12月の中旬にはいったくらいですかね。
また読んでもらえると嬉しいです。
沢山の感想ありがとうございます。すごく励みになります。
またお手すきの際にどうぞ。
比企谷八幡は虚像に陰る。
自らを貫く感触とはどんなものなのだろうか。鋭利なものではなくとも、身体の中を異物が出たり入ったり、それはどんな気分なのだろうか。男に生まれた俺にはそれは分からない。いや、分かることもできるのだろうが、今現在その気分や好奇心はないし、今後もその予定は未定だ。
まあ、眼前で口をだらしなく開ける黒髪の少女を見れば、それがどんなものなのかは想像に難くない。ただしこれが演技でなければ、という注釈付きではあるが。
それを抜くと彼女は少し息を吐き、約束事のように四つん這いの格好になった。ルーティーンのように手順を踏むこの行為に意味はあるのだろうか。小さなお入り口をこじ開けるように、刺した。愛のないこの行動になんの意味があるというのだろうか。全身に力が入り、身体が震える。身体の芯を快楽という電気信号が貫く。愛を超えるそれが世界に蔓延しているから、それには意味があると結論づけられるのかもしれない。ゆっくり抜き取るとまた、少し喘ぐ。獣のように気を吐く彼女を貫いていたこれは、俺が一瞬味わった快感という電気信号を持続的に発生させる謂わば電化製品の様なものなのかもしれないな、などと考え、自家発電とは上手く言ったものだ、と発明したどこかの誰かを憂う。
そしてその電化製品を愛おしく舐めているこのボブヘアを、哀しく撫でる。
目の前の信号が黄色に変わり、ブレーキペダルを強く、しかし優しく踏み込む。歩行者信号のない交差点ではタイミングが計れない。癖で助手席に左手を伸ばし、慣性に圧される彼女を支えた。車が完全に停車すると彼女の胸に触れていた俺の手が払われる。そういうのいらないから、ということだろう。これぐらいの距離間だから俺も関係を続けられていた。情事だけを行う、その関係を。
彼女の膝には手触りの良い紙袋が置かれていた。ホテルに行く前、ある事を頼んだ代わりに買わされたもので、もしかしたら世界一有名なパリのブランドロゴが入っていた。十万円をくだらない財布だったが、仕方ないと言い聞かせて購入した。使い道もなく貯金し続けた金がこのひと月少々で吹き飛んでいく。つい先日もフリマサイト宛に十万近くの入金をしたところだった。
「約束は守れよ」信号が変わると同時にアクセルを踏む。
「何その言い方、守るって言ったじゃん」顔は前方に向けているために分からないが、心外な、という様子だった。
「ならいいけどな」
「男二人でしょ」と彼女は言い、紙袋を漁り始める。「あとなんだっけ、えーっと…、お、お…」意識が紙袋の中に注ぎ込まれているからか、その続きが出てこず、俺は舌打ちをしそうになるのを堪えた。
「はあ、折本な」なんとかため息に抑え、呆れるように溢すに留めた。
彼女は細長い箱を大切そうに開け、中身を取り出しているところだった。「あー、はいはい、折本ちゃんね」と興味なさそうに言い、「了解了解」と光沢のあるその財布を眺めていた。
「十二月二十四日だぞ」念を押すように確認すると、「クリスマスイブでしょ」と訂正か追及か、それとも彼女なりの確認とも取れる言葉が返って来て少し詰まる。
そうだ、クリスマスイブだ。キリストの生誕を祝う祭りだ。特段信仰がある訳ではないが、去年まで小町と祝ってきたクリスマスだ。
今年は二十五日にしてもらわなきゃな。
すべてが終わり、解放されたその日を夢見て気分が弾んだ。ただその日まで解放されないのだという現実が軋む音を立て、俺の胸を締め付ける。
ブレーキペダルを踏み込むと車体がキュッと音を立てるように停まり、助手席の彼女が驚いてこちらを見る。「なんで停めたの?」
「着いたからだ」
「着いたって、駅じゃん」フロントガラスを覗き込むようにして、辺りを見渡している。「家まで送ってよ」
「今日はここまでだ、用事がある」
「ふーん」
彼女は最後まで不服そうな表情をしていたが、最後には諦め、興味をなくしたように一度も振り返ることなく駅に消えていった。
力が抜け、ハンドルに額を預けるようにして項垂れる。用事などない。一刻も早く離れたかった。しかし、突き放したことで約束が反故にされるのではないかという危惧が今になってゆっくりと湧いてきた。
それでもいいか。
大義もなく走り出したこの旅路に、終止符を打つことなど容易なのだ。やめてしまえばいい。立ち止まってしまえばいい。
やめてしまえばいい。そう考えると身体が震える錯覚を覚える。がたがたと震え、俺の意味がなくなっていく感触が手に取るように分かった。こんなにも汚れたのに、こんなにも。人を欺き、利用し、気持ちを蔑ろにしてきたのに。誰が受け入れてくれるというのだろうか。
堕ちそうな意識のなか、朦朧とする意識のなかで真っ先に浮かんできたのは、陽乃さんの顔だった。俺の骨の髄まで撫でつけるような酷い包容力。その底の見えない暗闇が今ではとても暖かく、居心地の良い場所になっていた。
気付けば自身の身体を弄り、携帯を探していた。車内でばたばたと暴れる男の姿は駅を出入りする人々からすれば滑稽以外の何物でもないだろう。自分でも思う。こんなにも弱いなんて。やっと見つけたが、指先まで凍えるように動きづらい。
早くしなければ。早く呼ばなければ。一人でいてはいけない。独りでいてはいけない。
一種の錯乱状態だったのかもしれない。俺の指は勝手に動き、LINEではなく当分使う事のなかった電話帳を開いていた。指を醜くスクロールし、五十音順の終盤まで滑らせる。『雪』という文字を確認して何度もタップした。通話画面に切り替わる前に耳に当てた。鼓膜にルルルと焦らすような音が響く。早く、はやく、速く。
『はい』透き通る声が聞こえた。
「はる…!」頬を伝う涙に気付かず、叫びそうになった。ただ、違和感が俺の意識をギリギリのところで遮断した。
ソプラノに近い叫びをあげかけた俺を訝しんで、声が聞こえた。『比企谷君?』雪ノ下雪乃の声が、聞こえた。『どうかしたの? 比企谷君?』
ゆっくりとした動作で携帯を耳から離す。暗い画面に浮かび上がるのは『雪ノ下雪乃』の文字だった。一行間違えたのだ。『雪ノ下陽乃』と。
再び耳に当てる。『…谷君? 何かあったの?』その先では細い芯が通っているが、少し狼狽した様子の声がしていた。
「すまん、雪ノ下」
『あ、比企谷君。急にかけてくるんだもの、びっくりしたじゃない』
「間違えたんだ、すまん」
『そう、ならいいのだけれど。まさか姉さんと間違えたとは言わないでしょうね』
「なわけないだろ、指が変なとこ触っちまったんだ」
『あら、指先から進行が始まっているのね』
「おい、なんのことだ、なんの進行が始まってんだよ」
『脳に達したら自我がなくなようだから気を付けるのよ』
「勝手にゾンビ化すんなおい」
『あら、ちがった? ゾンビ君」
「ちげーから、せめて谷つけろ」
『…ふふ』
「ぷっ…」
いつの間にか生気が指の先まで染み渡っていて、身体をシートに預けていた。薄く漂う雲を見つめていると、弓張り月を得意気に隠す。しかし透き通るように見せてしまい、薄っぺらい雲は流されていく。
ひとしきり笑い『気を付けなさい』という雪ノ下の注意で電話は切れた。
再び訪れた静寂に、比企谷八幡の心は落ち着いていた。人の靴音、エンジンの燻り、ハザードの奏、すべての音が現実のものと捉えられ、変わりようのない事実だと教えてくれる。
ギアを握りこみ、ドライブに入れた。
アクセルを踏むと、彼の背中を押すように車は進み始めた。
***
城廻めぐりは何度も時間を気にしていた。会計を澄ましては時計をみて、レジの点検をしては時計をみて、商品整理をしては時計をみてしまっていた。しかし、過ぎてほしいと思う時間ほど長いものはなく、ついには二回確認した内に長針の居場所は変わっていなかった。。
手持無沙汰に棚を整えていると、文庫の新刊コーナーに人影が見えた。城廻めぐりは客がいないと思っていた為少し背筋を正したが、見慣れた店員のエプロンを身に付けていて比企谷八幡だと分かる。城廻は自分の頬がだらしなく上がるのを隠そうともせず近づく。
「比企谷君、何見てるの?」
チラリとレジを見るが当たり前のように人はいない。今日は店長も社員もいない為、店は二人で回していた。監視カメラはあるが殆ど機能していないから自由時間と言っても差し支えない。レジ内の作業が終わった比企谷君は時間つぶしの本でも探しに来たのだろう。
「ああ、城廻先輩」比企谷君は見られていたことが恥ずかしいのか少し頬を掻きながら微笑む。「好きな作家の本が文庫化されたって情報が出てたんですけど」そう言い、かがむように棚を覗き込んだ。
「なんていう作家さん? 一緒に探すよ」
この小さな新刊コーナーで二人で探す意味があるとは思えなかったが、最近はなんだか比企谷君に近づくことが許されているような感覚がしていた。
いや、甘えているのかもしれない。
頭を軽く振り、比企谷君が言った作家の名前を探す。中性的なその名前からは男性か女性か分からなかった。その他出版社と括られた場所から取り出し、彼に渡す。
「すみません、ありがとうございます」
「珍しいとこから出てるね」
「そうですね、時事を扱っているからでしょうか」
作者の漢字を見ても、その結局性別ははっきりしなかった。
「比企谷君は男性の作家さんか女性の作家さんどっちが好きなの?」レジに戻る途中の他愛ない話のつもりだったが、彼が意識が私の口元に注がれているのが分かり、思わず手で隠す。「ど、どうしたの」
比企谷君は、しまった、というように視線を逸らし、慌てて手を振った。「す、すみません。いや、作家に”さん”ってつけるの、いいなって思って」
「え、あ、作家さん、ほんとだ」
私は恥ずかしくなってしまい、両頬を隠す。子供みたいと思われたかと少し反省する。いや、違う。
「いや、いいと思いますよ。尊敬の表れみたいで」
「あはは、ありがと」
彼の視線に粘りつく何かがあったと勘違いしてしまった事を、反省する。
事務所での作業を終わらせ、店から出るとクルリと振り返って比企谷君に向き直った。
「じゃあ、いこっか!」
彼は頷き、私を先導するように歩いた。しかしそれが私の車がある方とは別で、慌てて駆け寄る。「比企谷君、私の車あっちだよ」ゴミ捨てのコンテナ近くに駐車してある軽自動車を指さす。
「俺の車はこっちですから」
「え、車で来たの?」
「はい、お世話になりましたし、今回は俺が運転しようかと」そう言って頭を掻く彼の姿は、違うのに同じで、すこし安心する。「まあ、親の車ですけど」と申し訳なさそうにするのも私としては、すごくいい。ただそれは口に出さず、ドアを開けてくれた助手席に収まり、彼が運転席に座ったところで人差し指を立ててクルクルと回す。「じゃあ、お姉さんが運転を見てあげましょう」
「お手柔らかにお願いします」
プッシュボタンで始動したエンジンは軽自動車よりも迫力があり、それでいてしなやかだった。
アクセルを踏み込んだ彼の横顔はいつかの邪気を見る影もなく、すっきりとしたものだった。
比企谷君が連れて行ってくれたラーメン屋さんは深夜だというのに盛況していて、すでに一組が待っていた。回転の速さは流石と言うべきか、ラーメンが来てから数分で平らげ、帰っていくお客さんもいて何度も比企谷君の袖を引っ張ってしまった。
深夜のラーメンなんて女子からしたらとんでもないことで、夜ご飯を食べずにきていた。しかしぺろりと平らげるのもどうかと思い箸が止まりかけたが、一口含んでしまえば完食というゴールを遮る障害物はあれよあれよという間にいなくなっていた。彼の満足そうな顔が見れて、お腹と心も満足してしまった私の意識はゆっくりと沈んでいった。
意識をゆっくりと引き上げたのは、頭を撫でる優しい手だった。髪を梳くように何度も撫でられ、覚醒しきっていないのにもう一度眠りへと誘ってきた。抗うように重い瞼を持ち上げる。
「あ、おはようございます」
「ん? え、あ、あ!」幸福感に満たされていた身体が一瞬でアドレナリンを分泌し始める。「ご、ごめんなさい! 私、寝ちゃって」
「いやいや、いいですよ全然。どうでした、運転は」
「すごくよかったです…」
いつのまにか景色はバイト先の駐車場に変わり、辺りは静寂に包まれていた。
頭にのせられたままの手は止まっていて、私はぐりぐりと押してみる。すると彼は困ったように笑いながらもう一度撫で始めた。少し傾けた頭を幸せが往復し、このまま時が止まればなんて思ってしまう。
こんなにいいことがあったら、幸せのバランスを取るために何か嫌なことが起きるんじゃないかと、嵐の前兆を感じ取り、城廻めぐりは身体を強張らせた。
なんてことは、まるでない。
城廻めぐりは緩んだ頬を隠そうともせず、もう一度目を瞑った。
***
「お腹いっぱいだからいらない」
リビングから顔を出した母親に素っ気ない返事をし、自室へ入るなりベッドに身体を投げ出した。一色いろはの見つめる天井には、今日の出来事が白黒映画のように映っていた。辿り着き、握りしめたコートの裾と、彼の哀し気な瞳。瞬きをしてみれば、雪ノ下陽乃の勝ち誇ったような笑みまで浮かんできた。
ぎゅっと目を瞑り、逃がすように寝返りを打つ。しかし実際に天井に映し出されていた訳ではあるまい。自分が勝手に想像し、作り出した映像なのだ。瞳を閉じようといなくなるものではなかった。
彼の拒絶と共に思い出される様々な記憶。出会いの場面から生徒会選挙、クリスマスイベントなど一緒に過ごした時間が早送りのように流れてゆく。右から左へと一つ一つの仕草がフラッシュバックして、やがて辿り着く。肩を押されて後退る映像。泣きそうな顔をこちらに向けるが、決して揺れることのない意思を宿した瞳。喉の奥から堪えきれない思いが嗚咽となり、漏れてしまう。
現実が受け入れられず、戸部に連れられて駅を後にしたとき、一色の涙は止まっていた。虚空に焦点の当てられた一色は抜け殻の様な状態で、戸部の掛けてきた言葉も耳に入らなかった。デスティニーランドの一件と言い、重要な場面でこうも振り回される戸部に申し訳ない思いを抱き始めた一色は頭を下げたが、戸部はつまらない冗談を披露して慰めようとしてくれた。千葉駅で別れてから家に帰るまで、一色の感情は無風状態の灯りのように漂うだけだった。そこにあるだけ。風前の灯のほうがよっぽど人間らしいのではないか、そんな危うさを大量に孕んでいた。
それも今、人間らしさをたっぷりと含んだ泣き声に変わる。
赤子のように泣きじゃくり、それはドアの向こうに立つ母親が狼狽するほどのものだったが、思考が一人の人間に支配された彼女は知る由もなかった。
この恋はもしかしたら、彼女の初恋で、初めての失恋だったのかもしれない。
上辺だけを、相手の殻だけを撫で続けた彼女にとって、自らの内から溢れ出る欲求に従ったのは初めてだろう。若気の至りなんかではなかった。ちゃんと調子に乗り、ちゃんと失敗し、ちゃんと叱られて、ちゃんと成功した。そして沢山、間違えた。
一歩進んで三歩下がる。そんな順調ではなかった。一度に十歩進んだ日もあれば、百歩後退した日もある。人は皆そうやって成長する。もしかしたら、いろんなものを削ぎ落して可能性をなくしていく作業が大人になるということなのかもしれないな。そんなことを一色は思った。
何がいけなかったんだろうか、そんなことばかりが一色の頭をよぎる。
もしかしたら彼はずっと傷ついていたのかもしれない。私がそれに気が付かなかったのかもしれない。だとしたら言って欲しかった。だとしたら相談してほしかった。彼の為ならいくらでも協力したし、できない事でも力になるつもりだった。
別れを告げられるのは残酷だ。言う側は整理を付けて言うのかもしれない、しかし言われる側は突然爆弾を落とされたようなものだ。平和な一日をぶち壊す、爆弾を。いや、予兆はあったのだろう。それを一色はないものとした、きっと何かの間違いだと言い聞かせた。プリンセスを唆す魔女の言葉だと一蹴した。
一色いろはは立ち上がり、スクールバッグに近づいた。月光を受けて光るスカイツリーのキーホルダーは、今朝よりもどこかくすんだ輝きを放っていた。それを握りこみ、思い切り引き千切った。
「…っ!」一色いろはは瞬間的な痛みに顔を歪める。
見ればキーホルダーの脚の部分が一色の掌に食い込み、微かに肉を抉ってしまっていた。しかしその思い出を繋ぎ止めていたオレンジ色の紐は無残な残骸を遺し、真っ二つになっていた。大きく腕を振りかぶり、ごみ箱へと投げる―――寸前で腕が止まった。
一色は、地獄を取り除かなければ、と悟った。
地獄はどこにある。地獄の場所は彼女の頭の中だった。このキーホルダーを投げ捨てたところで、彼の残したものは彼女の脳裏に焼き付いたままだろう。すでに二度の夏を越え、しっかりと刻み込まれたそれを取り除かなければ、地獄は終わらない。
振りかぶったままだったの腕を降ろし、ブレザーのポケットに乱暴に突っ込む。一色は掌から滲み出る鮮血をちろりと舐め、痛みに顔をしかめながら一人の男を想った。
彼の真意を、最後の真意を確かめなければ、この恋は終われない。
一色いろはは未だ熱く存在する心に約束した。
***
海老名姫菜は心地よい音楽に身を委ねて窓の外を眺めていた。昼下がりのカフェは人も疎らで、情けない陽光だけが賑やかしのように木造の床張りを這っていた。大学という喧騒から外れて逃げ込んだこの場所は時間がゆっくりと進んでいるように思えた。降り注ぐスローバラードが身体に沁み込んでいく。
懸念と言えば、このカフェがあの一件で使用した店であることと、呼び出し人が優美子であることと、結衣には何も知らされていないことぐらいだろうか。
軽い、夏の縁側を思い起こさせる音が聞こえ、そちらを見やれば三浦優美子が立っていた。彼女の思いつめたような表情に身を固くしたが、結衣との誓いを思い出して身体を揺する。近づいてくる優美子に柔らかく手を振った。「はろはろ~」
「おはよ、海老名」優美子はゆっくりと四人掛けの席の向かいに腰を下ろし、大きなリュックを隣に置いた。大学の帰りだろうか、重量感のある音がした。
コートを脱ぐと、白いニットが見え、「かわいいね」と伝える。ありがとう、と照れる彼女は可愛くて、胸が苦しくなった。しかしそれも一瞬、再び何かを背負うように影が走る。こちらが身構える前に、「あのさ」と彼女は口を開いた。
分かりやすく首を傾げる。「どうしたの」
「これ、見てほしいんだけど」
優美子はそう言うと携帯を差し出し、あらかじめ用意していたのだろう画面を見せてきた。すぐ目に入ったのは今や誰もが利用する空色。そこから少し視線を彷徨わせれば、ある一点に引き寄せられる。
なんで、と口を開きかけ、グッと堪えた。「これがどうかした?」
優美子が気のせいだと引き下がることを期待したが、その瞬間だけは彼女の表情が時間を巻き戻した。鋭い眼光に有無を言わせぬ口調。女王、三浦優美子だった。
「ヒキオだよね、写ってるの」
逡巡の後メリットがないことを悟り、私はわざとらしく手を上げて見せた。
「そうだよ、ヒキタニ君」
「海老名、依頼がどうとか言われてたもんね」
あちゃー、見られてたか。結衣にばれないように気を張ってたから逆方向が疎かだったかな、ごめんヒキタニ君。隼人君の貞操に免じて許して。
「よく見てたねー」軽口を叩いて流そうとすると、「はぐらかさないでよ…」と急に寂しがりやな声を出すから、それもできなくなった。重ねてごめんヒキタニ君。隼人君の(以下略)。
私は数秒稼ぐ為、目の前のカップにスプーンを突っ込む。クルクルと攪拌して、一口啜る。「それで」潤った喉をゆっくりと動かす。「それで、優美子は何が知りたいの?」
「ヒキオが何をしてるのか」
「気になるの?」
「そういうんじゃないけど…」彼女はそこで自信なさげに手を組み、目を伏せた。「なんか、危ない気がしたから」
「危ない? ヒキタニ君が?」
「上手く言えないけど、追い詰められてる気がする。いつかのあたしみたいで…」
思わず彼女の腕に視線が寄ってしまう。急いで剥がした視線はバレているだろうか。手にもつ比企谷八幡の姿がゆっくりと切り刻まれる。割れたガラスから血がぷくぷくと泡立つ幻覚が見えた。
「どうしたいの? 助けたいの?」
「分かんない…けど、もし、もし助けを求めてたら、助けてやりたい」
彼女の瞳は綺麗で、零れ落ちそうなほどに溢れていた。
「そう、結衣には秘密にできる?」
問題ないだろう、彼からの要望は奉仕部周辺への秘匿だ。
優美子は力強く頷き、お願い、と言った。
***
比企谷八幡は実像に灯る。
大学の講義を終え、家路を急いていたところにLINEがメッセージを受信し、俺は途中の駅で降りることになった。
思えば、それが人生における所謂岐路というもので、俺がその選択を間違えたかと問われれば、恐らく、確実に、間違えたのだろう。
すっかり日の短くなった師走は半ばに差し掛かっていた。広大な海はただただ深淵と化し、俺の行く末を暗澹とした気持ちで見つめられているような、あるいわ憐れんでいるような、そんな底の見えない存在として横たわっていた。電車がゆっくりと速度を落とし、完全に停車する。外に出てみれば海風が肌を撫で、そのいつまでも変わらない匂いに少し安心する自分がいるのに気が付く。
視線を横に向けた。海岸沿いの駅の隣には大型のショッピングモールが誇示するように光っていて、平日にも関わらずあちこちで車のヘッドライトが躍っていた。
無論、俺の目的地もこの巨大な塊で、歩を進める。
何度も言うようだが、ここで俺は間違えたのだろう。用事を後回しにすれば、もしくは時間をずらせば。もしかしたらこの場で屈伸の一つでも披露すれば、未来は変わったのかもしれない。
いくら考えたところで、後の祭りなのだろう。きっと。
マリンをもじったその施設は多くのテナントが入っている。その中でも俺が向かっているのは、かの有名なカーネルおじさんがにこりと笑いかける店だ。因みにカーネルおじさん、もといケンタッキーおじさんは、カーネルでもないしケンタッキーでもない。店はケンタッキーだが。
店員にパーティバケットを予約したいと告げ、四千円の前払いをして予約カードを受け取った。たしかに二十五日になっていることを確認し、お礼を言って店を後にした。
小町と祝うキリストの誕生日を想像し、思わず顔がにやけてしまった。全てが終わり、解放されて過ごす至福の時はすぐそこだ。
いや、それ以前に俺の頭は混乱していた。
それは一色の肩を押した瞬間からだったのかもしれないし、もしかしたら陽乃さんが現れた瞬間だったのかもしれない。脳裏にチラつくはあの赤い警告色だった。春に似つかわしくない雨を背負い、俺の前に現れた雪ノ下陽乃。脳が危険信号を痛いほどに受信していた、あの入学式。
すべてはあの人が起こしたことなのではないか?
おそらく正常な思考を持たなかった俺の脳みそはそんな結論をはじき出す。スーパーコンピューターよりはやく、スーパーコンピューターより愚かに。
気が付けば、紙の匂いが鼻孔を掠めていた。いつの間にか書店に足を踏み入れていたらしい。書店のバイトを始めてから他の店によく行くようになった。本の販売というものに内側から触れることで分かることもあり、それを勝手ながら想像する作業などが密かな楽しみになっていた。
この日も匂いを過敏に察知し、さながら犬のように追っていたのかもしれない。
入り口付近は花形で、一見どこも同じような作品を並べがちに見える。ドラマ化や映画化、所謂メディア化作品をポスターと共に並べ、客の目を引く。しかしそこにも書店の色は出る。それは書店員の好きな俳優が関わっているのかもしれないし、もしくは実写化原作への贔屓が入っているかもしれない。そう悪いものではない。
軽率な行動に出た理由は、財布に眠るケンタッキーの予約カードが引き金かもしれない。
少し行けばコミック売り場に出る。本の売り上げが芳しくないと言われ続けているが、コミックの売り上げは右肩上がり、とはいかないまでも結果を残し続けている。最近では最大手の出版社が値上げに踏み切り、売り上げが上昇したそうだ。最近マンガを読んでいないな、と思う。
安直な思考に陥ったのは、解放欲が原因かもしれない。抑圧からの解放、それは人類の永遠の課題なのだろう。
チェックポイントのように存在するレジを通ってみれば、店員と目が合ってしまう。慌てて逸らすが、その視線が好意的なもの、というより驚愕、驚嘆というものだったために違和感を覚える。後から思い出してみれば、それは顔の整った人物が一度に二人も来たから、かもしれない。
張り詰めていた空気が弛緩していたのは、あの電話からだと思う。
違和感に首を傾げながら、文庫コーナーに足を踏み入れる。棚を占領する本の数はやはり圧巻で、後ずさりをしそうになる。在庫数はそのまま書店の強さを表していると言ってもいい。うちの店がこれだけの在庫を抱えていたら瞬く間にシャッターが地面を叩くだろう。
俺は気が付いてしまったのだ、俺が俺である理由を。
書店員の色が出るPOPを流し読みしながら、ゆっくりと進む。熱量がそのまま字に現れてしまっている、要するに読めないPOPに吹き出しそうになりながらも進む。最近の書店は五十音順が多い。出版社ごとではなく、すべてごちゃまぜで並んでいる。俺は出版社で揃えられている方が好きだ。マ行で切れていて、隣の棚に移動した。
彼女が、彼女らがいれば他には何もいらないと、気が付いてしまったのだ。
様々な要因が俺を吸い上げ、緩ませ、抜いていった。いつの間にかカラカラになっていた俺は思わず手を伸ばしていた。華奢な肩は、思ったよりもしっかりとした存在感を示していた。
素早く振り返るとこちらを鋭く睨み、敵意と殺意を撒き散らしながら距離を取る。しかしその足取りはしだいに緩まり、ただでさえ大きな瞳をゆっくりと見開いてゆく。こちらの顔と頭部を何度も視線が往復し、瞬きを繰り返す。
何やってんだこいつ。
俺は小言の一つでも言ってやろうと息を吸い、そこで気道が詰まる。停止する。脳が、停止する。
時間が、止まる。
「ひ、比企谷…君?」
雪ノ下雪乃の表情は、俺が初めて見るものだった。
ハッとしたように我に返った雪ノ下は俺の頭部から視線をゆっくりと降ろし、つま先まで確認したかと思うと再び戻ってきた。それは合っていたと思っていた答えが間違っていた時の様な戸惑い、まさに固定観念を疑う出来事だったのだろう。雪ノ下の命題が崩れた瞬間だった。
一番最初に浮かんだのは、逃亡、の二文字だった。まだ間に合うのではないか。まだ認識されていないのではないか。自分に言い聞かせるようで、そうあってくれ、そうじゃなければおかしい、そんな精神状態だった。
訝しむ視線を送ってきていた雪ノ下だったが、その目尻は少しずつ下がり、こちらを温かく捉えていった。
「色々聞きたいことはあるのだけれど」雪ノ下が髪を耳にかける。「とりあえず、どうしてあなたがここにいるのかしら」何度も目にした彼女の仕草を認め、俺は安堵を覚えていたのだが、それは後に分かった。
一瞬、髪の色が変わっていたのではないかと期待したが、頭を掻いた指に髪が引っ掛かり、現実へと引き戻される。諦めろ、とどこからか蔑むような声が聞こえてくる。気付けば、いや、と口癖となってしまった前置きを口にしていた。
「いや、その、ああ、小町のな」口が回らない、何故、と思ったところで思い出す。大人に悪事を見つかった子供の気持ちだ。言い訳じみたセリフが漏れ出てくる。「クリスマスの予約をしに来たんだ、チキンの」
「そう、そのついでという事かしら」
「あ、ああ」
「偶然もあるものね」心なしか雪ノ下の表情が和らぎ、俺の強張っていた筋肉が弛緩し始める。
しかし、どうしようもなく、彼女の視線は吸い寄せられる。何度剥がそうとも、今だけ宇宙の中心がそこにあるかのように、すべてがそこに吸い寄せられる。
俺の口元が震える。
今。
今、今。
今、言ってしまえば。
世界中の人から忌避されたっていい。たとえ七十億が俺の敵になったとしても、あの夕焼けがあるだけで俺は生きていける。いつから彼女らは受け入れてくれないと思っていたんだ。彼女なら、彼女達なら俺のすべてを受け入れてくれる。当たり前じゃないか。当たり前じゃないか。
三人がずっと一緒にいれば、それだけでいいんだ。
そうだ、一色も加えよう。そうだそうだ。ちゃんと言えば分かってくれる。当たり前じゃないか。
「な、なあ雪ノ下」そう語りかけた瞬間、捉えてしまう。
彼女が抱えていた数冊の本。そのカラフルな色に吸い寄せられた。しかしそんなことはどうでもよく、再び雪ノ下に視線を戻す。戻したはずだった。気が付けば、俺の視線は雪ノ下の手元に釘付けとなっていた。
英会話、日常、フレーズ。
そんな単語が飛び込んでくる。そこだけが立体的に浮き上がり、まるで意思をもった生物のように俺の脳に噛みついてくる。
人差し指がそこにあり、数秒遅れで俺の手だと思い当たった。「それ」
雪ノ下が首を傾げ、自身の手元を窺った。彼女は、しまった、という表情を浮かべ、次いで恥ずかしそうに眼を伏せた。「隠しておこうと思ったのだけれど」頬を赤らめている。
俺の手が勝手に動く。雪ノ下の細い手首を掴み、本の背表紙が見えるように捻っていた。
「っ、ちょっと、痛いのだけれど」
顔をしかめる雪ノ下など、俺の視界には入っていなかった。不安の具現化が行われ、ガタガタと何かが崩れだしていた。彼女の口からその言葉が飛び出すまで、信じてはいけないと警報が鳴り続けていた。しかしその儚い、儚すぎる望みは、雨風吹きすさぶ中の蝋燭の灯りよりも頼りなく消えた。
「まったく…」雪ノ下は俺の奇行より、知られてしまった事をどう処理しようかということにリソースが使われていたようだった。「本当は由比ヶ浜さんも交えた場で報告しようと思っていたのだけれど」
唾を飲み込んだ音がやけに大きく響く。
「夢の事よ」と雪ノ下は照れるように笑った。「実は、留学することになったの。なったというのはおかしいかしら、留学できる資格が与えられた、というのが正解かもしれないわね」俺の言葉を失った状態を続きを促していると捉えたのだろう、雪ノ下はさらに続けた。「入試論文って、少し話したの覚えているかしら。私なりに頑張ったつもりではいたのだけれど想定以上の評価をされて、教授の提案でアメリカの大学に送ってみないかって言われたの」
雪ノ下の口にした大学名は、いち大学生からすれば物語に登場するものに近く、ただただ空虚な言葉となって俺の鼓膜を叩くだけだった。
そのときの俺は雪ノ下の話を半分も認識していなかったのだが。
「少ししたら返事が返ってきたの。それが留学の事なのだけれど、まあ、詳しいことは由比ヶ浜さんがいるときに話すわ」雪ノ下は自分の功績を誉めてほしいが、目立ちたくはない、そんな幼い表情をしていた。
耳が遠くなっていく感覚がした。少しずつ音が薄く重なり、形を持たない波として受信し始める。視界が一度揺れ、次いでギューッと狭まってゆく。ピントを合わせる作業はとうの昔に放棄していた。雪ノ下の存在は今や小さな曇りガラスに閉じ込められ、口や鼻、目といったパーツが不安定に形を崩していく。
吊り橋の強度を確かめるように足を出すが、地面を踏みしめた感触はない。動く唇、大げさに竦める肩、雪ノ下に小さく振った腕、それらすべてが自分のものではなく、いつの間にか月に覆いかぶさっていた分厚い雲から垂れるイトに操られているのではないか、それが一番しっくりくるほど、感覚と言う感覚が乖離していた。
風を切る通過電車が目の前に飛び込んできた時、ようやく五感が身体にカチリと戻る。けたたましい汽笛に圧されるように仰け反り、点字ブロックを踏んだ感触がした。危険を知らせるアナウンスと共に駅員が駆け寄ってきて、酷く声を荒げていた。しかしその駅員の言葉には淀みの様なものが感じられず、珍しいことではないのだなと他人事のように感じる。
励ますように肩を叩き、駅員が去っていく。その背中を見送りながら自身の行動に苦笑した。興味深そうに見ていたギャラリーも俺の卑しい笑みを嫌悪したのか、それともただ飽きただけなのか散り散りになっていく。
左腕に違和感を覚える。掻き消すように頭をガシガシと掻いた。
ぽつぽつと身体を叩くものがある。次第にそれは頻度を増し、威力までもが強くなる。数秒の内に辺りは豪雨に晒され、周囲では女子学生の小さな悲鳴やサラリーマンの落胆するため息がこだまする。大粒の雨が屋根に弾かれ、下がった俺の肩を、頭を、叩いてくる。
これは励ましか叱責か。それとも、挑発か。
土気色だった心に雨音が染み込んでゆく。
証明しなければいけない。比企谷八幡はここにいると、証明し続けなければいけない。
――思い知らせてやる。
隣にいた学生の肩がビクリと震えた気がした。
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ではまた。