八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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お待たせしました。

もしかしたら皆さんが期待する話ではないかもしれません。でも、書きたいことは書いたつもりです。
駆け足になってしまい、回収が雑な伏線もあるとは思いますが、できる限りは尽くしました。

今更ですが、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』という作品が大好きです。
読んでくださった方々に深くお礼を申し上げます。
では、最終章です。


growing pains:iroha

 

 

 一色いろはは暗闇に響き渡った唸り声に身を硬くした。軽く寝がえりを打って、薄いカーテンの先を見る。今夜は外が騒がしい。ざあざあと止まぬ雨音が部屋を取り囲んでいる。かと思えば、轟音。直後、空が瞬きをするように白い光が部屋に侵入し、すぐに出ていく。ホワイトノイズの様な音に晒されていると、この時間が永遠であるかのように一色は感じる。平穏で静かな夜など存在していなかったのではないか、明日も、明後日も、この胸の騒めきを吐き気に変えて生きていくのではないか、そんなことを考える。

 少しずつ、音と光の距離が近くなっていくのを感じていた。否、数えていた。寝室に入る前は両手の指で余りあったその間隔は今、ピースサインでも心許ない。平和が崩れる。そんな安直な思考にすら囚われる。

 もういい、もういい、寝よう。一色は掛布団の端を握り、瞼を強く瞑る―――あ、光った。そう思うのとほぼ同時に、バチンッ! と鼓膜を思い切り張られたかのような衝撃と轟音。雷に打たれたかのように身体中の筋肉が硬直して、余韻にしては騒々しい唸り声が離れると共にゆっくりと弛緩していった。

 声は上げなかった。唇を硬く結んで堪えた。その代わりにぽろぽろと涙が零れた。口元に意識を集中していた所為で、その水滴は突然渋滞が解消されたかのように流れ始める。

 冷たい指が、一色の目尻を撫ぜた。大丈夫か? 一色の心の隙間にするりと入り込むようにして温かい声が聞こえる。

「あ、ごめんなさい。起こしちゃいましたか」一色は首を巡らせ、隣で眠っているはずだった男の顔を見る。いや、起きてた。そう返され、一色は声の方向へ寝返りを打ちながら、眉間に皺を寄せて抗議する。「じゃあ、手を握るとか、抱き締めて、『大丈夫だ、俺が付いてる』とか言うもんじゃないんですかー」

 すまんすまん、と言いながら彼はベッドを抜け出す。温かい場所を探し求めていたかのように、持ち上がった布団の中に冷気が侵入してくる。こらこら、君たちが入ったら意味ないじゃないか、と一色は肩をすぼめる。

 ノイズが消えていることに気が付く。息を止めて耳を澄ますと遠くで雷鳴が聞こえた。激しい雨音も確かに存在している。11月の観測史上最大の大雨と気象予報士が報じたその豪雨は、その名に恥じぬ力強さを以ってこの千葉にたどり着いた。むしろ観測史上最大だなんて煽った所為で、空が張り切ってしまったのではないかと勘繰ってしまうほどだ。

 また、白い光に包まれる。しかしそれは稲光ではなく、部屋の電気が付けられたことによる発光だった。瞳が光に慣れるのを手助けするつもりでぱちぱちと瞬きを繰り返すが、役に立っているのかは分からない。徐々に輪郭がはっきりとしてくる。六畳程の部屋は簡素で、隅には腰まである箪笥、その上には黄色いネズミのぬいぐるみが飾られていた。一色は、この雷はおまえの所為か、と睨みつける。ちげえよ、と声がする。扉の方に顔を向けると、彼の手には湯気の立つマグカップが二つあった。

「ちょっと、心読まないでくださいよ」

 そんな一色の言葉を無視して、彼は、比企谷八幡は、カップを控えめに持ち上げる。「まだ寝れなさそうだから、付き合ってくれ」

 一色は口元を綻ばせ、飛び出すようにベッドを降りた。少し捲れた裾に冷たい空気が入り込む。マグカップを受け取ると、掌がじんわりと温まり、それも気にならなくなった。

「仕方ないですねー」

 一色は笑い、小さなテーブルと、それを挟むように置かれた座布団に座る。比企谷八幡もいつもの定位置に収まる。ありがとうございます、一色がカップに視線を落として呟く。少し遅れて、いや、別に、と照れ臭そうな声が聞こえた。

 一色はカーテンの隙間に目を向ける。打ち付ける雨の冷たさは、その窓ガラスに触れれば鮮明に分かるだろう。暑さから逃れるためにショッピングモールに出かけ、エアコンの電気代以上に買い物をしたり、熱帯夜を乗り切ろうと決意し、結局タイマーを設定して冷房をつけた夏。その気配はもう、微塵もない。どこかで元気にやっていますか、そんな絵葉書でも送りたくなるほどに、夏の空気は、もういない。

 これ以上空気が冷えれば、きっとその雨は雪へと姿を変えるだろう。儚くとも美しい、そんな存在へと変貌を遂げるのだろう。

 嫌だ。

 一色が口の中だけで呟くと、比企谷八幡がこちらを窺うように覗き込んでくる。「なんでもないです」一色は首を振って、クリーム色の液体を一気に煽る。

 冬なんて、一生来なければいいのに。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「ちょっとせんぱい! いつまで寝てるんですか!」

 一色いろははベッドで薄い掛布団に包まる物体を揺する。何かに抵抗するかのように使用することを拒否していた毛布だったが、芋虫のように丸まっている比企谷八幡の姿を見ると、そろそろ出さなきゃいけないかな、とも思い始める。まだ大丈夫ですよ、まだいけますよ、そう言い続けて風邪をひいてしまうのは一色としても本望ではない。

「うう、あと一日……」

 ごろりと身体を傾けて逃れようとする布を掴み、勢いよく引っぺがす。「それ明日になりますって!」

「目が、目がああああ……」掛布団を失った先には、情けなく両目を抑えて悶える男の姿があった。

 寝癖も相まっていつもより多くのアホ毛を生やし、昨夜、夜更かしに付き合ってもらった所為でさらに濁った瞳でこちらを見る。陸に上がった深海魚を思い起こさせるその比企谷八幡の姿に、どうしようもなく心臓が高鳴るのだから、困った。本当に、困った。

「まったく、今日は週に一回、ゼミがある日ですよ。卒論終わってないんだからちゃんと…」一色はそこで言葉を切り、突然比企谷八幡の枕元に水泳のスタートよろしく突っ込んだ。ベッドのスプリングが軋む。比企谷八幡はその急な奇行に声を上げそうになるが、一色がすぐさま身体を起こし、何事もなかったかのように手に持つ掛布団を畳み始めた為、あっけに取られる。

「え、なに」比企谷八幡が肩をびくびくと震わせて訊ねる。

「ご飯、できてますから」

 一色が背を向けたまま答える為、比企谷八幡はそれ以上追及しない。できないと言った方が正しい。

 リビングに戻った一色は、朝食であるフレンチトーストが載ったミニテーブルを横切り、台所へまっすぐ進む。生ごみを入れるゴミ箱を開け、先ほど枕元から回収した小さな包みを投げ入れる。生ごみが入った小さな袋が数個あり、その上で図々しく鎮座している異質な包みを見て、一色の顔はさらに赤くなった。

 昨夜、眠れないとごねる一色を慰めるように、労わるように見つめる比企谷八幡の顔を思い出す。

 ぶんぶんと首を振ってそれを振り払い、一色は取っ手を上げて水を出す。掌一杯にそれを溜めると、勢いよく顔を洗う。きんきんの冷たさが頬の温度を奪う。顔を上げると、壁際に隠れるように比企谷八幡がこちらを覗いていた。

「なに、どしたの」

 あ、だめだ。

 一色は先ほどと同じ動作を繰り返して顔を洗う。慣れない! と、叫びたくなる。何回抱かれても恥ずかしい。未だに電気は消さないと無理だし、舐めてもらうなんてもってのほか。すっぴんは見せてるから許して、なんてことを考えていると、ミニテーブルの方から「いただきます」と声が聞こえた。

「あ、はい、どうぞ」一色は顔を上げて促す。

 比企谷八幡はフレンチトーストを一口齧ると、うまい、と思わず漏れてしまったかのように言う。一色はそれが嬉しくて、急いで顔を拭いて彼の元へと向かう。

「まあ、なんていったって私が作ったんですから」比企谷八幡の向かい側に腰を下ろしながら一色は胸を張る。

「でも白飯と味噌汁が恋しくなってきたな」

「は?」

「いえ、何でもないです……」

 小さく威圧して、有無を言わせないながらも一色は頭の中で朝食和食化計画が始まっていた。比企谷八幡が食べたいと言ったものは、まるで好きな歌手の新曲を覚えるかのようにインプットされる。一つ一つに意味があるように思え、それを披露した時の比企谷八幡の反応を想像して、自然と笑みがこぼれる。

「じゃあ、和食もたまに作りますね」

 比企谷八幡がぱっと顔を上げる。「え、まじ? やった」

「感謝してくださいよ?」一色がウインクすると、流石生徒会長様、と拝まれるため、「いつの話してるんですか……」と思わずぼやく。

 一色いろはは比企谷八幡の一挙手一投足に心を奪われている。寝癖のついた髪、ぼんやりとテレビの天気予報を見る横顔、かと思えば時折みせる憂いに満ちた瞳。そのすべてが、刺さる。

 一色が何げなくテレビに目を向けると、いつのまにか七時半を時を回っていた。

「って、遅いです早く食べてください!」

「片付けは俺がやるからいいぞ」

「え、せんぱい大好き」

「はいはい」

 一色は量の少ないフレンチトーストをすぐに平らげ、シンクに皿を置く。「じゃあ、お願いしますね」

「はいよ」

 洗面台に行くと、化粧ポーチのファスナーを開けた。

 

 鍵を差し込み、回す。小気味良い音がした。ガチャガチャとドアノブを回して扉が開かないことを確認する。

「戸締りよし、いってきますっ」

 二階建ての賃貸アパートにしては重厚な扉。一色はその先を透視するように見つめてそう言う。比企谷八幡と同棲を始めて、もうすぐ二年が経とうとしている。別に引っ越しをする訳でも、同棲を解消するわけでもない。

 ただ、首筋を撫でる冷たい風が、一色を感傷に浸らせていた。

 誰に言ってんだ、と声がして横を見る。しかしそれは気のせいで、少し先でこちらを窺う比企谷八幡の姿があるだけだった。

 同棲を始めた頃、何度も言われたそのセリフがフラッシュバックしたのか、と一色は苦笑する。

 パタパタと小走りで追いつき、「おうちにですよ」と笑いかける。「え、なにが?」と狼狽える比企谷八幡の横をすり抜け、一色は先の階段を降り始める。「ほらせんぱい、遅刻しますよ!」

「いや、俺の準備は終わってたんだけど……」

 比企谷八幡の小さな抗議を聞きながら、一色いろはは駅へと急いだ。

 昨夜、関東を襲った記録的な豪雨は見る影もなく、街にきらきらとした装飾を残して消えていった。露の滴る木々を横目に流し、改札をくぐる。大学は四駅先で、迷った結果電車での通学を選んだ。あと一本遅れたら遅刻という電車に二人で乗り込み、扉にもたれた比企谷八幡は文庫本を開いた。今では見慣れた車窓の景色が右から左へ流れていく。

 あ、と見えてきた水色の集団に目が留まる。電車は図ったかのように徐行運転を始め、やがて彼ら彼女らの正面で停止する。電車にも信号があるとは大学生になってから知った。歓声が聞こえ、幼稚園児の小さな集団が電車に向かって両手を振る。遅刻ギリギリという罪悪感を消し去って余りある笑顔だった。

 この電車に乗ると、偶に遭遇できる景色に一色は頬が緩む。小さく手を振ると目が合った児童がひと際大きく手を振って応えてくれる。

 ふと視線を感じてそちらを見ると、比企谷八幡が目を逸らしたところだった。そして表情を隠すように文庫本を顔の高さに上げる。一色は少し意地悪がしたくなり、彼のその腕を無理やり取って窓の外にぶんぶんと振ってみる。うお、とも、ちょ、とも微妙に違う声を出して比企谷八幡は抗った。彼の気恥ずかしさに反するように児童の歓声は大きくなる。手を振り返してもらうゲームでもしているのだろうか。

 再び比企谷八幡に見やると赤面して目を泳がせていた。可愛いからいいじゃないですか、と言おうとして、その泳ぐ視線の先をチラリと確認すると、席が埋まるほどの数の生暖かい車内の視線がこちらに向けられていた。

 一色の顔は比企谷八幡と同じように赤くなる。

 二人して俯き、地下へと沈む電車で二駅をやり過ごした。

 

「今日は卒論やって、そのままバイト行くから」

 ゼミ室へと続く階段、その一段目に足を掛けた比企谷八幡はこちらを見てそう言った。夕食はいらない、ということだ。「はい、がんばってくださいね」と一色は笑顔で返事をする。

 一色と比企谷八幡は同じゼミに所属していた。二年次の一月に迫られたゼミ選択で、比企谷八幡のアドバイスを受けた一色いろはは、アドバイスを無視して同じゼミに入った。別に学年を越えて交流があるゼミではない。ただ、一緒のゼミに所属していたかった。それだけだった。それだけで十分だった。

 踵を返してそのまま昇っていくかに思われた足が進まないことに気が付く。スニーカーのかかとが浮いたままの奇妙な姿勢は、比企谷八幡の浮ついた気持ちが如実に表れているように一色は感じた。

 襟足を掻き、口をもごもごさせながら比企谷八幡は振り返った。

「その、よろしく言っといてくれ……、あ、あと、もう怪我は大丈夫だって……」

 一色は目を瞬かせる。

 ふ、と唇の隙間から空気が抜けた。

「あはは、あははははは」

 お腹を押さえて笑う一色に比企谷八幡はじっとりとした視線を向ける。「なんだよ……」おかしそうに目尻を拭う仕草に、比企谷八幡の心臓はドキリと跳ねる。上気した頬が少し、艶っぽい。

「そんなの、当たり前じゃないですか」一色は優しく微笑む。「どうせ、せんぱいの事ばっかり喋るんですし」

 比企谷八幡は苦虫を噛み潰したような表情をする。居心地の悪そうなその姿に助け舟を出すつもりで、一色は自分の腕時計をトントンと指で叩く。比企谷八幡の腕にも同じブランドのものが付けられていた。文字盤をみて、長針が十二を示す手前だと気が付く。

「やべ、じゃあな一色」

 今度こそ、比企谷八幡は階段を昇っていく。

 それに手を振って、一色も一限の教室に向かい始める。

 三号館へと続く渡り廊下を歩いていると、対面する形で二人組のチャラチャラした男子学生が歩いてくる。何やら大きな声で、グラウンド、やら、助っ人、やら話している。すれ違う直前、威勢よく叫ばれた名前を聞いて意識が持っていかれた。

「どうすんだよ、助っ人なんて見つかるのかよ」

「だから、法学部の”葉山”って奴を―――」

 一色は、え、と言いそうになるが、グッと堪えた。そして不自然に止まった言葉を訝しんで首を巡らせる。すると、会話をしていた男子学生もほとんど牛歩のように進みながら、こちらを振り返っていた。

 あ、やば。

 一色は大学三年間で培った経験則からすぐに場を離れようとした、しかし一瞬、遅かった。

 ピタッと男子学生の一人が足を止め、「どうしたの、何か用?」と首を傾げる。

「いえ、別に……」その男の重力に従わない長い前髪に少し苛つきを覚える。

「きみ、一色ちゃんだよね、そうだよね」

 ちっ、これはうざい。

 少し視線をずらせば、もう片方の男子生徒が膝丈のスカートから伸びる一色の脚をチラチラと見ている。一色は息を吸い、そのタイツに包まれた脚を踏ん張った。

「あ、ごめんなさい、授業が――」

 言いながら、背を向ける。そして二度と振り返らない。大学生のナンパ程度ならこれだけで撒ける。流石は今をときめく草食系男子と言ったところか。昔をときめいた肉食系男子を知らないけど。

 講義室の扉を開け、ちらりと後ろを見たが誰もいなかった。ほっ、と息を吐き、室内を見やると三百人は入りそうな広い空間が広がっている。授業は始まっていたらしく、教授がこちらを一瞥するが、特に何を言われるでもない。一番後ろの席で手を振る女子がいて、少し身を屈めながら移動する。

 一色いろはは地味に生きた。ただそれは自宅に籠るとか、休み時間を一人で過ごすとか、要するに比企谷八幡のような生き方をすることではない。ていうか、せんぱいは休み時間だけじゃなかった。特別目立つような行動はとらず、ひっそりと、高校生の時の様な派手さは仕舞い込んだ。

 しかし現実は残酷だった。そもそも行事と呼べるものが殆どない大学では、主にコミュニケーション能力、そしてルックスがものをいう。そしてさらに残酷なことに、亜麻色の地毛が目立たなくなって尚、一色が一番と言っていいほどに顔が整っていた。寧ろ、料理人が同じなら素材の良さで差が付くように、同系色の溢れた世界では、一色の存在はより際立った。

「おはよ」一色が近づきながら挨拶をすると、手を振っていた友人が椅子を引いてくれた。

「おはよ、今日もお疲れ様」

 事情を知る友人が、いたずらっ子のように言ってくる。

「ちょっと……」荷物を置きながら一色が抗議の眼を向ける、が、横槍が入る。「え、なになに、何が疲れたの」前の席の男子生徒が振り返って話しかけて来た。「ううん、何でもないよ」と、いつものように軽くいなす。

 一色は席に着くと、カチカチとシャーペンを鳴らし、鞄から取り出したルーズリーフに文字を走らせる。

 ―――今日、昼からサボっていい?

 チラリと目配せをすると、友人は察しよく返事を書き始めた。

 ―――だんな?

「ちが……っ!」

 一色はハッとして口元を抑える。

 耳ざとく前の男子が再び身体ごと振り返ろうとしたが、友人が、しっし、と邪魔者を追い払うように手を振る。そしてこちらを見て、ごめんごめん、と口パクで言ってきた。そして、

 ―――いいよ。

 とシャーペンを走らせる。

 ―――ありがと。今度スタバの新作奢る。

 一色とその友人は互いに親指を立て、交渉成立、と言わんばかりに笑った。

 よかった、これで迎えに行ける。

 会うのは久しぶりだな、雪乃先輩。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 電車を乗り継ぎ、成田空港駅へと降り立った一色いろはは階段を昇りながら腕時計を見る。時刻は十三時三十分。雪ノ下雪乃の乗った飛行機はもう少しで到着するはずだ。

 一色は国際線のあるターミナルへと足を向ける。無機質な地下鉄というイメージが強かった駅構内から、歩を進めるごとに活気が溢れて来る。壁や床の質感が少しずつ変わり、艶が目立つようになるとそこはもう近未来のようにキラキラと輝きだす。ガラス張りの空間が広がり、自然光に包まれた一色の心は晴れ渡る、かに思えた。

 気がかりというものは、そう簡単にいなくなってはくれない。

 そういえば、と思い一色はリュックのポケットから携帯を出す。ブレザーだったらポケットに入れておけるのに、なんて大学に入って一年は思っていたが、今となっては慣れたものだ。予想通り、新着のメッセージを受信していた。講義からずっとマナーモードにしたままだったのだ。

『いろはちゃん! 迷っちゃった助けて!』

 メッセージを確認すると、画面を通して夕日のような温かさが身体を包み込んだ気がした。視線を横に逃がすと、小さな街のように賑わう空間が広がっていた。

 まったく、仕方のない先輩ばっかりですね。

 画面を数回タップし、電話を耳に当てる。

「あ、結衣先輩?」

 

「助かったよー、いろはちゃん」

 走り寄ってきた由比ヶ浜結衣は、太陽を彷彿とさせる笑みで一色に抱き着く。一色は周りの目を気にしながらも、まんざらでもなく表情が緩む。由比ヶ浜のトレードマークだったお団子はなくなり、髪の毛はロブヘアで外に跳ねている。

 これをせんぱいに見せたら嫉妬するかな、なんて。ん? 嫉妬したら駄目じゃないか?

 そんな思考を砕け散らせるほどに、破壊力抜群のその武器が一色に押し付けられる。なんていうか、この人雪乃先輩に謝った方がいいんじゃ、と一色は明後日の方角へ視線を逃がした。

「ゆきのんまだかなー」

 由比ヶ浜がクルリと辺りを見渡す為、一色は自分の腕時計を見せるように左腕を持ち上げる。「もう時間は過ぎてますし、もう少しじゃないですか?」国境を超えるのだ、手続きにそれなりの時間はかかるだろう。

「そっかそっか、楽しみだね!」由比ヶ浜が笑い、一色もそれに習う。「あ、いろはちゃん今日は学校午前中?」

 思い出したように訊ねる由比ヶ浜に、ぺろりと舌を出して答える。「サボっちゃいました」

「え、大丈夫?」由比ヶ浜が眉根を寄せて顔を覗き込んでくるため、一色はぶんぶんと手を振る。「全然大丈夫ですよ!」

「そっかあ、よかったあ」

 へにゃりと相好を崩す由比ヶ浜を見て、一色は、いいな、と思う。

 自分が大変な状況でも人の心配ができるなんて、結衣先輩はすごく強い。思い返してみても、結衣先輩のまわりはいつも温かかった。

「そういえば、結衣先輩は雪乃先輩と連絡取ってたんですよね?」

「うん、そうだよ?」

 アメリカのマサチューセッツ州にある大学に留学した雪ノ下雪乃はこの三年ほどアメリカで生活していた。初めは一時帰国などで会っていたが、卒業が近くなると、こちらで言う卒業論文のようなものに忙しくなり、最後にあったのは一年ほど前だった。

「じゃあ……」一色が言いにくそうに口を噤む。

 由比ヶ浜を想っての行動だったが、当の彼女の頭にはクエスチョンマークが目に見えるほど湧き出ている。業を煮やした一色はゆっくりと言葉を繋いだ。

「じゃあ、結衣先輩が、その、落ちちゃったことも……」

 由比ヶ浜結衣は教師になりたかった。それが夢なんだ、と打ち明けられた時、一色はすぐに賛成した。由比ヶ浜が教師だったら絶対に嬉しい、そう思った。雪ノ下雪乃も比企谷八幡も応援してくれたそうだ。大学の教職課程を選んだ由比ヶ浜は必死に勉強をし、四年の夏前に卒業と同時での教職免許取得が確定して、来る採用試験に臨んだ。

 結果は、今の一色の丸まった背中が物語っている。

 雪乃先輩ももう知ってるんですか、そう訊ねようと顔を上げた瞬間、由比ヶ浜の大きな瞳と目が合う。

 一色はその瞳に、この子何を言ってるんだろう、というニュアンスが含まれていることに驚き、少しだけイラっとした。

「あ!」

 何かを見つけたような、思い出したような、突然の叫びに一色の肩がびくりと跳ねる。

「な、なんですか結衣先輩」

「言ってなかった! あたし先生になれるの!」一色は突然の告白にポカンと口を開ける。それを見て由比ヶ浜は慌てて続けた。「あ、あのね、あたしのゼミの教授が、臨時的任用講師っていうのに推薦してくれてね、勤務年数を重ねれば正規採用されるの!」尚も動かない一色に由比ヶ浜が慌てる。「とにかく先生になれるの! あたし!」

「ほん、とですか……」

「うん! 頑張ってたからって、あたし、運、いいかも」

 照れたように目を伏せる由比ヶ浜に一色はぶんぶんと首を振る。

「違います、違います、結衣先輩の力ですよ。私知ってます、頑張ってたの、ちゃんと、知ってます」

 言葉が切れるようになり、一色は唇を噛む。鼻の奥がつんと痛い。

「ありがとう、ありがとう、いろはちゃん」

 優しい掌が頭にのせられ、ゆっくりと撫で始める。一色はそれに何度も何度も頭を振った。泣くのは私じゃないし、今日は雪乃先輩と再会する日なんだ、と涙を堪える。

 その時、あ、と由比ヶ浜が声を洩らす。それは先ほどの驚きに満ちた音ではなく、幸せだったり、温もりだったりを身一杯に含んで、洩れ出したような、そんな陽だまりの音だった。

 一色はいつの間にか到着していた国際線のゲートに赤い目を向ける。大きなキャリーケースを持った人々が続々と出てくるその不可侵領域から、スラリと伸びた黒のスキニーがゆっくりとした足取りで近づいてくる。

 由比ヶ浜と一色は互いに目を合わせ、示し合わせたように足を踏み出す。

 雪ノ下雪乃は、目尻を下げて優しく微笑んだ。

 

「日頃から連絡する習慣がないからそういう事態になるのよ。まして教師は生徒の模範とあるべきなのだから、伝え忘れはただのミスでは済まされないのだけれど」

 空港内のカフェ、その四人掛けのテーブル席に収まったはいいが、目の赤くした一色に気が付いた雪ノ下は事の顛末を聞くなり、声を低くして隣に座る由比ヶ浜の脇の甘さを列挙し始めた。

 再会一番に説教を受けるなんて結衣先輩も落ち込んでいるのではないか、そう思い対面に座る由比ヶ浜の顔を覗き込むが、だらしなく緩んだ表情を見て、一色も笑ってしまう。気持ちはよく分かる。久しぶりだ、この感じ。

 雪ノ下もそれを察したのか、軽くため息をついて運ばれてきたコーヒーに手を付ける。「まったく…」

「えへへ、ごめんねゆきのん」

 一段落したところで一色が口を挟む。

「雪乃先輩、疲れてないんですか?」

 雪ノ下は流した前髪を指で梳きながら一色を見る。「大丈夫よ、ありがとう一色さん」

「あ、いえ」やばー、めっちゃ大人っぽくなってる。

「ねえねえゆきのん! 論文の結果はどうだった?」

 由比ヶ浜が子犬のように跳ねて聞き、一色はカップに注がれたカフェオレをこくりと飲む。

「それについては心配ないわ、無事合格できたから、それより……」雪ノ下の瞳が一色を射貫く。「聞いて、いいかしら」

 カップを置く。カチン、と食器が音を立て、それをキッカケに一瞬の静寂が訪れた気がした。

「どこから、話しましょうか」

 一色は力なく、微笑む。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 三年前、比企谷邸にて比企谷小町と共にクリスマスイブを過ごしていた一色いろはは、突然鳴り響いた固定電話の音に敏感に反応した。小町もめったに鳴らないそれに驚いていたようだが、おずおずと近づく。外に降り積もった雪が空気の波を吸っていたのか、容赦なく人の心をざわつかせるその音は、あまりにも無機質だった。

 受話器を取った小町の腕は震えていた。一色は炬燵から腰を上げ、彼女のそばに寄る。そして、魂が抜かれたように膝から崩れ落ちる彼女を支えた。

「小町ちゃん! どうしたの!」

 小町は床のただ一点を見つめ、口をゆっくりと開閉させて声を絞り出した。

「あ、お、兄ちゃんが、救急車、運ばれたって……」

 一色は目を見開き、その手から受話器を半ば強引に剥がした。「すみません、どこの病院ですか」

 告げられたその名称を一度復唱し、小町に向き直る。

「小町ちゃん、せんぱいに会いにいくよ」

「え、あ、うん……」

 まるで凍らされたかのように表情が変わらない小町に上着を着せ、一色はここから一番近いタクシー会社に連絡を入れた。小町の背中をさすり、十分と経たず到着したタクシーに乗り込んだ。一色は財布を開き、お金を余分に持ってきていた自分を褒めつつ病院の名を告げる。

 最悪な別れをしたのに会いに行くのか、そんな思考がなかったわけではない。小町を送り届ける、そんな大義名分を掲げていたのかもしれない。それでも、一色は心の底から比企谷八幡に会いたいと願った。一度振られて嫌いになるほど、彼への思いは小さなものではなかった。

 病院のロータリーで年配の運転手にお金を払うと、小町の手を引いてフロントに向かう。

 そこから先は、まるで色のない世界だった。一色は病院という施設がこんなに冷たいものだとは知らなかった。一歩踏み出す度に一度ずつ体温が奪われていく錯覚を覚えた。気分が悪いのだろう、後ろをついてくる小町の顔は土気色に染まり、何か言い残したことがあるかのように口は半開きだった。

 言い残したことがあるのは一色も同じだった。

 一色が関われたのは、バタバタとした足取りで比企谷小町の両親が背後に現れるまでだった。

 

 日付を跨ぎ、十二月二十五日、クリスマス。眠れぬまま朝日を迎えた一色はテレビのニュースを見ていた。女性アナウンサーが淡々と話す内容は、大学生、刺傷、殺人未遂、現行犯、怨恨など、よく目にする単語ばかりで、そんなことより、という勢いでクリスマスツリーが映った瞬間にテレビを切った。

 サンダルをつっかけて外に出ると、白い息が青空に消えていった。澄んだ空気が喉に刺さる。雪は降っていなかった。道路には車輪に潰された雪が黒ずんだ模様を描いていた。肩を震わせて空を仰ぐ。本当に寒い日は雪が降らないらしい。そんな話を聞いたせいか昨日よりも寒い気がする。

 いや、昨日の病院より冷たい世界があるとは思えない。

 一色の張り詰めた神経は、昼過ぎにかかってきた電話でようやく少し緩むことになる。

『お兄ちゃん、大丈夫でした』

「ほんと? 小町ちゃん」

 自室に籠り、布団に包まって奉仕部の二人、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣に連絡を取っていた際に電話がかかってきた。まずは命に別状はないということを確認して、胸を撫でおろす。

『神経に少し傷がついていたみたいですけど、恐らく後遺症はないって先生が言ってました』

「そっか……、良かった……」

『ただ……、まだ目を覚まさなくて……』

 酷く沈んだ声音に、一色の胸は締め付けられる。

「ねえ、お見舞い行ってもいい?」

『え、でも…』

「もしかしたら、私の声で目が覚めるかも! なんちゃって…」ちょっと苦しいか、と一人苦笑いをしていると、スピーカーから小さな嗚咽が聴こえ始めた。「小町ちゃん?」

『……い、です』

「え?」

『来て、欲しい、です……』

 一色は息を呑む。

「うん、すぐ行くよ」

 一色はベッドから起き上がるとすぐさま電話を掛ける。もちろん、あの二人へと。

 叩き起こしてやりますよ、と見えない彼に、宣言する。

 しかし、一色の意気込みとは裏腹に比企谷八幡が目を覚ますことはなかった。白い壁の個室では、いくつものコードが白いシーツの中に潜り込み、恐らく彼の体内へと繋がっているのだろうな、と一色は思った。由比ヶ浜結衣も雪ノ下雪乃も沈痛な面持ちで比企谷八幡の瞼が持ち上がるのを期待した。数時間後、三人は肩を落としてその場を後にしたが、比企谷小町の頬を伝う涙は一色の心を責め立てた。

 私が止めていれば、一色はそう思った。例え醜く掴みかかってでも止めていれば、そう後悔した。

 比企谷八幡が意識を取り戻したのはその二日後、十二月二十七日になる。ただ、面会することができたのは年が明けてからだった。

 

「記憶障害?」

 一色いろはと由比ヶ浜結衣は同時に声を上げた。雪ノ下雪乃は目を見開いただけですぐに先を促す。

 比企谷小町は神妙な面持ちで口を開く。「はい、所々の記憶が欠落しているらしくて……」

 年が明けて一月三日、神社は盛況を博している頃に、一色、由比ヶ浜、雪ノ下は病院内にあるカフェスペースで比企谷小町の話に耳を傾けていた。四人掛けのテーブル席で、小町と雪ノ下、一色と由比ヶ浜のペアで座っている。

 ちらりと一色が店内を見渡すと、見舞いついでといった雰囲気の主婦や、もう何十年も通っていそうな入院着姿の老人がいた。流石というか、流石にというべきか、話し声はさほど大きくなく、落ち着いたBGMが耳に残った。

「もし差し支えなければだけど、詳しく教えてもらえるかしら」雪ノ下が小町の顔色を窺いながら訊ねる。

 小町は頷き、知っておいてもらわないと兄が混乱するかもしれないので、と前置いた。「原因はショック性のものらしいんですけど、皆さん、記憶の種類って知ってますか?」

 一色が首を巡らせると隣の由比ヶ浜と視線がぶつかり、次いで台本でもあったかのように二人して正面の雪ノ下を見る。雪ノ下はそれだけで何かを察したのか、目の前にあるカップに視線を落として「それは、短期記憶や長期記憶の話ではなさそうね」と呟いた。

「はい」小町がゆっくりと頷く。

 一色と由比ヶ浜は再び目を合わせ、落第生同士の謎の友情を芽生えさせていた。

「手続き記憶、意味記憶、エピソード記憶というのは聞いたことあるかしら」

 雪ノ下のその問いが自分たち落第生に向けられているものだと気付き、一色と由比ヶ浜が揃って首を傾げる。それを見て雪ノ下が指を三本立てた。

「まずは手続き記憶、これで有名なのは自転車の乗り方かしら、体が覚えるとはよく言ったもので、一度覚えると恐らく一生忘れないものよ」

 雪ノ下はチラリと小町を見る。この話で合っているかの確認かな、と一色が思っていると、小町がこくりと頷いた。

「次に意味記憶」そう言って薬指を畳んだ。「これは文字通り意味の記憶よ、由比ヶ浜さん日本の首都は?」

「ふぇ!」由比ヶ浜は突然のクイズに素頓狂な声を出す。「えっと……ち、東京!」

 今この人千葉って言おうとしたよ、一色は耳ざとく聞きながら雪ノ下に視線を戻す。

「そう、『日本の首都は東京』『アメリカの首都はワシントン』『信号の赤は止まれ』『私は女性』といった一般的な知識といっていいかしら」

 そして最後、と雪ノ下が中指を折って人差し指をぴんと立てる瞬間、一色は由比ヶ浜が、「アメリカの首都ってニューヨークじゃないんだ……」と衝撃を受けているのを見逃さなかった。

「エピソード記憶よ」雪ノ下の言葉に小町の肩が震える。「これは思い出、生活の記憶よ。そしてこれら三つの記憶を管理するのは脳の中でも別の部分、それによって生じるのが、記憶ごと思い出せたり思い出せなかったりという事態ね」

 雪ノ下はそこで一度言葉を切って小町に目を向けた。小町は「分かりました」と頷いて雪ノ下の話を引き取る。

「アルツハイマー、認知症の方が記憶を失うのは、そのエピソード記憶らしいんです。だから思い出とかは忘れても、意味記憶、日本の首都とかを忘れる訳ではないって、そして兄もそれに近いそうです」

「え、じゃあ」と由比ヶ浜が身を乗り出す。「どんどん忘れてっちゃうってこと?」

 由比ヶ浜の何気ない一言に一色はまたも罪の意識に潰されそうになる。私のせいで、私のせいで、そう責め立てる声が身体の内側から、皮膚を突き破らんばかりに響く。

「あ、いえ、認知症の方のような脳が縮むといった症状はないらしいので、それは大丈夫だと思います」

 小町が宥めるように言い、由比ヶ浜がゆっくりと腰を下ろした。「よかった……」

 一色も同時に息を吐く。

「それに、忘れている断面も、殆ど大学一年の間の記憶らしくて」

「え、じゃあ私たち……」関係ない、一色はそう口を挟もうとして、ふと思い出す。私は、違う。「え、と、奉仕部の記憶がなくなったとかじゃないんだ?」

「はい、多分」小町がチラリと壁掛け時計を見た。「それを確かめて欲しくて」

 そろそろ検査も終わるので行きましょう、と小町が席を立つので、それに従う。リノリウムの床をぺたぺたと歩き、入院棟へと向かう最中、由比ヶ浜と雪ノ下は安堵の表情を浮かべていた。一色だけが、暗い顔をしてついていく。

 比企谷八幡と書かれたプレートが目に入ったところで、あ、と小町が振り返る。「大切なこと言い忘れてました、今お兄ちゃん、忘れた記憶を考えると酷い頭痛がするそうなので、気を付けてもらってもいいですか」

 それ早く言ってよ、と三人の顔に緊張が走った。

 

 カーテンを開けると、リクライニング式の白いベッドで文庫本を開く比企谷八幡の姿があった。久しぶりのその姿は少し痩せて見えたものの、体調は良好そうで、寧ろ沢山寝たせいか目の下の濁りは薄まっているように一色は感じた。最初はぎこちなかった奉仕部の面々の会話も少しずつ元の調子を取り戻し、雪ノ下の切れ味鋭い罵倒が出たところで一旦息をつく。比企谷八幡の記憶障害は高校時代にまでは遡っていないらしい。

 このまま滞りなく終わりそうかな、と一色が窓の外に広がる病院の中庭を覗いていると、「うっ」と呻き声が聞こえた。振り返ると比企谷八幡は眉間を抑えるように俯いていた。

「お兄ちゃん!」小町が近づくが、どうすればいいのか分からないのだろう、手が宙を彷徨う。

「どうしたんですか!」一色が叫ぶと、由比ヶ浜が泣きそうな声で、「あの、隼人君が助けてくれたんだよ、って話したら突然……」と言う。

 一色は呆然とする。

 そして同時に、やっぱりか、という思考が頭を過る。

「ナースコールを!」

 雪ノ下の一喝で、皆が落ち着きを取り戻す。

 看護師がやってきて、横になった比企谷八幡を背に病室を後にした。カーテンを閉める直前、一色の眼に映ったグレーの頭髪は、痛々しさだったり、助けを求める叫びだったり、そういったものが溢れだした顛末のように見えた。

 その後も慎重に対話を重ねた結果、失った記憶は昨年の四月から九月が虫食いのようになっていて、十月から十二月の大半が消え去っていた。正確には、靄が掛かっているのだと比企谷八幡は言う。磨りガラスのようにぼやけ、それを擦り落とそうと、ピントを合わせようとすると、眉間に違和感が生じるそうだ。

 

 そしてそれは、今も、殆ど思い出されていない。

 そう、比企谷八幡は、彼は、言う。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「――ちゃん、いろはちゃん」

 一色の視界に肌色の物体が侵入して消えるを繰り返していた。由比ヶ浜の手だ。

「あ、ごめんなさい」カフェの内装が目に入り、一色は意識がトリップしていたことに気が付く。

「大丈夫?」雪ノ下が心配そうな声を出す。

「全然大丈夫ですよ、どこから話そうか考えてまして」

 由比ヶ浜が笑う。「そうだよね、ゆきのんが知りたいのは留学してからの事だもんね」

「ええ、でも、整理できてからでいいから、無理はしないで頂戴ね」

 一色は、ありがとうございます、と軽く頭を下げ、もう一度思い出す。

 何を話して、何を話さないべきか、よく考える。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 三月の上旬、比企谷八幡が退院してから三週間が経った。一色は清潔感のある広い施設で、備え付けられたベンチに座っていた。見つめる視線の先には、苦い表情をして平行棒の間を歩く比企谷八幡の姿がある。リハビリ施設の職員の笑顔と、せんぱいの渋面のコントラストが面白い。

 まあそれも、せんぱいの脚が治るものだから思えることだよね、と一色は比企谷八幡の奥で暗い顔をしている車椅子の少年を眺めた。すると、今日のセットが終わったのか、比企谷八幡は職員に頭を下げるとこちらに向かってきた。松葉杖を器用に使い一色の隣に座る。

「別に来なくてもいいんだけど……」と言う比企谷八幡に、自動販売機で買ったスポーツドリンクを渡す。「あ、さんきゅ」

「せんぱいの挨拶はいつから『別に来なくていいんだけど』になったんですか」

 一色は毎回のように言われるそのセリフを揶揄する。

「いや、まあ、すまん…」ペットボトルから口を離し、比企谷八幡が少し項垂れる。

「あ、いや、全然いいんですけど」一色は沈黙を恐れて、続ける。「どうですか? リハビリは順調ですか」

 比企谷八幡は一色をちらりと見ると、「まあ、そうだな」と呟いた。

「そうですか、よかったです」

「ああ、さんきゅな」

 結局、恐れていた沈黙は訪れ、二人の衣擦れの音が聞こえ始める。一色が言葉を捜し、口を開いては閉じるを繰り返していると、「試験だけど」と低い声が聞こえた。

「え」

「三個だけ落としたけど、大丈夫だった」

 比企谷八幡のそのぶっきらぼうな話題の振り方に苦笑する。未だ高校生の一色からすれば、三つ落したなど留年案件なのだが、そんなことはどうでもよかった。

「せんぱいはまだまだ私の先輩なんですから、しっかりしてくださいよ?」

 隣を覗き込むようにして、可愛らしい声を出した一色を比企谷八幡は手をひらひらと振ってあしらう。「はいはい」

「むう」

 頬を膨らませる一色を横目に、比企谷八幡は半分以上なくなったペットボトルを椅子に置いた。

「しっかりも何も、俺はもう一色の先輩じゃないからな」

「え、何言ってるんですか」

「あ、いや、人生の先輩的な意味ならそうだが」

「いやせんぱいから学ぶこととかないんで」

「さいですか……」肩を竦める比企谷八幡に、一色は大学名を耳打ちする。「え、なに」比企谷八幡はそれを訝しんで身体を引いた。

「私の学校です」にこりと笑う。

「いや、俺の学校だけど」

「せんぱいと私の学校です」

「え」

「よろしくです!」

「ええ……」

 小さく敬礼をする一色の瞳には、崩れ落ちる男の姿が映っていた。

 

 卒業式を終え、大学に入学してからも一色は比企谷八幡のサポートを惜しまなかった。友達作りなど二の次で、一色は比企谷八幡の移動に助けが必要な時間割を携帯アプリにメモして、一緒に登校し、松葉杖を持ち、昼食を代わりに買った。嫌がり、人の少ない時間に買い物を済ますなどしていた比企谷八幡も一色の熱量に気圧され、しぶしぶ頼ることを始めた。一色が預かった松葉杖を一色に気がある男子学生が代わりに持とうとしたり、美少女が脅されているという噂が流れるなど、様々なことがあった。

 様々なことの中には、謝罪をしたいけれど、刺された記憶すら消えている比企谷八幡に接触できない城廻めぐりの存在もあった。比企谷邸を訪れ、涙ながらに土下座をしようとする城廻めぐりを比企谷小町は必死で留めた。今現在も、謝罪はできていない。そして、城廻めぐりは書店のアルバイトを辞めた。

 もちろん、警察も動いた。殺傷事件という物々しい名称に相応しい存在感の刑事が二名、比企谷八幡とその周辺を調査した。しかし、被害者である比企谷八幡に話を聞くことは叶わなかった。記憶障害がある場合の証言は無効になる。そしてそれ以前に思い出そうとすることによる頭痛の症状が比企谷八幡を苦しめ、聞き取りにドクターストップが入る。警察の仕事は幸いにもすべてを話した加害者の証言を元に、周囲への事実確認のみとなった。目撃者である、葉山隼人、戸部翔、戸塚彩加はもちろん、その前に会っていた一色いろは、比企谷小町。アルバイト先の従業員。そして事件の直前、一緒にいたと思われる男性二人と、折本かおり、その他女性二人にも話を聞き、怨恨ということで事件は加害者の精神鑑定ののち、終局を迎えることになった。一色は”遥”という名前を、始めて聞いた、と証言した。

 

 四月、雪ノ下雪乃はアメリカへと旅立った。一色も由比ヶ浜も、その流れの速さに驚いていたし、事実、留学は三年からの筈だった。しかし、雪ノ下は自らの判断で大学側に直訴し、アメリカの大学もそれを承認した。その準備に追われた二月、三月は比企谷八幡の様子を見に来ることは少なく、由比ヶ浜も何かを察したかのように一色に全てを任せた。その為に二人は詳細を知らない、聞かれれば答えたものの、二人がそれを求めて来ることは今日までなかった。

 そして、松葉杖を病院に返却するころ、一色いろはと比企谷八幡は付き合うことになる。リハビリでも、学校でもずっと一緒にいた二人の間には、余韻のような空気が漂っていた。どちらともなく言い出した訳ではない、それが、今でも一色の気がかりのひとつだった。

 一色が大学に入学して二年と少し経ち、二人は同棲を始める。親の承認に手こずるかと思いきや、一色の尽力を知っていた比企谷両親は賛成、特に父親が張り切って助けてくれた、と小町は肩を竦めた。寂しがるかと思った当の小町も意外にあっけらかんとし、大学受験で兄がいない方が丁度いいです、とゴミ出しをする様な仕草を見せた。一色いろはの両親は、比企谷八幡自身が挨拶に行くことで承認を得た。大学で何をしたいのか、将来の設計など、意地悪ともとれる質問を繰り出した一色の父親だったが、比企谷八幡の具体的すぎるカウンターが炸裂し、一色いろはのみならず母親の心まで奪って帰っていった。

 そして、比企谷八幡四回生、一色いろは三回生、十一月現在に至る。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「えー、なんか、普通だね」

 由比ヶ浜結衣は、ココアのストローをちゅうちゅう吸って言う。

「そんな特別なことなんてありませんよ」一色は困ったように笑う。

 そこで雪ノ下雪乃が顎に手をやって考え事をしているのに気が付いた。「どうしました?」

「あ、いえ、何でもないわ」雪ノ下はカップに手を伸ばす。

「そういえば、ゆきのん突然アメリカ行っちゃったから、びっくりしたよー」

 ね、いろはちゃん、と由比ヶ浜が言ってきて、一色も頷く。

「雪乃先輩、せんぱいの事気にならなかったんですか?」

 ずっと聞きたかったことを口にすると、一色の中の錘のひとつが落ちた気がした。

「そうね、もちろん心配だったわ」雪ノ下が一色に挑戦的な視線を向ける。「それこそ一色さん以上に」

 一色はごくりと喉を鳴らす。「それは……」

「冗談よ」

「冗談に聞こえるように言ってください」

「心配していたのは本当、でもね、私はもう、関係ないから」

 関係ない、という言葉に由比ヶ浜が顔を向ける。「ゆきのん」

 雪ノ下はそれに首を振って否定する。「悪い意味ではないわ、そうあるべきで、そうなったということよ」

 一色が何も言えないでいると、さらに続けた。

「彼は選ばなかったわ、私と」と、言葉を切り、由比ヶ浜を一瞥する。「彼が選ばないことを選んだの、それは紛れもない事実であるし、変わることはないわ。もちろん心配だったけれど、彼の人生は私の人生ではないから」それに、と一色を見る。「貴方がいるとおもったから」

「え」

「由比ヶ浜さんもそうじゃないかしら」

 一色が由比ヶ浜に目を向けると、照れ臭そうに頭を掻く。「あー、えへへ」

「私たちは選ばれなかったの、そして貴方が選ばれた、それが結果よ」

 一色は少し突き放すようなその言葉に、目の前のテーブルが少し大きくなった気がした。「でもね、一色さん」

「はい」

「その出来事と、私たちが今一緒にいることは、関係がないわ」一色は机の上で組んでいた自分の手を見つめていた。それに手が添えられる。「違う? 一色さん」

 顔を上げると、瞬間、二人が制服を着ているように見えた。雪ノ下雪乃は前髪を揺らし、由比ヶ浜結衣はお団子をくしくしと触る。逆光の夕日にも関わらず、二人の笑顔は、ちゃんと見える。

「は…い……」

 いつの間にか隣に座った由比ヶ浜が一色の頭を撫でる。

「ありがとう……、ございます……」

 太陽は傾き、気温と反比例するように赫々とした存在感を増す。

 夕日は一色の胸に沁み込むように沈んでいった。

 

 路線の違う二人に手を振り、駅のホームで独りになった一色は、雪ノ下雪乃が去り際に残した言葉を反芻していた。

 ―――関係ないから、彼が不誠実なことをしたら、私に言ってね。

 ぞくりと背筋が凍る。

 一色は電車を変えることにした。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「せんせー、さよならー」「さいならー!」「じゃーねー!」

 まだ若い、新芽の様な声が響き渡っていた。一色はそんな感慨にふけってしまった自分を少し責める。まだ二十歳ですよ、と誰にでもなく舌を出す。ここに来たのは久しぶりだな、と三階建てのビルを見上げる。

 比企谷八幡はリハビリを終えてから書店のアルバイトを再開した。城廻先輩が辞めたことを断片的な記憶を頼りに思い出そうとするも、どうも上手くいかない、と連絡を取ろうとした比企谷八幡を一色は制した。まだその時じゃないですよ、と優しく諭した。

 塾講師のバイトを始めたのは同棲してからだった。住む場所を変えたのはもちろんだが、お金が必要だったために新しいバイトを探し、この個人経営の塾に辿り着いた。破格の条件、とまでは言えないが、講師の技量によってボーナスが付く制度は金欠には魅力的な項目だった。現代文、国語を専門に社会を少々、大半が中学生だが、高校生の生徒もほんの少しだけいた。比企谷八幡の授業を受けた生徒はことごとく点数が上がった。その代わり、妙に口が達者になった、と保護者から確認ともクレームとも取れる電話がかかってきたが、中間期末と数回の試験を終えるころにはぱったりと止んだ。

 ビル手前の駐輪場スペースでたむろして携帯ゲームに勤しむ集団が目に入る。一色がその集団を眺めていると、その後ろのガラス戸が乱暴に開けられ、中からワイシャツ姿の比企谷八幡が現れた。「おい、早く帰らないと怒られるぞ」

「あとちょっとだけ! お願い!」生徒は手を合わせて懇願するように粘るが、比企谷八幡が首を振ると、渋々といった様子で立ち上がった。

 気を付けて帰れよ、と言って引っ込もうとする比企谷八幡に女子中学生二人が駆け足で近づく。「せんせー」

 一色は何故か分からないが、柱の陰に隠れていた。

「なんだよ」一色は比企谷八幡のぶっきらぼうな言い方に苦笑する。

「分かんないとこあるから教えてよー」

 無意識か、甘い声でおねだりするその中学生を一色は睨みつける。

「はいはい、どこだよ」顔近くない? と思ったのも束の間、パッと離れた比企谷八幡は顔の前で手を振る。「数学むり」

「せんせい大学生でしょ?」

「悪いが先生は国語しかできない大学生なんだ」

「でも経済学部なんでしょ?」

「ぐ……」

 ちょっとせんぱい喜んでませんかー? 一色の邪悪な念が伝わったのか、女子生徒はパタンと教材を閉じると、手を振って自転車に跨った。一色がため息をつくと同時に、比企谷八幡も同時に肩を竦めた。しかしまた「せんせー」と呼ばれる。

 せんぱい大変そうだな。

 生意気そうな、いうなれば野球部出身のような坊主頭が比企谷八幡に駆け寄る。って、さっきの携帯ゲームの少年じゃないか。比企谷八幡も同じことを思ったのか、まだ帰ってないのかよ、と言った。

「ねえねえ先生! 彼女の作り方教えてよ!」

「急にどうした」

「さっきあいつが先生に彼女がいるって言ってたんだよ」

 坊主頭が指さしたのは、先ほど数学を教えてもらおうとしていた女子生徒だった。べー、と舌を出してペダルに足を掛けると、そさくさと去っていった。

「あいつ……」と比企谷八幡は肩を落とす。

「どうやって先生みたいなのが彼女つくったの」

 失礼だな、と一色が思うと、「失礼だな」と比企谷八幡も坊主頭を小突く。

「いやいや、絶対嘘だって!」と声がしたのは坊主頭の後ろからだった。今度は髪の長い、サッカー部にいそうなイケメンの少年が比企谷八幡の前に立つ。「見え張ってるんだよ! 女子に訊かれて咄嗟に嘘ついたんでしょ!」

 決めつけるように指をさすその生徒を一瞥した比企谷八幡は、もう一度頭を掻き、「当たり前だろ」と自嘲気味に笑った。「彼女なんかいねえよ」

「ほらー!」とサッカー部風の男子がげらげら笑う。それを聞いた坊主頭は、お世辞にも整っているとは言えない顔で寂しそうに俯く。それは優勝の可能性が消えたうえに大差で負けているチームの打者が、バッターボックスに向かうような哀愁が漂っていた。

 一色の足は既に動いていた。

 サッカー部風の男子は比企谷八幡を指さして、「絶対童貞だって!」とはしゃいでいる。その視線が少し下がると、亜麻色の髪を見つけて口をポカンと開ける。

 比企谷八幡の腕に絡みつくように、一色は抱き着いた。そして「どうも、先生の彼女です」と自己紹介をする。

 時が止まった、ように一色は見えた。二人の男子生徒はもちろん、その後ろで帰ろうとしていた数人の生徒も皆目を見開いて静止している。

 予想外だったのは、一番驚いていたのが比企谷八幡だったことだろう。

「うおあああ!」

 比企谷八幡は情けない声を上げて尻もちをつく。一色は、せっかくカッコいい姿を見せてあげたのに、と落胆する。それを無視して、坊主頭に向き直る。

「私は人を貶す人より、先生みたいな優しい人のが好きだよ」

 一色が笑いかけると、再生ボタンを押したかのように周囲の男子生徒は浮足立って騒ぎ始める。そして、フェス帰りのバンギャよろしく、興奮冷めやらぬといったまま塾を後にしていく生徒に一色は比企谷八幡と並んで手を振った。

 不適切な場面を生徒に見せたとして、塾長から叱責を受けたが、一色が涙ぐんで謝ると許してもらえた。

 その後、比企谷八幡の業務量が増えたことと、生徒の間で『レンタル先生』と呼ばれていることを一色は知らない。

「せんぱい運動不足ですし、二駅くらい歩いて帰りましょうよ」

 帰り支度を終えて靴を履いている比企谷八幡に一色は声を掛ける。

「いいけど、何で来たんだよ」

「ちょっと寂しくなっちゃって」と一色はあの女子中学生に負けじと甘い声を出す。しかし、はあ、と比企谷八幡が身を引くために一色はその肩を殴る。「なんですかその反応」

「いや、別に」殴られた肩を擦り、比企谷八幡は目を逸らす。

「本当ですよー!」

「はいはい」比企谷八幡はポケットに手を突っ込んで歩く。

 むう、と一色が隣で頬を膨らませていると、「なんか食べたいものあるか」と言われて顔を上げる。

「え」

「いつも作ってもらってばっかだからな」

「いいんですか?」

「……なんか知らんが」と比企谷八幡は頬を掻き、「寂しい思いさせたらしいし」とぼそりと呟く。

 おっとあぶない、一色は頬を引き締める。

「えへへ、満点、いえ、百二十点ですせんぱい」

 引き締めてこれか、と苦笑しつつ一色はチラリと後ろを振り返る。塾のビルから離れたことを確認して比企谷八幡と腕を組んだ。「あつい」「私は寒いです。せんぱい顔赤いですよ?」「うるせえ」

 雪ノ下雪乃の言葉は、夜の灯りに照らされ、見えなくなっていた。

 一色はそれが気休めだと、一過性のもだと分かりながら、また笑う。

 瞬間を丁寧に紡いでいけば永遠になると信じて、一色は笑う。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 白い壁があった。右をみて、左をみて、白い廊下だと分かる。目の前には扉とプレートがあった。『比企谷八幡』と書かれたネームプレート。

 またこの夢か、と一色は息を吐く。

 音もなく扉が開いた。中から現れたのは比企谷小町だった。「いろはさん、お待たせしました」と無表情で言う。それは実際に無表情だったのか、夢の中で改変が為されたのか、今となっては思い出せない。比企谷小町が背を向けて進む先についていく。白い箱の輪郭は掴めず、世界として不完全な印象を覚える。ベッドの横に立った比企谷小町は振り返って口を開く。「お医者さんが言ってました」無表情の比企谷小町に一色は、知ってるよ、と言う、しかしそれは声にならない。

「記憶障害にしては断片的過ぎるって」

 うん、知ってるよ。

「事件に関する事を脳が拒絶するなら、それに関すること、キーワードまでに障害が及ぶって」

 うん、聞いてるよ。

「でも、お兄ちゃんの記憶障害には一貫性がない」

 まるで、だよね。

「まるで、もう一人いるみたいって」

 暗転。

 誰かが電気のスイッチをオフにしたみたいに、世界が落ちる。

 一色の意識はまだ夢の中だ。事件から半年が経ち、夢を見るようになった。初めは責められているように思え、耳を塞いでいた一色だったが、段々と慣れていくと、声に意識を向けることができるようになった。この暗転も当初、恐怖で目を覚ましていたが、四回、五回と重ねるうちに覚え、そしてもうすぐ電気がつくことも分かるようになった。

 バンッ、とスポットライトが当たる。比企谷小町の姿は消え、代わりに赤いジャケットに身を包んだ背中が見える。ベッドで横になる比企谷八幡の頬にその女は触れている。

「ふうん、解離性、ね」

 触らないでもらえますか。

「”あれ”はそういうことだったんだ」

 触らないでください。

「あ、あの勘違い女、えーっと、折…なんとかちゃんは追い払ったから」

 触るな!

「一色ちゃん次第だよ」

 黙れ!

「愛に耐えられるかどうかは」

 暗転。

 夢の中で息が切れる。身体中に疲れがどっと圧し掛かり、膝に手をつく。一色は舌打ちをしながら、もうすぐ目覚めるかな、と感じる。どうせ汗かいてるからシャワー浴びなきゃ。

 夢の中で一色は目を瞑り、ゆっくりと瞼が持ち上がるのを待つ。

 指の先に力が入った気がした。

 一色は目をあける。

「あれ」雑踏に首を巡らせる。喧騒に包まれているが、音がぼんやりとしている。駅だ、と一色は思い出す。首を巡らせて時計を捜すと、日付まで表示された電光掲示板が目についた。二年前の一月二十八日、一色が大学に入って初めて秋期試験を終えた日だった。

 その瞬間、一色は事態をすぐに察した。

 もうすぐ、雪が降る。

 ふわりと視界を白い光が一粒過ぎて、ゆっくりと増える。周囲から歓声が上がり、一色いろはは携帯を取り出すと、『せんぱい、雪ですよ』なんてLINEを打つ。

 走れよ! そう一色は意識の内側から発散するように叫ぶ。

 力を入れようにも、今度は入らない。動けよ、動けよ、と足を踏み出すように信号を送るが言う事を聞かない。

 一色いろはは笑っている。柱の陰で恋人を待ち、今か今かと待ちわびる。試験が終わったお祝いをしようと約束した比企谷八幡を健気に待つ。

 一色は唇を震わして、やめてよ、と洩らす。一色は蹲っていた。膝を抱えて蹲っていた。やめてよ、やめてよ、そんな顔で待たないでよ。

 せんぱいは、来ないんだから―――。

 

 すん、と鼻を鳴らす音で目が覚めた。目尻が濡れている感覚がある。泣いていたっけ、一色は身体を起こした。起こしてから、隣にいるはずの比企谷八幡の姿がない事に気が付く。一色は目を見開き、身体中が粟立つのが分かった。ベッドから跳ね起きる。カーテンを引き千切らんばかりの勢いで開けると透き通るような青空が広がっていた。鍵を開けて窓を開けると十二月の風が吹き込んできて思わず顔を背ける。ゆっくりと外を見ると、風は冷たいが、雲の少ない空だった。

 力が抜け、崩れ落ちそうになるのを堪えてリビングに向かうと、束になっているメモ用紙の一枚目に新たな伝言が書かれていた。

『ゼミ室いってる、あいつらによろしく頼む』

 そうだった、と一色は壁に掛けられたカレンダーを見る。今日の日付には、経済学部サッカー大会、と記されている。午後から始まるそれに行く予定だった。せんぱいは来ないけど。

 テーブルに用意されていた朝食をみつけ、せんぱい最高、と呟いてキッチンへと向かう瞬間、身体が崩れ落ちてしまう。膝ががくがくと笑っているのに気が付かなかった、否、必死で忘れようとしていた。

 冬を、雪を、雪ノ下陽乃を。

 

 連絡のつかない比企谷八幡を捜して大学に戻り、ゼミ室を訪れ、小町に連絡を取った。しかし誰も行方は知らないという。一色は人気のない大学のラウンジで立ち尽くしていた。ただ、何も分からないのにも関わらず、脳裏にこびりついている存在がある。

 ―――雪ノ下陽乃。

 いや、と首を振る。そんなはずはない。だって、彼女の事は完全に忘れていたのだから。突然病院にやってきたあの人の事を、比企谷八幡は高校三年の記憶を手繰って会話をしていた。奉仕部をひっかきまわした記憶から、比企谷八幡の雪ノ下陽乃への対応は腫物を触るようなものだった、はずだ。

 そこで一色は一つのキーワードに行きつく。

『解離性記憶障害』

 比企谷小町が個人的に教えてくれたその言葉。異変を感じ取っていた一色には、と話してくれたその内容のひとつが、何かのきっかけで記憶が戻るかも、というものだった。

 一色の背筋に冷たいものが走る。

 あの日、あの夜、あの瞬間、彼を覆っていたその白い雪を。

 その後、連絡が取れないまま日付は変わり、訳もなく自宅のリビングで歩き回っていた一色の元に小町から電話がある。比企谷八幡は帰って来るなり頭痛を訴えて、病院へ向かったとの内容だった。一色もすぐに向かうと、病室には目を閉じた恋人の姿があるだけだった。

 小町を残して飲み物を買いに出たところで、リノリウムの床を叩く音に気が付いた。カツン、カツン、と響き渡るその軽音は、一色の大切ななにかを逆なでするには十分だった。

「せんぱいに、何をしたんですか」

 怒気を撒き散らすように鋭く言う。

「何も、比企谷君の方から求めてきたから、応えただけ」

「は? せんぱいがあなたに何を求めるって言うんですか」

 雪ノ下陽乃は、んー、と考えるように唇を触り、自分の腰に手を回すと、「身体?」と意地悪そうに微笑む。

 カッとなった一色は雪ノ下陽乃の頬を思い切り叩いていた。

 バチン! という音が病院の休憩室に響き渡り、その場にいた人がこちらを向いた。それを意にも介さず、雪ノ下陽乃は殴られた箇所に触れると、一色を軽蔑するように見つめ、「あなたには許してない」と平坦な口調で言う。

「は、なにがですか」

 取っ組み合いになろうと構わない、と身構える一色を他所に雪ノ下陽乃は踵を返す。「負けてなんかないから」

「はい?」

「私の愛は負けていない」

 そう言い残し、雪ノ下陽乃は去っていく。

 ヒールの音は無機質な廊下に反響し、一色の心臓と共鳴しているようだった。

 意識を取り戻した比企谷八幡は、記憶が無い、と項垂れ、心配をかけた、と家族と一色に頭を下げた。一色はそれ以上なにも言う事ができず、その日の事は有耶無耶になる。

 それから一色が比企谷八幡に同棲を申し込むのに、そう時間はかからなかった。接触を、時間を、愛を、その密度を濃くしていけば、一色の気持ちは超えることができるのではないか、そう信じて。

 

 それから一年後の二月一日、比企谷八幡はまたもや姿を消す。

 一色を残し、雪と共に行方を眩ました。

 2Kの小さな部屋には、雪の結晶が落ちる音と微かな嗚咽だけが響いていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 冬になると天気予報を見なくなる。テレビを自らつけようとはせず、携帯のニュースも開かない。一色がテレビを観ないようになれば、自然と比企谷八幡の行動パターンも同じようになる。一色にはそれが、比企谷八幡の優しさにも、比企谷八幡の傲慢にも感じられる。頬杖をついて文庫本に目を落とす比企谷八幡の横顔を見つめていると、本当は気が付いているんじゃないですか、と口をついて出そうになる。

 ざり、と音がして、地面が砂交じりになっていたことに気が付く。おーい、こっちこっち! と声がして顔を上げるとベンチで戸部翔が手を振っている。右手には総武高校の校庭の半分ほどのグラウンドが見えた。戸部翔の周りには海老名姫菜と三浦優美子、そしてスポーツドリンクを煽る葉山隼人の姿があった。

 すこし小走りで近づき、ぺこりと頭を下げた。「こんにちはです、遅れてすみません」

「いーっていーって!」と戸部翔が手を振り、「突然呼び出してすまない」と葉山隼人が眉を下げる。

 いえいえそんな、と一色が笑うと、三浦優美子が近づいてきた。「久しぶり」

「あ、お久しぶりです、三浦先輩」

 各人と挨拶を交わしていると、ゼミ名がアナウンスされた。それを聞いた戸部翔と葉山隼人は立ち上がり、こちらに手を上げてグラウンドに向かっていく。戸部翔は海老名姫菜にひときわ大きくガッツポーズをしていた。グラウンドの先を見つめると教授の姿もちらほらと見え、そこそこ乗り気な様子が伝わってくる。飲み会のお代賭けでもしているのだろうか、と不謹慎なことを考えてしまい反省するが、自分のゼミの普段やる気のない教授が腕を振り上げている様子を見ると、あながち間違いでもないような気がしてくる。

 もしかして、と首を振るが、もちろん比企谷八幡の姿はない。

 心を読まれたかのように、「ヒキオ来ないんだ」と言われてビクリとする。見ると三浦が携帯を構えて、葉山隼人の様子を撮影しているところだった。

「そうみたいですね。せんぱい、こういうイベント好きじゃなさそうですし」

「別に運動できない訳じゃないんだし、やればいいのに」

 一色は思わず、三浦優美子の横顔をまじまじと見てしまう。それは言葉のトーンがお世辞ではなく、本心だと分かったからだ。そしてすぐ、彼女がこういった嘘をつく人間ではないと思い出し、心地よい嫉妬を覚える。

「隼人がんばれー!」

「がんばってくださーい!」

 青色のベンチに収まり、三浦優美子と共に一色が声を上げると、隣に海老名姫菜が移動してきた。

「ヒキタニ君、最近どう?」

 海老名姫菜はグランドに視線を固定したまま、口を動かした。三浦優美子は立ち上がり数歩移動すると携帯を構えながら応援を始めた。

「特に変わりはありませんよ」

「そっか」

 そう、変わらない。事件の後、罪の意識を覚えた葉山隼人をはじめとする人間は比企谷八幡の様子を窺いに来た。しかし、記憶に障害の残る比企谷八幡に近づくことは危険を伴うことを説明すると、少しずつ距離を置いていった。ただ変わらず、今日のように誘われることがよくあった。

 そういえば今回は久しぶりだな、と一色は思い出す。就職活動に追われていた四年生は誰も彼もが忙しないようで、葉山隼人と戸部翔も例外ではなかったらしく再会したのは半年ぶりだった。今の比企谷八幡同様、大学に来る頻度も極端に減るために、偶然顔を合わせることもなくなった。

 彼ら彼女らも、その内フェードアウトしていくものだと、一色は思っていた。

 いや、実際そうなのだろう。距離は離れ、関係は薄くなり、名前に霞がかかる。新たな人との関係が、否応に流れる時間の経過が、少しずつ私たちを消していく。周りの人間関係だけではなく、今ここにいる自分という存在を消していく。青色のベンチに座る一色いろはは、空に溶けていく。

 だから、一生懸命になるのかもしれないな、と一色は白い息を吐いた。

 今だけを求めて、今しかない瞬間を求めて、走っているのかもしれない。

 葉山隼人が、戸部翔が、三浦優美子が、海老名姫菜が、追い求めたものは今ここにあるものなのかもしれない。

 じゃあ、比企谷八幡が求めた本物は、どこにあるのだろうか。

 高校の三年間で比企谷八幡が探し続けた本物はついに見つからなかったのだろうか。否、それだけではない。大学一年でも比企谷八幡は走り続けたのだ。痛々しい姿になろうと、血を流そうと、最後まで彼は彼だけの本物の為に走り続けたのだ。

 そんな人間が不幸になっていいわけがない。

 比企谷八幡が報われないなんてことが、あっていいはずがない。

 それは世界の理に反している。

 少なくとも、一色いろはの世界には相応しくない。

 じゃあ、なにが。

 なにが幸せなんですか。

 せんぱいが求める本物は、私でいいんですか。

 一色いろはの視線の先、雫が模様を作り出していた。嗚咽の度に模様は面積を増やしていく。気が付けば背中をさする二つの手があった。それは大きくて、温かくて、一色の心にスッと滑り込んでくる。なめらかな温もりが一色の涙を溶かすと、雪解け水のように流れだす。

 身体の底に沈んでいた冷たい塊が、少しずつ小さくなるのが自分で分かる。

 これがなくなった時、私の気持ちが決まるんだな。

 一色は、そう感じていた。

 

「比企谷、市役所受かったんだって?」

 葉山隼人は湯気を立てるカップの淵をなぞりながら口を開いた。

 経済学部サッカー大会は戸部翔の所属するゼミが優勝で終わった。他学部から一人だけ助っ人を入れていいというルールの元、全国クラス、言うなれば超高校級の腕前を持つ葉山隼人を連れてきた時点で勝負は決していたようなものではあったが。

 一色は以前、渡り廊下ですれ違った男子学生を思い出す。葉山隼人の名前を出していたのは、サッカー大会のことだったのかと今になって気が付く。

「はい、せんぱいも『これで俺も国家の狗か』って喜んでましたよ」

 葉山隼人は口をあけて笑う。「税金泥棒の間違いじゃないか」

 恋をしているな、と一色は思う。葉山隼人が、ではない、一色いろは自身が。

 性格がよく、顔が整い、適度に髪の毛を遊ばせた美男子を前にして、一色は比企谷八幡の深海魚の様な寝起き姿を想像して心臓が高鳴っている。大学構内で営業しているカフェスペースで考えることは、比企谷八幡と共に数回訪れた記憶と、あと幾許もない大学生活でもう一度来れるだろうか、という邪な内容ばかりだった。

 なんにせよ、葉山隼人を目の前にして思うことではないな、と一色は笑う。

 虚像のようなシルエットを追いかけていた高校時代の一色いろははもういない。それは周りの視線もそうだが、なにより一色の中にすら、もういない。生徒会選挙、クリスマスイベント、バレンタイン、そのどれもが今でも鮮明に記憶されている。しかし、葉山隼人を想い歩いた通学路を、奉仕部を目指して駆けた渡り廊下を、比企谷八幡に恋して青春していた一色いろはを、忘れていく。今の一色いろはを構築することは、生徒会長職でも、デスティニーランドでの告白でもない、振り返れば切り取られた、タイトルのない瞬間だった。

「何か、言っていたか」

「え?」

 テーブルの模様を見つめてた一色は、その曖昧な質問に思わず顔を上げていた。

「あ、いや、変わりはないかって」何かを誤魔化すように、葉山隼人は文様を描く黒い液体に口を付ける。

 少しの逡巡があって、特には、と辛うじて声を絞り出す。

 ささくれにも似た違和感を一色が感じていると、隼人、と声がした。

 葉山隼人が一色の後ろに視線を向けるので、振り返ると、三浦優美子が立っていた。「いい?」

「ああ、いろは、今日はありがとう」

 葉山隼人は立ち上がり財布を出そうとするので、一色はあらかじめ用意しておいた一枚の小銭を机の上に置く。それを見た葉山は、ふっと息を吐き、摘みあげると伝票を手にレジへと向かった。

「何の話か、聞いていい」

 人にものを尋ねるときは疑問符を付けるべきだと思います、と一色は心の中で訴え、いつもと同じです、と声に出した。

 そう、と三浦優美子は安心したように息を吐いた為、少し意地悪く、恋人になったのに心配なんですか、と茶化してみる。怒られるかな、と危惧した一色に対し三浦優美子は、まだ付き合ってないし、とさらりと言い放ち葉山隼人に近づいていく。あっけに取られている内に背後から声がして振り返ると、戸部翔と海老名姫菜が連れたって歩いているところだった。「っべー! 賞品で図書カードもらっちったー!」と声を上げている。

 こちらまで近づいてくると戸部翔は、はい! と会計を終えた葉山隼人にそれを渡す。「三千円分だべ? っべーっしょ!」

「いいって、戸部が使えよ」

「でもでも、隼人君のお陰で勝てたようなもんだしー!」

 葉山隼人は困ったように眉を下げ、それから口元を緩めた。

「それで参考書買えよ」優しく諭すように言われ、戸部翔は口ごもる。「助けてくれるんだろ?」

 その言葉をキッカケに、戸部翔の表情に影が差す。ただそれは、一色の経験則からすると悲痛な面持ちとは程遠い、比企谷八幡がなにか決心をするとき、なにかを賭すときにする顔に似ていた。

 戸部翔は、うんうん、と何かに納得するように数回頷くと、ぱっと顔を上げる。「じゃあ今度、隼人君のオススメよろしく!」

「ああ、分かったよ」

 葉山隼人が肩を竦めて呟くのと同時に、戸部翔の携帯に着信がある。通話ボタンを押して耳に当てると、忘れ物という単語が洩れて聞こえる。ごめん! と慌ただしく去っていく戸部翔の背中を四人で見送った。そして三浦優美子の、ねえ隼人、というセリフを機に、葉山隼人と三浦優美子も駅方向へと姿を消す。

 残される形となった海老名姫菜と一色は、互いに目を合わせるとカフェスペースの外側にある椅子に腰を下ろした。

 あの、と一色は軽い雑談のつもりで訊ねた。「あの、参考書ってなんのことですか?」

「え? ああ、とべっちね」海老名姫菜はわざとらしく目を見開いて、一色の顔を覗き込んだ。「知らなかったっけ」一色が首を傾げると、海老名姫菜は「とべっち、大学辞めようとしたの」と遠い過去を回顧するようにいう。

「な、なんでですか?」

 一色が何かに気が付くのに対し、海老名姫菜は何やら思案するように顎に手をやった。そして、高校三年のとき色々あってね、と濁したことで、一色の考えは核心に変わる。知っている、ということを伝えると、海老名姫菜は驚くよりも先に、じゃあ話は早いね、と微笑んだ。

 海老名姫菜の話によると、責任を感じた戸部翔の覚悟を葉山隼人は十分なほどに受け取ったという。葉山隼人の手助けがしたいとの申し出を快く承諾したうえで、大学を辞めるという部分に関してはバッサリと切り捨てた。でもそれでは秘密が明るみになったとき、と動揺する戸部翔に対して、葉山隼人は首を振った。

 ―――元々、そんな心配はしていないんだ。

 信じられない言葉だっただろうね、と海老名姫菜は楽しそうに笑った。一色には笑いどころが分からず、困惑するばかりだったが、海老名姫菜は続ける。

 葉山隼人は戸部翔の身に被害が、被害とはいかなくとも不幸の火の粉が降りかかることを恐れた。戸部翔は葉山隼人に対して業を背負わせたことに責任を感じていた。それを葉山隼人は、戸部翔の身を葉山隼人自身が守ることで解消しようとしていた。戸部翔は、戸部翔が想像している以上に葉山隼人から信頼を置かれていた。そしてその信頼は、戸部翔が額をつけたことでより強固なものとなる。葉山隼人は自身が加害者となった騒動から、自分の身を守る術を、知恵をひたすらに掻き集めていた。そして、戸部翔を守る手段も。

 更に、葉山隼人の続けた言葉には、正直呆れたという。

「なんだと思う?」海老名姫菜はいたずらっ子のように笑い、一色はその幼さにドキッとした。

「わかりません」

 一色が正直に言うと、そもそもそんな事にはならない、と返された。

「え」

 一色は自分が話を聞いていなかったかと会話を辿ったが、海老名姫菜はそのまま薄い唇を動かす。

「いち高校生のトラブルが、そんな大事を引き起こすとは思えないって」

「そんな」

「本当にね、でも、確かにそうなんだよ。高校生のいざこざなんてこの世の中に溢れてる。もっと面白いニュースだって沢山ある。高校生が集団でいじめを行った、ネットではその首謀者を特定して祀り上げる。そして、その後は? そのいじめっ子の名前、憶えてる?」

「……覚えてない、です」

「そう、覚えてない、どうでもいいからね。みんな次の話題に忙しい。悪口言ってる人は、新しい悪口に忙しいんだ。確かに、就職とかでは不利かもね、親に迷惑をかけるかも。でも、前科がつくわけじゃない。隼人君の例は特殊、スペシャルだよ。スペシャルなことなんて早々起こらない。そして、もしスペシャルなことが起こったときに助けになるのは、自分の力だから、知恵だから、あの二人はそれを手に入れようとしている」

 それだけだよ、と海老名姫菜は一仕事を終えたように笑った。そして、目を伏せ、ごめんね、と苦しそうに呟いた。

 一色は何かに弾かれるように立ち上がり、テーブルの群れを藪漕ぎをするような乱雑さで走り出す。蹴った椅子が倒れて音を立てるが一色の耳には入ってこなかった。階段を降り、ドアをくぐり、外に出ると壁際に寄りかかる。十数メートルの移動で、ありえない程息が切れていた。

 あのままだったら、叫び出していたかもしれない。

 ぜえぜえと吐き出される空気を、一色は頑張って吸い込む。意識して呼吸をすると、段々と呼吸の仕方が分からなくなる。やばい、と考えた時にはすでに肺に溜まる空気は微かなものとなる。分からない、地面が曲がる、ゆれる、うえが、したが、わからない――――。

「ちょっと!」と叫び声がして、背中を乱暴に擦られる。「大丈夫!?」

 ゆっくり、落ち着いて、ゆっくり、深呼吸して、大丈夫、大丈夫、と何度も呼びかけられ、一色は涙を流しながら、口を開閉させた。震えるように揺れ動く世界で、青い髪が一緒にゆらゆらと漂っていた。

 苦しい、苦しいのに、これは苦しみからくる涙じゃない。

 辛い、辛い、嫌だ、嫌だ、嫌だ、いやです、せんぱい。

 悔しい。

 悔しいです、せんぱい。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 燃料の塊に火がついて、それを食い尽くさんとばかりに燃え上がっていた炎も、いつまでも燃えていられるほどの継ぎ足しはなかったらしい。人は感情に左右される生き物だが、それは感情がなくなることにまで至っているのかとぼやけた頭で考えた。

「さっきは、ありがとうございました」ベンチに座った一色は深く頭を下げた。

「もういいって」

 川崎沙希は、数度目の感謝にすこしうんざりしたように手を振った。死線をさまよった気分の一色は、命の恩人というものを始めて目にした気分で、もういちどぺこりと頭を下げる。

 一色は自分の手に握られたココアの缶を置いて鞄から長財布を取り出すが、その上に手が添えられる。でも、というと、ちょっと落ち着きな、と低く、優しい声で言われた。一色はベンチの背もたれに身体を預けるようにして周りを見渡す。住宅街にぽっかりと開かれた公園は、都会のど真ん中を貫く皇居のような雰囲気があってか、人がいなかった。いや、単純に三時頃の公園はこの程度なのだろう。

「本当に大丈夫なんですか?」

 一色は公園に来る途中で出た話題をもう一度確認する。

「え、ああ、姫菜との約束までまだ時間あるから、でも、早く来てよかったよ」と缶コーヒーに口を付けながらぽつりと言うのでもう一度頭を下げると、「あー、うん、もういいよ……」と肩を落とす。

 一色にはそれが照れ隠しだと分かって何度か繰り返していたが、そろそろやめたほうがいいかな、と自重することにした。

 青い髪を切り揃えた川崎沙希。一色はその端正な横顔をまじまじと見つめた。高校時代の話になった際、比企谷八幡が当時から大人びていた、と評した理由はこの憂いに満ちた瞳だろうかと一色は思う。見れば見るほど世の中で数の少ない美形の顔立ちは一色の眼を釘付けにした。

「なに」川崎沙希が威嚇するようにいう。

「すみません」一色は肩を縮こまらせる。「あまりに横顔が綺麗だったので」

「え、ちょ、は?」

 あ、顔赤い。川崎沙希は居心地悪そうに立ち上がると、傍のゴミ箱に空き缶を捨てる。その後ろ姿に、一色は語り掛けていた。「川崎先輩は、浮気とかってどう思いますか」

 再びベンチに収まった川崎沙希は一瞬怪訝な表情をしたが、一色の思い詰めたように握りしめるココアの缶をみると、はあ、と息を吐いた。

「まあ、最低だと思うけど」

「ですよね」

「なに、あんたの彼氏が浮気でもしてんの」

 川崎沙希は当然の疑問を一色にぶつける。それは会話のキャッチボールとしては教科書に載せてもいいほどのテンプレートだったが、一色の頭の中では、浮気という言葉が反響していた。

 浮気ってなんだろう。

 どこからが浮気なのか、なんていう陳腐な問題じゃない。誰が、どっちが、浮気なんだろう。

 彼の本物は今、どこにあるのだろう。

 川崎沙希が顔を覗き込んでいることに気が付いて、頭を振る。「すみません」

「まあ、そんな経験のない私が何か言えたことじゃないけど」

「いえ、とても羨ましいです」

 一色が素直にそういうと、川崎沙希は言葉に詰まるようにして、恥ずかしそうに頬を掻いた。「あ、いや、交際経験がっていう意味なんだけど」

 一色は隣の美人が何を言っているのか分からず、外国語かな、バイリンガルなのかなこの人、ほにゃくこんにゃくが必要かな、とネコ型ロボットにまで発想が飛んだところで、え、と声を出した。

「えええ! そんな美人なのにですか!」

「いや、美人じゃないけど、うん……」

 一色は幻のポケモン、それも色違いレベルを見つけたような気持ちになったが、そういえば奉仕部の二人も、と考え付く。そして雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が拗らせた原因に思い当たり、まさか、と川崎沙希の赤い頬を見やる。しかし、それ以上追及するのも恐ろしく、一色はココアの缶にちびちびと口を付ける。

 ビッチ風清楚の恋人が、朴念仁風たらしだった。

 一色はあばばばとココアで溺れそうになった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「いらっしゃーい、いろはさん!」

 比企谷邸のインターホンを押すと、すぐに扉が開き、中から比企谷小町が顔を出した。

「お邪魔します」と一色がいい、「ただいま」と比企谷八幡が小さくいった。比企谷八幡の心から安心したような、温泉に浸かったときの様な気の抜けた顔をチラリと見て、一色は少ししょんぼりとする。

 比企谷八幡はリビングへと続く扉に手を掛け、あったけぇ、と呟きながら消えていく。それを見送り、比企谷八幡の分まで靴を揃える一色の隣に比企谷小町が立つ。

「お兄ちゃん、ハウコンだから仕方ないですよ」

 小町は申し訳なさそう口を曲げ、一色は「ハウコン?」と繰り返す。

「あれですよいろはさん、マザコン的な、ハウスコンプレックス的な」

 ああ、と一色は笑う。

「あれでも、実家ってなんていうんだろう、本物の家? あれ?」

 赤べこのように首を振り、うーんうーんと唸る小町に一色は抱き着く。「ありがと」

「ううん、いろはおねえちゃん」一色は何気なくそう言った比企谷小町の顔をまじまじと見る。「あ、嫌でしたか?」

「ううん、最高、ちゅーしていい?」

 一色が顔を近づけると、それはちょっと、と逃げられる。

「シスコンはお兄ちゃんだけで充分です」比企谷小町はアホ毛を揺らして笑い、一色の手を引く。

「えー、せんぱいばっかりずるい」

「ほらおねえちゃん、パーティですよ」

 リビングに向かう途中、一色は壁に掛けられたカレンダーをちらりと見る。

 今日は十二月二十二日。比企谷小町が、クリスマスはお二人で、と気を遣ってくれたので、少し早めのクリスマスパーティだった。

 扉の先に、暖色の光に満ちた白いホールケーキが見える。

「メリークリスマス!」

 比企谷小町が楽しそうに笑った。

 

 蛇口のノブを上げて水を止めても、微かに水音がする。比企谷八幡がシャワーを使っている音だ。一色は同棲している部屋より遠いその音を楽しみながら皿を拭き始める。

「小町ちゃんも大学生なんだねー」

 一色はシンクを洗う比企谷小町の前髪を見ていう。

「そうですよー、もう大人です」えっへん、と言わんばかりに腰に手を当て、泡が服につく。「わわっ」

「あははは、でも、うん、大人だよ小町ちゃん」

 高校時代よりほんの少し背が伸び、身に纏う服も大人びたが、ミスマッチな童顔とそれを生かすぱっつん気味の前髪が妙な色気を放っていた。しかし、泡を拭きとり照れ臭そうに破顔する様子は全く変わらない。小町ちゃんに会うと安心するよ、と知らず口にしていた。

「え」比企谷小町が虚を衝かれたような声を出す。

「あ、いや、そういえば小町ちゃん彼氏できた?」

 しまった、できてたら辛い、と言ってから気が付く。やっぱ今のなし、と訂正しようとしたが、その前に「いないですよ?」とあっけらかんとした様子で笑った。

「へえ、大志君とは連絡とってないの?」

 最近大志君のお姉さんとも会ったよ、とは言わなかった。

「たまにって感じですかねー、遊びに誘われたりはしてますけど」

「わーお、大志君やるー」

 思わず口笛を吹きそうになるが、男子が遊びに誘うことって珍しいのか? と自問自答してしまう。ここ数年まともな男子と連絡とってないしな、と一色は思い出すが、定期的にというか常に連絡を取っているのが比企谷八幡のみで、どちらにせよまともな男子ではなかったと気が付いて皿を落としそうになった。ひっきりなしに遊びに誘われていた高校時代を懐かしむ。

「でも、よく分かんないんですよね」と比企谷小町は洗い終わった手を拭きながら呟く。それに一色が首を傾げると、「大志君って、高校時代は割かし大人しくて真面目だったじゃないですか」

「え、今はやんちゃなの?」

「いえ、そういう訳じゃないんですけど、なんていうか、大学に入ると色んな人がいて、落ち着いてる人も増えて、誰も彼もが同じように見えちゃうんですよね」

 一色は、うんうん、と頷いていた。

 比企谷小町が通っているのは私立の名門といえる大学で、どこにでも一定数アホはいると思うが、真面目な学生は多いはずだった。川崎大志の熱烈なお願いで三年次に生徒会へと入った小町は、その人当たりの良さと、そこそこの学力で見事、指定校とはいかないが推薦枠を勝ち取り、無事大学進学を果たした。高校受験の際は奉仕部の面々と勉強しつつの初詣だったと言っていたが、一年前の初詣は推薦枠での進学も決まり、比企谷八幡、比企谷小町、一色いろは、由比ヶ浜結衣の四人で過ごした正月が記憶に新しい。

 比企谷八幡、雪ノ下雪乃、葉山隼人、比企谷小町のような、早熟といえる人間だけが見えていた景色。その歪んだ視界がゆっくりと世界と調和していく、そんな気配は一色も感じていた。

 いうなれば、世界から色が消えていくような切なさだった。

「もちろん大志君は変わらず優しいんですけど」比企谷小町は、あはは、と何かを誤魔化すように笑った。「なんだか分かんなくなっちゃって」

 一色は思わず、分かるよ、といっていた。

 周囲の動きに逆行するように歩くイメージを一色は思い浮かべる。その最たる例が比企谷八幡であった。誰もが足を止める最中、ただひたすらに歩み続ける。そんなイメージを。比企谷八幡に引き寄せられるように歩み始める雪ノ下雪乃に葉山隼人、そしてその様子を目の前で見せつけられた比企谷小町の心中は想像に難くない。そんな中、呼びかける声がしたのだろう、川崎大志も、比企谷八幡の起こしたバタフライエフェクトに影響された一人と言える。

「勝手だよね、本当に」一色は愚痴をいうような雰囲気で呟く。

「勝手?」小町が鸚鵡返しにする。

「勝手だよ、みんな。散々せんぱいたちのこと突き放しておいて、今更」

 一色が唇を噛み、俯いたところでリビングのドアが開く。「どうした」比企谷八幡はタオルで頭を拭きながら訊ねる。

 なんでもないですよ、と一色は顔を上げて微笑む。「あ、そうだ、せんぱいプレゼント渡しましょうよ」

「ん、そうだな、飯食ってる時タイミングなかったし」

 比企谷八幡はそういってソファに置いてあった鞄を持ち上げる。

 一色は比企谷小町に、ごめんね変な話して、と手を合わせる。

「ほらよ小町、俺と一色からだ」比企谷小町はおずおずと紙袋を受け取り中を見る。がさがさと漁ると、少し元気のなかった表情に彩が射す。「俺のが手袋で、もう一つが一色のな」

 わあ、と言いながら、比企谷小町は赤色の手袋とリールのついたパスケースを抱くようにする。

「ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん」

 涙を溜める比企谷小町の頭を、比企谷八幡と一色いろはが優しく撫でた。

 

 コーヒー淹れましょうか、比企谷八幡と交代で比企谷小町が風呂に向かったの確認して、一色はそう声を掛ける。すまん頼む、と比企谷八幡はソファに腰を下ろした。

 比企谷小町が一人きりになることを一色は危惧して、月に一回程のペースで比企谷邸に泊まりに来ていた。もちろんそれで比企谷八幡がいなくなった穴を埋められるとは思っていないが、それでも、この形は一色が表せる誠意のひとつだった。

 何十回と使ったポットも手に馴染んできて、一色は顔が熱くなる。訪問を重ねる度に何かが許されていく気がしていた。それが罪の意識からかは、一色自身にも分からなかった。

「お待たせしました」

 マグカップをテーブルに置き、比企谷八幡の隣に腰掛ける。持ってきていたスプーンで底に溜まっているはずの砂糖をかき混ぜようとすると、自分でやるから、と比企谷八幡は恥ずかしそうにスプーンを奪い取る。かわいいなあ、と一色は緩んだ口元を引き締める。自分の分のカフェオレが注がれたマグカップを手に取ると、息を数回吹きかけてから口に含んだ。

 沈黙が訪れ、比企谷小町のシャワーの音だけになる。一色はその心地よさに耳を澄ませた。

 今、この時間は何人たりとも邪魔できない。一色はゆっくりと目を閉じた。

 隣で身を捩る音がして、一色は片目を開けて様子を窺う。比企谷八幡は背を向けていて、一色は肩を竦めた。

 い、と声がして、ひらがなのいが頭の中に浮かぶ。い? 「いっしき」

「はい」一色はマグカップを置きながら首を向けた。

 比企谷八幡の手には、パステルカラーの紙が二枚握られていた。よく見ると、世界的に有名なキャラクターが両手を上げて笑っている。というか、すぐそこのディスティニーランドのチケットだった。

「せんぱい、これ」

「いや、なんだ、クリスマスだし、な」

 一色は視界がぷるぷると揺れるのに気が付く。見ていたはずのチケットはすでに色の塊になり、顔を上げても比企谷八幡の表情は確認できなかった。瞬きをすると、右目から一筋の水滴が頬を伝う。もう一度瞬きをすると、左目からも流れ落ちた。

「お、おい、なんで泣くんだよ」

 比企谷八幡はおどおどと手を彷徨わせ、箱ティッシュに手を伸ばした。しかし、その体勢から動けなくなる。一色いろはの身体が比企谷八幡の横腹に絡みついていた。

 一色は笑っていた。

 どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく楽しくて、沢山笑っていた。

 でも多分、泣きながら笑った顔はそんなに可愛くないから、一色は抱き着く。

「えへへ、せんぱい、大好きです」

 籠った声で、呟く。聞こえてないでしょ、と高を括って一色は額を擦りつけた。大きな手が頭に載せられる。はいはい、と一色の頭を撫でる。優しく、髪を梳かすように撫でる。

「いつもありがとな、一色」

 一色は笑いながら、顔をうずめながら、首を振る。

 何度も何度も首を振る。

 シャワーの音はいつの間にか消えていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 寒い、と一色は呟く。それだけで何かの栓が抜けてしまいそうになって、頭を振った。俯いた視線の先に、夥しい数の足が侵入しては消えていく。皆一様に向かうは、夢の国への入り口とでも形容しようか、巨大なゲートが待ち構えている。一色は白い息を吐く。マフラーに顔をうずめたまま、腕を持ち上げると手首を返す。小さな腕時計が指す時刻は十二月二十四日、十六時二十六分。パレードまではまだ時間があるな、と再びコートのポケットに手を突っ込んだ。

 ふっ、と思わず笑ってしまう。健気だねえ、と自虐的に笑ってしまう。

 顔を上げると薄い雲が空を覆っている。冬の空というイメージがぴったりで、その灰色の脱脂綿のように頭上に被さる天敵に「死ねよもう」なんて汚い言葉を浴びせる。顔を上げた拍子に頭の上に積もっていたそれが落ちるのが分かった。

 空からは無数の羽が降ってきていた。小さな天使の小さな羽。白く冷たい、小さな羽が。また一つ、一色の頬に触れて、羽を溶かす。

 比企谷八幡との約束の時刻は十五時だった。

 天を仰ぐ一色の前に人が止まる気配があった。ばっ、と正面を見ると、汚い笑顔を張り付けた革ジャン姿の男が二人立っている。誰だこいつら。

「ほら言ったじゃん、可哀想な女の子見っけ」一人が馬鹿丸出しで笑い、「マジじゃん、ていうかめちゃ可愛くね?」ともう一人の声も高くなる。

 そして同時に一色に近づく。「ねえねえ、どうせ彼氏にドタキャンでもされたんでしょ」並びの悪い、ヤニに侵された歯を剥き出しにする。「俺たちと遊ぼうよ」

「あは」一色は力なく笑っていた。もう何も、残っていなかった。「いいですね」

 一色の抱え込んでいたすべては、この雪舞う景色ですら溶けきってしまった。音もなく、叫びもせず、懇願もせず、雪の粒が黒いコンクリートの底に沈むように、誰にも気づかれず、溶けた。

 一色は震える脚を、ゆっくりと踏み出す。


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