分を高揚させるには丁度良く、次第に心は軽くなった。

 携帯の画面下部にあるボタンを押すと、画面が切り替わり碁盤の目のようにアイコンが立ち並ぶ。見慣れないLINEのアイコンに新規メッセージの到着を告げて数字が灯った。

 由比ヶ浜から送られてきた内容を見ると、一度スケジュールアプリを確認してから返信した。

 夏休み中の講座も終わり、大学生活が再開する。バイトに講座、自動車学校とそれなりに忙しく充実した毎日だったと言えよう。車校はまだ終わってないけど。

 三浦との邂逅に一抹の不安を感じながら、到着した電車に歩を進める。乗り込む直前で二人組のおばさんに追突されたが、彼女らは俺のことなど見えていないかのように、ずかずかと笑いながら椅子を占領した。

 握っていた携帯を誤って操作したのか、耳元に響いている歌の曲調が変わっていることに気付く。故ボーカルが、大丈夫だ。大丈夫だ。と歌い上げる。励ましているのか、言い聞かせているのか今の自分には分からない。

 なぜだか心地よく、扉にもたれてそのまま聴き続けた。

 流れゆく景色に目をやると、雲の隙間から陽が射し顔を覗かしていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃は求めていた。シーツに縋るよう、握りしめる。

 

 シャワーを浴び、生まれたままの姿でベッドに横たわる。

 素敵なプレゼントを貰ったのが引き金だった。

 私の事を受け入れもせず、拒みもせず、只々流されていた彼を思い出すと胸が締め付けられるようで苦しい。それでも、帰り際に抱き締めてくれた震える肩と、確かな首肯がおかしくなるほど嬉しかった。

 勢いでしてもよかったけど、私も彼もそうできないことは分かっていた。

 貪るようなキスをした後、これでもかという程に彼に触れた。首も手も、腰も足も、全てが欲しかった。そして、手に入らなかった。

 彼の心はまだ、囚われている。

 あの場所に繋ぎ止められたままだった。

 

 彼を送った後、再びホテルに戻ってきた。そんな元気があること自体が不思議だったが、自分を突き動かすものの正体はついに現した。

 出ていったままの状態のスイートルームは薄暗く、月明かりのみが唯一の救いだった。

 

 何者かに荒らされたように乱れたシーツが、彼の存在を確かに示す。

 両手を使い掻き集めると、赤ん坊を抱くように優しく包んだ。

 片手でイヤリングを器用に外し、手のひらで転がした。トカゲと勝手に認定したそれは月光を浴びて息を吹き返したように輝く。

 目の奥が熱くなり、止めどなく溢れ出す。

 こんなに誰かと話したいと思ったことなどなかった。人生を俯瞰した罪を償わされているかのように、今が苦しい。誰もいない。

 助けてほしいとすら、願う。

 ベッドに投げ捨てていた携帯に手を伸ばすと、アルバムを開く。

 海やお店で不機嫌そうにこちらを睨みつける彼。ふとした瞬間に遠くを見つめる瞳。世の中を嘆いているようで、縋るように手を伸ばしている。

 セルフカメラで撮ったツーショット。頬をくっつけると彼の顔は火を噴くように赤くなった。

 ごみ箱のアイコンに触れるだけなのに、動かない。自分の身体なのに、こんなにも言うこと聞かないなんて聞いてない。

 この部屋のように薄暗く、最高で、最低の口づけだった。

 

 削除することを諦めていた携帯に着信があった。映画を見に行った時に聞いた、彼の好きなアーティストの曲だ。デート中はマナーモードにしていた。聞かれたら流石に恥ずかしい。

 霞む視界に画面を捉えると、表示された名前に目を見開く。

 蜘蛛の糸に縋るように、通話ボタンを押した。

 

 

 




読んでくださってありがとうございます。
次回も9月が続く予定です。

意見、感想、アドバイスなんでもお待ちしております。
今年もよろしくお願いいたします。

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