八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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こんにちは、お久しぶりです。

11月の終わり頃ですかね?多分。
書きたいことは決まっているのですが、迷走してしまっている感が否めません。でも最後までは必ず書きますので、また読んでもらえると嬉しいです。

またまた沢山の感想ありがとうございます。またまた読んで頂けるととても嬉しいです。

お手すきの際にどうぞ。


shake in tears

 

 比企谷八幡は虚像に揺れる。

 

 大学の授業が終わりすぐにやってくる電車に乗り込むと、学生でごった返し読書もままならない。だから俺はいつも時間をズラす。学生の去った講義室で時間を潰すも良し、生協主催の書店に足を運ぶも良し、とにかく少し寄り道をしてから電車に乗り込むのが常になっていた。

 今日だけは、その習慣を恨んだ。

 

 一つページを繰ると『署名運動の無力』という単語が目に入り、手が止まった。その理由はここ最近世間を騒がせている県民投票の件が頭を掠めたからかもしれないが、そんなのは誤魔化しでしかなく、叩かれた肩と、振り返った先にいた人物に虚を突かれたからに他ならない。

「八幡! 久しぶり!」戸塚彩加が歯を見せる。

 戸塚の格好は紺色を基調としたジャージ姿で、蛍光色のラインが入っていた。胸元には大きくスポーツブランドの名前がプリントされていて、間延びした素材を引き締める。

 思わず、電車の窓に映る自分の姿を確認してしまった。そこには紛れもなく比企谷八幡が映っているのだが、そうであってはならなかった。

「お、おお」動揺で口が動かない。「久しぶり…だな」

 しかし戸塚は俺の逡巡など意にも介さない様子で、はにかんで首を傾げる。「どうかした? 八幡」

「…いや、なんでもない。よく分かったな、俺だって」

「うん! 八幡かっこよくなってたからビックリしたけど、すぐ分かったよ!」

 戸塚ははしゃぐように言い、俺の隣のつり革を掴む。眼下の座席に座る女子大生が俺と戸塚を交互に見やり、悪いと思ったのかすぐスマホに視線を落とし、今度は上目遣いにこちらを窺ってきた。少し見開かれた瞳はこの数週間で嫌と言う程味わった。

「…かっこよくはないけどな」俺は視線を逸らしつつそう溢す。

「ううん! すごくかっこいいよ!」戸塚はかぶりを振った。「八幡ってどんな髪型でも似合うんだね!」

 彼の表情は純粋に俺を見てくれていて、心臓がきゅうと締め付けられる感触がした。いっそ軽蔑や侮辱の言葉を掛けてくれた方がましだったかもしれない。

「そうか、さんきゅな」

 戸塚の顔が歪み、慌てる。それが自身の涙によるものだという事に気付くのにそう時間はかからなかった。額に手を伸ばし、スプレーで固められた前髪を乱暴に壊す。視界が隠れるようにがしがしと扱った。

「八幡?」戸塚の気遣う声が聞こえたが、表情を見ることはできなかった。

 無理やり涙腺を抑え、こみ上げるそれを何度も飲み込んだ。「…はぁ、なんでもない」一度鼻を啜る。「なあ戸塚」と言うと、視界の端で首を傾げるのが見えた。「俺、変わってないか?」

 戸塚は二、三度瞬きをし、そして笑った。「うん! 変わってないよ!」

 簾のように視界にかかる前髪を通しても尚、きらきらと光る笑顔だった。

 これはもう、病気ですね。

 

 戸塚の降りる駅に着く直前、「八幡、何かあった?」と意を決した表情で語り掛けてきて、俺はそれに首を振った。「すまん」と言うと、彼は少し悲しそうな顔をして「僕、待ってるから」と呟いた。

 去っていく背中は小さく、抱き締めたら壊れてしまいそうなのに、俺は何度も唇を噛んだ。

 駆け込み乗車も許さない冷血な車掌に少し感謝した。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 由比ヶ浜結衣は駅のシンボルとなっている時計を見やり、そのまま癖で腕時計を確認してしまって一人苦笑する。雪ノ下雪乃の入学論文も終わりを迎え、秋学期も落ち着いてきた頃、あの二人に連絡をとった。またご飯に行こうという内容に、ぶっきらぼうに、それでいて温かい返事が同じく二通返って来て思わず跳ねた。

 奉仕部の二人とこうして卒業後も会えることが未だに信じられなく、由比ヶ浜はやり取りのあったLINEの画面をもう一度確認した。つい頬が緩む。

 喧騒の止まない改札前は人の往来が激しく、柱に隠れるようにして立っていた。集合時間までまだ十分以上ある。彼女は鞄から手鏡を取り出し、薄い化粧をチェックした。柱の影から声を掛けられたのはその時だった。

「はやいな」

「うわあ!」由比ヶ浜結衣は飛びのき、意識への急な来訪者から距離を取る。「なんだ、ヒッキーか…」

「なんだってなんだ」比企谷八幡が呆れた顔でこちらを見る。

 由比ヶ浜は彼の姿を頭のてっぺんから足の先まで見渡した。やっぱり変わったな、と思う。「ヒッキー、変わったよね」

 なぜか彼は大げさに肩をビクつかせる。「な、なんだよ急に」

「あ、ううん、変な意味じゃなくて、やっぱり服装とか大学生っぽいなーって」由比ヶ浜は手をぶんぶんと振り、訂正をする。

「まあ、そう見えるように小町に選んでもらったからな」

「やっぱり小町ちゃんかー」由比ヶ浜は駄目な子供を見るように眉を下げる。「あ、今日ヒッキーの服買おうよ!」

 彼女は、それがいいよ! と元気よくはしゃぎ、携帯でブティックを調べ始める。

「いや、いらねえよ…」と溢す彼を放置して、指を動かす。

 一分にも満たない時間だったが、彼が沈黙していたことに気が付く。由比ヶ浜は顔を上げた。比企谷八幡は視線を宙に、ではなく少し離れた位置に立つ女性に向けていた。少し驚く。

 視線に気が付いた彼がこちらを訝し気に見つめる。「なんだよ」

「え、あ、いや、ヒッキーってスタイルいいからさ、何でも似合って羨ましいなって」誤魔化すように発した言葉だったが、彼の表情が少し曇ったのを見逃さなかった。

「…別によくねえだろ」

 そう言うと、後ろめたさを隠すように視線を逸らす。

 様子がおかしいな、とは感じたが時間が立てば治るだろうと考え、一度辺りを見渡した。改札を抜けて来る雪ノ下雪乃が目に入った。

 少し歩を速めてこちらに近づいてきた。「ごめんなさい、遅刻してしまって」と彼女は小さく頭を下げる。

 由比ヶ浜が時計を確認すると、時間を二分ほど過ぎたところだった。「全然遅れてないよ!」笑顔で返す。

「いえ、遅刻は遅刻だわ。ごめんなさい」

 それでも雪ノ下は目を伏せ、申し訳なさそうに手を身体の前で組む。彼女の可愛らしいところだったが、元気づけたくて由比ヶ浜は隣に立つ男を見る。視線がぶつかると彼はすぐに納得したのか、一歩踏み出した。

「まあ、遅延なら仕方ないだろ」と乗り換え先のホームに進む。それに追従するように由比ヶ浜と雪ノ下が歩く。

「でも、遅延する可能性を考えなかった私が悪いわ」

「やめてくれ、そういう考えが日本の社畜魂に火を着けるんだ」比企谷八幡はしっしと手を払う。「人身事故じゃなくてよかったじゃねえか」

 由比ヶ浜はその言葉にチラリと電光掲示板を見た。そこには、『遮断機を切断』と意味の分からない文字が流れていた。

 雪ノ下も言い淀む。それを認めた彼はトドメの一言を発した。

「それに、お前が沈んでると楽しみにしてた由比ヶ浜が可哀想だろ」

 雪のように白い肌の彼女がこちらを見て、視線がぶつかる。由比ヶ浜は彼女の腕に抱き着いた。「そうだよ、遅刻なんてどうでもいいの。今私たちがここにいることが大切なの」

 久々のスキンシップに彼女は困惑していたが、すぐに微笑むと「そうね」と頷いた。

 エスカレーターの先に立つ彼の背中が、どうにも小さく見えたのは気のせいだろうか。由比ヶ浜は目を擦った。

 

 

―――

 

 

 雪ノ下雪乃はショッピングモール内のブティックで由比ヶ浜結衣に服を選んでもらっている男を見る。比企谷八幡の頭髪は高校時代より少し伸びたが、それ以外は変わっていないように感じた。ただ、拭いきれない違和感がずっと胸の中に蔓延していた。

 雪ノ下は思考を振り払い、近くにあるセーターに手を伸ばした。白から紺色へとグラデーションしているそれは、冬の寒さも、秋の涼しさも快適に過ごせそうな生地だった。

「あ! ゆきのんそれ可愛い!」由比ヶ浜が彼に合わせていた服をハンガーに戻しながら言う。「ほら、ヒッキーあれ似合うよ!」

「そうかあ?」比企谷八幡は面倒くさそうに近づいてくる。首元に合わせるように身体に押し当てると、彼は恥ずかしそうに顔を逸らした。

「あら、意外と似合うじゃない」

「うんうん! ヒッキーかっこいい!」

「なに、なんも買わねえぞ」

 本心から褒めているのに、そんなことを言われて雪ノ下は少しムッとする。「あなたから出るものなんて期待していないから結構よ」

「あ、でもちゃんとバイトしてるもんね」由比ヶ浜が思い出したように手を叩いた。「そういえばヒッキーって何にお金使ってるの?」

 雪ノ下もそういえばと思い当たり、彼の言葉に耳を澄ました。

「別に、本とかゲームとか、あと本とか」

「本しか読んでないじゃん!」

「ばっかお前、大分空気も読んでんだぞ。人のいないところで昼飯を食ったり、講義が始まるまで寝たフリしたり」

「それ高校時代と何も変わっていないじゃない…」彼が胸を張ってそれを言う為、雪ノ下は呆れてこめかみに手をやる。

「あははは」由比ヶ浜が声を上げ、それにつられて思わず笑みが漏れる。

 彼も結んだ口の端を持ち上げ気持ち悪く笑う。傷んだように見えた髪の毛も、この三人の中では無意味だった。少しくらい離れても大丈夫だろうと、雪ノ下の決意に背中を押してくれた、そんな気がした。

 

 

―――

 

 

 比企谷八幡は目の前の機械から溢れ出る黒い液体を見つめていた。ドロドロと垂れ、白いカップを汚すように満たしていく。何の変哲もない光景なのに、何故か目が離せないでいた。

「早くどいてくれないかしら」

 背後から声を掛けられ振り返ると、両手でカップを握り込む雪ノ下がいた。「すまん」と謝り、横にずれると彼女もドリンクバーのコーヒーマシンにカップをセットした。白く細い指がエスプレッソと書かれた赤いボタンを押し込む。ピッと音が鳴った。

 それを横目に席に戻ろうとすると「比企谷君」と呼び止められる。首だけで振り返ると、再びしなやかな指先が見える。しかしそれは何かを押し込むでもなく虚空を指していた。

「なんだ」指の細さでも自慢してんのか?

「忘れているわよ」雪ノ下は少し心配そうな声を出す。

 爪から伸びる線を宙に想像し、その先に視線を動かすと白い筒がいくつも置かれていた。砂糖だ。

「…っ、ああ、さんきゅ」

 スティックシュガーに腕を伸ばしてから、自分の手が震えていることに気が付いた。少し乱暴に三本掴み取り、雪ノ下に背を向ける。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。彼女には見抜かれているのでは、なんて考えが頭によぎったが、遅れて席に戻ってきた彼女の表情に俺を訝しる様子は読み取れなかった。俺の勘違いは、雪ノ下に「そろそろその腐った視線を向けるのをやめてくれないかしら」と言われ、由比ヶ浜に「何見てんのヒッキーマジキモイんだけど!」と言われるに留まった。

 なんにも留まってねえ…。

 

「あたし、夢ができたかもしれないの」由比ヶ浜がストローから口を離し、一息置いてからそう言った。机の上についた水滴を見つめながら、誰に聞かれるとも知らず呟いた。「まだ夢なのかも分かんないんだけど」と続け、えへへと笑う。

「そう」と雪ノ下が微笑む。「そう、由比ヶ浜さんの夢が何かは分からないけれど、応援するわ」

 二人は目を合わせ、それから手をとった。「ありがとう、ゆきのん」と嬉しそうにお団子が揺れる。

 そんな様子をコーンスープで火照ったままの身体で見つめていると、雪ノ下がこちらをチラリと窺ってから口を開く。「私も、いいかしら」

「うん、なーに?」

 由比ヶ浜は言葉で、俺は少し大げさな首肯で続きを促す。

「由比ヶ浜さんと同じでまだ決まったわけではないけれど、私もやりたいことができたの」

「え、なになに!?」由比ヶ浜が身を乗り出す。

「ち、近い…」と少し避けたが、雪ノ下はすぐに観念し「本当にまだ決まってはいないから、結果が出てから伝えるわ」と微苦笑を浮かべた。

 由比ヶ浜は、えー、と渋っていたが、最終的には「私も応援する!」とはしゃいでいた。

 俺はそんな二人を見ながらカップに口を付けた。脳がとろけるような甘みが口内に攪拌し、喉を侵しながら通過する。彼女たち視界は先の光を見据え、希望に溢れていた。今が一番、だなんて言うつもりはない。二人が進む先に別れがなければ何も問題はなかった。

 心の中で祝福した。

 時間が止まればなんて、俺はいつまで考えているのだろうか。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷小町は空になったスプレー缶を玄関の沓脱に置いておいた。これで明日になったらガス抜きは終わっているだろう。父親は(母親もだが)危険なことはさせない主義を貫いている。※小町に対してのみ。

 リビングに戻ろうとすると、廊下の先からザザーと音がする。先ほど帰ってきた兄の比企谷八幡は、すぐに浴室に引っ込んでいった。特に会話はなかったが、もう少しあの頃の面影を見ていたかった気もする。知らず、小町の足は音の鳴る方へ誘われていた。

 どうせ歯磨きするし、と自分に言い訳をしてわざと無遠慮に脱衣場のドアを開ける。その音に気が付いたのか、キュッと音がしてシャワーが止まった。「小町か?」

「小町しかいないよ」共働きの家庭で不毛な質問に小町は呆れた声を出す。

「だよな、すまん」と磨りガラス越しの曇った声で謝り、「ちょっと確認してほしいんだが」と依頼をしてきた。

 小町は兄の頼みに少し心が躍る。そこに風呂場という場所の意味はなく、ただ兄に頼られるだけで嬉しかった。彼女は知られないように頬を緩ませる。「なーに?」

 そう言ったところで急に浴室のドアが開けられた。先ほど小町が脱衣場に入った時よりも無遠慮で、彼女は湿気に身を捩る。

「すまん、自分じゃ後ろ見れなくて」

 身内の裸など別に見たくない為、咄嗟に顔を手で覆う仕草をしたが意味はなく、兄は椅子に座って背を向けていた。そこにあったのは今朝、小町が黒染めのスプレーを吹きかけ、高校時代へとタイムスリップした兄とはかけ離れた姿だった。黒に近い灰色の後頭部が目に入る。

 小町は自分のお腹にモヤモヤが溜まるのが分かった。シャワーで落ちるとパッケージに書いてあったが、もしかしたら一生落ちないスプレーなのではと薄い希望を抱いていた。むしろそう願いながら手伝った。

「色落ちてるかってこと?」

「ああ」

「うん、大丈夫だよ」

 急激に体温を奪われる錯覚に陥る。あなたは誰だ、と言いそうになる。

 兄は後頭部をがしがしと掻いたあと「そうか、助かった」と言い、ドアを閉めた。

 再びシャワーの音がして、ひとつの空間で独りと独りになる。

「あなたは、誰」小町は震える唇で呟いた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色いろはは改札を通り抜けると携帯の画面に視線を落とす。比企谷八幡に持ち掛けたデートは、『すまん』と一言だけで断られた。次に当たったのは平塚静だった。連絡先は知っていた為にすぐさまコンタクトをとった。十月の半ば、比企谷八幡の様子がおかしくなったこと、そして雪ノ下陽乃の存在を聞いた。

 平塚静は詳細を明かさなかった。雪ノ下陽乃が関わっていることは確かだが、しっかりと握りこまれた拳を開くことはなかった。ただ一文、送られてきたメッセージが一色いろはの不安を煽る。

『私は間違えたのかもしれない』

 少し進むと背筋に冷たいものが伝うのが分かった。ただそれが、十一月の寒さからではないことは明白だった。一色の視線の先、待ち合わせにうってつけの柱にもたれかかる一人の女性がいた。雪ノ下陽乃だ。

 ローファーが見えない何かに躓く。足が進むのを嫌がっているのが分かる。

 こちらに気付いた雪ノ下陽乃がにこやかに手を振る。

「ふう…」一色いろはは気を吐く。

 正々堂々、正面から、対決だ。

 

 雪ノ下陽乃に案内された店は住宅街を右に左に進んだ先にあり、良く知ってるな、と思わずにいられなかった。ただ、「懐かしいな、入学式で比企谷君と来た以来かも」と彼女が不穏な言葉を発したので、一色いろはは控えめに睨みつけた。

 席に着くと雪ノ下陽乃は「ブレンドを一つ貰えるかしら」と店員に告げ、一色いろはも「あ、じゃあカフェオレを」と追従した。舌も大人なのか、と一瞬自分を卑下したが、自分が目の前の女性と同じ年齢になってもコーヒーなんて飲めないのではないか、と彼女は感じた。

 木で作られたテーブルの上にガラスがはめ込まれていた。その為机の下が透けて見え、雪ノ下陽乃の艶めかしい脚が晒されていてドキリとする。しなやかなふくらはぎは同性でも色気を感じるほどだ。

 そんな一色の視線を察したからではないだろうが、雪ノ下陽乃が脚を組む。

「久しぶりだね、一色ちゃん」口元に微笑みを称えて言う。

「はい、お久しぶりです」一色いろははペコリと頭を下げる。「急に呼び出してしまってすみません」

「可愛い後輩のお願いだもん、全然いいよ」

 その言葉に、ありがとうございます、と返そうとしたところで「それに」と続いた。

「それに、私もあなたと話したかったし」

 笑っているのに、先ほどとは違う趣旨の笑みに背筋が伸びる。蛇に睨まれた蛙とはこのことだろうか、一色いろはの直感が、敵わないと警鐘を鳴らす。

 唇を噛んで堪えていると、「こちら、カフェオレになります」と頭上から声が降ってきた。

「あ、私です」一色は手を上げる。

 空気を引き裂くように置かれたカップに口を付ける。唇、舌、喉を湿らせ、落ち着きを取り戻す。

「落ち着いた?」

 ハッとして前を向く。どこまでお見通しなのだ、と言いそうになる。彼女は薄く湯気の立つカップを口に運んでいた。

「大丈夫です、最初から」一色は姿勢を正し、攻勢に出る。

「そう」

「最近、せんぱいの様子がおかしいんですけど、何か知ってますよね?」

 一色の背後は底の見えない崖のように口を開けている。踏ん張り、前に出ないとすぐに挫けてしまいそうになる。強気に、一歩踏み出す。

「先輩って比企谷君のこと?」雪ノ下陽乃は可愛らしく、わざとらしく首を傾げる。

「はい」

「様子が変ってどんな風に?」

「どんなって」あなたは知ってるんじゃないんですか。「髪を染めたり、とか」

「ふうん、だめなの?」

 予想はできていたがそう言われると、一色は答えることができない。歯を食いしばる。

「だめ、という訳では…」

「髪を染めようが、彼女を作ろうが、それは比企谷君の自由じゃないの?」

「それはそうなんですけど…」

「一色ちゃんは何を求めてるの?」

「え?」

 雪ノ下陽乃の口元が怪しく歪む。

「一色ちゃんは比企谷君に何を求めてるの?」

 予想だにしない問いかけに、カップに伸ばしかけた一色の腕が空中で停止する。

 何を求めている?

 何って、何。

 頭を埋め尽くすその問に、一色の思考は揺れる。対面に位置する雪ノ下陽乃は優雅にコーヒーを飲んでいた。

 私がせんぱいに求めているもの。それは、なんだ。

 優しさ? 頼もしさ? 卑屈さ? 

 一色いろはは首を振る。余計な思考を振り払う。すぅ、と空気を吸い込む。口に出すのは初めてかもしれない。

「私は、せんぱいの事が好きです」その答えが意外だったのか、的外れだったのか、雪ノ下陽乃は少し目を見開く。「私は、普段はどうしようもないダメ男で、でも人の事をちゃんと見てくれてて、心の底から優しいせんぱいが好きです」

 言い切ると、ストンとなにかが落ちるのが分かった。口に出すことでこんなにも明確になるものなのか、とも感じた。ただ、雪ノ下陽乃の大きな瞳が妖しく光るのを一色は見逃さなかった。

「一色ちゃんは比企谷君の事を沢山知ってるんだね」

 一色は強く頷いて見せる。虚勢だとしても、負けるつもりはなかった。

「一色ちゃんは比企谷君の事を沢山知っていて、沢山好きで」雪ノ下陽乃はそこで言葉を切る。「だから今の彼は違う。そう言いたいのね」

「はい」返事をしたが、一色はしこりの様なものを感じた。「そうです」

「でも、それは一色ちゃんの望みなんじゃないの?」雪ノ下陽乃が机の下で脚を組みなおしたのが見えた。手をパンプスに伸ばすと器用にそれを脱ぎ、黒色のフットカバーをしなやかな指先で直した。

「どういうことですか」

「一色ちゃんがそうあってほしいと望んでいるんじゃないの?」言っている意味が分からず、一色は彼女の顔を見つめる。「今の変わった彼は違うから、高校時代の彼に戻ってほしい、なんて傲慢じゃない」

「そ、そういう」

「そういうことでしょう?」雪ノ下陽乃の剣幕に押される。「以前の彼がかっこよくて、素敵で、好きになった。だけど大学に行ったら彼の素敵な部分が変わってしまった。だから前の彼に戻ってほしい。違う?」

「ちが…」一色は言いかけるが、言葉が続かないのが分かった。一文字一文字探しながら暗闇に手を伸ばせど、行きつく先に正解はないと悟ってしまった。

 いつの間にか握りこんだ拳がほどけ、手汗が滲むのが分かった。

 悔しさに唇を噛み、俯く。

 違う違うと言いながら、自分の愚かさを隠してきた。

 一色は大学を知らない。何度オープンキャンパスに足を運べど、入試で訪れようと、あの場所の意味は分からなかった。二十歳を挟んだ四年間。思春期は終わり、子供は終わる。されど大人は始まらない。指針もなければゴールもない。人生で一番不安定で、叩けば固まる夢の舞台。

 それを一色いろはは知らない。

 彼が変わってしまったのは必然なのではないか、そう考える思考に鍵を掛け、無かったものとしてしまった。

「一色ちゃんは夢見てるんだよ」

 自らのローファーを見つめる形だった頭上から声がして、頬を伝う雫を指の甲で拭いながら視線を上げる。”それ”を視界に捉え、一色いろはは言葉を失う。

 雪ノ下陽乃の目尻から一筋の雫が頬を伝っていた。

「比企谷君に、夢を見るのはもうやめてあげて」

 一色の視界は揺れていた。湧いて出てくる液体が洩れ、制服のスカートを握り占める。雫が手を濡らす。止めどなく流れるそれを只々受け止めながら。眼前に広がる美しい光景に見惚れていた。

 自分の為ではなく人の為に流せる涙が、こんなに美しいものだとは知らなかった。

 平塚静の言っていたことが脳裏に浮かんだ。

『私は間違えたのかもしれない』

 先生と私が間違えたのかは分からない。ただ、彼女の涙は本物だと、それだけは確信できた。

 あんなにも溢れていた一色いろはの涙だけが、いつの間にか止まっていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 人のいない深夜の書店で、城廻めぐりと比企谷八幡だけがレジにいた。

「ねえねえ、触ってもいい?」私がそう言うと、比企谷君は少し膝を折り、頭をこちらに傾けた。それに手を伸ばし、ふわふわと触る。「わあ、思ったよりごわごわだ」

「まあ、傷んでますからね」

「ふふふ、でもかっこいいよ」

 お世辞でなく笑うと、彼はぷいっと顔を逸らした。

 やっぱり変わってなかったな、と思う。姿形が変わろうと彼の本質は変わっていない。そう思えた。

 ただ、少しおかしい日があるのは確かだ。張り詰めた背中には何か重いものがのしかかっているような、そんな日もあった。今日は幾分空気が優しい。

 なんていうか、柔らかい。

「比企谷君、明日早い?」逸らされた彼の顔を覗き込む。

「いえ、昼からですけど。どうかしたんですか?」比企谷君は視線を戻すと、手元のブックカバーを折りながら器用に聞き返してきた。

「あ、ううん。変なことじゃなくて」身体の前でぶんぶんと手を振る。「帰る前に少しお話したいなあって」

「ああ、いいですよ」

「あ、いいんだ」断られると思ってた為、思わず訊ねる。

「え、駄目でした?」

「ううん! 嬉しい!」

 城廻めぐりのはじけるような笑顔に、比企谷八幡は再び顔を逸らした。

 そんな彼をからかい、夜は深くなる。

 店内には二人の笑い声と蛍の光が響いていた。

 

 閉店作業を終え店を後にすると、すぐ近くの公園に移動しベンチに腰掛けた。風に揺れるブランコは少し不気味で、きいきいと音を鳴らしていた。

「どうぞ」

 比企谷君が近くの自動販売機から缶コーヒーを買ってきてくれて、それを受け取る。

「ありがとう、いくらだった?」

「いいですよ」

「だめだよ。うーん、じゃあ、次にお話しする時は私が払うね?」

「まあ、次があれば」

「え、無いの…?」

「あ、いや、城廻先輩さえよければ俺はいつでも」

「そっかそっか! じゃあ次はあるよ!」

 受け取った缶のプルタブに手こずっていると、比企谷君が黙ってこちらに手を差し出してきて、それを渡す。かしゅっと心地よい音が弾け、缶が戻ってきた。「ありがと~」

「いえ、これくらい」

「ふふ」

 つい頬が緩むのを感じながら、月明かりに照らされる顔を見る。はっきりとした顔立ちは陰影が見え、ドキリとした。

「ねえ、最近奉仕部の皆とは会った?」

「ええ、本当につい最近会いましたよ」彼の視線がブランコへと吸い寄せられた。

「その髪型なんて言ってた?」私もそれを追うが、すでに揺れは収まっていて首を傾げる。

「ああ、似合わないって言ってました」

「えー、こんなにかっこいいのにー」

 奉仕部の二人が比企谷君の髪を見て、怪訝な表情を浮かべる。そんな様子を想像しようとしたが、何故か途中で霧散した。もう一度考えようとしても、不自然な三人の顔が出来上がるだけで、その内諦めた。

「私も会いたいなー」

「まあ、そのうち。今は雪ノ下も忙しそうですし」

「そうなの?」

「ええ、なんか夢ができたとか」

「へえー! 雪ノ下さんの夢かー」私は気付かず拍手していた。「なんだろうねー!」

「なんでしょう…」

 優しげだった比企谷君の表情が強張り、視線が公園の外、先ほど彼が購入した自販機のあたりの向けられている。不思議に思いそちらを向こうとすると、彼の手が優しく頬に添えられ、視線を彼の顔に固定された。

 添えられた指で頬が少し凹むのを感じながら、顔が赤くなるのが分かった。しかし、彼の表情は険しさを増してきていて、尚且つ未だに私の事を見ないから、事の深刻さを感じ始める。

「ど、どうしたの」なるべく平静を装い、訊ねる。

「城廻先輩、去年問題になった男ってどんな人ですか?」

「どんなって…」

 質問に質問を返されたことで少し混乱したが、何とか頭を働かせ、嫌な記憶を掘り起こす。少し出たお腹に、丸い鼻…。「眼鏡をかけていて、赤いジャンパーを着ている」

 思わず、目を見開いていた。私が考えている姿を彼が言葉にしたからだ。まるで私の思い描く姿を彼が目の当たりにしているような。

「うそ」

「城廻先輩、ゆっくり立ち上がってください」

 比企谷君が私の手を取り立ち上がらせる。視界の端で自販機の明かりに照らされる赤い物体が見えた。肌が無い毛を逆立てようとしている。公園を出た。

 こんな時にまで、カップルにしか見えないんだろうなと考える私は変なんだろうな、と思う。ただ身体は正直な様で、歩き方を忘れていた。比企谷君の腕にしがみついていないと今にも倒れてしまいそうだった。

 比企谷君はずっと「大丈夫、大丈夫です」と囁いてくれていた。

 私が掴んでいる手を握りしめながら支えてくれる。

 角を曲がるときにチラリと後ろを見たが、そこには赤い物体も、人影さえも見当たらなかった。

 車に着いてから彼の腕で少し泣いてしまった。意外に逞しい胸板に抱かれていると、暖かい感情と共に、罪悪感がじわじわと滲む感覚がした。

 髪を梳くように撫でられた頭は、家に帰っても熱をもっている気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は実像を探す。

 

 暗い室内で、陽乃さんの嬌声だけが響いていた。四つん這いで背を向けている彼女の表情は窺い知れないが、反った腰が小刻みに震え、それが俺の欲情をさらに駆り立ててくる。動きを止めると不思議がった陽乃さんはこちらを向く。お約束だった。期待と不安に満ちた視線を投げかけ、汗ではりついた髪の毛を手で避ける。彼女の視線が逸れた瞬間にまた動き出す。そうすると彼女は身体を震わせて鳴き、悦ぶ。

 シャワーを浴び終わるとベッドに戻る。シーツにできた染みを隠すように陽乃さんは動くため、わざとそれを剥き出しにすると彼女は顔を赤らめて抗議してくる。

 可愛らしく動く唇を塞ぎ、黙らせてからベッドに潜り込むと、彼女の腕が伸びてきて俺を抱き締める。優しく撫でる頭から、俺のすべてを許し、肯定する感情が流れ込んでくる。

 幸せの具現化の様な状態を全身で受け止めながら、比企谷八幡は一日の出来事を回想し始めた。

 

 週末の今日は陽乃さんに時間を割く約束で、朝から弁当を持参して郊外の自然公園に来ていた。弁当はもちろん彼女の手作りだが、三ツ星クラスの料理人に頼んだと言われても納得するほどの出来で、ほっぺたが落ちなかったことに安堵するほどだった。

「比企谷君は何がしたい?」陽乃さんはレジャーシートの上に脚を崩して座り、笑いかけて来る。

 それを横目で確認してから、再び手元の文庫本に視線を落とした。

「なんでも、陽乃さんといるだけで俺は楽しいですよ」

「わお、嬉しいこと言ってくれるねえ」

 陽乃さんの満足のいく回答ができたと高を括り、焦点を文字列に合わせると素早い動きでそれを奪い取られる。唐突に視界に入ったカラフルなレジャーシートに瞼を瞬かせた。

「何するんですか」目を擦りながら抗議する。

「お姉さんと遊びなさい」

 じゃーんと言い、バドミントンのラケットを取り出す。そのケースの下部分には小さな空間があり、どうやらその中に羽が入っているようだ。

「いいですけど…」チラリと視線を横に置かれたパンプスにやる。彼女の趣味なのか、スニーカーの類を履いているところは見たことがなかった。決して高くないヒールだが、運動するのに最適とはお世辞にも言えない。

「大丈夫大丈夫、裸足でやるから」

 陽乃さんはそう言うと、薄い靴下を脱ぎ鞄に入れた。小さな足の指がぴょこぴょこと動くのが可愛いらしい。

「まあ、それなら」俺も重い腰を上げた。

 彼女はいっくよーと叫び、ラケットを振る。青い空をバックに白い羽が飛んできて、それを打ち返す。それを何度か繰り返し、喋る余裕が出てきた。

「陽乃さん、上手いですね」腕を振る。

「そう? 普通じゃない?」彼女も腕を振る。

 お世辞じゃなく上手い。フォームは美しく、飛んでくる打球は俺の利き手に吸い込まれる。俺がほとんど動かなくてもラリーが続くレベルだった。

 彼女が優しく振りかぶると、重力をあまり受けなさそうなフレアスカートが揺れ、白い脚が根元まで見えかける。例の如く俺は空振りした。

「比企谷君のへたくそー」

「卑怯な…」

 可愛らしく首を傾げる彼女に恨みを込め、思いっきりオーバーハンドでサーブをすると、一秒も経たずヒュンッと音が鳴り俺の耳を掠めた。怖えぇ…。

「私が勝ったらお願い一つ聞いてもらおうかな」爪でガットをかりかりと弾き、言う。

「え」

「きまりー」

 突然の提案を拒否する前に腕が振りぬかれ、先ほどのキャッキャウフフな状態から五割増しのスピードで羽が飛んできて思わず避ける。

「はい、いってーん」

 やっぱこの人怖い。てか怖い。

 

「お願いってこれでいいんですか」

 俺が訊ねると、陽乃さんはもちろんと言った様子で首を縦に振った。「うん、お願いね」

「はいはい、分かりましたよ」

 彼女の鞄から出てきたウェットティッシュを開け、二枚取り出す。レジャーシートにお尻だけ乗せ、脚を投げ出していた彼女がこちらに向き直る。左足を差し出してきた。

 黙って足首を掴む。きゃっ、という言葉は無視する。先ほど取り出したウェットティッシュで彼女の足を拭き始めた。指の間まで念入りに拭いていると、くねくねと誘うように動いた。顔を上げると目が合う。「比企谷君の変態」

 少し視線を落とすと、脚の間から紫色の見えてはいけない布が見えてしまう。気のせいかどうか、その視線を受けてから脚が開いた気がした。

「なにやってんですか」鼓動を抑え、辟易とした雰囲気を出しながら言う。

 しかし彼女には届かないようで、「んー? 何ってなーに?」と妖しく笑う。

「はあ…。ほら、逆の脚出してください」

「はーい」

 もう一方の脚を拭き終わると、靴下まで履かせられ、ようやく解放された。ペットボトルにキャップを外し、口を付けるといつの間にか陽乃さんは正座をしていて、腿をぽんぽんと叩いた。「おいで」

 チラリと辺りを見渡すがこちらに注目している人はいない。俺はゆっくりと近づき、陽乃さんの太腿を枕に横になった。

 必然的に目が合い、彼女は微笑を称える。

「お疲れさま」

 優しく囁き、俺の視線を掌で遮った。突然暗闇に放り出された気分だが、首元から伝わる熱が決して独りではないと教えてくれる。

 暗くなると寝るとか、俺はインコかなんかか、そんなくだらないことを考えながら眠りについた。

 

 ショッピングモールによって買い物をしている間も、彼女は俺の存在を常に意識し、肯定し、賛同してくれた。俺が哲学書を手に取れば趣味が良いと褒め、俺がチラリと女性下着売り場に目を向ければ趣味が良いと褒めた。あれ? 後半褒められてる?

 それでも掴まる腕から、彼女は俺を許し、俺に許されている状況を作り出してくれていた。

 ずっと欲しかった打てば響くような関係が、ゆっくりと構築されている。そんな勘違いをしてしまいそうなほどに俺を求めていた。

 彼女の運転する車の中で俺が心から愛を囁くと、自然とハンドルはホテルへと向かった。

 四六時中俺を求めるその姿は、恐ろしく依存的で、俺の何かが染められていく気がした。

 

 目を開けると、そこにあるのは豊満な胸だった。下着も着けずに俺を抱き締め寝てしまったようだ。か弱く主張するそれを舌で転がすと、彼女は優しく喘ぐ。

 こんなにも満たされているのに、俺はなぜ頑張っているのだろうか。

 気を張って、身を挺して、心を殺して、俺はどこに行こうとしているのか。

 俺は何を待っているのか、その答えは彼女が持っているのか。

 今となっては、それすら分からない。

 

 

 




今回も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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また書きます。もしよろしければ読んでください。

では、また。

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