八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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10月最後になります。

拙い文章になりますが、読んでいただけると嬉しいです。

感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。

ごめんなさい小一時間悩んだのですが、あらすじが書けません…。
どこを抽出すればいいのか、そもそもあらすじって毎話用意するものなのか、調べましたがよく分かりませんでした…。すみません。
あらすじなしでも楽しんでいただけるか分かりませんが、読んでもらえると嬉しいです…。



10月③

 

 

 平塚静は間違える。

 

 バンっと破裂音に近い音を立て、ドアが閉められた。メーカー特有の細長い窓を覗くと、かつての教え子、比企谷八幡が頭を軽く下げたところだった。身体の横に見える表札には『比企谷』の文字。

 軽く手を上げてから、ギアを掴む。

 アクセルを徐々に踏み込んでいき、法定速度に達したところでバックミラーに目を向ける。先ほどまで停車していた家の前、闇夜に紛れる比企谷がこちらに手を伸ばし助けを求めているような仕草をする。驚いて一度瞬きをすると、比企谷の姿は消えていた。

 ブレーキに移動させた足をアクセルに戻し、フロントガラスに視線を戻す。住宅街を抜けた先の交差点、信号は赤色を煌々と光らせていた。

「思ったより重症かもしれないな」彼の状態を思い出し、独りごちる。

 

 陽乃に相談を受けて臨んだ今日。比企谷の気持ちを確認することを目的として呼び出した。彼の出した答えは褒められたものではないが、彼なりの答え、考えはちゃんとあるらしい。しかし、彼は潔癖すぎる。

 青白くなった彼の口元がフラッシュバックした。あれはただの車酔いではない、気がした。

 人の恋愛観に口出しするつもりはないが、私は正しいのだろうか。彼に対して偉そうに人生を語り、偏った視点に固執する思考を解きほぐしてきた。ただ、私が彼に答えを与えたことはあっただろうか。正解を教えることは教育ではない。教え、育てることこそが教育である。私の手を離れてしまって何が教育だと誰かが言うかもしれないが、私はいつまでも比企谷の”先生”だ。

 選択肢の多さ、価値観の多様さを教えてきたつもりだ。もちろん雪ノ下にも。その先は本人次第だと、そう促してきた。それが良い形であろうと悪い形であろうと、選んだ未来を尊重するつもりだった。数ある選択肢を見つめ、考え尽くし、それで出した答えならば”本物”だと。

『いつか許せるときがくると思うぞ』と言ったのは自分だ。社会を生き、否が応でも流されることで、次第に飲み下すことができるようになると。

 彼が、彼自身を許せなかったらどうする。

 いつだって一人で生きてきた。そんな人間が周りと関わるようになり、いつしか業を背負う所などいくつも見てきた。

 彼なら大丈夫。彼は違う。いつからそう思っていた。

 私は陽乃に相談されて盛り上がっていたのではないか。いつかいつかと、信じ待ち続けた哀しい教え子を導けることに酔っていたのではないか。

 何か、見落としていたのではないか。

 

 甲高い、トランペットのようなクラクションで身を固くする。信号は青色に変わっていた。すぐにブレーキを離しアクセルを踏む。ハンドルを握る手に力を込めた。

 ちらとバックミラーを確認するが、クラクションを鳴らした車は左折していった。ほっと息を吐く。

 

 大きな過ちを犯したのではないか。

 そんな不安だけが胸を覆い尽くし、暗幕を下ろそうとしてくる。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 騒がしい空間に足を踏み入れる。ロッカーを乱暴に開ける音や、大きな話し声、喧騒という言葉そのままの更衣室は居心地が悪く。そさくさと着替える。早く出ようとロッカーの扉を閉める直前、画面を上にして置いておいた携帯が光った。差出人は<一色いろは>。

 内容を確認してすぐに戻す。返信は後に回してとりあえずグラウンドの土を踏んだ。後ろを振り返ると葉山が歩いてくるところだった。数人の女子の相手をしているが、愛想は少ない。俺を見つけると女子に手を合わせこちらに駆けてきた。

「おはよう」葉山が笑う。

 戸部の話をしていた時に見せた険しい表情はどこ吹く風。秋風のような爽やかさだった。それがまた、俺の不機嫌を煽る。

「ああ」ぶっきらぼうに答え、フェンスを背にして腰を下ろした。靴ひもを結ぶ。

 葉山はチラリと周りを窺い俺の横に座る。胸中の靄が濃くなる。

 アプローチの方法をあれこれ考えていたが、葉山の姿を見るとどうでもよくなってしまった。手榴弾を溢すような気持ちで打ち出す。

「殴ったんだって?」葉山の手が止まった。「遥って奴を」

 こちらを向いた葉山の視線は怒りや当惑といった感情が読み取れる。しかし、どれも何故という表題に隠されていた。

「な…」葉山の口がパクパクと動く。声は出ない。

「心配すんな、情報が流れたわけじゃない。数少ない知ってる人から教えてもらっただけだ。その人も情報を漏らす気はないし、もちろん俺にもない」一色が狙った教師が一瞬頭をよぎった。

 俺の言葉を聞くと警戒の泡がはじけたのか、安堵の色が見える。

「そうか」再び靴紐に手をかけた。「聞いたか」

 しかし葉山はそれ以上言う事はないと判断し、言葉を切る。はっきりとしない態度に俺はまた煮え湯飲まされた気分になった。どんなお門違いだろうと、そんな気分が湧いてきた。

「なんで避けるんだ。暴力沙汰なんて共犯でもない限り、影響なんて及ばないだろ」少し早口になった。

 共犯と言う言葉が咄嗟に出たのは、平塚先生のセリフからだろう。

「……もう、迷惑は掛けられないんだ」一瞬、逡巡が見えたが、葉山は同じ言葉を繰り返す。

「だから、その迷惑がかかるような関係じゃないって言ってんだ」俺は何を焦っているのだろうか。「親や教師ならともかく、ただのクラスメイトに何がある」現に、と続ける。「現に俺とこうして過ごしてるだろ」

 葉山の口から乾いた笑いが洩れた。

「はは、それでも迷惑は掛けられないんだ。聞いたんだろう? 俺がこの大学に来た理由も」上目遣いでこちらを窺う。それに首肯で答えると葉山はため息をついた。「弁護士っていうのは大変らしくてね。実績もそうだけどそれ以上に信頼がものをいうんだ。俺の犯した罪の所為で、多くの場面で責任を取らされた。何度も何度も頭を下げていたよ」

 自嘲気味に言ってはいるが、そこに親を馬鹿にするような感情が微塵もないことは受け取れた。ただ、泳いだままの視線が何かに怯えている。そんな雰囲気を醸し出していた。

「でも、もう終わったんだろ」確認するように、もしかしたら念を押すように言った。

「ああ、終わったさ」葉山は遠くを見つめる。薄くかかった雲の隙間に、希望を見つけ出そうと目を細める。「関係がね」

「関係…?」いつの間にか立っていた体育教師が集合の声を上げる。葉山は立ち上がり、俺はその背中を追った。「お前は…、お前は何に怯えているんだ」

 葉山の足がピタッと止まる。ゆっくり振り返ると、口を動かした。

「そうだ、俺は怖いんだ。自分の汚点を晒されるのが。だから知っている人間を近くに置きたくない。これじゃダメか?」声が苛つきを伴って届く。

 そんな、嘘を嘘だと隠さない言い方を、彼はする。

 お前もか、と思う。

 葉山は俺に背を向ける。

 その日、彼が声を発することはなかった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 コール音が一回なったところで、電波がつながる気配が分かった。『は、はい』相手が出る。

「一色か」体育終わりの大学を歩きながら電話を掛けていた。もう総武校の授業は終わっている時間だ。

『はい! あれでよかったですか?」一色の声はおっかなびっくりに発せられた。

「ああ、大丈夫だ。さんきゅーな」一色に頼んでいたのは、遥という女子生徒の進学先の調査だった。できる限りの事は調べておこうと動いた。「どうやって調べたんだ?」

『ちょっと生徒会に提案をしまして』

「提案?」

『はい、私まだ生徒会に顔きくので、従順な部下もいますし』

 一色のあざとい顔と、それに振り回されるかわ…川なんとかさんの弟、川崎大志の顔が浮かんだ。たしか副会長をやっていたはずだ。

『〈OB・OGの声〉っていう企画を提案したんですよ。大学進学した先輩にアポをとって、どうやって勉強しましたかーとか、どんな気分転換しましたかーっていうインタビューをするんです。それを学校の掲示板とかプリントにまとめて受験生を応援しよう! という』

「おお…それを受験生が提案するのね…」

『せんぱいが発端なんですけど』一色の声が低くなる。怖い。

「そうだよな、すまん…」

『あ、いや、全然いいんですけど…。とにかく! それで名簿を見せてもらって、その遥って人の行った大学を調べたんです』

「すげえな」ほんと、有能だ。雪ノ下が褒めるのも頷ける。

『そんなことないです…』一色の声が沈んだ。動画の事を未だ気にしているのだろう。『せんぱい…』

「なんだ」

『あの、ごめんなさい…』

「はあ…」頭を掻く。いつの間にかベンチに座っていた。「いいって言ってるだろ、何度も言わせんな」

『でも…』

「ほら、俺今大学にいるけど誰も見てねえぞ」

『それは先輩の影が薄いからじゃ…』

「そうそう、だから気にすんな。なんも起きてないから」

『はい…すみません…』

 再び謝られ、さらに一言小言でもと思ったが、何の気なしに上げた視線がぶつかる。戸部がいた。「すまん、切る」

『え?』

「調べてくれてサンキューな」

 赤く表示されたボタンをタップしながら立ち上がる。戸部が俺に背を向けたのが分かった。肩に鞄を掛け、踏み出したところで視界がぶれる。戸部が,揺れる。

 力が入らなかった。膝がなくなった気がした。実際にはそんなことはないのだが、痛みが走る。膝をついていた。地面が近い。手を突く。まただ。

「うっ…」頭が痛い。

 戸部の掛け声が聞こえた。また吐き気がする。ただ、この間よりはマシだった。

「ヒキタニ君! 大丈夫!?」

 耳元で声がする。今は縋るしかなかった。

「はあっ…、すまん…。トイレ…」

 体育会系は慣れているのか、言葉を察してすぐに動いた。脇に手を入れ身体を持ち上げる。俺は膝の存在を意識するように力を込めた。ほとんど引き摺るように、歩く。幸い近くにトイレはあり、そこに向かうようだ。戸部は邪魔だったのか、背負っていたはずのリュックをベンチに置いて来ていた。こういう所か、と思った。

 空いていた個室で、胃の中身を吐ききった。

 

 

―――

 

 

 戸部に連れられた場所は、教務課がある棟だった。そこに救護室があるそうだ。

「っべー、ヒキタニ君辛くない?」俺を支える形で進む。

「超つらい」

「っべー、もう少しだから!」励ますように声を上げる。

 無機質な棟内で、そこだけがパステルカラーの色合いだった。見るのも、もちろん使うのも初めてだ。踏み入れると保健室と同じような造りで、違うのはポスターの内容くらいだった。中学高校はインフルや怪我の情報が多かったが、大学は妊娠やカウンセリングといった文字が目に入る。

 養護教諭といっていいのか、白衣の女性が迎え入れた。

「あら、どうしたの?」言いながら、椅子を用意し始める。しかし俺の姿を上から下まで見るや、ベッドへと促した。

「なんか体調不良みたいで…」戸部が先に口を開く。

 ベッドに腰掛けると状態の説明をした。座るのが辛かったら横になっていいと言われ、甘えることにした。

「ー―貧血だね」俺のシャツを直しながら、断言する。「立ち上がった時にふらついたんでしょ?」

「そうです!」何故か戸部が叫び、俺と白衣の女性は顔を見合わせた。

「ふふ、お友達?」

 何の気なしに聞いてきたのだろうが、会話が止まる。そうだとも、そうでないとも答えられたからだろうか。なんにせよ俺が言う事ではなかった。

 シャツのボタンを閉めていると、時計が目に入る。今日は木曜日だ。

「……あの、すみません、バイト先に電話してもいいですか」

「ええ、いいわよ」白衣の女性はなにやら紙に記入しながら了承してくれた。

 ポケットから携帯を取り出し、横になったまま電話を掛けていると、見知らぬ学生が戸部と俺の荷物を届けに救護室に来た。耳に携帯を当てながらその様子を見つめる。戸部が応対し、笑顔で礼を言っていた。

「…はい。…はい、すみません。ありがとうございます」

 電話口に出たのは社員で、休みをもらった。来いと言われても無理そうだったので助かった。

「じゃあ、体調良くなるまで休んでていいから」そう言い残し、白衣の女性は部屋の奥に消える。

 高校の保健室の様に何個もベッドがあるわけではなく、ひとつしかないそれに俺が、横に置かれた椅子に戸部が残された。気まずい沈黙が流れるが、俺にも礼儀はある。

「すまん、助かった」身体を起こし、頭を下げる。

「ちょっ、いいっていいって横になって!」慌てた様子で俺の肩を押し、そのまま倒された。枕で頭が跳ねる。「っべー、ヒキタニ君貧血持ちだったっけ」

 戸部の視線は気遣い、労わったものだった。気恥ずかしくなり目を逸らす。

「いや、そんなことないはずなんだが…」

「っべー、まあでも、部活やってた時も突然倒れる奴いたし、大丈夫大丈夫!」

「何が大丈夫なんだそれ…」

 戸部は俺を元気づけようとしたのか、過去の話をし始めた。

「夏場とかやっぱりヤバくて! あいつ水分あんまり取ってないなーって見てたらふらふらし始めんの!」嬉々として話しながらも、俺に気を付けた方がいいと警告をしてくれているようだった。「一度に二人倒れた時はもうやっべー! って感じだったから!」

「それは大変だったな」

 戸部の話に相槌を打ちながら、その光景を頭に思い浮かべてみる。サッカー部の練習で中心となる葉山と、元気よく走る戸部。倒れたチームメイトを助けるために動く二人。

 気分が晴れ、胃の中身を吐ききった今だからか、思考が冴えた。頭が回った。戸部を見る。「……おまえ、いたのか」

「……?」戸部は首をひねる。

「葉山が殴った時」

 戸部の眼が、見開かれた。

 

 葉山は口を滑らせた。『自分の汚点を晒されるのが。だから知っている人間を近くに置きたくない』知っている人間。それは殴った当人。殴られた被害者。教師。親。それだけだ。情報を規制した。遥という女子生徒のリークも委員側にだけで留まった。彼女が再び喋り出す恐れもある。しかし現時点でその状況にはない。ならば…。

 

「三浦と海老名さんは知らない」俺が目を見ると戸部の肩がビクついた。「あいつらはフラれたのを原因だと思ってる。でも葉山は別の理由で避けてると言った」

「っべー…ヒキタニ君…何言ってんの…?」目が泳ぎ、語尾が震えている。

「そこにいたんだろ、戸部」

 戸部は黙って俯いた。

「何があったんだ。何をしたんだ」懇願するよう、叫ぶ。「なあ、戸部」

 二人だけの世界で、俺の声だけが響いていた。

 

 

 

***

 

 

 

 

 改札を抜け円形に造られたロータリーを見渡す。目当ての車は存在せず、手持無沙汰に自販機へと近づく。小銭を入れ、ボタンを押すとマッ缶が落ちてきた。

 再びロータリーに首を巡らせながらプルタブに指をかける。しかしうまくいかず、指先に痛みだけが蓄積されていった。爪をひっかけても剥がれそうなるだけだ。

「はぁ……」

 開かないマッ缶をだらりと下げ、空を見上げる。身体の調子は戻ったが座り込みたい気分だった。ベンチを見つけ、ロータリーに背を向けて腰を落ち着ける。再びプルタブと格闘を始める。

 

 戸部の依頼の全容は把握した。

 本質に変わりはなかった。葉山へ謝罪がしたい。最初からそれだけだった。もちろん関係の再構築も望んでいる。しかしそれが無理なことは戸部自身が一番よく分かっていた。

 推薦入学に必要な条件は無事に卒業すること。それを戸部は守れなかった、はずだった。教師が見ている前で手を上げようとした戸部を抑え、わざと注目を集めるように騒ぎを起こした葉山。自分を庇った葉山は問題行動として教師間で丁重に扱われたものの、弁護士である親がそれを見過ごす訳もなく。葉山の処遇は決まった。

 すべて、戸部の横を並走するよう、でも交わらぬよう行われたことだった。

 自分を庇ってくれた葉山を何度も助けようとした。しかし、それではすべてが水の泡になってしまう。葉山が守ろうとしたものを台無しにしてしまう。戸部は身動きが取れなかった。

 やがて高校生活は終わり、ついに葉山と交わることはなかったそうだ。自己嫌悪に陥り、一時は大学進学を辞退することまで考えたという。だがその度に喜んでくれた両親や先生、そして人生に傷を残した葉山の顔が浮かんでしまい、ズルズルとここまで来てしまった。

 大学に入学して驚いただろう。もう一生交わってはいけない相手が目の前に現れたのだ。思わず話しかけ、そして拒絶された。

「もしあの女が過去を暴露した時、俺と戸部の関係はない方がいい」

 それは唯一、葉山と戸部、遥という歪な三角形が生み出したパンドラの箱だった。

 行く当てのない暗闇に取り残された戸部は思わず頼ってしまったという。そう、俺に。比企谷八幡に。

 どうしようもない。どうすることもできないと分かっているのに依頼をしてしまった。葉山と戸部の、身体と感情が乖離したような行動はそれが原因だろう。

 葉山は危惧しているのだ。常に戸部の身を案じ、行動してきた。

 話し終えた戸部は俺に頭を下げ、救護室を出ていった。

 それは依頼の終了を意味しているのだろう。

 比企谷八幡の延長戦は、終わった。

 

「終わった、のか…」ぬるく湿る空気に、そっと吐き出した。

 自分が縋っていたものが、ハリボテだと分かり倒れそうになる。葉山が求めた理想郷には、三浦と海老名さん、そして戸部がいるのだろう。大岡は問題外だったが、大和の方もダメだった。元々その程度だったということだ。

 救えない。活動ができない。依頼を達成できない。

 俺の価値が、無い。

「くそっ……!」

 立ち上がり自販機横のごみ箱に向かって、飲み切った缶を投げる。ライナー気味の軌道を描きそれは届く。並んだゴミ箱の空き缶入れに弾かれ、燃えるゴミの方に入った。甲高い音が響き、視界の端で女性が離れていくのが見えた。

 追い求めていた本物は、蜃気楼のように消えてなくなった。

 手を伸ばしていたそれは、誰も望まない。誰も望めない。一縷の希望も存在しえない、四方を壁に阻まれた箱だった。あの教室のように、誰も踏み入れることのできない。もう、手に入らない。

 知らず、冷たいものが頬を伝った。一瞬雨が降り始めたのかと思ったが、空を見上げても星空が広がるだけだ。

「はは……」どうしようもなくなると、人は笑うのだろうか。いや、そんなことはない。多分、嗤っているのだ。それにしか縋れず、なくなった途端に折れる自分を。

 崩れ落ちるように、ベンチに座る。振動でまた一筋、涙が頬を流れ落ちる。

 有限だと分かっていたのにそれを選ばず、仮初の永遠に身を置いた自分を。

 選ばないことを選ばせ、仮初の永遠に閉じ込めた彼女らを。

 そして、例え過去に戻ったとしても選べない今の自分を。

 流せるのなら、涙で流して終わらせてくれ。

 

 醜くすすり泣いていたから、背後に車が止まるのに気付かなかったのだろう。

 隠そうと顔を覆っていたから、伸びてきた手に気付かなかったのだろう。

 背中に体温を感じる。身体に手を回された。

 多分。

 恐らく。

 自惚れかもしれない。

 勘違いかもしれない。

 ただ一人。

 愛してくれている。

 雪ノ下陽乃が、いた。

「よしよし」後ろから抱き締め、頭を撫でられる。

 恥ずかしく、服の袖で目元を拭う。止まらない涙を何度も拭う。鼻水を啜り、顔を隠す。

「すみま…せん…」呼吸が下手になる。

「大丈夫、大丈夫」何度も何度も髪を撫でられ、指で梳かれる。「おいで」

 手を引かれ、白い外車に乗せられた。

「シートベルトだけはしてね?」陽乃さんは優しい音色で囁く。俺の動きを確認してギアを入れる。チラと見るとマニュアル車であることが分かった。

 変速に伴う振動も感じさせず、しなやかさを見せて車は走る。

 涙を拭った汚い手は自分の鞄を漁るのも躊躇するほどだというのに、彼女はそれを握り込む。抱き締めるように、包み込む。

 行き先を見失った暗闇で、それだけが光だった。

 心に安堵が広がり、意識が遠のくのが分かった。今だけは、今だけは、と誰に言い訳するでもなく眠りについた。

 

 

―――

 

 

 目を開けた時には暗闇だった。何度か瞬きをして瞳孔が調節するのを促す。徐々に光を集めると剥き出しの鉄骨が視界に入った。

 横で何かが動く気配がありそちらへ首を動かす。座席の下に腕を伸ばし、シートを下げる陽乃さんがいた。目が合う。

「あ、おはよう。比企谷君」

 目尻を下げ、口角を上げる仕草はいつもと変わらず、今の俺には安心感をもたらした。肩の力が抜けていくのが分かる。

「おはよう…ございます」覚醒に向けて姿勢を直す。見慣れない布が身体にかかっていた。「あ、すみません」それを持ち上げると、カーディガンであることが分かった。

「ううん、寒くなかった?」俺からそれを受け取ると、そのまま袖を通す。

「ええ、大丈夫です」

 眠る前を思い出し頬に手を当てるが、涙の流れた後はなかった。不思議がっていると陽乃さんが口を開く。

「母に確認したわ」俺がメールをした件だろう。結局雪ノ下にはまだ送っていない。「そしたら『葉山なんて知らないわ』なんて言うの」

 絶対零度の冷血モンスター。雪ノ下と陽乃さんの母親なだけある。と思ったが意外にも陽乃さんの顔は晴れやかだった。「流石よね」

「さすが?」

「ええ、母の顔は一片の曇りもなかった。やるべきことをした顔だったわ。葉山家にとって何が最善なのかを判断したんでしょうね」

 俺は陽乃さんの言っている意味が分からず、首を傾げる。陽乃さんはこちらを一瞥すると俺の頭に手を伸ばした。優しく、撫でる。

「雪ノ下家だもの、お抱え弁護士なんていくらでも守れるわ。圧力かけて仕事回して、信頼を回復する手助けは造作もない。でも、そうはしない」

「……葉山家の為にならないから?」子供のように扱われるが、不思議と嫌な気分ではない。素直に言葉が出てきた。

「そう、今助けたら葉山という名前にずっと雪ノ下家という枷が付きまとうことになるわ。未来に向けて様々な障害を生んでしまう」彼女は微笑んだまま続ける。「それに、これぐらいの試練であれば葉山家に任せておけばいずれ戻ってくると確信した顔だったわ」

 流石、雪ノ下と陽乃さんの母親なだけある。とまた思ってしまった。底知れぬ懐の深さは母親譲りか。

「そうですか…」ポンポンと頭を数回叩かれ、手は離れた。

「うん、黙っていたことは腹が立ったけどね」陽乃さんは困ったように笑う。

「問題がなければ、良かったです」

 それに、もう俺にはどうでもよかった。依頼主もいない。首を突っ込む道理も意味もない。価値なんて、どこにもない。

 心が拗ねているのか、自然と俯く。気付いたら唇を噛んでいた。

「ありがとう」耳に届く。顔を上げると、陽乃さんが抱き締めてくる。「ありがとう、探してくれて」

 喉仏が抑えられ、少し苦しい。

 苦しいから、涙が出たのだと思う。

「ぐ…うっ…」

 堪えても、洩れる。

 彼女も依頼主だった。俺に助けを求め、こうして抱き締めてくれた。認めてくれた。

 自己肯定が追い付かなかった。

 背中に回された手が、トントンと優しく叩く。繰り返し、繰り返し、優しく叩く。

 自分の手が陽乃さんの服を握りしめているのに気付いたのは、離れる直前だった。

 

 朦朧とする意識の中、子供みたいに手を引かれ、連れられる。車を降りてすぐに自動ドアをくぐった。目の前には大きなパネルがあり、沢山の部屋番号と簡単な写真が載っている。

 陽乃さんは淀みない動作で指を動かし、上の方に表示された部屋を押した。

 出てきたルームカードを慣れた手つきで取り出すと、俺をエレベーターへと引っ張る。覚束ない足元を気遣い、ゆっくりと動く。

 繋いだ手は離れない。マンションのような扉の前、電気が点滅している。なすがままに身を委ねていると、背後で扉が閉まった。

 口を塞がれた。眼前には長い睫毛が焦点を外して映る。ぼやけたそれに恐れを抱き、彼女の背中に手を回す。確かに存在する身体に、緊張が解けた。

「…っはぁ」唇が離れる。

 陽乃さんは優しく頬笑むと、片手で器用にパンプスを脱いだ。それに続きつんのめるように靴を脱ぐ。

 広い空間へと手を引かれながら振り返ると、靴が絡まるように転がっていた。

 意識はあるのに、半分眠っているような雰囲気に頭がくらくらする。泳ぎ続けるイルカはこんな気分なのだろうか。

 陽乃さんに促され、ベッドに腰掛ける。救護室のベッドと全然違うな、なんて考えていると肩に手を置かれる。そのまま体重をかけられ、倒された。天井には無駄に煌めく電飾がぶら下がっている。

 影がかかる。

 彼女の顔だった。耳元に揺れるそれが赤い警告色に見えてきた。赤く、赫く、引き返せと鳴らす。

 生の色だと思った。赤は生だ。流れる命は、赤色をしている。三浦の気持ちが少し分かったかもしれない。

「んっ……」また、塞がれた。陽乃さんの吐息が鼓膜から脳を反芻する。体重がかかり、彼女がいつの間にか俺に跨っていることに気付く。「ん…口、あけて」妖しい囁きに、従う。

 生き物が侵入してくる。

 思考が溶ける。彼女の赤い情熱に、溶ける。俺の口内を犯す。熱く熱く、爛れるような深いキスを続ける。

 時間を忘れるとはこのことだろうか、何秒何分、もしかしたら何十分かもしれない。このまま一緒に溶けてしまいそうな頃、口が離れた。舌が痙攣している。

 陽乃さんが身体を起こした。気付いた時には一部分に血液が流れていて、痛いくらいに主張している。ジーンズのチャックを壊そうともがいているようだ。その膨らみに手が添えられた。

 視線を持ち上げると、陽乃さんの嬉しそうな顔がある。恍惚という表現がぴったりの、意識が軽くトリップしているようにも見えた。

「…苦しいよね、ごめんね」そう言い、彼女はチャックに指をかける。

 いつかの様な吐き気も、意識が急降下するような感覚もなかった。堕ちている。堕ちて、いる。

 今、堕ちていることが分かる。夢であることを認識した時の様な感覚がある。ただ、夢と同じよう、抗うことはできない。分かっていても、抵抗する術はない。用意された道筋を辿るだけ。ストーリーテラーが展開する物語を成立させる為に、生きている。

 この場所の語り手は、目の前の彼女だ。今にも咥えようとしている。彼女だ。

 瞼を、閉じる。

 

 きっと、向日葵が枯れようともこの夏の事は忘れない。残暑の記憶は、身体と心に焼き付いた。心臓の奥。俺だけがいける世界で、彼女は立っている。

 ピントがぼやけるからなんて、見守っていては捕まえることはできない。

 笑って泣いて、すべてを曝け出して、それが”本物”となる。

 

「――好きですよ、陽乃さん」

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 城廻めぐりは振り返る。

 

「あちゃー」

 幼児向け絵本の置かれた玩具コーナー。電話やお店屋さん、電車ごっこなど種類は多く、見本を置いているものも多い。

 先ほど小さい子の楽しそうな声がしていたが、このおもちゃで遊んでいたのだろう。乱雑に散らかり、プラスチックの破片が転がっていた。他の子が手を切るといけなので、手早く集めた。破片の主である見本は回収し、破損と書いたメモ用紙を張り付ける。バックヤードの返本棚に置いておいた。

 チラリと設置されたデジタル時計に目を向ける。10月31日。ハロウィンだ。今頃イベントができそうな広場にはコスプレお化けの大行列だろう。ケガする人とかいないといいけど。

 そういえばさっきアニメのキャラクターの格好をしたお客さんがいた。白い身体に所々紫色の装飾があった。全身タイツはコスプレに入るのか。曖昧なラインはよくわからない。

 再び売り場に戻る。無事だった見本を元の位置に戻し、商品整理を再開した。時間も遅く、子供の姿は見当たらない為、アンパンマンの映像を電源ごと切った。アナログ時代から使っているテレビはプツンと音を鳴らし、眠る。自動ドアの開く気配がした。いらっしゃいませは、言わない。

 チラリと見ると、ひとりの警察官がいた。いや、コスプレ? じゃらじゃらと付けた装飾や白いヘルメットは本物のようだ。でも警察官は二人一組で行動するって聞いたことあるしニセモノかな。レジを担当している男の先輩も、戸惑った表情をしている。助け舟を出そうか迷ったが、やめた。

 

 商品棚を綺麗にしつつ店を一周する頃には警察官は姿を消していた。レジに戻り、閉店準備をしようとしたところで先輩に声を掛けられる。「ねえ、さっきの見た?」

「何のことですか?」しらばっくれる。大分上手になった方だ。

「警官警官」先輩の声は少し興奮していた。

「警察ですか?」

「そうそう、さっき来てさ」と言い、チラリと自動ドアを示す。「一瞬コスプレかと思ったけど、本物だった」本物という言葉にギクリとしたが、続く言葉に動けなくる。「最近不審者情報が寄せられてるらしくて、警戒を強化しますだって」

 取り出した鍵を落とした。

「あ」ゆっくりと、拾う。先輩は特に気にしていないようだ。

「紛らわしいよなー、ハロウィンに来られても困るって」

 困るのは警察官の方だろう、とは言わなかった。

「…カギ閉めてきます」

「おねがいしまーす」先輩の気の抜けた声に、普通は気にしないのかと少し気を緩める。

 店外にあるトイレへ向かい、多目的トイレから覗く。人はおらず、鍵をかけた。女子トイレも同じように鍵をかける。男子トイレに足を向けたところで、ゾッとして後ろを向いた。しかし何かあるわけでもなく、店内から漏れ出た光が筋となって伸びているだけだった。

「…はあ」安堵のため息をついたところで、そういえば比企谷君と閉店作業する時はトイレの鍵閉めたことなかったなと思う。暗闇で危ないからだろうか。

 急に扉が開き、仰け反る。

「うおっ」男性が出てきた。

「あ、す、すみません!」通路を開け身体を縮こまらせる。早くどこか行ってくれと願う。

 男性客はこちらを見ると、上から下まで身体を舐めるように視線を動かしてから去っていった。鳥肌が立つのが分かる。両腕で身体を抱きかかえるように、震えを押さえる。

「大丈夫、大丈夫」自分に言い聞かせるよう、呟く。

 嫌な臭いに顔をしかめながら、鍵を閉めた。

 白い光を放つ店内に戻ると、ほっと息を吐く。

 そういえば最近比企谷君の様子がおかしいな。振り返り、閉まり始める自動ドアを見つめる。上の空なのは今迄もあったことだが、なんだか様子がおかしい。具体的には言えないが、おかしい。

 扉が、閉まる。

 

 ――私は、あまり好きじゃない。

 

 

 

 




 読んでくださってありがとうございます。
 次は11月になる、はずです。

 意見、感想、アドバイスなんでもお待ちしております。
 では、また。


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