八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

26 / 32
こんにちは、お久しぶりです。

終わりが近づいてきましたね。

読んでもらえると嬉しいです。

沢山の感想ありがとうございます。すごく励みになります。
またお手すきの際にどうぞ。


true or false

 

 

 比企谷八幡は実像を落とす。

 

「どうしたの? 比企谷君」

 涙はとめどなく流れ、陽乃さんのブラウスを濡らしていく。俺の悲しみを吸収してくれているかのように染みは広がり、比例して身体を蝕む黒い感情が少しずつだが消えていく気配がした。腰に回した腕を締め付けると彼女も同じように抱き締めてくれる。決して裏切らない。彼女の想いは身体中の熱から伝わり、俺へと伝播する。

 俺が沈黙を貫くことを認めると、陽乃さんの手はゆっくりと俺の頭を撫で始める。「いいよ」と許す感情が脳内になだれ込んでくる。それは空から降ってきた声な気もするし、柔らかな掌から伝わる熱の形にも感じられた。

 顔を上げ、視線を巡らすと陽乃さんの足にはまだエナメル質のヒールが履かれていて、ここがホテルの部屋、それも扉を開けた沓脱だと思い出す。霞がかる思考でSOSを求めた俺は、一定のスピードで過ぎ去る街灯だけを眼で捉えていた。何も言わずに俺の意思を汲んだ彼女のハンドルは自然とこの場所に向く。部屋の扉を閉めた瞬間、身体を支える芯のようなものがぐにゃりと曲がり、だらしなく体重を預けることになった。曲がってしまった俺の支えは涙腺に刺激を与え、彼女のブラウスに縋ることを推奨してくる

 落ち着きを取り戻した俺は、陽乃さんに連れられてベッドに座らされた。彼女は一度俺を抱き締め、頬にキスをしてから浴室へと消えた。そのうち水音が聞こえてくるだろう。いつものパターンでもはや様式美と言っても差し支えないかもしれない。いや、あるか。

 浴室から戻ってきた彼女の胸元の釦はすでに外されていて深い谷間が見え隠れしている。膝を曲げ後ろ手にフットカバーを外すと、そばにあった化粧台に置いた。タイトスカートのジッパーをしなやかな指が摘むと、ジジジという音が官能を刺激する。彼女の顔を見ると微かな笑みが称えられている。カジュアルながらスマートな服装、後ろで結ばれた可愛らしい髪型をみると、今日はどこかに顔でも出していたのだろうか、と今更ながら思う。ストンと彼女の足元に落ちたスカートはただの布となり果て、下半身を隠すものは艶やかな下着のみとなった。こちらに近づきながら釦を外していく、俺の膝に跨る頃にははだけてしまい、黒いキャミソールが露わになる。

 肩に手を添えられ、軽い力で押し倒された。陽乃さんの唇が首筋に軽く触れる。視界に影が掛かったかと思うと、ベッドを照らしていた照明がゆっくりと絞られ、仄かな明かりを遺すだけになった。ベッドの傍にあるパネルを操作したのだろう。二人を囲う闇は大きな口を開けた怪物の口の中にも見える。陽乃さんの舌は俺の身体を彷徨っていた。

 天井を仰ぐ。豆電球よりも仄かな光は頼りないはずなのに、だんだんと大きくなり、ちかちかと瞬き始めていた。瞬きを忘れた眼が悲鳴を上げているのだろうかと思い一度瞑目するが、再びまみえた世界は先ほどよりも酷く曖昧模糊とした存在に成り果てていて、怪物にゆっくりと飲み込まれていくように意識は堕ちていった。

 

 夢を見ていた気がした。少女の泣き顔が見える。ただそれは悲しみからではなく、何かを憐れんでいるような、哀れで憐れで涙が出てしまうような表情だった。幼い顔からは想像のつかない絶望を味わってしまったような、そんな表情を。どうしたんだ、と手を伸ばす。すると視界の右側から日の出を彷彿とさせるオレンジ色の灯りが現れ、少女まであと数センチというところで俺の存在を飲み込んてしまった。

 ゆっくりと瞼を持ち上げると、オレンジ色の照明に照らされながらもその白さが際立つ背中が見えた。後ろ手に下着を着けているところだった。一度は失敗したが、二度目は外さなかったようでホックが留まったのが見えた。下は先に身に付けてしまったのかと少し残念に思っていると、尾骨の辺りに小さな痣の様なものが見えた。どこかでぶつけたのだろうか。

 覚醒しきっていない頭のまま起き上がると、こちらに気が付いた陽乃さんがにこりと笑って抱き着いてくる。「大丈夫だよ。大好きだよ」そんな甘い言葉を耳元で囁かれ、どうしようもなく嬉しくなる。

 体重を支える為についた手が枕に埋まり、冷たさにびくりとした。清潔感のある白いシーツに包まれたそれには陽乃さんのブラウスと同じ染みが拡がっていて驚く。一瞬、夢の中に出てきた少女のものかと思ったが、そんなわけがないと首を振る。陽乃さんがこちらを窺うように覗き込んできた。

 なんでもないですよ、と言い彼女の髪に手櫛を通すと優しい香りが鼻孔を掠める。少し痛むこめかみに顔をしかめながら、謎の満足感に首を傾げる。行為をした記憶はないのに欲望を吐き散らした感覚はある。雪ノ下の一件以来数回、こんなことがあった。それは決まって陽乃さんといる時だったが、当の彼女が今と同じように甘えて来るものだから有耶無耶になってしまっていた。

「あの、どうでした?」恐る恐る聞くと、陽乃さんは楽しそうに笑った。

「珍しいね、君がそんなこと聞くなんて」

「いや、まあ、たまにはいいじゃないですか」

「へえ、そういう趣味があったんだ。意外、でもないか」

「からかわないでくださいよ」

 俺の方が耐え切れず顔を逸らしてしまう。がしがしと頭を掻いていると、しなやかな腕が伸びてきた。「覚えてないの?」手が頬に添えられている。

 思わず、え、と訊き返してしまった。すると彼女は一度目を伏せ、俺の左腕をチラリと見た。つられて目で追うようにするが彼女の手がそうさせない。「私にしたこと覚えてないの?}

 覚えていない、という事は簡単だったが彼女の瞳がそうはさせなかった。揺らめくものが見え、それは俺の答えによってはすぐにでも崩壊してしまいそうな不安定さを感じさせた。

 いや、と口から洩れかけたが、それより先に陽乃さんが口を開く。「酷い、比企谷君」俺は思わず謝りそうになるが、続く言葉に開けた口が塞がらなかった。「私にあんな辱めを受けさせて覚えてないなんて酷い!」

「え?」肩の力が抜ける。

 それからというもの、あんなことやこんなこと、放送コードに引っ掛かるような単語を次々と並べ、聞いてるこっちが恥ずかしくなるような内容を紹介し始めた。しまいには、さては私に恥ずかしいことを言わせるプレイだったんだ! と嬉しそうに嘆いた。

 彼女の瞳には俺を慈しむ光が甦っていて先ほどのは演技だったのかと安心する。

 いつの間にか元気を取り戻していた俺は、彼女に覆いかぶさって消えた記憶を上書きするように身体を重ねた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 冬の空気は澄んでいて心地が良い。寒さはどうしようもないが少し運動すればそれも気にならない。頭上を覆う厚く黒々とした雲が圧し掛かってくるように鎮座する。

 大学の体育は前期と後期で同じことを繰り返すらしく、終盤に入った授業ではループのようにミニゲームが行われていた。勝ち点方式で戦績をつけ、最下位となったチームは最後にボールを片付ける担当になる。先ほどのゲームは勝ったため、葉山隼人はボードに書かれた自身のチームの横に勝ち点である三ポイントを書き込んだ。

 二分割されたグラウンドでは左側に男子、右側に女子という分け方で試合が行われている。激しく砂ぼこりが舞うグラウンドとふわふわとした雰囲気が歓声と共に沸いて出てくるグラウンド。仕方ないよな、と葉山は思う。

 ホイッスルが鳴り響き、試合終了が告げられた。

「次俺たち?」

 名も知らないチームメイトに訊かれ、葉山は頷く。「ビブス着る方な」

 えー、と言いながら、名無しの彼は渋々と言った様子で立ち上がる。

 彼らは体育が面倒くさそうでも、格好やピッチに入った態度は本気だ。ダルそうに見えてやるときはやる。どこかの誰かと響きは同じなのに、中身がこんなにも違うのは何故だろうと葉山は思う。そこに一本の芯が通っているからか、そうでないからか、そんなことは分からないが。

 けだるそうにビブスを脱ぐ男を視界の端に捉えた。

 葉山隼人は試合表を見て、グラウンドに残ったままのチームに視線を向ける。ゲームが終わったばかりだというのに、背の低い女子と談笑している比企谷八幡の姿があった。袖を余らせ、身体の前でくしゃくしゃと弄ぶ小動物の様な女子まで近づくと、会話が止まった。会話が止まったというより、小動物が挟まれておどおどとし始めたというほうが正しいだろうか。

「何を話していたんだ?」気付かないフリをして比企谷に訊く。しかし、「あ、ゼミの話を」と小動物が話し始めた。

「そうなんだ。ああ、もうすぐ試合始まるから外出た方がいいよ」

 できるだけ優しく言うと、小動物は俺たちに二人に手を振ってから離れていった。それに合わせて比企谷が離れていくものだから急いで呼び止める。「比企谷」

 鬱陶しいものを見るように、彼がこちらを向く。「なんだよ」

「比企谷のチームは二試合連続だから、すぐはじまるぞ」

「ああ、そうか、サンキュ」比企谷は寒さに首を縮こまらせてビブスを渡してきた。

 葉山がそれを受け取ると比企谷は背を向けて歩き出す。何の気なしに口から洩れた。

「彼女たちはどう思ってるんだ?」

 一瞬肩が震え、ゆっくりとこちらに向き直る。比企谷の瞳には何故か揺らめくものが見え、目を見張る。

「言う必要あるか」冷たく突き放すような言い方に、葉山は少しむっとしてしまう。

 口を開きかけたところで講師の叫び声が響き、会話が途切れてしまう。比企谷はいつの間にか離れてしまっていた。

 甲高い笛の音が空を切り裂き、中央にセットされたボールを蹴り出した。

 自由に動き回れるポジションを任せられ、ピッチを漂う。高校の体育とは違いサッカーを求めて選んでいる為、比企谷の様なあぶれ物の方が少ない。右からパスが飛んできて、トラップと同時に一人を躱した。葉山は高校時代何度も繰り返した動きが今も通用することに安堵しながらフォワードにスルーパスを出す。左に流れながら行方を眼で追うと、そのフォワードのシュートはクロスバーを超えた。

 ドンマイドンマイ! とチームメイトが口々に言う。ボールを取りに行くゴールキーパーの背中から視線を逸らすと比企谷と目が合う。右サイドのディフェンスを任されていたらしい。

 言う必要あるか、という比企谷の言葉が反芻する。それは葉山に対してなのか、彼女ら対してのものなのか、どちらだろうか。

「上達したな、比企谷」わざとらしく目を逸らす比企谷に、葉山はわざと話しかける。

「あ?」比企谷は眉をひそめる。

「見ていたんだ、さっきの試合。四月よりずっと上手くなってる」

「見てんじゃねえよ」

「はは」

 実際、比企谷八幡の運動神経は悪くなかった。テニスは人並み以上の腕前を見せ、マラソン大会ではペース配分を考えなかったとはいえ、中間地点までの長距離を葉山隼人に喰らいついた。陸上部の長距離に引けを取らないスピードを出した葉山はその衝撃をよく覚えていた。そして尚、噛みついた。

 戻ってきたキーパーがボールを大きく蹴り、葉山は比企谷に背を向けそれを追う。数歩歩くと、葉山は自分が酷く落胆していることに気が付く。何故かは分かっていた、失望したからだ。

 葉山隼人は比企谷八幡のようになりたかった。

 目を背けたくなるほどの眩しさは誰しもが憧れ、やがて背を向けてしまうものだ。ヒトは小さいころから永遠などという戯言に翻弄されてきた。友人や恋人、そしてそれ以上。世界中の誰もが一度は夢見た世界は徐々に色褪せ、陽が射すことのないコンクリート色に塗りつぶされていく。短い成長期に何度も何度もその永遠を信じては裏切られる。陽光が降り注ぐ過去の記憶はとても尊いが、いまとなっては葉山隼人の頭上を覆うこの雲のように重く圧し掛かっている。

 一つ一つ花占いをするように千切っては捨てていくのだ。ずっと抱いていた、希望という香りをふんだんに纏った花びらを。やがて知ることになる、全ての希望を削ぎ落して残った茎こそが自分で、それが人生だと。毎日笑いながらどこかで悟っている。高校時代の葉山隼人には既に花びらは残っていなかった。

 そんな中、必死に身体を屈めて、自分を守る奴が現れた。どんな強風に晒されようと、どんな敵意を向けられようと、人が無くしてはいけない純真無垢な希望を必死に守る男が現れた。そして、そんな憐れな男を外側から包み込むように現れた二つの光。光は周りを照らし、反射し、また周囲照らしていく。その男の想いが、周りを変えていく。

 そんな場面を、葉山隼人は目の前でまざまざと見てしまった。変わっていく彼ら彼女らと、変わらない信念。ひとつの信念が周りを変える。そんな二度と目にすることのできない光景。

 だから葉山は夢を見てしまったのだろう。もしかしたら自分にもできるんじゃないか。あの男にも劣らない光を自分は秘めているのではないか。それが、あの夏を終わらせたのかもしれない。

 いつの間にか葉山の足元にはボールがあり、逆サイド! と叫ぶ声に顔を上げた。はっ、と首を振れば敵チームのディフェンスが突っ込んで来ていて慌ててボールを引く。しかし間に合わず、半ば足を刈り取られる形でボールを失うと尻もちをつくように倒れた。葉山は重力に従って身体を倒して天を仰ぐようになる。黒い雲はすぐそこにあるかのような重量感をもってこちらを見下ろしていた。カウンター! と威勢のいい敵の声が聞こえる。

 葉山隼人は失望していた、いつまでも変わらない自分に。比企谷八幡は変わっていない。比企谷はそう簡単には変わらない。高校二年で葉山隼人がまざまざと見せつけられた比企谷八幡の生き方はすでに確立されていた。学生にとって世界ともいえる学校内に置いて、自分を持っている人間は教師を含めそう多くはいなかっただろう。比企谷の変化は何かに対する策で、抵抗だと分かっている。今もあの男は自分の信念に懐疑的な何か、又は世界を相手に戦っている。姿を変え、口調を変え、比企谷八幡が駄目だと叫ぶ世界から何かを守ろうとしている。そしてそれが葉山隼人と戸部翔、三浦優美子や海老名姫菜に関係することだとは葉山自身、理解していた。

 コンクリート色にくすぶっていた世界で比企谷八幡の存在が光っている。比企谷がいることでこの灰色に存在価値が宿るような錯覚を葉山は覚える。戸部翔は衝動に従い、三浦優美子と海老名姫奈は風雲急を告げられた。みんな、比企谷八幡に突き動かされている。

 では、葉山隼人は。

 変わる時ではないのか、葉山は心の中で叫ぶ。無理だと分かりながらもそこに向かって走り続ける。無様だと笑われようとも縋りつく。いつまで自分は弱いままなんだ。今が、今が立ち上がる時ではないのかと突き動かす。

 葉山は拳を僅かな砂と共に握りこむ、ざらざらとした感触が骨を伝って全身に響く、歯を食いしばり体を起こす――そこで、笛が鳴る。

 今更、どうすればいいんだよ。

 声なき声で、そう呟いた。

 既に奪われたボールはゴールに吸い込まれている。手遅れ、笛は鳴った。試合は、終わった。ここから立ち上がるなど前代未聞、延長戦でもない、ただの場外乱闘だ。どこの馬鹿がそんなことを。

 葉山隼人は縋るように比企谷の背中を探す。しかしその姿はすでに遠ざかっていて、ゆっくりと霞んでいく。自分だけが置いていかれる。いつだってそうだった。

 だから俺はずっと弱い。

 葉山隼人を呼ぶ声は、いつだって。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 海老名姫菜と三浦優美子は日を跨いだ深夜一時の公園にいた。空が雲で覆われた十二月の寒波は容赦なく吹きすさび、身体の体温を徐々に奪ってゆく。見渡す限り広場となっているが人はいない。電灯も疎らで深淵と化したエリアが所々で大きく口を開けていた。

 三浦はいつかの記憶が刺激されこめかみを抑える。同じような広場を持った公園で起こった出来事、心が不安定だった時期。比企谷八幡に助けられた記憶。

「優美子大丈夫?」様子を訝しんだ海老名姫菜が訊く。

 三浦優美子は一際強く吹き付けた風にマフラーを直し、海老名姫菜に身体を寄せる。「うん、大丈夫」

 三浦優美子の罪悪感は消えていなかった。当時は怪我をさせてしまった負い目の連鎖に過ぎなかったものも、周囲で起こる騒ぎは三浦の胸をざわつかせるに事欠かなかった。一色の件など嫌でも入る情報に、葉山隼人との接触。それがことごとく失敗に終わる状況は、創り上げては壊され、また創るという永遠に問いの訪れない作業にも見えた。海老名姫菜や由比ヶ浜結衣に聞いた話でも、比企谷八幡の奔走ぶりは手に取るように分かった。それがヒトの感情ともなれば掴めと言う方が無理だ、三浦は思う。

 そして、風が止む。台風の目に入ったかのような感覚になる。巨大な口から出てくる人影が見えた。

 この二ヶ月ほど、ピタリと止んだ動き。取る策すべてが無為に終わった世界では当たり前の静寂。しかし、耳が痛くなるほどの静寂は違和感の方が大きい。チクリチクリと鼓膜を刺す嫌な噂、不穏な動き。全てが嵐の前兆に感じられる。ぴりぴりと腕の古傷が痛む。

 ゆっくりと電灯に照らされ、図ったかのように月が姿を現して周囲を照らす。ゆっくりと怪物の正体が露わになるように、比企谷八幡は現れた。

 その見慣れない姿に息を呑む。暗闇に怪しく光る髪色。この寒さに似つかわしくない薄手のコートを着ている。砂を蹴るその足取りは揺れるように軽く、それは軽薄さを演じているようにも見える。しかし、「よう」と紛れもない比企谷八幡の声で言葉を発するから、唾を飲み込んだ喉が小さく鳴る。海老名姫菜でさえ既に一度見ていたにも関わらず、ぶるりと肩を震わせた。

「よう」比企谷八幡はもう一度言い、立ち止まった。「材木座」

 三浦優美子と海老名姫菜は草むらに潜み、比企谷八幡に対峙した材木座義輝を心許ない気持ちで見つめる。

「ひ、久しぶりだな! 八幡よ!」

 自信か虚勢か、無駄に良い声が広場に響く。

 風が吹き、材木座の背中を強く押した。

 

 材木座義輝は驚きに満ちた眼で携帯の画面を見つめた。クレーンゲームのレバーを持つ手が震え、瞬きを何度も繰り返す。「お、女から」

「なんですか、剣豪さん」相模の冷たい視線が刺さる。秦野に至っては株の動きがどうのこうのと携帯から目を離さない。

 材木座は、この可愛くない後輩に自慢を、と考えながら勢いで開いてしまったLINEのメッセージを確認した。そこには材木座にとっての唯一無二の親友であり、現在進行形での悩みの種である『比企谷八幡』という文字に吸い寄せられる。その瞬間材木座の決意は石と成り岩と成り、誰にも動かせないほど強固なものになった。胸ポケットの財布に忍ばせたチケットが逃げ出さんばかりに震えた気がした。それは材木座の心臓の音なのだが。

 ざわめきの元凶を目の当たりにして材木座義輝の心臓の鼓動が脚にまで伝播した。ツイートのたびに厳選して何度も見た姿だったが、卒業式以来の比企谷八幡の姿は形だけでなく、纏っている雰囲気、オーラの様なものが違って見えた。真っ先に出てきた感情は「ずるいぞ!」だった。

「は?」比企谷八幡の顔が歪む。

「ずるいぞ八幡! 貴様だけかっこよくなりよって!」そこで風が止んだのは神の悪戯か、静まり返った広場の中で材木座にだけ、背後から指を鳴らす音が聞こえた。「ひいぃ!」

 奇行にたじろぐ比企谷八幡をよそに、材木座は突然の連絡を回想した。海老名姫菜からの突然のメッセージには比企谷八幡の行動についての詳細を求める旨が記されていたが、その瞬間感じた違和感は材木座が見まいとしてきた現実で、今まさに向き合わなければいけないものだった。比企谷八幡が何をしようとしているのか、材木座義輝は知らない。いつからか記憶の底に眠っていた海老名姫菜という名前よりも、その事実だけが材木座に纏わりついた。親友の為に、という大義名分をもって手繰り寄せていた手綱が突然蛇に見えてしまう。そして気の迷い、虫の知らせに従って届け先指定を変えてしまったこのチケットに思いを重ねる。

「お主は、お主は、何が目的なんだ!!」材木座は訊く。

「いや、チケットだよ」

「お、おふぅ」

 旧友からの頼み、それも比企谷八幡からのものともなれば材木座に断る理由はなかった。それは雪ノ下陽乃の相談に興が乗った平塚静しかり、この材木座義輝の現状に現れている。不干渉故の過干渉。必要としてほしかった望みが時を超えて叶ってしまった事による歪みに正常な認識は間に合わなかった。海老名姫菜と三浦優美子の頼みで露呈した足元は、人を支えるほど分厚い氷にも、数ミリ隔てただけの透き通る薄氷にも思えた。材木座は敢えて問う、親友とは何か、信頼とは何か、材木座自身も強く憧れを抱く、最後の一片を握りしめて。

 材木座は握りこぶしを心臓に当てた。「チケットなら、我の胸ポケットにある」

「はあ、なんでもいいけど早く渡してくれよ」比企谷八幡は頭を掻き、バイト終わりの疲れを言葉にのせた。

「わ、渡す前に一つ訊きたい」材木座の言い方に含みが感じられたのか、比企谷八幡は手を止め、対峙する人間に目を合わせた。

 そこで初めて材木座は比企谷八幡と目を合わせた。そしてそこにあるはずのなにか、説明することが難しいなにか、生きるために必要な何かが無いことに材木座は身を引く。安いスニーカーの踵が砂を削る。三浦優美子もその異常さに気が付く。心を壊したことのある彼女だから分かる生気というものの存在。しかし、同時に確かな違いにも気付く。それは目的を失ったことで心を壊してしまった人間と、目的に囚われてしまうことで心を隔離した人間の違いだとは、まだ分からない。

「なんだよ」比企谷八幡の声は酷く冷たく、材木座の耳を凍らせるように射貫く。

 淀んだ変化に身を固くしたのは海老名姫菜も例外ではなかった。しかしただ一人、それでも前を向く人間がいた。それはその男が届け先を咄嗟で変更した時から決意していたことだった。

 材木座は一歩踏み出す。「八幡!」

 尚、比企谷八幡の視線は冷たい。

「今、何をしている。そして、このチケットを使って何をするつもりなのか教えてくれ!」材木座は息を吸った。「い、言えなければ、このチケットは渡さない!」

 材木座の主張は深夜の公園に何度も反響した。それは材木座のありったけの声量で、紛れもない気持ちの表れだった。その響きは確かに届いた。海老名姫菜は驚きに目を見開き、三浦優美子は口笛を吹きそうな程に肩を竦める。それほどに歯の浮くようなセリフで、本気だったのだ。だから、間抜けな声が出た。「え」

 比企谷八幡は砂を散らして近づいたかと思えばおもむろに材木座のジャケットに手を伸ばす。「な、何をする!」身体を傾け微かな抵抗をした刹那、バチンと音がして世界が傾く。痛みはなく、ただただ衝撃の強さに驚くのみだった。

 殴られた、そう認識すると昇ってくる。口の中で鉄分の味が広がっていく。鈍くずんずんと脈打つ感覚がせり上がってくる。材木座はいつの間にか尻もちをついていて、見上げるように仰いだ。ちっ、うるせえな。と小さく毒づくのが聞こえ、材木座の肩はビクリと跳ねる。

 真っ先に飛び出したのは三浦だった。草むらから飛び出すと声を上げる。「ちょっとヒキオ! あんた何やってんの!?」状況が飲み込めない材木座に寄り添う。

 比企谷八幡は手元にあるチケットの中身を確認していたが、知った声に顔を向ける。「ああ、何やってんだお前」

「何ってアンタ!」三浦は草むらから出てきた海老名姫菜に材木座を預け、立ち上がった。「ヒキオの事心配してこいつは!」

 比企谷八幡は鼻を鳴らす。「はっ、心配?」

「アンタほんと!」三浦は激昂し拳を振り上げるが、すんでのところで「優美子!」と叫び声が聞こえる。

 海老名姫菜はこの非現実的な状況に混乱していた。混乱していたから止めた。彼が何をするか分からない。本当に分からなかったから、怖いと感じた。同じように尻もちをついたままの材木座もそうだ。分からない、という恐怖が身体を包み込んでいた。

 比企谷八幡は感情のこもらぬ瞳で三人を見渡し、背を向けた。

 安堵。とりあえず嵐は去った。確かな被害は出したものの、もう大丈夫。と海老名姫菜は胸を撫でおろした。だから、三浦優美子の取った行動に目を見開く。地面を蹴り、比企谷八幡のコートの袖を掴んだ。海老名姫菜は理解する。先日喫茶店で見せた三浦優美子の表情、そしてセリフ。

『分かんない…けど、もし、もし助けを求めてたら、助けてやりたい』

 三浦優美子は確かめたいのだ。SOSのサインを見逃したくないから。

 袖を捲り比企谷八幡の綺麗な腕が露出する。それと同時に振り払われ体勢を崩した三浦は投げ出される。そのまま倒れてしまう。

「なにやってんの!」

 暗闇を裂くような甲高い声が耳をつんざく程に響く。誰もが誰の声だと首を巡らせ、それが海老名姫菜の声だと遅れて気が付く。この短時間で海老名姫菜が一番息を切らしていた。比企谷八幡の哀し気な瞳を見て海老名姫菜は思う。三浦優美子の懸念は間違っていないのかもしれない。比企谷八幡は傷つけている。髪を染め、関係を変え、心を隔離する。それは比企谷八幡が自身に課した自傷行為に他ならない。自分でない自分を染め、傷つけ、汚し、心を突き放していくことで本当の比企谷八幡を顕著にしてゆく。比企谷八幡はここにはいない。 

 三人が先の暗闇に目を向けるころには、比企谷八幡の姿は消えていた。

 透き通った空気の中では、今のが蜃気楼だという言い訳もできない。だが、気を抜けば幻覚でも見ていたのではないかと勘違いしてしまうほどに覚束ない空間だった。

 どこからか涙を堪える声がする。

 次第に大きくなるそれは獣のように猛々しく、圧し潰されそうな悲しみを背負った叫びだった。

 小さな花弁がまた一つ、音もなく散った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は虚像と語る。

 

 焦点が定まってゆく。霞がかるようにぼんやりとしていた景色が輪郭をもってゆく。視界の右側には大きな池があった。カモの親子が寒さを補うかのように寄り添って泳いでいる。水面には所々氷が張っていて今年一番の寒波とやらを物語っていた。

 チラリと横に視線をやれば透き通るような肌をした雪ノ下陽乃がいた。白いコートを羽織った姿は神々しさすら見える。雲の隙間から覗く月が彼女を照らしている。手を繋いでいた。恋人つなぎではない。

 俺はもう一度辺りを見渡す。公園だろうか。ズキリと頭が痛み、少し思い出す。材木座から受け取ったチケットとパスワードを書き換えたアカウント。なぜ俺はパスワードを?

 震えるように息が吐きだされ、そちらを向く。彼女の唇の端を見れば血が出ていた。「陽乃さん?」

「ん? どうしたの?」

 陽乃さんは俺の瞳を覗き込み、何かに安堵したよう息を吐いた。白い空気が解けていくのを見送った。

「いや、その、血が」俺は彼女の唇を指で拭う。

「あ、噛んじゃったのかな」

 あはは、と笑う陽乃さんはいつもの表情で少し安心する。そんなところ噛むのだろうか? という疑問は何故だか湧いてこなかった。

「明日だね、クリスマスイブ」陽乃さんはそう言うと腕に絡みついてきた。見下ろすと白いコートに土の様なものが付いているのに気が付く。

「そうですね」俺の頭はだんだんと冴えてきていた。徐々にアクセルを踏み込むように出力を上げている。「明日ですべてが終わります」

 右側にある池には巨大な満月が映っていて、その輝きで思い出す。むしろなぜ今まで忘れていたのかという程のものだが、俺は急いで鞄を漁る。小さな箱を見つけた。いつの間にか手を離して先を進んでいた彼女を呼び止める。カツ、とヒールが鳴った。「あの、陽乃さん」

「んー?」彼女は足を止め、鼻歌交じりに振り向いた。

 ジングルベルだろうか、綺麗な音で歌っている。色のない景色に美しい音色がよく映える。赤い血はもっと映えた。

 俺は膝をつく。砂利に顔をしかめて身体をずらす。陽乃さんを見上げる。月光が反射して彼女の顔を照らし出す。小さな箱を見せ、開く。彼女の瞳が見開かれる。

「陽乃さん、結婚してください」

 数秒の沈黙の後、彼女の口から洩れた笑みがそれを壊す。

「あはは、あはははは」陽乃さんはお腹を押さえて笑い続けるから、俺は妙な恥ずかしさと振られた衝撃を同時に味わうことになった。要するに死にたくなった。あ、ちょうどいい池が横にある。

 身を投げようと立ち上がったところで陽乃さんの笑いが落ち着く。「ねえ、比企谷君」

「はい」俺はすっかり意気消沈していた。

「比企谷君の周りにはとってもとっても素敵な女の子が沢山いると思うの」と微笑む。いや、そんなことは、と言うが首を振られた。「あるよ、そんなこと。雪乃ちゃんにガハマちゃん」「あいつらは」「ちがう?」「ええ」

「まあいいわ。一色ちゃんもそう、めぐりだって、その他にも沢山いる」

 俺は断られると身構える。本気で池をチラリとみた。「でも」と言われ顔を上げる。「でも、私はこうも思う。比企谷君の愛を受け止める事ができるのは、その中でどれだけいるんだろうって」

「愛、ですか」

「そう、あなたの愛はとても素敵だから、他の人には受け入れられないんじゃないかなって私は思う」陽乃さんは腕を擦った。

「じゃあ」

「うん」彼女は、おいで、と手を上げる。「いいよ」

 思わず抱き締めていた。豊かな胸とそれに似合わない細い腰を、思い切り締め付けた。陽乃さんは涙を流していた。声もなく泣いていた。それは何かが報われたかのような喜びだったが、俺も報われたような気がしたから泣いた。つられて涙が溢れてきた。彼女は身体を離すと左手を差し出す。俺は頷いて、小さな箱からエンゲージリングを取り出した。「結婚指輪はちゃんとしたの買うので」と言い訳をすると、「そういうサボりが後々不満の種になるんだよ」と笑い、「嘘だよ、嘘」と舌を出した。

 それを薬指にはめると小さな光が指輪につく。それは徐々に増えていき、見上げると雪が降ってきていた。二年連続のホワイトクリスマスなどいつぶりなのだろうか。この気温なら日を跨いでも止むことはないだろう。

 顔を見合わせ微笑み合う。

 寒さなど感じないかのように彼女の頬は紅潮している。

 もう一度抱き締めた。

「終わったら、すぐ迎えにいきますから」

「うん、待ってるね」

 陽乃さんに会う前からの断片的な記憶はとうに忘れ、今はただ彼女の体温だけが現実のすべてに思える。

 雪の下でのワンシーンは心に刻まれた。何があろうと鮮明に再生できる。そんな気がした。

 

『今日はクリスマスイブです! 皆さんお出かけの際は傘を忘れないように、では、いってらっしゃーい!』テレビでは顔の整った女性アナウンサーがビニール傘を片手に手を振っていた。

「雪乃さん、アナウンサーとかになったら人気出そうだよね」

 小町が卵焼きをつつきながら言う。雪ノ下のアナウンサー姿を想像するが、最近のアナウンサーはバラエティー番組にも出演している為首を傾げる。

「雪ノ下は無理だろ、どっちかって言うなら由比ヶ浜の方が人気出ると思うぞ」

「えー、なんで」

 あのドジっ子属性に主張の激しい胸は男性視聴者の視線を釘付けにするだろう。意外な身持ちの固さもアナウンサーっぽいと言えばぽい。壊滅的な頭の悪さが全ての望みを無にするが。

「最近はバラエティもこなさにゃならんからな」

「ほへー」小町は味噌汁を啜りながら既に興味をなくしたのかテレビを見ている。俺も味噌汁を飲み干し、皿を片付け始めた。

 材木座が見つけたハルカレシとの連絡は上手くいっていた。昼過ぎに連絡が取れればいいところだろう。作戦を行う二人の女子にも連絡はついていて、夕方の集合になる。予備のクリスマスプレゼントを買うためにそろそろ家を出るか、と蛇口の水を止めた。

「お兄ちゃん」リビングを出ていこうとする俺を小町が呼び止める。

「なんだ?」

「明日は、ちゃんといるんだよね?」

 不安げな小町の表情に少し可笑しくなる。近づくと頭に手をやった。「ああ、一緒にチキン取りに行くか」と言うと、小町の顔はぱあっと明るくなる。「うん!」

「よし、じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい、お兄ちゃん」

 最後の別れでもあるまいし、と思いながらリビングのドアを閉めた。そのまま玄関に用意しておいた鞄を引っ掴んで靴を履いた。マフラーを巻いてポケットから鍵を出す。外に出ると寒さに肩を震わせ、ささっと鍵を閉めた。

 ちょっといいですか、と声が聞こえた。綺麗な声だったから、ありもしないテレビの音声かと思った。

 振り返ると人がいた。見慣れた制服に驚く。その姿を見て一度家を振り返った。

「小町ちゃんを責めないであげてください。私の最後のお願いなんです」

 俺はもう一度彼女を見る。一色いろはを見る。もう二度と相まみえることの無いはずだったその小さな肩を見る。

「少しでいいので」

 ポケットに手を突っ込んで、一歩踏み出した。

 

 

 

 

 




最後まで読んでくださってありがとうございます。

感想、誤字報告など頂けると、とても嬉しいです。

また書きます。もしよろしければ読んでください。

ではまた。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。