八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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こんばんは、お久しぶりです。
遅くなってすみませんでしたm(_ _)m
12月入ったぐらいですかね?

待っていていただいた方がどれだけいるかは分かりませんが、読んでもらえると嬉しいです。

たくさんの感想ありがとうございます!
お手すきの際にどうぞ。


continue to hate

 

 

 比企谷八幡は実像に交わる。

 

 終了の鐘もなく教授の合図で教室は喧騒に包まれる。三百人以上を収容する講義室だが、半分も埋まっていなかった。選択必修ではあるが少なすぎるだろ、と思う。

 空いているために隣の席に置かせてもらっていたリュックを持ち上げる。陽乃さん選びのそれは流行りのブランドではあるものの他には見ないセンスがあるのか、パリピグループのおしゃれ番長らしき男に、それどこで買ったん? とエセ関西弁で訊ねられたこともあった。

 ふと視線を感じ背後を振り返ると、二つ後ろの列にいる女子二人組と目が合った。リュックに興味を持った訳ではあるまい、視線は俺の顔面に注がれている。

 わざとらしく首を傾げると、なんでもないよ、と言わんばかりに手を振ってきた。なら見るなよ、とは言わない。チラと手を振った女子の隣に目を向けると、目尻が赤く装飾された鋭い眼球に捉えられる。艶やかな黒髪をボブヘアにしていた。

 良く知っている。

 丸首のセーターから覗く鎖骨に記憶が刺激され、何回か共にした夜を思い出す。華奢な身体からは想像が容易な胸に物足りなさを感じたことは秘密だ。

 俺はそこで少しの違和感を覚えたが脳内で頭を振りそれを逃がす。特に会話もなくリュックを背負い直すと、講義室前方の扉に向かって歩き出した。鉄製の大扉がいつもより重く感じたのは後ろ髪引かれる何かが、俺から、もしくは彼女から発せられていたからだろうか。否、前者はない。何故なら現在俺の腕をバドミントンの筋肉痛が襲っているからだ。

 新鮮味をなくした地下鉄の構内を歩きながら腕時計を確認する。覚えてしまった授業終わりの時刻表を頭の中で広げると数分間の余裕があり、足をトイレがある方向へ向けた。

 甲高い笑い声をあげる学生とすれ違い男子トイレに入ると、独特の異臭に少し顔をしかめながら用を足す。成人男性の平均身長を図ったわけではないだろうが、ちょうど視線の先に小さな注意喚起が貼ってあった。『お酒の失敗はアナタの失敗!』という見出しに付随して暴行を加えようとする図と胃の内容物を吐く行為、要するに嘔吐している図が描かれていた。

 また、違和感が俺を包む。

 トイレを後にして目的とするホームに降り立つと、前方には霜月の終わりにも関わらず脚を曝け出した女子学生がいた。正反対にニットにダッフルコートを重ね、動くたびにモコモコという効果音が発生しそうな男子学生と談笑している。分厚い化粧の赤い口紅が妙に視界に入り、先ほどから胸に渦巻く違和感に突き刺さる。

 分かったっての、と差し出される手を無理くり掴むような気持ちで違和感を受け入れた。

 このひと月で何度も経験した”それ”に身体が慣れつつある。以前の様な気持ち悪さはなく、先ほど情事を思い出した際も胃からせり上がる感覚は皆無だった。

 感じた事と言えばどくどくと波打つ自身の欲と、比例して立ち上がるものの気配だけだった。

 成長したものだな、と自虐的に笑ってしまう。奥歯を噛み締めるように堪える嗤いを轟音と共にやってきた電車が掻き消してくれた。

 例え物事が失敗したとしても、その失敗をしたことは糧になる。失敗したことで学ぶこともあれば、失敗したことで辞める決断ができたことも成長と呼べてしまう。人のすべての行動は糧になる。反復もそうだが、新たな経験など養分をたぷたぷに含んだ水風船のように弾ける。

 そう、それが成長なのだ。

 昨日の自分より、今日の自分。

 今日の自分より、明日の自分。

 だから明日も、今日の自分を恨み続ける。

 

『かしこまりました、二名様でご予約ですね』改札を抜けた先で、耳に当てた携帯から綺麗な声が聞こえる。電波を介しても美しく響く声は勝手に想像を駆り立て、発生源を頭の中で美化してしまう。

「すみません、お願いします」

『では、お待ちしております』

 忙しいのか、失礼します、と言い終わる前に電話が切られた。何度か経験した予約という作業にも慣れつつある。この予約という作業しかり、アルバイトしかり、世の中で人が苦手としていることの殆どを場数が解決する場合がままあるという事を大学に入ってから感じた。新たな環境に身を置くことが多くなったからだろう。

 待ち合わせの大時計に近づいているうちに視界がひらけた。低く無機質な天井は消え、今度は千葉の星空が降ってくる。空気の澄んだ空は高くより鮮明に大三角形を認めることができた。

 街灯の並ぶロータリーに一際明るく照らされた一角がある。花壇と一体となった大きな時計の前にはささやかなベンチが設えられており、憩いの場として休日には子供のはしゃぐ声がこだまするのだろうと想像できる。そんな場所も夕方、陽が沈んでしまえば早くも酔いのまわったサラリーマンやこれから夜の街に繰り出さんとする若人が群がり始める。

 その酒池肉林を夢見んとする一団から離れた位置、手持無沙汰に脚を交差させて立つ女子が見える。俺は奇声をあげる集団を横目に彼女の方向へ進んでいった。

 所謂萌え袖というのだろう、白のタートルネックニットの袖を弄ぶのに忙しそうで俺には気付いていない。ミモレ丈の赤いスカートに大人っぽい印象を抱く。程よく引き締まったふくらはぎは黒いタイツに包まれていた。

 どんなふうに脱がそうか。そんなことが第一に頭をよぎり、少し自分に嫌悪を抱く。

「すまん、遅れた」大時計を見ても遅れてはいないが、そう言うだけのメリットがこの言葉にはあると思う。

 俺は折本かおりにそう声を掛けた。

 彼女はハッとしたように顔を上げた。「あ、比企谷」と言い、恥ずかしそうに袖を隠す。「ううん、全然遅れてないよ」とはにかんだ。

 俺はわざとらしく腕時計を確認して言う。「確かに、お前が早すぎるんだな」

「ちょっとー、なにそれ! 私が楽しみにしてたみたいじゃん!」

 折本は手を握りこみ優しく殴って来るが、それを躱して先ほど予約した店へと向かう。後ろからタタタッと小気味いい足音がしたと思えばポケットに突っ込んでいた俺の右腕に絡みついてきた。腕の組み方一つにも人の性格だったり癖が出るのだと知った。彼女は左腕を通し、右手を俺の肘の近くに添える癖があった。身体をくっつけるその仕草に胸の感触がよく分かる。

「楽しみじゃなかったのか?」少し背の低い彼女の長い睫毛を見つめながら話しかける。

「それはまあ、楽しみだったけど…」

 恥ずかし気に、しかし満足そうに唇を尖らせる様子を見て俺は視線を前方に戻した。歩けば十分ほどで着くだろう。ただそこで再び右方向に意識を引っ張られたのは懐かしさからだろうか、数日前の記憶が掘り起こされ、”夢”という単語が頭を掠めた。

「どうしたの?」折本がこちらを上目遣いに覗き込み、そこに答えがないと悟ったのか今度は俺の視線の先を追って特徴的な店の外観を捉える。「あー、サイゼ! ウケるんだけど!」

「いや、ウケねーから…」会えば一回は行われるこのやり取りに軽く辟易しつつ足を更に進めようとするが、腕の拘束元が移動せず身体がつんのめる。「なんだよ」

「いいよ」

「は?」

「だから、サイゼでいいよって言ってんの!」

 折本は歯並びを自慢するように笑い、俺の腕を強引に引っ張り始めた。

「いや、でも…」「好きなんでしょ?」「まあ好きだが…」

 ならオッケー! といつの間にか移動した手が俺の掌を掴み、そのまま指を絡めると所謂恋人繋ぎの格好になる。

 彼女の背を追従する俺の頭の中は、過去のサイゼを馬鹿にされた記憶や折本の変化に支配されていた。なんてことはなく。ただただ予約キャンセルの電話を掛けなければいけない憂鬱さに包まれていた。

 

 折本を先に行かせて電話を掛け、迷惑そうな声に謝罪をした俺はミラノ風ドリアとその他数品を平らげた。ついでに折本の残飯も食べさせられ、腹を擦っている今に至る。

 テーブルの上のグラスに手を伸ばそうとして空振りに終わる。今折本が食後のコーヒーを取りに行ってくれているところなのを思い出した。戻した手をそのままポケットに突っ込み携帯を取り出す。写真フォルダをタップし隔離されたファイルまで辿りつくと、そこには折本のあられもない姿を納めた写真が十数枚保存されていた。情事そのものの記録はないが、一糸まとわぬ身体で寝そべる姿や、マジックミラー越しに撮影したシャワーシーンなど様々だ。

 沸騰して気泡のはじける劣情を抑えつつ辺りを見渡した。壁際のテーブル席の為後ろから見られる心配はなく、右側は仕切り、左のテーブルは空席になっている。折本がカップを両手に抱えて戻ってくるのが見え、伏せるように携帯を置いた。

「お待たせー」ゆっくりと二つのカップを置いた。

「サンキュ」

 ブラックのままでそれに口をつけ、不安や動揺、怯えを黒く濁った液体で流し込む。身体の芯から堕ちなければならない。そうしなければいけない。

「どしたん、比企谷」気付けば折本がカップを持ち上げこちらを見ていた。少し怪訝な表情を見せつつ一口啜る。「なんかいつもと違うね」

「そ、そうか?」飲み下したはずの動揺がひょこっと顔を出してしまう。

「うん、あー、いや、どっちかっていうと前の比企谷っぽいのか」

「は?」

「あはは、ウケるんだけど何その顔」

「いや、ウケねーから」

 いつもの問答を行いながら俺は動揺を隠せずにいた。そんなことがあってはならない。それを避けるために髪を染め、服装を整え、関係を変えた。そんなことが。「で、どしたん?」

 もう駄目だろうと悟った。なにより俺の反応が正直すぎる。今も驚きに目を見開いてしまっているはずだ。いや、むしろそれを望んでいるのかもしれない。今ここですべてを看破され、邪知暴虐の王を除く手段を一つ一つ削られ、最後の一本まで切り落としてしまえば、もうやれることはないと諦めることができるのではないか。そうなればどんなに楽なのだろうかと。

「言って? 私、比企谷の為なら何でもするよ」

 だから、そんな頬を上気させ、潤んだ視線を俺に向けないでくれ。

 

 ベッド横のソファに深く腰掛け、五十インチはあろうかというテレビを見上げる。まだレンタルも始まっていない映画が観られるようになっていて、すでに映画館で観たにも関わらず惰性で流している。期間限定や先行公開という言葉に弱いのは世界共通なのかもしれない。コンビニのおにぎりは同じ商品を売る期間で変えて新商品と謳っているらしい。それで売れるのだからどうしようもないが。

 手元の携帯に目を落とすと出番のなかった折本の画像が表示されていた。ゴミ箱のボタンを触ろうかというところで風呂の方からシャワーの音が止まり、画面を切ってリュックに突っ込んだ。

 薄いバスローブを羽織った折本が柱からこちらを覗く。それに気付かないふりをしているとしびれを切らしたのだろう、ちょこちょこと近づいてきて隣に腰掛ける。俺が黙って腰に手を伸ばすと水滴のついた頭を肩に乗せてきた。

「これ、最近有名になったやつだよね」折本がテレビを指さして言う。

「そうだな」

「なんだっけ、外国だよね、ヨーロッパのバンド」

「イギリスな」

「そうそう! 結局どんな映画なの? 面白い?」

 俺は想像を膨らませる。愛の在り方だとか、家族の在り方だとか色々浮かんだが、この手のノンフィクションに無粋な考察はいらない気がした。彼の人生で、すでに終わった時間に意味を持たせるのは自由だが、彼自身がまっとうしたものを語る気にはなれない。

「さあ、でも、見てもいいかもな」

「なにそれ、ウケる」

「べつにウケねーから…」

 それから何分そうしていただろうか、一人で抱える苦悩を描いたシーンに胸を痛め、折本が耐え切れなくなったのか俺の袖を摘む。「ねえ」

「なんだ」

「遥のことが好きとかじゃないんだよね」

「ああ」

「必要なことなんだよね」

「ああ」

 数秒の沈黙のあと、折本は俺の首に手を回し頬にキスをしてくる。それを受け入れ口の中でつつき合う。はだけたバスローブの隙間に手を入れた。

 彼女の意思を押し殺した肯定を全身で受け止め、応える。力いっぱい抱き心の中で涙を流した。

 ベッドは軋み、不協和音を奏で出す。

 ピッチもなにもあっていない、外れたキーで謳いつづける。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 材木座の携帯が軽快な音を鳴らしLINEのメッセージが届いたことを知らせる。それを手に取ると相模と表示されていた。材木座はパソコンの画面に映るツイッターアカウントの操作をやめ、一度携帯でも触ろうかと背もたれに体重を預ける。すると椅子が悲鳴を上げるように軋み、ひっ、と言いながら体制を立て直した。

『見つけました』というメッセージと共にURLが貼られていて、相模と秦野がウイルスでも送って来るのではないかという懸念を抱きつつタップした。一秒と経たず現れたページは見覚えのあるアイコンで、アイドルグループ出身の女優がCMをしているフリーマーケットサイトだった。材木座は画面の大半を占める写真に視線を走らせ、その下のテキストエリアに目を向ける。

 そこで画面が暗転し、『八幡』という文字と赤と緑のボタンだけの世界になる。軽やかなメロディも急な来訪には不快になることもあると今知った。しかし相棒の登場となれば話は別だ、エンターキーさながらに緑のボタンを、ッターン! と押し、耳に当てる。

「我だ」材木座は鼻から息を吐き、酔いしれる。

『よお、材木座』

「ふっ、久しぶりだな。八幡よ」

『いや、一週間もたってなけどな』

「もー! そこは感動の再会を演出してくれー!」

『はいはい分かった分かった』呆れた声を出し、同じニュアンスを含むため息も追加したダブルアタックに耐える。『で、今はどんな感じだ?』

「ふっふっふ」待っていた言葉に思わず笑みがこぼれる。「聞きたいか、八幡」

『そんな自信満々だと期待しちまうぞ』

「存分にしてくれてよい!」はっはっは! という高笑いに、コンコンというノックの音が割り込んでくる。「はひゃい!」

「うるさいよ!」騒音に反応した材木座の母親が声を荒げた。

「す、すまぬ母上」

 ぶつぶつと小言を言いながら離れていくスリッパの音に耳を澄ませ、いつの間にか離していた携帯を再び耳に当てる。「我だ」

『よくそのテンション保てるな』

「ええいうるさい! とにかく報告させてくれ!」

『ああ、頼む』

 それから材木座はアカウントの動き具合を説明した。海老名姫菜に協力してもらったハイセンス系アカウントの調子が良いこと、意識高い系ブログが変な方向に走り秦野が投資を始めたこと、そして遥の彼氏の裏アカウントに接触できたこと。遥の彼氏、長いのでハルカレシと呼ぶことにするが、そのハルカレシが推しているグループのエース級アイドルの卒業公演がクリスマスイブにあるという。今をときめくトップアイドル、テレビをつければ見ない日はない。そんなライブのチケットはプレミア、既に当選発表は終えているが、そのハルカレシも手に入れることはできなかったらしい。悔しさを滲ませ、ツイートを乱発していたのを材木座は見逃さなかった。

 チケットが当たったと謳い、材木座は巧妙に近づいた。二次元にしか興味のなかった材木座はそのアイドルを勉強し、気付けば出る番組をすべて録画するほどにはまっていた。ただそんなことはどうでもよく。チケットは当たったものの、どうしても外せない予定が入る可能性があることを匂わせる。同じ地域の大学生で、そのアイドルに対して強い愛を見せてくれればチケットを譲ることも考えると誘い込んだ。

 そしてそれが功を奏する。食いついたハルカレシを気に入ったふりをして近づくことに成功した。番組を見れば語り合い、ニュースがあれば送り合った。ほとんど材木座個人の入れ様にも感じられたが、それは話さずに八幡に説明した。

『で、必要なのが』

「ふむ、そのアイドルの卒業コンサートのチケットという訳だ」材木座は八幡の”作戦”を理解していた為に気を吐く。「見つけたぞ」

『まじか』八幡の驚く顔が伝播してくる。

 それに気を良くしたいが、材木座の目の前に表示された画面を見るとそうはいかない。十二月二十四日、卒業コンサート、アリーナBブロック。

 九万五千円。

 材木座は顔をしかめる。定価一万のチケットが大体十倍の値段設定になっていた。アイドルの最後の雄姿を見たいという思いの足元を見た行為だ。材木座は八幡の事関係なく憤りを覚えた。しかし、それを伝えると、『よし、買ってくれ』と即答されるものだから、材木座は目を瞬かせるしかなかった。

「ほ、本気で言っているのか? おぬし」

『ああ、売れる前に早く』

「ほとんど十万だぞ? 八幡?」

『大丈夫だ、金ならある。それにいい席の方がいいだろう。喰いつきも良くなるし、さっさとチケットを見せた方が信憑性も高くなる』

「しかし…」としぶる間もなく、『頼む、材木座』と芯の通った声で言われてしまえば材木座の指は自然と購入ボタンに触れた。

「買ったぞ、八幡…」

『すまん、助かる』八幡の声は本当に痛ましく、材木座の脳内でこだまするようだった。『支払い番号が送られてきたら教えてくれ』

 息を切る気配に、材木座は慌てて呼び止める。「は、八幡よ!」

『ん?』

「いいんだぞ! 我は基本暇だからな! ゲーセンでも図書館でもどこでも付き合ってやるわ!」材木座は唇を噛み、どうしようもなく溢れる不安と言葉をおしとどめる。「八幡とならデスティニーランドもやぶさかでは…」

『いや、それはいい』

「ひどいっ!」

 材木座の悲痛な叫びが届いたのか、携帯の小さなスピーカーが震えた気がした。くすくすと堪えきれない笑いが洩れて聞こえてくる。

『…はあ、さんきゅな材木座。でももう少しなんだ』

「ふむ、ならば終わり次第我の薦めるゲームセンターに連れて行ってやろう」

『ああ、頼む』

 その言葉を最後に電話は切れ、材木座のいる部屋は静寂に包まれる。

 痛いくらいの静寂を掻き消すために卒業公演を迎えるアイドルの歌を流し始める。ヘッドフォンを介した音楽が耳をつんざくほどに鳴り響き、正しいか分からない自分の行動を有耶無耶にする。

 マウスを掴み、また一つ新しいツイートをした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 月光が薄くかかった雲を貫通して家々を照らし出す。比企谷小町は生徒会の手伝いですっかり日の沈んでしまった住宅街を歩いていた。あと数ブロック進めば比企谷邸が見えてくることだろう。

「はあ…」人通りの少ない路で小町のため息が空に消える。白く凍った空気を見るとより一層辺りが寒く感じられ、マフラーに顔をうずめた。

 学校指定のコートは見た目以上に暖かく、耐え切れないほど寒ければ走って家に帰るのにと小町は思う。夜半のコンクリートに溶け込むローファーで小石を蹴り飛ばした。凍える手をポケットから抜き取りその手に握られた携帯を表示させると、開いたままのトーク画面が現れる。『了解』とだけ記された吹き出しはひどく簡素で、読むだけで小町周辺の空気が冷えた気がした。

 クリスマスイベントの手伝いは急務でもなく、偶々声がかかっただけなのだが小町は受け入れた。帰りは暗い時間になっちゃうかもという忠告も参加する意思をより硬くするだけだった。今日は小町が夕飯を作り、兄である八幡を待つ予定の日だったが、解放される理由を探してしまっていた。小町にとっては寝耳に水の要請は非常に楽しい時間であったが、没頭する度合いに比例して時間は残酷に進む。気が付けば小石は側溝に身を投げ、チラリと顔を上げれば表札には比企谷と刻まれていた。特に聞いていなかったがリビングの電気は点いていて、兄が家にいることが分かる。

 意外だな、と小町は感じた。夕食の決まりから解放されれば今の兄であればどこかに出かけているのではと思っていた。女の人を連れ込むのも時間の問題だろうな、などと勘繰ってもいた。

 門扉を開け、玄関のドアも開けるとようやく一息ついた。温度差に汗が滲み、急いでマフラーを外す。リビングに顔を出そうか迷い、一度部屋で着替えて来ようと歩を進める。階段を昇った先にある兄の部屋は扉が開け放たれていて、学習机の引き出しに見つけた避妊具を思い出す。嫌悪感に舌を突き出して自分の部屋へ向かった。

 着替えも終わり、このまま寝てしまおうかと考えたところでお腹が悲鳴を上げた。空になった胃が質量を求めているらしい。一分ほど悩んだ後で、仕方なくリビングに降りることにした。どうせお風呂入るしね、と言い訳しながら階段を降りる。ドアノブに手を掛け、ゆっくりと押す。食卓に兄の姿を捉え少し身構えるがその上体が卓上に突っ伏しているために思わずこけそうになる。なんでそんなところで寝ているんだ、と思いながら近づくと兄が作ったのだろう夕食が広げられていた。それも二人分。

「なにこれ…」小町がぼそっと呟くと、兄の背中がびくっと震えた。ジャーキングだったか忘れたが、がばっと跳ねた兄の顔も筋肉に起こされたことで戸惑っていた。

「お、おお」八幡は目を瞬かせ、目を擦りながら夢と現実をすり合わせているようだった。「おかえり、小町」

「ただいま…、もしかしてお兄ちゃん夜ご飯食べてないの?」

「え、ああ、まだ食ってない…、って冷た! 俺どんだけ寝てたんだ…」

 兄の触った大皿にはラップが掛けられていて、元々一人では食べる気がなかったのだと気付く。よだれを拭いながら立ち上がり、慣れない手つきでレンジに皿を入れる背中を見つめてしまう。「なんで」

「え、小町食ってきた? じゃあ親父にでも食わせるか…」

「そうじゃなくて…」

「ん?」兄は半分くらい聞いていないのか、ピッとボタンを押した。

「お兄ちゃん遊びに行くんじゃないの」小町は自分の声が震えていることに気付かなかった。「お兄ちゃんはどっかいくんじゃないの」頬を伝うものの感触でようやく気付き、鼻を啜る。

 兄は困惑しているのか、手を身体の前から動かせずにいる。「ど、どうした小町」

「お兄ちゃん、はもう他の人とご飯食べる、んじゃないの」鼻水を袖で拭いたのをきっかけに兄がティッシュ箱を取ってくれた。「ありがと…」

「すまん小町、全然わからん」

 頭上にクエスチョンマークの見える兄の表情が鬱陶しく、思わず顔を背ける。「外でばっ、かりご飯食べるんでしょ…」

「え、そうなの?」

「そうだよ!」ぐずぐずと泣きじゃくる小町は兄との感情の差に困惑し始めていた。アホ毛を揺らした兄のアホ面に胸の内のモヤモヤが萎み始める。ここまで悲しい気分になった元凶の記憶を辿る。「あれ…」小町の涙が急に止まり、兄のクエスチョンマークが一つ増える。「お兄ちゃんいる…」また増えるのが分かった。

「小町ちゃん…? 情緒がおかしいわよ…?」継続して困惑している兄の口調もおかしくなる。

 兄は変わってしまった。見知らぬ女性と遊ぶことが増えた。そして、小町とご飯を食べることが少なく…なっていない。「なってない」

「何が?」

「少なくなってない」

「だから何が?」

 兄はひと月前からバイトをずらすようになった。日曜日に入ったり、逆に平日に休んだり、今まで気が付かなかったが、小町とご飯を食べる日は四月からずっと変わっていない。

 ずっと、変わっていない。

「お兄ちゃん、変わってないの?」

 兄は首を傾げるが、眉根を寄せて少し逡巡した後、小町の頭を撫でた。

「大丈夫だ小町、兄ちゃんは変わらない」

 髪型や髪色、服装まで変わろうと、ずっと変わらない腐った眼が確かにある気がした。

 その日は久しぶりに兄の腕で泣いた。抱き締める腕が優しく、それは女の人と遊んで慣れたのかと想像してしまったが、あの日小町に誓ってくれた兄がずっといたのだとようやく理解できた。

 変化しない為に変化する。変化し続けるから変化しない。そんな難しいことは小町には分からない。ただ、変わらないものがあると目の前の腐った瞳が教えてくれた。

 許容しないで強要する方がおかしい。誰の言葉だったか、まあ、どうせどこかのロクでもないない人が言った言葉だろう。

 久しぶりに、帰ってきた気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色はLINEを確認すると小さく舌打ちをし、踵を返した。帰って来ると思っていた千葉ではなく、東京方面に乗り込んだとの連絡が入ったのだ。改札に定期券を通すと残高が表示される。多くないそれを見てどこかでチャージしなきゃなと一色は思う。

 比企谷八幡との距離は空き、雪ノ下陽乃の涙にどうすることもできなかった一色の取れる行動はほとんど残されていなかった。一縷の望みを掛けるはターゲットへの突撃、真実を確かめる為のエンカウントしかない。一色は階段を駆け下り、普段は使わない、いつか八幡とデートに行った電車に乗り込む。スクールバッグに光るスカイツリーのキーホルダーはまだ新しく、思い出と一緒にきらきらと輝いていた。

 一色はLINEの画面を再び見やった。『戸部先輩』と上部に表示されたそのスクリーンは今現在、せんぱいの心へとつながる唯一の手段に感じられ、胸が苦しくなる。肝心の『せんぱい』画面にはいつからか返事がない。窓の外を見ると薄暮が広がっているが、もうすぐ闇が全てを飲み込むだろう。街灯が灯り、どこからともなく叫び声がこだまする。ネオンがいやらしく誘う、大人の時間がじきに来る。

「お願い…」

 いつしか一色は胸の前で祈るように手を組んでいた。ビル群に消えゆく光に望みを託すように、強く強く握りこむ。抗えない闇夜などないと信じ、軋むほどに手を握る。

 

 携帯の検索機能を存分に活用しせんぱいの行動を読む。戸部先輩が尾行してくれてはいるが目的地までは分からないだろう。一色は路線図を見て、次の乗り換えで絞ることにした。LINEがポップアップを表示する。標的が乗り換えのホームに移動したらしい。一色も動く。

 かなり移動してしまった。運賃が合計で千円に達している頃だ。トンネルを通過しているため分からないが、頭上には高層ビルが乱立しているのだろう。走っている路線の主要駅は次のが最後で一色は降りることを決意する。扉が開くと同時に飛び降りた。戸部先輩の報告によれば同時刻に到着しているはずだ。ラッシュに揉まれながら階段を昇り、同時に携帯を確認した。

『ヒキタニ君降りた!』

『北改札の方行った!』

『ごめんいろはす!』

『見失った!』

 無能っぷりを確認した一色は画面を落とし顔を上げた。乗換駅でもある為、改札を出ずに移動していた場合は万事休すだろう。改札を出て振り返ると西改札口という旨の案内が天井から吊り下げられていて、素早く視線を走らせた。北という文字に敏感に反応し、駆け出す。

 人の間を縫うように走る制服姿の一色。スーツを着たの大人たちが驚きにまず目を見開き、一色のスカートから伸びる脚に視線が移動する。かと思えば顔を見られ、汚い欲を一秒に満たない時間で吐き出された気分になる。普段は気にならないその視線も、今は何故かとてつもなく気持ちが悪く、助けを求めて叫びたい気持ちだった。

 肩がぶつかるたびに、すみません、と小さく叫び、また足を動かす。それを繰り返し、北口という文字の頻度が増える。ビジネス街が先にあるのだろう、堅い服装に身を包んだ大人が一色に向かって歩いてきて思うように進めない。小綺麗なオフィスレディも今はただただ歩みの遅さに不快感が募る。頬が垂れ始めた中年を避けると、視界の端に何かを捉えた。

 この場にそぐわない格好。スーツでもなければオフィスカジュアルにも属さない。若者だったが、それに収まらない服のセンス。灰色がかった髪の毛。人の深層の一歩奥を覗き見るような、猫背。

 キュッ、と音がした。その音が一色のローファーから発せられたものだとは、一色の周りは気付いているが、本人は気付いていない。

 それほどまでに無我夢中だった。

 バスケットボールの攻守の切り替えよろしく、一色は反転した。

 背広の後姿が眼前に灰色の壁のように立ち塞がる。浅く呼吸をするように小さく上下する光景は、巨大な生き物のうろこが蠢いているような不気味さもあった。

 それでも、一色は進む。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 向かい合って一色の姿を確認できた先ほどとは違い、背後からぶつかられた大人たちは露骨に嫌な表情をする。分かっている、私だってそんな表情をしてしまう、と一色は申し訳ない気分になる。しかし脚は止めない。

 微かに見える特徴的な髪色を時折背伸びしつつ視界に入れる。ここで離れてしまったらもう会えないのではないか、そんな勝手な想像が頭をよぎり、一色を焦らせる。躓き、ぶつかり、冷たい罵声を吐かれながら手を伸ばす。

 灰色のロングコートに手が掛かった時、一瞬空気が弛緩したかのように音が消えた。

 ラッシュを抜けたことで人ごみを外れ、小さな空間へと足を踏み入れたところだった。

「な、なんでお前…」

 ようやく捕まえたせんぱいの表情は、私の求める弱い彼の表情だった。

「やっと会えましたね、せんぱい」

 よくも可愛い後輩を、なんて小言はあとにしてあげます。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は虚像を張る。

 

「な、なんでお前…」

 呼び出されて訪れた東京。その地下街を歩いていると背中を引かれる感触がした。気のせいだと放ることもできたが、嫌に残った静寂と切れるように吐き出される息が俺の首を動かした。

 一色いろはがそこに立っていた。

「やっと会えましたね、せんぱい」

 もう二年近くになるだろう。生徒会選挙から変わらない悪戯めいた笑みを口元に称え、いじらしそうにコートの裾を摘むしなやかな指先が見える。なんども惑わされてきた、紛れもない一色いろはだった。

「あ…」思わず求めてしまいそうになった。

 背後に伸びる希望の轍。この電車に乗ってきたのは彼女に会いに来たのではないか、そんな気までしてきたのは俺の意志が弱っているからだろうか。いや、そんな問答に意味は持たない。俺は俺をやめたがっている。今の俺をやめたがっているのだ。

 ただそれを許さず、戻れず、しかし絶対に許してくれる視線が俺を刺した。

 約束をしていた相手、雪ノ下陽乃が柱にもたれこちらを見ていた。一色の背後に位置している為彼女は気付いていないだろう。

 突然の来訪により陥落しかけた、いや、一度陥落した意志は陽乃さんの存在一つで再び凝結した。助けを求めかけた口元までもを氷漬けにされたような、一瞬の出来事だった。

 会ったばかりだというのに、言い残したことがあるように口を開く俺に一色が首を傾げた。「どうしました?」

 俺は意識を保ち、首を振る。「…いや、なんでもない」身体を一色の方に向けると裾を摘んでいた手は離れた。代わりにと言わんばかりに一歩近づいてくるのがあざとい。チラと陽乃さんを窺うが、近づいてくる気配はない。「どうしてここに一色がいるんだ?」

 俺の問いに一色は、そんなのいいじゃないですか、と言おうとしたのだろう、というか一回言ったのだが、咳払いをして「せんぱいに会いに来たに決まってるじゃないですか」と言い直した。

 一色の瞳が有無を言わせないもので、どうやってここまで、とは聞けなかった。しかし彼女に付き合うつもりもなく、俺は息を吐いた。「で、何の用だ」

 ぱちくりと瞬かせたガラス玉のような瞳が一際見開かれたのは、俺の言葉が冷たく突き放す類のものだったからだろう。それもそうだ、そのつもりで言ったのだから。

「なんですか、それ」一色が顔を伏せ、肩を震わせる。「せんぱいの様子がおかしいから会いに来たんですよ? その意味が分かって言ってるんですか」

「…そうか、なら心配ないから帰れ」

「ふざけないでください! なんですかその髪! その気持ち悪い笑い方! 何もないわけないじゃないですか!」

 一色の言葉は地下街には、いや、群衆には似合わない声量で周囲の気を引きつけてしまう。俺は壁際に寄り、柱の陰に隠れるように立った。一色もそれに追従するように近づいてくる、が俺はさらに言い放つ。「お前には関係ないだろ」

 彼女の肩がピクッと震えるのが分かった。「どうしてそんなこと言うんですか」潤んだ瞳で見つめてくる。「なんで関係ないなんて言うんですか、教えてください、何があったんですか」

――比企谷君はね、大人になったんだよ。

 俺と一色の間に透き通った声が侵入し、二人してそちらを向く。俺までもが驚きを抱いたのはその声が冷たさと一緒に、怒気を孕んでいたからだろうか。しかし、萎縮しそうな俺とは反対に一色の眼は突然の来訪者を強く睨みつける。「大人? せんぱいはまだ未成年ですよ」

「一色ちゃんの大人の定義だけは、つまらない大人と一緒なんだねー」少し高いヒールを鳴らし、近づいてきた。

「は?」一色の声質は年上に向けるものではない。

「だから比企谷君に避けられるんだよ」

 一色が動揺するのが分かった。自覚はしていただろうが、人から宣告されるのはまた意味が変わってくる。自身で死を感じるのと、医師からそのステージを聞かされるのとはまた違うように。

 なおも陽乃さんは続けた。「一色ちゃんは比企谷君が好きなんだよねー」そんな事を、意地の悪い顔で言う。

「なっ…!」一色が敏感に反応し俺に視線を寄越したが、すぐに元凶に向き直る。「それが、どうしたって言うんですか」

「ダメ男で、優しい先輩が好き、だったっけ?」陽乃さんは膝丈のスカートを揺らし、俺の元に歩み寄って来る。「一色ちゃんだけがその魅力に気が付いている、私だけの先輩」、かな? とこちらを見る為、俺は顔を背けた。

 そこで陽乃さんが腕を絡めてきた。まるで生き物のように、逃げるなよ、と言わんばかりに絡みつく。音もなく蠢き、気付けば指と指を絡めていた。

「何してるんですか!」と一色は叫び、「せんぱいも!」と追加した。

 拒絶をしない俺に腹を立てているのだろうか、それとも失望を覚えているのだろうか。一色の顔からはその両方が見られ、脈が速くなる。

「一色ちゃんは、比企谷君が浮気するようなダメ男でも好きでいられる?」

「は? なに言ってるんですか?」

「聞こえなかった? 比企谷君が何人もの女の子とエッチするような男の子でも、好きでいられる?」

「ちょっと言っている意味が分からないですけど、そんなことある訳ないじゃないですか」

 一色の顔は陽乃さんの虚言を看破したと言わんばかりに威勢が戻る。ただ哀しいのは、それが虚ろなものではないということぐらいだろうか。

「比企谷君に訊いてみたら?」

 陽乃さんが誘うように頭を俺の肩に乗せる。

「聞く意味もないですよ、そんなこと」俺と陽乃さんの距離感に苛ついているのか、一色に焦りの様なものが見える。

「あ、怖いんだー」

「はい? はいはい、分かりましたよ」一色は不快感を隠さず陽乃さんを睨みつけ、それからこちらに顔を向ける。「せんぱい、そんなことないですよね?」

 美女二人が言い争う、傍から見ればだが、光景は非日常を演出し、俺の意識をどこかに飛ばしてくれていた。それを世間は逃避と呼ぶのかもしれないが、一色の言葉には反応ができなかった。「せんぱい?」だから、二度目の問いかけにも俺は、何も言えない。「せんぱい!」

「もーやだなー、一色ちゃん、本気にしちゃってー」確執が音を立てた瞬間、陽乃さんが快活な声を挟む。「もしだよ、もし。もし比企谷君がそうだったらっていう話」

「ふざけないでください! ねえ、せんぱい、何とか言ってくださいよ」

 一色が近づいてきて、俺の胸倉を縋るように掴む。力のない指先で、何度も指を動かしていた。陽乃さんは絡めた指を強く締め、無言で促してくる。

「俺は…」そこで気付く。

 あの気配。

 口を開きかけたところで、一色の懇願も陽乃さんの強要も関係のない、あの気持ち悪さが襲いかかってきた。一色の小さな白い手を見ると、さらに気分が悪くなる。急激な浮遊感に陥り、腕が絡む陽乃さんに体重がかかる。「比企谷君? 大丈夫?」

 一色も察したのか、怪訝な顔をした。それに構わず、俺は一色の肩を押す。

「すまん、一色」後方へと押し出された一色の顔は、徐々に現実を認め始めるように変化する。「これ以上、俺に近づかないでくれ」

 俺の言葉が一色の何かを開錠した音が聞こえた気がした。開けてはいけない、開けたくはなかった重い扉が、ガチャリと音を立てて開く。

 俺があの日彼女に誓った約束は、俺自身の手で破り捨てることとなった。

 一色の足元に水滴が落ちる。

 頬を伝い、小さな水滴は重力に従って落ちる。

 一色は不安定な足取りで数歩下がると、来た方向へと走り出した。

 ローファーの乾いた音が離れていくのを聞き、俺の頬を何かが伝う。陽乃さんは腕を引き、気持ちの悪さで前かがみになる俺を支えながらどこかへ連れて行った。今までとは違う趣旨のものだとは気付いていた。気持ちの悪い女性への嫌悪、俺と言う骨格と皮膚に過ぎないものに惑わされる女性への悲観。それとは違う、俺を理解し、好意を抱いてくれた数少ない女性へ失礼な態度を取った自分への煮えたぎるような失望がそこにあった。

 カチャンと音が鳴り、そこが多目的トイレだと分かった。

 陽乃さんが俺をトイレの蓋に座らせる。気持ちの悪さによる嘔吐感はなかった。彼女もそれを察しているのか、朧気な視界の俺に口づけをしてくる。舌を入れ、口内を舐める。息継ぎも忘れ、夢中になる。

 いつしか彼女は俺に跨り、首に手を回してきていた。

「ごめんね、醜い私の嫉妬なの」

 ごめんなさい、ごめんなさい、と彼女は何度も謝りながらキスをする。垂れた唾液が汚すことなど厭わずに、陽乃さんは貪るようにキスをする。いつしか俺も手を回し、許しを請うように深いキスをしていた。それは一色に対するものなのか、陽乃さんに対するものなのか、今はただ、彼女の縋ることでしか保てない自我を投影していた。

 彼女に溺れている俺は、きっかけすらも見つけられずにいた。先の見えない暗い海を泳ぎ続ける。目の前に見えた仄かな灯りだけを頼りに、不確定な未来を求め続ける。

 終盤の序章は終わり、クライマックスが訪れる。

 エンドロールは未だ見えない。

 




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