10月の2回目ですね。夜風が心地良いそうですよ。
ココが読みにくい、この表現はおかしい等も勉強になるのでどんどん言ってもらえると助かります。
今回も拙い文章ですが、これを読んで少しでも気分が上がると凄く嬉しいです。
またまた沢山の感想ありがとうございました!すごく励みになります!
感想、意見、アドバイスなどお待ちしております。
誤字報告ってめちゃめちゃ便利ですね。よければしていただけると助かります。
またお手すきの際にどうぞ。
あ、あらすじの書き方は考え中なので、それはまだ待っていてもらえると嬉しいです。
折本かおりは探していた。
揺れる電車内。既に窓の外は暗闇が占めていて、街の明かりが流れるように視線を誘う。線路の横を通る道路、一台の車が前を走っていた。色は分からない。何色だろうか。
「あはは、ねえねえこれ見てよ」肩を叩かれた。
車窓に向けていた視線を剥がし、振り返る。嬉々とした様相を見せる彼女がいた。
「んー?」私に見せるように差し出された携帯を覗き込んだ。ツイッターの動画らしい。「なにこれ、どしたの」
「なんか回ってきてー、超ウケる」
彼女は口を抑える仕草をしてから、携帯を持つ手で動画を再生させた。全画面表示になる直前、『痴話喧嘩ww』という文字が目に入り、眉をしかめる。
デパートだろうか、見覚えがある。といっても吹き抜けにエスカレーターを設置するスタイルをとった大型商業施設などごまんと存在するため、似たような景色に既視感を覚えているだけかもしれない。男女の姿が見えた。
『プレイじゃね?』相手を卑下するような、気分を害する類の声質だった。要するに嫌いな声だ。『水商売かよ』と続く。気持ちのいい言葉ではなく。再び窓の外に視線を移したかった。ただ一瞬、動画の中央に陣取る男と目が合った、気がした。
画面越しの私に気付いた訳ではあるまい、カメラに気付いたのだ。彼が、比企谷八幡が。
少し手前に映る女の子の肩を掴み、自分の胸に抱いた。顔を隠すように見えたその動きは私の買い被りだろうか。
『助ける!』吐き捨てるように叫び、囲む一団から離れていく。見方を変えればカメラから女の子を逃がしている様にも見えた。亜麻色の髪をしていた。
「あはは、おもしろー」彼女は餌を見つけた犬のようにはしゃぐ。尻尾まで生えそうな勢いだった。「なんかコメントしよっかな」
「やめといたらー?」舌打ちしたい衝動を抑え、視線を逸らした。窓の外では赤色の車が電車と競うように並んでいた。赤色だったのか、いやさっきの車じゃないかもしれないな。
勝手に破滅しろ。そう思っていた。汚い尻尾でも振って、週刊誌に群がる下劣な人間に成り下がれ。心の中ではそんな黒い感情が渦巻いている。
辟易としながら、彼女がスクロールする画面に目を向ける。指の動きを見るとかなりの反応がありそうだ。テレビのニュースでよく見る光景だったが、いざ近い人間が標的にされると実感が湧かないものだ。そこで彼女の指が止まる。
「あれ、動かなくなっちゃった」おかしいな、と首を傾げて指を繰る。
おかしいのはお前だよ。喉まで出かかるが何とか飲み下した。「消されたんじゃない? ほら、顔とか映ってるとあれだし」
「えー、つまんなーい」彼女は口を尖らせ、違うSNSを開いた。
私はあんたといるのがつまんないよ。
車窓の先には、住宅から洩れる光が見えるだけだった。
『ご乗車、ありがとうございます』
甲高い笛に続いて、背後で扉が閉まった。先を歩く彼女が振り返ると、こちらを怪訝そうに窺う。「どうしたのー、いかないのー?」
そうだよ、行きたくないんだよ。「ううん、何でもない」足を踏み出す。
残暑の残る季節だが、夜風は程よく肌を撫で、不快な湿気は姿を消しかけていた。だから腕を組まれても暑くはなかったが、皮膚が拒絶するくらいには反応が出る。
鳥肌って確か体毛を逆立てる役割で、人間には意味がない機能だってテレビで言っていたな。彼女の顔を覗き込む。綺麗な顔立ちをしていた。二重の瞳はビー玉のように輝き、鼻筋が通っている。唇は薄い方か。アヒル口は古いよ。
腕に絡みつき笑う彼女を見て、よくこんな態度が取れるなと思う。あの飲み会の帰り、私を糾弾したことはまるで前世の行いだったかのように彼女は振る舞う。それもこれも周りの所為だ。
話があるからと呼ばれてみれば、いつものグループに囲まれた彼女がいた。まあ、大方予想はできた。夏休み中のひと悶着より、後期も仲良く一緒に授業を受けるメリットの方が大きいからだろう。大学はボッチに優しいとよく言うが、実際一人でいる奴は目立つし、浮く。ただ中学高校とは絶対数が違う為に目立たなく見えるのは確かだ。
比企谷なら、そんなこと気にしないんだろうな。
周りに促され、無理やり仲直り。「悪いと思っててー」「反省してるんだってー」「一緒に授業受けよーよー」引き攣りながら笑顔を作った。ただ、泊りに来るなど予想していなかった。余りに突拍子もない出来事に、流石の私も流されてしまった。そして今に至る。
「かおりの家、そんなに遠くなかったんだねー」じゃあ帰れば?「って海浜総合じゃん。近いわけだ」
「それなー」やんわりと腕を払い、改札を抜けた。彼女も遅れて着いてくる。
駅の出口はひとつしかなく、彼女が先導してそちらへ動く。私の脚も乗り気でないらしい。
「歩いてどれくらい?」階段を下りながらこちらを振り返った。ピアスが光る。
「うーん、十分くらいかなー」もしかしたら辿り着かないかもね。
「えー! 遠くない!? 私絶対無理!」
「あはは、私ほら、太りやすいからさー」
「あー、ダイエット? 私体質なのか太らないんだよねー」
「それあるー、ほんと羨ましいもん」
「そお? かおりだってスタイルいいじゃん」
私の腰を指で突いてくる。くすぐったいというよりも、嫌悪や怒りの感情が沸き上がってきた。「ちょっとー、やめてよー」
「えーいいじゃーん!」
マジでやめろ。逃げるように自転車置き場に進んだ。乱雑に置かれたそれは進行を妨げる役割を存分に果たしてくれた。
「もーどこいくのー」彼女を見ると頬を膨らませている。
それ以上は進んでこない。服が汚れるのを嫌ってだろう。そういうところはちゃっかりしている。だから逃げ込んだのだが。
「だって、”遥”が追いかけて来るから…」嫌々ながらも、戻ることを考えた瞬間、言葉が詰まる。
耳にうめき声の様な音が入った。後ろからだ。
「どうしたのー?」遥が呼んでくる。聞こえなかったのか。
振り返って周りを見るが、誰もいなかった。
気のせいかと納得しかけ、視線を落とした時だった。再び呻き声、何かを吐くような声がした。植え込み近くに蹲る影がある。
やば、酔っ払いかも。そう思い離れようとしたが、自転車置き場の場所だけが気がかりだった。比企谷の自転車がそこにまだあった。
「かおりー!」後ろから甲高い声がした。「あ、うん! ごめんすぐ行くー!」彼女を見ないで返事をする。
そこからすぐ、踵を返そうとしたところで黒い影か少し動く。離れようとした私の瞳が、ある一点に釘付けになる。
アホ毛が、揺れた。
***
気持ちが悪い。何だこれ。
電車の扉に体重を預け、手で身体を支えていた。
電車酔いか? いやそんな経験ない。じゃあ病気か? 心臓病とか。しゃがみこみたい衝動をグッとこらえ、最寄り駅に辿り着くまで何とか耐えた。扉が開くといの一番に飛び出し、改札を潜った。口元を手で抑えながら階段を降りる。
「う…」限界だった。何とか自転車置き場の植え込みまで足を踏み出し、その裏の排水溝に向かって胃の内容物を勢いよく吐いた。
吐瀉物と言っていいのか分からない。まだ黄色いそれはドロリと逆流し、喉を這い上がってくるように身体を揺すった。吐き出しきれなかったそれが排水溝の横に垂れ、小さな塊になった。最後に食べたパンケーキを思い出す。パンケーキミックスに逆戻りだなと、くだらない事を考えたのがよくなかったのか、忘れかけた頃に再び胃を這い上がる。胃が苦しそうに収縮し、無理やり出そうと心臓のようにポンプの役割を買って出る。
「はあ…はあ…」
胃が空っぽになるとはこういう事かもしれない。植え込みに突いていた手には泥が付着していて、少し持ち上げるとぽろぽろと落ちる。払う気力はなかった。落ち着いてきたころ人の気配を感じ、首を巡らせるが誰もいない。それどころではなかった、周りの迷惑も顧みず自分の事しか考えられなかった。苦しい。
身体に負荷がかかっていたのだろう、体力が一気に奪われ、目を瞑れば眠ってしまいそうだった。いや、いっそ気絶した方が楽かもしれない。
今日という日の締めくくりが、なぜこうなったのか。そう考えると再び胃が握りつぶされる。「おえっ…」もう何も出ない。半透明の液体が口から涎のように垂れるだけだった。やばい。誰か。
声に気付いたのは、それが女性特有の甲高い声だったからかもしれない。「ごめんすぐ行くー!」耳が反応したのは、聞き覚えがあったからだろうか。助けを求めるあまり幻聴かとも考えた。
ただ足音が近づいてきたものだから、顔を上げざるを得なかった。もしかしたら俺の近くに自転車を停めているかもしれない。
「あ、あのー」やっぱりか。
植え込みのレンガに手を付き、身体を起こそうと力を込める。こんなに重かったかと驚くがそうは言ってられない。「…すみません、今どきます」辛うじて発声できただろうか。
「やっぱり! 比企谷! 大丈夫!?」
突然名前を呼ばれ、思わず目を剥く。しかし視界は霞み、誰なのか分からない。立ち上がり切れず、座ってしまった。
「ちょ、ほんとにどうしたの!?」女性の声がまだ耳元に響いていた。倒れそうな身体が華奢な腕に支えられている。「救急車呼ぶ!?」
人と言うのは意味の強い言葉に反応するのだろうか、救急車と言う単語に自然と口が動く。「いや…大丈夫だ…」
「でも!」
「大丈…夫」息が浅いのがよくわかった。体中に呼吸の音が響いていた。
何故か女性が隣に座ったことまでは覚えている。いつ意識を失ったのかは分からない。
季節が聞こえた気がした。
―――
気絶の定義はなんだろうか、一時的に意識を失うことを指すのなら、それは睡眠にも当てはまる。そういえば寝つきの良さと気絶に関係があるといった記事を見た覚えがあった。
意識の覚醒が緩い。そんな雰囲気を感じた。徐々に光が入ってくる。街灯の明かり。月の明かり。一つ一つ視界が認識し、判別し、ゆっくりと覚醒していく。そんな雰囲気。
「……がや、ひきがや」
声が降ってくる。音が空から降りて来る。アーティストがよく言う曲が下りてきたというのはこんな感じかもしれない。いや、違うだろうな。あれは経験則だ。何度も何度も頭の中で反芻した記録が、一瞬の覚醒で繋がるのだろう。点と点が繋がり、線を結ぶように。この空に広がる星座のように。
頬に響く刺激に気付いたのは視界が遮られたからだ。影が落ち、再び暗闇に飲み込まれたと一瞬勘違いをした。垂れるそれに、無我夢中で手を伸ばした。触れるか触れないかで、離れる。
「おーい、大丈夫ー?」
身体を揺られた。内臓が揺れるが、腹の中はすでに空っぽだった。意識が戻り始めると、寝心地の悪さに気付く。首にかかる負担が大きい。寝返りを打って手を突こうとしたが、皮膚の柔らかい感触に力が抜ける。「ちょ、痛いって比企谷」少し怒気を孕んだ声が降ってきた。
ようやく、夢でないことが分かった。身体を腹筋の力で持ち上げる。筋肉も使っていたのか、胃と共に悲鳴が洩れた。くらくらとする頭を手で押さえ、記憶を振り返る。
「大丈夫?」隣から声を掛けられた。振り返れば奴がいる。折本がいた。
「折本…」思考が追い付かない。「なんでここに…」
「なんでって」折本は呆れた声を出す。「比企谷が突然倒れたから付いてたんだよ」馬鹿じゃないのと言わんばかりの勢いだ。
付いていてくれたことは分かっていた。ただ折本の言葉は、なんでここにという俺の問いが求めていた回答ではなかった。
気分は大分良くなっていたが、活発に動けるほどではなかった。項垂れる形で視線を落とすと、ショートパンツから伸びる白い脚が見える。さらに眼を凝らすと、何かが乾いた跡が見えた。ハッと思い出し、自分の口元に触れる。同じように何かが乾いた跡がある。爪で弾くと少し剥がれた。
「おり…」どうしていいか分からず、とにかく声を出そうとするが、俺の行動をみた折本が先に動いた。「あー、比企谷気絶したみたいに寝てたもんねー」そう言うと、太ももの唾液の痕を爪で弾いた。
益々混乱した頭が働かず、思考が絡まる。意味が分からなかった。
「比企谷、立てそう?」折本の視線は確かに気遣っていた。
「あ、ああ」二、三度足踏みをしてから、力を込める。目の前にあった自分の自転車に手を添えることも忘れなかった。「大丈夫、すまん」
どうにか口から絞り出したのは謝罪だったが、折本は気にも留めずに一緒に立ち上がる。「歩けそう? 自転車はやめた方がいいと思うけど」チラと自転車を見た。
「そう…だな」今ならこの壺買いませんかと言われても「そうだな」と答える自信がある。
よくわからない夢気分に浸っている状況を、電車の過ぎる轟音にたたき起こされる。思わずビクついた、その音に続いて多くの乗客が改札機を通り、階段を降りる音がした。「あはは」折本が笑う。
「なんでビビってんの! ウケるんだけど」
「いや、ウケねえから…」本当にウケてる場合じゃない。今でも通り過ぎる人は植え込みに佇む俺たちに怪訝な視線を投げかけて来ていた。
「もー、比企谷が寝てる間大変だったんだからねー」折本が手をグーにして肩を殴ってくる。「知らない人から、どうしたんですか? とか、救急車呼びますか? とかめっちゃ言われたんだから!」
「お、おお。そう、だよな…」すまん、と続けたが届いたのかは分からない。
「とりあえず歩こっか」そう言うと折本が俺の脇に手を差し入れる。俺がギョッとして仰け反ると、「あれ、いらなかった?」と言い、離れた。
「ああ」身体の緊張が少し解ける。「一人で歩ける」
一瞬、記憶が掘り起こされた。それはとても眩しいものだったが、再びタイムカプセルを土に埋めるように、保存するようにしまった。
「よし、じゃあ行こう」快活に叫び、歩き出した。俺もそれに続く。
駅に設置されている柱時計を見ると八時半を示していた。一時間以上眠っていたらしい。こんこんと自分の頭を叩いた。
しばらく歩いて、折本が顔を覗き込んできた。「うん、大分顔色よくなってきたじゃん。寝てる時と起きた瞬間、唇の色ヤバかったんだけど」と笑う。
「そうだったのか、すまん」さっきから謝ってばかりだが、折本はそれを意図的に無視しているようにも思えた。
未だ足元は覚束ないが、少しずつ回復しているのは自分でも分かった。意識と身体の乖離が少なくなる度、折本への負い目が湧き水のように溢れる。
それからしばらく歩くと、以前別れた国道に突き当たった。折本は迷うことなく俺の帰路に足を向ける。
「ここまででも大丈夫…だが…」先を行く折本に向けて言う。しかし彼女は振り返らず、「ここで別れる方がおかしいでしょ」と一笑する。
黙って横に並ぶ、折本がゆっくりと口を開いた。「実はね、探してたの」
宙に彷徨わせていた視線が俺を捉える。すると折本は沈黙を受け取り、自嘲気味に笑う。
「友達がいたの知ってる? 比企谷が気を失う前」
「ああ、確か遠いところにいた気がするな」正直全く覚えていなかったが、とりあえず話を合わせる。そして周りを見渡してその友達がいないことを確認する。「邪魔してすまん」
頭を下げた俺に向ける折本の声は優しかった。
「ううん、逆。感謝してるんだよ。実はあんまり合う友達じゃなくて、私の家に泊まりに来たんだけど比企谷利用して追い返しちゃった」舌を出して笑う。その姿は可愛らしく、胸が跳ねる。比企谷八幡あざとい女の子に弱すぎ問題。
胃を逆流する気配があった。反射的に口元を手で押さえる。
「どうしたの?」折本が素早く反応して、鞄を漁る。「袋あるから、吐くならこれ使っていいよ」そう言って結ばれた袋をほどき始める。
「いや、大丈夫だ」首を振って制すが、折本はそれを無理やり俺の手に握りこませる。「…サンキュ」
折本が頭を振り、俺の様子を確認してから再び進み始めた。
「だから、ありがと」
「は?」
「助けてくれて」
「いやすまん意味が分からん」本当に分からず、頭を掻く。「礼を言うのはこっちの方だ。ありがとな、色々」
「あはは、いいよ」
それに続いて呟くように溢した「ーー助けられてるし」という台詞は聞き流した。これでおあいこだろう。
俺の家まで送った彼女は最後に自身の太ももを指で示してから、手を振って去っていった。
返す言葉もなく、すぐに謝罪の品を脳みそがリストアップし始める。
「高級なハムとかでいいか…」太ももの柔らかな感触が思考を埋め尽くしていた。
***
白飯を口に運ぼうと箸を持ち上げる。が、食べる気になれず手が止まった。
「はあ…」ため息が出る。
「無理しないでいいよ?」食卓の向かいに座る小町が俺を気遣う言葉を発する。
「すまん。せっかく作ってくれたのに」
「いいよいいよ、お兄ちゃん今日は学校休んだら?」
「……そうだな、そうするか」
箸を置き、窓の外を見る。カーテンの隙間から塀を跳ねる雀が見えた。一足も二足も先に食べ終えた小町が立ち上がる。「片付けちゃうね」
「すまん」昨日から謝り続きだ。「いーの」と小町が笑う。
カチャカチャと音を立てて皿を重ねる小町は既に制服姿で、スカートの裾がひらひらと揺れる。今更だけどあの学校スカート丈短くない?モラルやらTPOやら五月蠅い時代に我が道をゆく千葉マジまんじ。
蛇口を上げたのだろう、水の流れる音が聞こえてきた。いつもならば時間に余裕のある俺が洗い物を担当していたが、今日は甘えることにする。
「お兄ちゃん貧血じゃないのー?」皿をスポンジで擦りながら小町が少し声を張る。「立ってられなかったんでしょ」
少し思案する。が、人生で貧血になった記憶がなく、「分からん」と答える。
「唇が白くなって、力が入らないなんて貧血ドストライクだよ」
「なんだそのキャッチコピーみたいな言い方…」
折本との出来事は小町に話してある。というか、昨日帰宅したところを見られていた。昨晩は俺の身を案じた小町も、今朝は起きた途端に擦り寄ってきた。小町に隠し事をしていいことはない。まあ、言わないことは言わないが。
「とにもかくにも、その折本さんには感謝しなくちゃね。今度菓子折りでも買いに行こっか」
「ああ」ハムの事は飲み込んだ。
「あ」小町が急に振り返る。「お兄ちゃん昨日いろはさんからLINE来てたよ。見た?」
「そうなの?」
「そうなのって…、ちゃんと返信してきな」
湯飲みを手に持ち、温かいお茶を堪能していた俺を小町が責める。最近オカン体質になってきたなコイツ。と思いながら自室へと向かうことにした。
昨夜の記憶は曖昧だったが、どうやら充電器には挿さなかったらしい。携帯を持ち上げると画面が自動的に表示された。新規メッセージ12件。12件!?
驚いてスクロールするが、すべて一色からのものだった。ひとつに触れるとLINEの画面が立ち上がる。視界に入ったのは『ごめんなさい』の文字だった。
なんの事だと思いながらリビングに引き返す。トークの一つにURLがあったので何の気なしにタップする。少しのロード画面に続いて表示されたそれに、俺は目を見開いた。
『このツイートは削除されました』
Twitterの画面に削除という表示。心当たりがあるとすれば昨日のあれか。
人の影から向けられた嫌な視線。携帯の背面がこちらに向いていた。咄嗟に一色を隠したが、結果は消されて分からない。まあ、削除されたならいいか。
リビングのドアノブに手を掛けようとしたところで中から小町が飛び出して来る。お互いに仰け反る形になった。
「なんだった?」
「いや、特になにも」
「ふーん」小町は訝し気な視線を送ってくる。そのまま通り過ぎ、沓脱にあるローファーに足を入れた。小町の肩にはいつの間にか鞄が掛けられている。コンコンとつま先で地面を叩く背中に念の為声を掛けた。「今日俺が休んでること一色には内緒にしておいてくれ」
小町はくるりと回ってこちらを向く。「倒れたことは?」
「それもだ」即座に答える。
「心配かけたくないから?」
「まあ、そんなとこだ。今余計な情報はいらんだろ」
「余計かどうかはいろはさんが決めるんだけどなー」
「まあそうだが。頼む」
「仕方ないなー、今日はちゃんと休むんだよ?」
「ああ、さんきゅ」
小町は「行ってきます」と言い、扉を開けた。それを見送るとLINEを開き一色に返信をする。
胸やけが治まるのは、まだ先だった。
***
記憶を掘り起こし駅を歩く。暇つぶし機能付き目覚まし時計、最近はコイツも携帯らしい活躍をするようになった。その地図機能を使えば一瞬で分かるものも、駅に着くとその気も失せた。
十九時を過ぎた駅前には人がごった返していた。平日だというのに、いや平日だからこそか、そこかしこにスーツを着たサラリーマンが店を探しうろついている。皆同じような格好に身を包み、ささやかなパーツで個性を主張しようとしている。重なり合った歯車が色を変えるだけであるかのような、役割の変わらない仕事を繰り返しているように見えた。
駅を少し過ぎたところ、赤色の暖簾が見えた『お好み焼き もんじゃ よしえ』と書かれている。祭りのあと。俺の中では人生で一番の祭りがあった場所だった。そしてそこを指定したのは平塚先生だった。
周りを見渡すが、雪ノ下や由比ヶ浜の姿は見えない。平塚先生は遅れるとの連絡があった。予約は済ましているから先に入っていてくれとのことだ。それに従い暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませー!」入ってすぐ元気な、どこか勝気な声が響く。俺を見て近づいてきた。「何名様ですか?」
「あ、えっと四人なんですけど…」店員は俺の言葉を聞き終わらないうちに後ろを振り返る。
「あー、今予約のお客様で満席でして、少しお待ちいただく形になりますがよろしかったですか?」早口にまくしたてて来る。
「あ、いや、その予約で…」
「あ! 申し訳ございません! お名前伺ってもよろしいですか?」慌ただしい。まあ忙しい時間帯だからだろう。
でも八幡いらつかない! だって店員さんの頑張り知ってるから! アルバイトを始めてから店員さんに一層気を遣うようになる。それある!
「……平塚です」やだなんか照れる。
「平塚様ですねー。少々お待ちくださー、あ! はい確認取れましたのでご案内します。こちらへどうぞー!」
「四名様ごらいてーん!」と俺を案内する店員が言うと、店のあちこちから「いらっしゃーい!」と声がする。打てば響く、指導が行き渡ったいい店ですね! 因みに俺のバイト先にそんなルールはない。レジにやってくる客にだけ言っている。
通された席は四人が座れる掘りごたつだった。靴を脱いで上座の反対側に脚を入れる。
店員は案内するとすぐに下がった。それと入れ替わりで柱に人影が見えた。
「あ、ヒッキー!」
「こんにちは」
雪ノ下と由比ヶ浜が半個室状態の暖簾から覗くと声を上げた。
「おお、久しぶりだな」頬が緩む。
平塚先生へと空けておいた上座に由比ヶ浜がずんずんと進み、収まった。雪ノ下は一瞬の逡巡の後、由比ヶ浜の隣に座る。
「いやー、久しぶりで場所分かんなかったからさー。でも最近の携帯ってすごいよね! 自分の場所が出るの! なんだっけ…PHS?」
「Sしかあってねえ…」何となく、喉が渇いてもいないのに水を含んだ。
「GPSって言うのよ由比ヶ浜さん。グローバル・ポジショニング・システム。日本では全地球測位システムと呼ばれているわ」雪ノ下が優しい眼差しで諭す。
「地球!? 地球にいればどこでも分かるの?」
「でた、ゆきペディアさん」小さく呟くが雪ノ下は拾ったらしく、由比ヶ浜に向けていた温かさとは一変して刺すような氷点下の視線が飛んでくる。「その不愉快な呼び名はやめなさい」
ふええ…怖いよぉ…。俺が肩を竦める仕草をすると、由比ヶ浜が苦笑する。
「平塚先生もうすぐ着くって」携帯に視線を落とした由比ヶ浜が俺たちに言った。
「そう、なら注文はそれからでいいかしら」
雪ノ下は気遣わし気に俺に視線を向けてくる。その仕草は変わらず、頬が緩むのを抑えた。「ああ、そうだな」
平塚先生が到着するまでのんびりしていようかと体勢を崩そうとしたところで、思わぬところから矢が飛んできた。「ヒッキー、女の子のこと守ってたね」
「……え」由比ヶ浜に視線を向ける。少し怪訝な顔をしている。
「そうね、比企谷君にしてはよくやったと言うべきかもしれないけれど」雪ノ下も続く。
「え、なんで」思考が追い付かず彼女らを交互に見やった。
「ツイッターで回ってきたの、今は消されてるけど」
「私は知らなかったのだけれど、由比ヶ浜さんから送られてきたのを見たわ。あれはあなたよね」
褒められているのか責められているのか分からない感情で、困る。しかし動画のことは見ていないので正直に答えることにした。
「ああ、多分俺だと…思う。一色に送られたのを開いた時には消されてたから正確には知らんが…」
「やっぱりいろはちゃんだったんだ」
「やっぱり一色さんだったのね」
二人の声が重なる。室温が軽く下がった気がした。
「あ、ああ。ほら、受験だし、息抜きにな…」聞かれてもいないのに言い訳がましく言葉が喉を通る。
問わず語りに、彼女らの視線は冷たくなる。居心地の悪さを感じ一度トイレに立とうかと思ったところで由比ヶ浜の表情がパっと明るくなる。
「ヒッキー偉い!」目尻が下がっていた。「まあ、やり方は褒められないけど、それでもヒッキーはヒッキーだもんね!」
見れば、雪ノ下の表情も氷が解けたように柔らかくなっている。
「やめろよ…」見透かされていたのかと分かり、気恥ずかしさに身を捩る。
「勘違いしないで頂戴、やり方を誉めているわけじゃないから」
水を掛けるように雪ノ下が口を挟んだ。これは彼女らなりの称賛で、警鐘なのだろう。
「ああ」答えるだけで、精いっぱいだった。
再び水を含もうとしたところで、頭上から声が降ってくる。
「そろそろいいかね」
驚いて顔を上げると、微笑を称えた平塚先生が暖簾の隙間から顔を出していた。
二時間経たない頃だろうか、それなりの盛り上がりを見せた食事も終わり、店を出た。会計は平塚先生が持つという。おっとこまえぇ!
居所なさげに店の前で待つ。
「平塚先生,新しい学校でも上手くいってるみたいでよかったね!」
雪ノ下の腕に絡みつく由比ヶ浜が笑う。雪ノ下も満更ではなさそうだ。しばらく会っていなかったからだろう、お互い甘えている様子が所々で見受けられた。
「そうね、まあ、人柄じゃないかしら」
「そういや平塚先生の事嫌ってる生徒なんていなかったな」
「あなたの狭いコミュニティでは信頼に値するデータ量はなさそうだけれど」雪ノ下が口元に手を添え、笑う。「でも、確かに聞いたことはなかったわね」
「お前のパーソナルスペースも大概だけどな」
「あら、スペースは有り余っているのに誰も入ってこない人に言われたくはないけれど。私の場合はちゃんと選んでいるから」雪ノ下はそう言い、ちらりと隣を見た。
それを受け取り、由比ヶ浜は幼児のようにはしゃぐ。
「えへへ、ゆきのん大好き!」一層深く抱き着いた。
「ちょ、ちょっと…」雪ノ下は恥ずかしそうに頬を染める。
うわー、今なら糖分の過剰摂取で流石の俺でもマッ缶吐きそうだ。隣を見るといつの間にか出てきていた平塚先生と目が合う。俺と同じような表情をしていた。
「ゲフン、さあ駅まで送っていこう」キリッと気を引き締めた先生が駅の方向を見つめた。
それを合図に四人の足並みが揃う。
駅まではそう遠くなく、迷わず歩けば数分で着いた。
「まだ九時は回っていないが、気をつけて帰るんだぞ」先生が先生らしい事を言ったので、思わずニヤつく。
「はーい!」由比ヶ浜の元気は底なしだ。
「先生も身体に気を付けて」雪ノ下さんそれは年齢の事考えてないよね? ね?
「お、おお、ありがとう」不穏な空気を察知してか先生の言葉も濁る。
由比ヶ浜と雪ノ下が足を踏み出し、駅の入口へと進んでいく。数歩歩いた所で何かを察知したのか、こちらを振り返った。俺の足は動いていない。
「ヒッキー?」
「悪い、ちょっと用がある」そう言い平塚先生を横目に見るが、予想通りといった様子で車のキーを鳴らした。
雪ノ下が理解するのが早いか、平塚先生に向き直る。「では先生、比企谷君の事、よろしくお願いします」
「ああ、まかせろ。たっぷりしごいてやる」先生が不敵に笑った。危険な空気を感じ取り日を改めようかと考えた瞬間肩を掴まれる。終わった……。
雪ノ下がなにやら由比ヶ浜に囁き、二人は満足そうな顔で改札に向かっていった。それを見送り、肩から手が離れる。
「さあ、行こうか」
踵を返した平塚先生がカツカツとコンクリートを鳴らす。駅の裏側へと向かっていた。確かそこには何ヵ所かコインパーキングがあったはずだ。
振り返りもしないその姿勢に、やはり敵わないなと苦笑した。
―――
気持ちのいい音を立て、車が滑る。車高の低いスポーツタイプのそれは走るというより、道路を低空飛行している気分だった。赤いボディは月夜に輝いている。
運転免許を取得してから、さらに先生の技術が分かる。いつかのクリスマスイベントの際、眠気に誘われたのも無理はないなと思い出した。安定した速度で走るそれは、再び眠りへと誘い始める。
「そういえば、免許を取ったそうじゃないか」それを察知してか、話題を放り込んできた。
まどろみの中、ボールをスルーしたい気持ちもあったが、受け止め、投げ返す。
「ええ、まあなんとか」
「なんだその自信なさそうな言い方は」先生はけらけらと笑う。
「いやほら、まだ取ったばかりですし。先週ですよ、先週」
「私なんか取ったその日に走りまくったぞ」
「そういうとこなんじゃ…」また一つ、要因を見つけてしまい思わず呟く。
「何か言ったかね」
「いえなにも」
「運転中じゃなければなあ」そう言い、拳を二、三度握りこむ仕草をした。
「運転中で良かったです。本当に」
「久しくないか。どうかね、そろそろ一発」
「先生下ネタがきついでグハッ!」
脇腹に拳が刺さる。運転中だって言ったのにこの人…。超いてえ…。ただ、どこか懐かしさすら感じるもので、少しの高揚があった。八幡目覚めてないよね? 大丈夫だよね?
「着いたぞ」
小気味よくブレーキ音がして、車体が制止した。手際よくハンドブレーキを引いてドアの鍵が開錠された。いつの間にかハザードが焚かれている。
外に出て車体に扉を叩きつける。心地よい夜風が髪を揺らし、夏が息を引きとる気配を感じた。左ハンドルの車から降りた俺は道路側にいる為、素早く歩道へと回り込む。潮風が鼻孔を責め立てた。
美浜大橋。いつか同じ状況で連れてこられた覚えがある。流石に夜景の見えるスポットでも二回目は萎えますよ? というか女性に連れられてる時点で萎えるも何もない。
平塚先生の横まで行くと、缶コーヒーを手渡してきた。温かい。前回の反省を生かしたのか投げるような真似はしなかった。
「あ、ありがとうございます」ぎこちない手つきでプルタブを持ち上げ、礼も言う。
いつの間にか煙草に火を着けていて、煙を一息で吐き出す。こちらは風上で流れて来ることはない。近頃アイコスとやらが流行っているが、先生はこちらの方が似合っている。身体の事を考えると良くないのだろうが。
「君の話から聞こう」そう言い、筒を口に運ぶ。
俺も助走をつけるように、苦い液体を口に含んだ。「じゃあ、単刀直入に」
葉山の事、大学での依頼、そして現在調べている事件について、なるべく簡潔に話した。手繰るように纏めてもやはり推測の域を出ない。
平塚先生が聞き終えるころ、煙草は微かな灯を残すばかりで、どこからか取り出した携帯灰皿に擦り付けた。
「ダメ教師もいるもんだ」
そう言い遠くを見つめる瞳には、一色に漏らした教師の虚像が映っているのだろう。
「それで、その事件の真相が知りたいんです」一歩詰め寄る。
「私はその時総武校にいないが?」
「それは、もう勘の域ですよ。卒業式で先生は学校に顔を出していた。教師の事は知りませんけど、生徒指導をやっていた先生なら問題があったことぐらいは知っているんじゃないかと」
そう、これは論理的ではない。高校とのつながりが消えた今、俺に残されているのは平塚先生だけだ。学校がもみ消した問題なら、いくら一色とてそれ以上は踏み込めまい。
「知らないな」先生は持っていた缶を車の上に置いた。予想範囲内の答えに落胆はなかったが肩は落ちる。「と言ったらどうするつもりなんだね」
「……それはもう、厳しそうですかね」正直、そうだ。
「ふむ、確かに学校側がもみ消した事実となればそうそう表には出てこないだろう」ただ、と続ける。「ただ、口は堅く、既に学外の人間となっている者と、その時から所属していて尚且つ女生徒に軽く情報を漏らした人間、どちらが疑われるかは明白だな」と先生は口角を上げた。
思わず笑ってしまう。この人も大概だ。
「最近独り身が長くてなあ、独り言が多いんだ。許してくれるか?」自嘲気味に、しかし凛とした瞳で見つめて来る。
「ええ、いくらでも」俺は肩を竦めた。
「それは助かる」そう言うと煙草を取り出し火を着ける。「私も直接見た訳じゃない、ただ、聞いた話によれば手を上げたのは葉山だ」
「っ……」自分でも息をのむのが分かった。
「手を上げられた女子生徒、言うなれば被害者の名前は”遥”」
「はるか……」
聞き覚えがあるような、無いような名前だった。
「偶然にも君の学年に遥という女子生徒は一人だ。調べれば分かるだろう」そこで一度瞑目した。「葉山はその女生徒を殴った。はたいたという表現の方が正しいか。それを教師が目撃してな、当たり前だが問題になった」
事件があった。という一色の調査は正しかった。平塚先生は続ける。
「なんにせよ葉山だ。学年一の秀才で、弁護士の息子。教師は事態の収束を図った。その場だけで済ませようとしたんだな。ただ手際が悪かった。目撃した教師と言うのが大分ヒステリックな状態だったらしく、職員室は荒れたそうだ」
「そこで」俺が呟くと、平塚先生は首を振る。「洩れてはいなかった。ばたばたしていたが、事態の終息には至った。つもりだった。もちろん緘口令は敷かれたが、その遥という女子生徒がリークしたんだ。葉山の弁護士事務所に」
俺は頭の中で整理しつつ、話を促す。「それはもう、無理ですよね」
「ああ、葉山の親は動いた。自分の息子が暴行まがいの事をしたんだ。ここからは大人の事情になるから割愛させてもらうが、葉山の進学は取り消しだ。指定校で決まっていた国公立は辞退。大学側にもその事件は広まってな、なにしろ葉山弁護士の息子だ。どこでも欲しい駒が爆弾を抱えていたらどうなる」
「まあ、置いておきたくはないでしょうね」
葉山の表情がフラッシュバックした。俺に大学進学の事を聞いてきたとき、彼は『俺の親、弁護士なんだけど、ここの修了生でさ。俺もここに通うことになってたんだ』と言い、裏口じゃないからなとまで付け加えた。あれは後ろめたさからだったのだろうか。
「葉山の両親はなんとか自分が修めた大学に入れたらしい。まあ、コネだな」やっぱり。「そして、葉山の両親は雪ノ下家の顧問弁護士をおりた」
「は?」
「知らなかったか?」
「いや、知らないというか、それなら雪ノ下達が知らないはずが…」そこまで言いかけて、雪ノ下母の冷たい表情を思い出す。「……なかったことに」あのモンスターなら、徳のない人間を排除するなど造作もないのかもしれない。
「それに関しては私も知らないが、君から訊いてみたらどうかね」
「そうですね…」と言いながら、先に浮かんだのは陽乃さんの顔だった。
「大変だったらしいぞ。なにしろいっぺんに物事が動きすぎた。あの状況では流石の葉山も身動きが取れないんじゃないか」
周りに迷惑をかける。当時の自分を取り巻く環境の変化を、彼は今でも危惧しているのかもしれない。自分を信じてくれた教師、そして親を裏切り、一人の女子生徒に狂わされた時間を。
もう迷惑は掛けられない。そう言った。戸部達を避けているのであれば、この大学で親しい人間を作ることに障害は無いはずなのだ。それでも人とのかかわりを断ち切った理由。
自分自身に爆弾がついているから。
ただ、そこまで恐れることなのだろうか、とも思う。葉山に関わる学校、そして親に響くことは未成年では当たり前だ。しかしそれが一友人にまで至るだろうか。ただのクラスメイトにまで毒は回るのだろうか。
「これが全貌だ」平塚先生は顔をしかめた。「ただ、妙な噂がある」
「噂…ですか」
「ああ、ヒステリック気味な教師がいたと言っただろう。その教師が暴行を加えた人間は二人いると口走っていたらしい、ただ葉山が自分が殴ったと認めていたのと、その教師には精神病の診断が下っていた事を考慮して、その発言は虚偽だと判断されたそうだ」
「そう…ですか」
ふたり。
「これにて私の独り言は終わりだ。見苦しいものを見せたな」平塚先生はそう言いながらもどこか涼し気な顔をしていた。
「いえ、助かりました」深くなりすぎない程度に、頭を下げる。
「私は…、無力な自分が嫌だったのかもしれない」しかし、再び顔を上げた頃にはその表情に影が差していた。「教え子の危機に、何もできなかった」
「それは仕方がない事じゃ…」
「割り切れればよかったんだが、どうにもな…」
微苦笑を称え、平塚先生は目を伏せた。
生徒など数えきれないほど相手にしているのに、一人一人に向き合っている。依怙贔屓をすると言っていたが、それは他の生徒をないがしろにするという意味ではない。確かに俺たち奉仕部には特別な感情をもって接してくれていたが、他の生徒にも信頼され、それに応えていたのは良く知っている。
「いや、なんでもない。ただの独り言だ。忘れてくれ」一際明るい声を出し、平塚先生は車のドアを開けた。「少し移動しよう、さっきパトカーが通り過ぎた。多分もう一度見回りに来る」
「……分かりました」
道路に車が来ないことを確認して素早く回り込む。扉を閉めるとシートベルトに手を掛けた。
「運転してみるかね」
「は? いやいや、無理ですよこんな車」とんでもないこと言うなこの人。
「ははは、まあその気になったら言いたまえ」
平塚先生は俺から視線を外し、フロントガラスを見つめた。はるか先の虚空を見つめる様子は、回顧しているようにも思えた。もしこの車がバックトゥザフューチャーよろしく過去に飛べるのであれば、彼女は迷わずアクセルを踏み込むのだろう。
そんなことを考えていたから、平塚先生がカーステレオに手を伸ばしたのを見て驚く。ぽちぽちと操作すると、甘い声が流れてきた。歌詞が英語なのは分かった。
「嫌いかね」
「いえ、嫌いじゃないですよ」好きとは言えない。そういう風にできている。
男性ボーカルの歌声はメロディに乗り、車が唸ると二重奏となった。美声は音と共に滑り、やがて一つになる。彼が歌になる。そんな錯覚がした。
「では、私の話を聞いてもらおう。と言っても君に関しての事だが」
平塚先生が、ハンドルを強く握り込んだように見えた。
オレンジの街灯に照らされた白線は、燃えたぎる道標となる。
前に進めば過去に戻ると、そんな焦がれにも似た思いを抱き、二人進んでいく。
いっそ燃え尽きてしまえばいいのに。
***
そして、葉山隼人は―――
「ごめん、優美子」
痛いほどに唇を噛んだ。このまま噛み千切ってしまえば、贖罪になるだろうか。握った拳で爪が食い込み、暖かいものが広がる気配がする。
去っていく後姿に、もう一度「すまない」と呟いた。
まだ、俺は彼女を清算できていない。そんな状態で一緒になることなど、俺にはできない。
そんな欺瞞に満ちた言い訳を、未だ言っている。
崩壊した日常を取り繕う程の布は存在しなかった。滑りをよくする潤滑油など、今はもうただ流れ落ちるだけだ。ただただ、掌から零れ落ちていくだけだ。
自分の感情を清算するために、優美子を泣かせたことは後悔している。
きっと、きっとと繋ぎ止めた本物は、あっけないガラクタへと変貌した。場所を提供されただけの、紛い物へと堕落を認めた。認めてしまった。
「気持ち悪っ、マジ最悪なんだけど。あんなの騙される方が悪いんじゃん」
職員室を後にし、扉を閉める直前だった。気付いた時には戸部の腕が伸びていた。襟元を握りこんでいる。
いいな、と思った。嫌いじゃない、戸部のそういうとこ。
ただ、出入り口と俺で挟むようにして行われたその劇場の先、いてはいけない人物がいた。生物かなにかの先生だったか、ここ最近休みがちで常に目が泳いでいた記憶がある。
咄嗟に思い出したのは、顧問に小突かれている戸部の様子だった。「トラブルなんか起こすんじゃないぞ」と言われて笑顔で返事をしていた。
戸部は気付いていない。襟を掴んだ腕とは反対の腕を振り上げようとしていた。
遥の眼は驚きに見開いている。
「きゃーーーーーーーー!」
既に教師の悲鳴はこだました。職員室に集まるは問題を生徒ごと潰す大人たちだ。教師ではない。自分に降りかかる災難を振り払おうとする。醜い大人たちだ。
上げた手が彼女に向かう瞬間。二人の間に右半身を差し込み、そのまま伸ばした右腕で首もとを狙う。虚を突かれた戸部は手を離し、実質バトントスのように彼女を預けてくれた。
あとは派手にやるだけだ。
その後の事はよく覚えていない。女性教諭は唇の右端を自分の歯で切った彼女を取り囲み、暴れてもいない俺を体育教師をはじめとした男性教諭は捕まえにかかる。職員室内に飛んでいくように掌で殴ったそれは、衝撃に顔を青ざめさせ視線は宙を泳いでいた。
「なにやってんだ!」耳元で叫ぶ教師、そんな声出さなくても聞こえてるって。
掴まれた腕を振り払う。俺も案外潔癖だ。
少し離れた位置に立つ戸部に、離れるように顎で示す。
ああ見えて賢い。あとの立ち回りは任せていいだろう。
天井には蛍光灯が点滅していた。チカチカと音を立てて明滅を繰り返す。風前の灯のように、消えては燈り、燈りは消える、を繰り返す。その光景だけは強く覚えている。
やがて消える間隔が延び、二度と俺を照らすことはなかった。
読んでくださってありがとうございます。
次回も多分10月になります。
あまり楽しい話ではなかったですが、どうでしたか…。
また頑張って書くので、よろしければ待っていていただけると嬉しいです。
感想、意見、アドバイスなんでもお待ちしております。