八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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こんにちは、お久しぶりです。
多分まだ11月ですかね。
タイトルは響きだけ意識した適当なものなので気にしないでください。

沢山の感想ありがとうございます。
つまらなかったり、こんなの嫌だという方もいらっしゃったと思いますが、これを読んで尚楽しみにしていてくれる方の存在がとても嬉しいです。

また読んでくださることが一番嬉しいです。
お手すきの際にどうぞ。


signs of resonance

 

 

 

 比企谷八幡は実像と乖離する。

 

「ーー”ハルカ”ごめん!」

 意識が飛ぶ直前。季節が耳元に残ったのを覚えている。暖かな夢を見た。それは折本の包み込むような太腿だけでなく、最後に聞いた”ハル”という単語が原因だろう。

 折本と食事をしている時にそれは核心に変わった。彼女の大学名、そして交友関係。何より俺が口を出さずとも彼女の口からハルカという女の愚痴が垂れ流されていた。

 相当な確執があるのか、俺のナイフが皿まで断ち切ろうかという程にそれを聞かされた。壊れた蛇口のようにダラダラと流れ続けるそれを、聞く。相槌もそこそこに、それを聞く。それだけでいいのだ。それだけが正解なのだ。

 同調し、共感し、同情の言葉を掛ける。相手が気持ちよくなる為だけに発する。そしてそれは時に効果を発揮する。特にそれを繰り返してきた、目の前のベッドに横たわる彼女のような人種に。

 鬱陶しいピロートークを済ませると彼女は眠った。折本かおりは最後まで共感を求めた。喉だけで愛を囁くと彼女は満足そうに瞳を閉じた。

 布団をゆっくりと捲ると彼女の身体が曝け出される。いつの間にか下着を身に付けていたが、大した影響はないだろう。モノよりも、事実が大切なのだ。

 どうか使わせないでくれと願いながら、携帯のシャッターを切った。

 

 深夜二時、折本は俺の横を歩きながらしきりに、「信じらんない…」と呟いている。それを無視して駅を目指す。駅裏はホテル街になっているために、十分も歩けば着くだろう。

「比企谷とするなんて…」折本は頭を抱える。

「いつまで言ってんだ」少し歩き辛そうな彼女の姿を横目に確認し、「大丈夫か?」と声を掛ける。

「あ、うん…。大丈夫…」彼女がそう言ったので視線を戻したが、でも、と続けたので耳を傾ける。「ちょっと腕貸して…」

 彼女にしてはしおらしく、俺の袖を摘むと上目遣いでこちらを覗き込む。いや、俺は彼女の事を知らない。これが男といるときの素なのかもしれない。ふつふつと何かが湧いてくるのが分かった。ただこれは怒りや嫉妬などという甘いものではなく、ただただ純粋なる嫌悪。彼女の摘む袖から、今日彼女に向けた俺の言葉全てが嫌忌となって襲い掛かってくる。

「…好きにしろ」

 そう言うと満足そうに頷き俺の腕をとった。そこからじわじわと何かが侵入してきて、俺の中の白い何かを黒く染め始める錯覚がした。唾を飲み込みそれに耐える。今の比企谷八幡は虚像だと、視界に垂れる白い頭髪に囁く。

 彼女は共感に弱い。それも理由ある共感に。理由もなく意味もなく、そして自分もない。そんな彼女が欲しがったものは真の共感だ。彼女に心の底から共感している。ただ人間として彼女という人間に同調する。それだけでよかった。だから。

 だから俺は自分を殺した。

「これだ」俺はコインパーキングの隅に置かれた乗用車を指さす。親父が買った5年ローンの大衆車だ。

「へえ、これ比企谷の車?」

「んなわけないだろ」

 助手席側に回りドアを開ける。腕にくっついた折本を促し車に乗せた。

 運転席に乗り込むとすぐにシートベルトをし、折本を一瞥してからギアを入れる。一瞬、一色の事が思い浮かんだがアクセルと一緒に掻き消す。

「比企谷免許持ってたんだ」折本が言った。「運転上手いじゃん」

「初心者だけどな」

「いやいや上手い上手い」

 彼女は歯を見せ、手を叩いて笑った。それを無視してハンドルを握りこむ。限界に近い自分の感情と身体を鼓舞して目を瞬かせる。

 しばらく走り、家の近くだというコンビニの駐車場に車を停めるとサイドブレーキを引いた。

「ありがと」

 折本の顔は正面の光源に照らされてもなお赤みがかっていた。何を思ったか顔を近づけて来る為、俺はわざとらしく眼鏡を外す。唇が触れた。

「なに、そういう趣味でも?」コンビニ内で立ち読みしている客を視線で示す。

「ばか! そんなんじゃないって!」折本は顔を更に赤くするとバッグを持ち直し、ドアの取っ手に手を掛けた。首だけでこちらを向く。「ねえ、これで終わりじゃないよね…?」

 折本の眼は食事の時より潤っていて、俺の芯がグラつく。見えない位置で拳を握ると、その手を伸ばして彼女の頭を撫でた。それを同意、または得意の共感と受け取ったのか照れ臭そうに頷くと、ドアを開けた。

 車内を覗き込むシャツの胸元は開いていて、ベッドで乱れる姿がフラッシュバックした。嬌声を恥ずかしがる吐息が耳に反響し、彼女に手を振りながら身体の一部分が熱をもつのが分かった。

 

 歩き去るのを見送ってからコンビニのトイレに駆け込み、あるだけの内容物を吐いた。これまでで一番酷い吐き気と頭痛を覚えながら、硬くなったままのそれを意識して顔を歪めた。

 口や鼻、目から液体が流れ、苦痛で何が何だか分からなくなった。

 自分を律するものを思い出しながら、何度も何度も嗚咽を繰り返す。

 家に着いた時には空が白み始めていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「いいんですか? 店長」

 城廻めぐりは事務所の椅子に座るこの書店の店長に訊く。その男はパソコンを開いて作業をしていた手を止め、ゆっくりとこちらを振り返る。

「なにがだい?」

 優し気な瞳で首を傾げるその仕草は若々しく、それでいて頼もしい雰囲気を持ち合わせる不思議な人だった。昨年の事件の時も頼りになった。城廻めぐりにとって恩人と言える人だった。

「比企谷君の事です」私は言う。「あんな髪色、一応華美な頭髪の色は禁止してましたよね」

 その訴えはもっともだと言わんばかりに頷く。しかし返ってきた答えは意外なものだった。「まあ、いいんじゃないか? 少しの間だそうだし」

「え、そうなんですか?」

 初耳だった。しかし比企谷君が金髪に染めて以来、あまり話していないのも事実だった。

「うん、なんか劇団で必要らしくて、二ヶ月くらいって言ってたよ」

「げ、劇団…?」思わず繰り返してしまう。それを不審に思ったのか、店長が首を傾げた。「あ、いえ、そういえばそんなこと言ってました」何とか笑う。「髪染める事もあるとは知りませんでしたけど」

「確かにねー、カツラとかじゃないんだって聞いたら演出の人がうるさくてって笑ってたよ」

「あー、確かに違和感あるかもしれないですね。でも最近のはよくできてるみたいですよ?」

「そうなの? 僕も着けてみようかな」僕と呼称するところも嫌いじゃない。店長はわざとらしく頭を撫でた。

「あはは、まだ必要ないですよ。大丈夫です」思わず笑ってしまう。

 こういった軽口を言えるところも素敵な大人だと思う。触れてはいけないことはあるが、本人がその壁を壊してくるとこちらも気が緩む。

「それに」店長は優しく微笑む。「城廻さんが薦めた子だしね、変なことは何もないって分かってるから」

 そう言ってくれることは嬉しかったが、ちくりと胸が痛むのが分かった。

 おそらく劇団と言うのは嘘だ。十中八九、彼は嘘を付いている。ただ、彼が無駄な嘘を付くとはどうにも思えない。彼の周りには問題が付いて回り、いつも奔走していた。

 つまり、今現在比企谷君には何かが起こっているという事だ。

 感じが変わった。風貌が変わった。それだけで一瞬でも距離を取ってしまった自分がイヤになる。恥ずかしくなる。

 もうすぐ彼が出勤してくる。

 今日は話そう。沢山話そう。

 そう、決めた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 耳を澄ませると、玄関の扉が閉まる音がした。材木座義輝の母親が出かけた事を意味する。

 材木座はまとめたノートを見つめ、携帯を取り出した。電話を掛ける先はもちろん比企谷八幡の元だ。素早く操作し、通話ボタンをタップする。LINEの知り合いかも? に比企谷八幡と出てきたが、彼が何も言ってこないのだから追加するのは失礼だろう。べ、別にコミュ障じゃないし!

『よう』少しくぐもった声が聞こえてきた。

「むふう、八幡よ。調査の結果が出たのだが、知りたいか?」

 言い方がうざいからいい、とでも言ってくるかと半分期待、半分心配の感情を抱いたが、それは杞憂に終わった。

『ああ、頼む』

 少し寂しさを感じていると、カチャカチャと何かを用意する音がした。慌てて付け加える。

「けぷこんけぷこん、すまぬ、今から資料を送る」

『今からかよ』

「だ、だって連絡していいか分からなかったんだもん!」

『はいはい、早く送れ』

「冷たいぞ八幡! 鈍感系主人公か!」

 材木座はふしゅうと息を吐きながら、まとめたデータを八幡のメールアドレスに添付する。不毛だが意味のあるやり取りに少し安堵するのに気付いた。やがてカチカチとマウスをクリックする音が聞こえ始めた。ファイルが届いたのだろう。

『一応説明聞いていいか』

「ふむ、よかろう」

 比企谷八幡の依頼。それはハルカという女子学生について調べることだった。できる限りの調査。なにも探偵の真似事をしろという頼みではないことは材木座も理解していた。これだけネットが普及した時代、SNSを通して情報は手に入る。無論、ハルカと言う女子の情報管理意識が杜撰であることが前提になるが、過去を遡り、ネットの海を渡り歩けばそれなりの情報は手に入った。

 出身小学校、中学校、高校。誕生日、おおよその身長。交友関係。好きな男性のタイプ。嫌いな同性のこと。彼女の周りに集まる人物が少しづつ情報を垂れ流してくれる。もちろん本人も。

「八幡の言う通り、折本かおりという女子も友人らしいな」材木座はパソコンの画面に広がる遥と折本のツイッターを見つめて言う。「写真がよく上がってる。キャピキャピ鬱陶しい。チイッ!」

 自分でも自然と舌打ちが出たが、それを聞いてか八幡が口を開いた。『…すまん』

「ふ、ふん! 八幡が謝ることではなかろう! こいつらがっ、こいつらがっ」

 状態がよくないのか、八幡からはいつもの覇気が感じられない。ただ材木座はこの四月から十月までに彼を知らなかった。特に連絡も取らず、生きてるのか死んでるのかすら知らなかった。それでもどこかで繋がっていると感じ、電話がかかってきた時も久しぶりという感慨よりも、何の用かという感情が先行した。

『他にはどうだ』

 八幡が先を促した為、一度咳払いをしてから材木座は資料に視線を落とした。

「ふむ、恋人がいる。同じ大学の学生だ」

『みたいだな』彼も同じ資料を見ているのだろう。話が早い。

「プロフィールはそこに書いてあるとおりだが、一枚捲ってみよ」材木座の声に、紙を捲る音が聞こえてきた。「裏アカを見つけた」

『まじか』

「ふんっ、造作もないわ」嘘だ。偶々見つけただけだった。それでも成果だ。材木座は胸を張る。「しかしまあ、アイドル関係のアカウントと言うだけだろうが、彼女に隠していることは分かった」

『いや、何でもいい。助かる』

「ふ、ふむ。まあこれくらい朝飯前よ」

『これで大体全部か』

「大まかな概要はこれで制覇したと言ってよかろう」

『で、今は何してんだ?』

「いい質問だ八幡よ。今は秦野と相模に指示してアカウントを作ってもらっている」

『アカウント…』

 電波を隔てた先にいる相棒はそれだけで考えを看破したのか、なるほどと呟いた。

「数種類用意している。まあ、どれもが実用的とは言えないが、意識高い系、自己啓発系、株扱ってる系大学生などを用意するつもりだ」

『それ何がどう違うんだ…』

 材木座は八幡の小言に少し浮き立つ。携帯を確認する指が軽くなった。

「げふん、秦野と相模の報告もまずまずだから、あと一週間もあればコンタクト取れるくらいにはできてると思う。いや、我の手下は有能だ。間に合わせるだろう」

『頼もしいな、助かる』

「だが一つ、あるアカウントが難しくてなあ。ネットのモデル写真を使い続けるのも無理がある…」

『写真があればいいのか?』

 八幡の食いつきが早く、材木座は言葉に詰まるが何とか返事をした。

「へ、えあああ、まあそうだ」

『そうか…、とりあえずさんきゅーな。またなんかあったら教えてくれ』

「ちょちょちょはちま…」

 制止も聞かず、スピーカーはプープーと間抜けな、そしてどこか寂し気な音を鳴らし始めた。

 また彼の事を聞けなかった。

 材木座は部屋で一人、肩を落とした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 海老名姫菜は青髪の姉妹を見送ると逆方向のホームに滑り込んだ電車に乗り込んだ。窓から見える海岸にはこの寒さだというのに制服姿の学生が走り回っていて、思わず目を細める。

 カーブに差し掛かり視界から外れるまで、沈んでいく太陽を目に焼き付けていた。眩しい過去と照らし合わせようとして、ふっ、と笑みが漏れる。今はもうその必要はないのだ。

 携帯が震えた。

 鞄から取り出し、画面を確認すると由比ヶ浜からのLINEだった。『もう着いたよー』と書かれている。それによく分からないスタンプを返すと、電車の進行方向を見つめる。ガタンゴトンと、この車輪のように歯のない人間だったらどんなに楽だったろうか。

 どんなにつまらなかっただろうか。

 

「お邪魔しまーす!」

 海老名姫菜は由比ヶ浜に続き部屋に足を踏み入れる。相変わらず物が氾濫した廊下は三浦の意向でそのままにしている。ゆっくり片付けたいそうだ。黒光りする虫が出るのは嫌だという由比ヶ浜の願いで、キッチン周りや食品関係だけは清潔に保たれている。

「いらっしゃい」

 奥の部屋から聞こえてきた優美子の声は沈んでいる。いつもの事だ。未だに私や結衣が離れていくことを恐れている節がある。それも数時間一緒にいるだけで解消されるが。

「はろはろー」海老名姫菜はベッドに腰掛けていた三浦に手を振る。

「は…い、いらっしゃい」

 三浦は一瞬手を上げかけたが、慌てて引っ込めた。こういうところも可愛いなと海老名姫菜は感じる。相変わらずの長袖だが、もうすぐそれも違和感のない季節に入る。もじもじと袖を弄る彼女はまだよそよそしい。

「優美子見て!」由比ヶ浜が手から下げたスーパーの袋を見せる。「鍋やるよ! 鍋!」

「え、早くない…?」

 優美子は先刻私がスーパーで見せた反応と同じものを見せる。一字一句同じ反応に結衣は顔をしかめた。「姫菜と同じこと言う!」

「そりゃそうだよー、だってまだ11月だよー」海老名姫菜は三浦の肩を持つように隣に腰掛ける。「ねえ、優美子」と顔を覗き込んだ。

「う、うん。あ、でも鍋も食べたい…かも」

 三浦は由比ヶ浜劣勢の状況にすら怯え、しどろもどろに声を出した。海老名姫菜はおどおどと顔を動かす姿を見て意地悪しすぎたかなと反省した。

「ほらほら! やっぱり食べたいんじゃん!」由比ヶ浜がはしゃぎ、容量の小さい冷蔵庫に向かう。「腕によりをかけるから待ってて!」

 由比ヶ浜の発言にベッドに腰掛ける二人の肩がビクつく。二人同時に声を発していた。

「結衣は触らない方がいいんじゃ…」

「あ、あーしやるよ…?」

 海老名姫菜と三浦は同じ未来を危惧し、思わず顔を見合わせる。「あははは」堪えきれない笑いが両者の口から溢れる。そこには時間も空間も超越した何かがある気がした。それすら乗り越えられる、そんな気がした。

 由比ヶ浜だけがポカンと口を開けていた。

 

「もう食べれないよー!」

 由比ヶ浜がお腹をさすり、仰向けに倒れた。熱いからと脱いだ薄手のニットは彼女の顔の近くに丁寧に畳まれている。面白みのないキャミソール姿のお腹は確かに膨らんでいた。露わになった脇を見て、海老名姫菜の衝動は抑えられなかった。

「結衣…無防備だよ…」そーっと手を伸ばし、解放する。「こちょこちょこちょー!」

「ちょ、や、あははは! ひなっ、ひなやめ、あはははは!」由比ヶ浜は転がり、悶えている。

「ふふ…」三浦も笑った。

 季節外れの鍋に顔を赤らめていた三浦の口から笑みが漏れ、それを鼓膜に認めた海老名姫菜はギアを上げた。

「ほらほらー! そんな格好してる結衣が悪いんだよー!」

「あははは! ごめんっ、ごめんなさあはははは!」

 ひとしきりくすぐると満足を覚え、由比ヶ浜を開放した。ぜえぜえと涙目で息を切らす彼女は色香を残し、海老名姫菜の何かを更に掻き立てたが彼女はそれを堪える。逸らした視線の先に携帯が光っているのが見えた。

 海老名姫菜は手を伸ばしそれを手に取った。メッセージの内容は見えない設定になっている為、画面には『新規メッセ―ジを受信しました』と表示されている。念のため見えないようにロックを外すと自動的にLINEの画面が立ち上がる。

『頼みがある』

 トークルームの名前を見ずとも誰からのメッセージか察し、由比ヶ浜から見えないように気を遣った。続きの内容はない。その短い響きが逆に質量を増やす。

「どうしたの?」結衣がこちらを窺う。

「ううん、なんでもないよ」海老名姫菜はそう言って笑った。

 彼には大きな借りがある。もしかしたら人生を捧げても足りないくらいの大きな借りが。だがそれは今ここで分かるものではない。いつか時が流れ、この時間が記憶でなくなった瞬間に感じるのだろう。だからそれに似合うお返しをしなければならない。私に与えてくれたものと同じくらいのものを。

 結衣にすらできないものが私にできるとは到底思えないが。

 海老名姫菜は息が整ってきたお団子少女を見つめる。大切なものほど無くなってからその大きさに気付くという。彼女がそれだ。いるだけで場が整う。そんな存在は彼女以外に見たことがない。

 依頼の内容は何も聞いていない。しかし、海老名姫菜の答えは決まっていた。

『いいよ』

 画面を伏せて携帯を置き、机の上のグラスに手を伸ばした。転がったままの由比ヶ浜をもう一度見つめた。

 ちょっといってくるね。

 海老名姫菜は声にならない声で呟き、優しく微笑んだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「じゃあ、俺は体育館で作業してるんで、もし一色先輩が先に帰るときは鍵閉めて職員室に返しちゃってください」

 そう言い、川崎大志は持ってきた鍵をドアに差し込む。今日は生徒会のない日だが、無理を言って部屋を貸してもらうことにした。

「うん、ありがとー」

「いえいえ、色々助けてもらってますから」川崎大志は歯を見せて笑う。「あ、OB企画の件、ありがとうございました。仮で先生に提出したんですけど大分好評で」生徒会室に入っていく。

 一色は少し申し訳なく思いながらも、悪いことが起きていないことに安堵する。

「大志君の手柄にしていいから」一色は言い、後ろをチラリと振り返った。そこにいるのは渦中にある比企谷八幡の妹、比企谷小町だ。

 それを察したのだろう、川崎大志は指定の場所に鍵を掛けるとそそくさと書類を集め、再びドアに近づく。一瞬小町に目配せをして出ていった。

「すみません、いろはさん…」生徒会室に入ることの少ない小町がブレザーのボタンを弄りながら言う。

「ううん、元生徒会長だからこれくらい平気だよ!」一色は努めて元気な声を出し、椅子を引いた。「ここ座って?」

「ありがとうございます…」

 小町が座ったのを確認して隅に置かれた魔法瓶に近づく。休みの予定だったからだろう、コンセントは抜けていた。蓋を開けると二人分の水は入っていた為、電源を繋ぎスイッチを入れた。紙コップを用意しながら、あの教室を思い出した。時が止まっているかのような、不可侵領域を。

 平塚先生が去り、奉仕部の三人が去ったこの学校に、紅茶の香りはもうしない。

 それはとても残酷なことに思えた。残り香ひとつ掬えず、空虚な時間だけが過ぎ去っていく。この学校の心臓が止まったような、教室に、廊下に、グラウンドに、送り続けた血流が止まったかのような、そんな感覚がしていた。

 暇を見つけて教室を掃除していたのは内緒だ。そこで話すこともできたが、今回の内容には相応しくない気がして自然と避けるように動いた。生徒会室を指定したのは自分のホームだからだろうか。それとも、信じたくない事実に何かが決壊するのを危惧してだろうか。

 一色は立ったまま世間話をして、湯が沸くのを待った。やがてカチッと押し込んだスイッチが戻り、ティーバッグを入れた紙コップに注ぐ。

「はい、小町ちゃん」二つ持った内の一つを彼女に渡し、残りに口を付ける。鼻孔を掠める偽物が一色の琴線に触る。

「すみません、ありがとうございます」

 恭しく小町はお礼を言い、受け取った。なかなか口を付けない為、「飲んでいいよ?」と言うと「猫舌なんです」と照れ臭そうに笑った。

 やっぱり兄妹なんだな、そう思った。

 かつて会長職として馴染んだ椅子に座り、口を開く。偶然にも今小町が座っている席は、せんぱいがフリーペーパーに奔走した席だった。

「それで、せんぱいの事なんだけど…」

 一色がゆっくりと訊くと、小町はちびちびと飲んでいた紅茶を置いた。

「はい…、様子がおかしくて」

「様子っていうのは、格好のこと?」

 質問を遮り、姿形だけであってくれと願った私の想いが口から洩れてしまった。

「いえ、あ…、ごめんなさい、分からないんです…」

 まるでその飲み物がコーヒーだったかのような表情を見せる。いっそすべてが変わっていたならどんなに楽だったろうか、そんな思いが受け取れた。

「じゃあ、少なくとも小町ちゃんの前では変わってないってことかな」

「はい、そうです」小町は言った。「変わっていないどころか、前より気を遣ってくれたり、いいお兄ちゃん…、いえ、良い男性っぽい感じになりました」

「っぽい?」

 一色は虚を突かれた思いで聞く。彼女も今日までにそれなりに思いを巡らせてきた。彼女ができたことにより、急激に態度が変わったのではないか。気を遣うことを覚えたのではないか。しかし、そのどれもが彼女の知っている比企谷八幡像とはかけ離れていて、靄がかかるように脳が拒否する。

「うーん、なんて言うか、おかしい日がある、って感じなんですかね」小町は右に左に首を傾げ唸る。「基本的にはごみいちゃん何ですけど、偶に遅く帰って来る日があって、そういう日の後だったりは少し変な感じがします」

「そうなんだ…」一色は意識せず顎に手をやっていた。「その遅くなる日は毎日じゃないんだ」

「はい…、昔の事って話しましたっけ?」

 小町がそう尋ねて来る為、一色は記憶を辿る。小町とせんぱいについて会話した記憶で心当たりは一つしかなかった。いつ聞いた話かは覚えていないが、これだろうか。

「お父さんお母さんの帰りが遅い時の話?」

「そうですそうです! よく覚えてましたねー」小町が少し悪戯めいた表情をする。

 一色は顔を逸らし、咳払いをした。「た、偶々だよ」

「へへー、それはまあいいんですけど」軽くあしらわれると凹む。「それきり早く帰って来てくれるようになったのは変わらなくて、だから余計に分からなくて…」

 小町も困惑しているのだろう。比企谷八幡は決して道を踏み外した訳ではないのだ、犯罪を犯した訳でも、ましてや誰かを悲しませた訳でもないのだ。姿形が変わろうと、恋人ができようとそれは個人の自由でしかない。後者に関しては寧ろ、動くのが遅かった一色いろはに原因があるとも言えてしまう。

「そういえば、こ、恋人ができたって聞いたんだけど…」

「へ? 恋人? 誰にですか?」

「その…せんぱいに…」一色は自分でも声が小さくなっていくのが分かった。

「あー、それは多分ないんじゃないですか?」

「え! ほんと!?」

 思わず身体を乗り出す。二秒前の一色とのギャップに、小町が椅子ごと後ろに下がった。

「あ、はい…、それは気になって、まあ恋人ができるのは良いことなので、それなら応援しようと思って、でも違うみたいで…」

「せんぱいが言ってたの? 自分の口で?」

 一色の剣幕に小町の顔に怯えが混じる。

「は、はい。お兄ちゃんが言ってました…」

「そ、そっか…」一色は自分の肺に新鮮な空気が満ちるのが分かった。戸部に話を聞いてからというもの、ずっと息苦しさを感じていた。「それで、せんぱいに会うことはできそう?」

「それは」小町が言い淀む。「一色さんから動く場合はいいんですけど、小町が主導することはできないです…。兄が言った『雪ノ下達』にいろはさんはほぼ間違いなく入ってますから、小町は兄の味方です。兄が望まないことを手伝うことはできません…」

 膝に乗せた手が悔しそうにスカートを握りこむ。小町は目を伏せた。

「そうだよね、うん、ありがとう」一色は立ちあがり、小町の前まで行くとしゃがんだ。握られた拳を解くように手を添える。「じゃあ、小町ちゃんから聞いたことは内緒にするから、できる限りせんぱいのこと教えてくれる?」

 小町は声を出さず、首だけを縦に振った。その瞳は少しだけ充血していた。

 せんぱいがする事のすべてを、私は拒絶したりしない。それでも、彼が彼でいられないのなら、必ずそれを支えよう。

 比企谷小町の瞳に、一色いろはは誓った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は虚像を遺す。

 

「あ、いたいた」

 その呼び掛けに俺は現実へと引っ張り出された。振り返る。そこには手を振る海老名姫菜が立っていた。待ち合わせ場所に郊外の駅を指定されたが、少し早く来すぎてしまった為にすぐ近くにあるテラス付きのカフェへと入っていた。持ってきた文庫本があまりにも面白くてつい夢中になっていたらしい。店の中央にある時計を見ると、待ち合わせ時刻を数分過ぎたところだった。

「よく分かったな、海老名さん」

 俺は海老名姫菜という存在を確かめるように名前を呼んだ。当の彼女は向かいの椅子に腰を下ろし、近づいてきた店員に注文をし始めていた。去り際に海老名さんがこちらをチラリと見たので、空になったコーヒーカップを差し出しつつ、もう一杯同じものを注文した。

 店員の後姿を見送りつつ「分かるよ」と彼女は言った。「姿形が変わろうと、腐ってることには変わりないから」

 俺は彼女の視線から逃れ、ガラスに映る自分を見た。数日前まで明るかった髪色はどこ吹く風、アッシュグレーに染め上げられた髪は目にかかるくらいに伸びていた。今日この場に来る前、陽乃さんにセットの仕方を教えてもらった。

 海老名姫菜が言う。「何? その色」

「さあ、これが好きな女子がいるらしい」俺は肩を竦め、その手の話題は避けるように努める。嘘はついていない。遥という女子の情報の一つだった。

「ふーん」彼女は興味なさげに鞄を弄り始めた。

「とりあえず、今日は引き受けてくれて助かった」

 そう言ったタイミングで先ほどとは違う女性店員が注文したものを運んでくる。小さな声でお礼を言うと、その店員と目が合った。大学生だろうか、可愛らしく微笑むと店の奥に引っ込んでいく。

「気持ち悪い」

 海老名さんはカップをソーサーから持ち上げ、食器が立てる音のように無機質に言い放つ。自覚はしていた為に俺は言い返さない。

「知ってる」

 俺も手を伸ばし、ブレンドコーヒーで満ちるカップを取る。秋風が吹く街を見渡すと、駅前の中央に生える大きな樹木が葉を落とし始めていた。

 この格好を始めてからよくあることだった。まず人の態度が違う。大学で、店で、バイト先で、殆どすべての人間の態度が変わった。それも好意的な方面に。講義室で本から顔を上げればどこかしらの人間と目が合い、カフェに入れば女性の店員はにこやかに笑いかけて来る。バイト先に本屋では客の求める本を探す手伝いが増えた。

 煩わしい。

 海老名さんは鞄から黒い塊を取り出した。よく見るとそれはカメラで、一眼レフと言うものだろうか。

「写真を撮ってくれって言ってたけど、話を聞く限りじゃ自撮りの方が重要かもね」カメラのボタンを操作しながら、海老名姫菜は呟く。

 事前に軽く打ち合わせはしていた為、海老名さんも考えてくれたのだろう。どうせ勘付かれると思って偽アカウント作りの事も話してあった。自己啓発系などの自立型の人間を作ることは簡単ではないが、できない事ではないだろう。しかし、一般の大学生をでっちあげるのは難しい。写真を撮るにしても人数がいるし、大学名を出すとボロが出やすい。そこを突かれたら終わりだろう。

 そこで目を付けたのが裏垢だ。名前も出さず、学校名も出さない。匿名の大学生として一人の人間を作り上げる。哲学書からでも引用したセンスのいい呟き、そして目を引く写真。どちらかと言うと後者が重要だろう。大多数に引っ掛かる必要はない。材木座が集めた情報から抽出した男性像をあてはめ、それに近い人間をつくる。

 もちろん、それが機能するかは分からない。活躍する場が出るかは分からないが、念には念を重ねる必要があった。

「できればそっち方面も頼みたい」カップに口をつけ、苦い液体を流し込む。

「いいよ、調べてきたから任せて」海老名姫菜は言った。「それ、服だよね?」

 俺は海老名さんに視線を追い、自分の足元を見た。そこには大きな紙袋があり、着替えが入っていた。今日一日でできる限りの写真を撮りたかった。「ああ、五、六着はある」

 それに頷いた海老名さんはカメラを仕舞い、今度は携帯を取り出した。最近のものはデジタルカメラと遜色のない機能が備わっている。撮影し、加工をすればそれなりのものはできるだろう。

「そういえば比企谷君って、甘党じゃなかったっけ」

 目線も合わさず、意味もなく語り掛けてきた。指は素早く動いている為に彼女なりの世間話なのだろう。それであればもう少し興味を持つ素振りを見せてもいいのでは? そう考えたが、彼女の性質上バツが付いた事にはもうバツでしか向き合えないのだろう。

「…今だけ、ちょっとな」

 含みのある言い方に、海老名さんの眼鏡の奥の視線がこちらに向いた。それを遮るようにわざとらしく音を立ててカップを置く。彼女の意識が机と空中に分散された。

「そろそろ行くか」注文票を手に席を立つ。

「はいはーい」

 海老名さんは俺がお代をもったことに何も言わなかった。ただそれはこの数週間で俺が味わった気持ちの悪い甘えではなく、今日一日における正当な報酬、対価として、それ以上もそれ以下も求めない。そういう趣旨の行動だった。

 歩道に出ると、小さな子供が追いかけっこをして遊んでいた。車が来ないことをいいことに走り回っている。

 ピピッ、と音が鳴り、続いてカシャッ、とシャッターが切られた。驚いてそちらを見ると、いつの間にか海老名さんの手にカメラが握られていた。

「え、なに」怪訝な視線を向ける。

 それに応えず、彼女はカメラの本体にある小さな画面を見せてきた。「こういうのが理想なんでしょ」

 そこには街並みを見つめる男の後ろ姿があった。背景と被写体のバランスが取れていて、あの海岸を思い出させる写真だった。あの夕日よりも眩しい砂浜を。

「もうちょっとチープでいいんだけどな」俺とは思えない、男性ファッション誌の表紙を飾れそうなその一枚に気後れする。

「安っぽくね、了解」

 再びボタンを弄る彼女を横目に、俺は歩き出す。「腐腐腐、これを隼人君に渡せば…」とか後ろで意味の分からない事を呟いているが、突っ込まない。

 数歩歩いた所で、どこか安心している自分に気が付いた。それは綺麗に映った被写体が、俺とはかけ離れた人種だったからだろう。見ず知らずの誰か。俺ではない誰かに、ちゃんとなっていたからだろう。

 重く圧し掛かっていた何かが、少し軽くなった気がした。

 

 

 

 




今回も最後まで読んでくださってありがとうございます。
とても嬉しいです。

また感想、誤字報告など頂けると嬉しいです。

また書きます。もしよろしければ読んでください。

では、また。

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