八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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growing pains:hatiman

 

 

 雪が舞い、光が流れている。猛スピードで走る鉄の塊は静かに唸りを上げていて、そのうち自分が動いているのか、光が動いているのか分からなくなる。煌々と前方を照らす街灯の眩しさと、遥か後ろに消えていった冬の結晶、その落差に眩暈がする。俺は誰だ。自問自答する。俺はどっちだ。

「あれ、もう気が付いた?」

 艶のある声が、するりと鼓膜を叩く。顔を向けられない。まだ意識が切り替わっていない。ちょっとしたきっかけで、それこそ小さな分銅をちょこんと乗せるだけで大きく傾く、そんな状態だった。

「まだ寝てていいから、大丈夫だよ、比企谷君」

 美しい音色が脳内を揺らす。何度も聞いたその言葉に俺の意識は引っ張られていく。滑らかな手で誘われるように、惹かれていく。

 でも、分かっているんだ、俺は。

 その誘惑に抗えることに、そして、その手を取らなかった時、すべての終わりが始まるということを。

 いや、きっとエンドロールはもう流れ始めている。

 長い物語は終わりを迎える。

 ターミナルはもうすぐ目の前で、俺の到着を待ちわびている。

 結末は、誰にも分からない。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 二つの人格がお互いを認識しているのか、それは場合によるのだろうが、俺の場合は一方通行のような状態だった。比企谷八幡という弱く優しい人間が耐えられない事、それを肩代わりするという名目で俺は生まれた、と思っている。比企谷八幡は人の心を傷つける事、そして比企谷八幡自身の心を傷つけることに耐えられなかった。前に進むのも地獄、引き返すことも地獄、そんな状態で比企谷八幡が選んだのが、自分の心を避難させるという方法だった。方法と言うと語弊が生じそうだから比企谷八幡しいては俺の名誉のために言っておくと、これは制御ができる問題ではないということだ。誰も俺の事を生み出そうと思ったわけではない。

 ただひたすらに、地獄から抜け出したかった、それだけだった。

 比企谷八幡には友達がいなかった。それは周知の事実だが、重要なのは、比企谷八幡が孤独を乗り越えた時期、彼は信頼に足る人間の存在を知らなかったということだ。知っている、ということは大きな代償を伴う。それは甘い蜜の味であり、苦い思い出の存在であり、麻薬にも近い快感への依存に繋がる。

 自分に価値がないと思わされるのは酷く苦しい。自らでは存在意義を見出せず、自分の力のなさと直面するような甘いものではない。指摘され、糾弾され、嘲笑される。気付いていなかった、気が付いていたけど考えていなかったことを、露見してしまう。必死に覆い隠していたものが、無理やり世間に晒されるような気分。

 いうなれば、比企谷八幡は強すぎた。

 逆風に晒され、荒波に呑まれ、いつ転覆するかも分からない船を漕ぎ続けた。日本人の男子が過ごす通常の十代とはかけ離れてしまった。そしていつしか彼は、堅固で強固な一隻の船を作り上げる。唯一無二の最強最弱、比企谷八幡の完成だった。

 しかしそれでは、あまりにも隔絶している。

 人間という醍醐味をあまねく捨てた道は、機械に近い。

 時に壊れ、修復し、強くなる。修復できなかったなら、布を当て、助け合い、攻撃から身を守る。少しずつ大きく船には、無数の傷と、そこに沁み込んだ確かな人生がある。

 選ばなかった比企谷八幡の心は、年月をかけて張り付けた硬い観念の内側、誰の眼にもつかない暗い影で腐り始めていた。ドアを開け、窓を開け、人が住む、使ってしまわないと壊れてしまう家のように、比企谷八幡の心を揺れ動かす必要があった。

 それに関しては、比企谷八幡の肥大した自己承認欲求は大きな意味を持つものだった。人間臭い、人間らしすぎる自己承認欲求を満たすために比企谷八幡は動いた。

 ただ、比企谷八幡のその欲求を満たす条件というのは、そうそう世の中には溢れていない。いや、極端に減る、という表現の方が正しいかもしれない。奉仕部という異質な条件下では発生していた問題も、――そもそも奉仕部でさえ暇な時間が多い――、年齢がひとつ上がるだけで大きく変わる。それは大学という括りの問題が大きいだろう。人は大きな流れに沿う生き物である。高校時代、彼ら彼女らの周りにあったのは、制服や厳しい校則、そして窮屈な人間関係だ。それは大きく反発を生む。押してはいけないと言われると押したくなるスイッチ。チョコ禁止と言われたバレンタインこそ気持ちが昂る。そんな反抗心は、若者の心を奪う。

 かくして、大勢の若者は大学に進む。大学で手に入れるのは、学問、知識、哲学か、否、自由と時間だ。学問にせよなんにせよ、修めるための自由と時間を与えられる。自らで考えて、自らでその価値を証明するための時間を。そこで取る行動はひとつ。見ることだ。周りを見る、周りを見る、周りを見る。そして周りに添った自分を図らずとも作り上げる。

 ルールに縛られた世界で旗を上げた若者は、より自由を謳歌するか、自分を律することで、過去の自分を若気の至りと評しへらつくのどちらかに分類される。先輩という存在に影響された若者も、その先輩が同じような先輩に影響されたことを考えもしない。

 自由な世界で、見えないレールを探し当てる。

 恋は恥、弱さは恥、人生は恥。

 大学という舞台が与えるのは、自由を元に自分で考えるという時間だ。

 そしてその条件は、比企谷八幡が追い求める欲求を満たすには、とても不十分な空間だった。そして以後、比企谷八幡が追い求める欲求は段々と満たされなくなることから、彼は目を逸らす。

 逸らした先にあったのは、比企谷八幡の腐った性根が飛びつくには十分すぎる代物だった。

 比企谷八幡は、己の自己承認欲求を満たすために動き、失敗した。諦めるという選択肢のない比企谷八幡が進むのは茨の道だ。それでも進むしかない比企谷八幡の元に俺が生まれた。人を傷つけることを肩代わりする、そんな酷く悲しい役割を、俺はこなした。

 では、俺はどこでその悲しいストレスを解消してたのか。

 主人格でなければ、ストレスとは無縁? そんなわけがない。俺も一人の人間で、一人の比企谷八幡だ。

 俺は謝らなければならない。

 陽乃さんに、雪ノ下陽乃に。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 事件後、俺が再び自分を認識したのは一月二十八日だった。一年の秋期で落とした講義分を余分に受講し、その試験を終えたところだった。座席指定の試験だった為に、左端の最後尾に座っていた俺は講義室全体を見渡すことができた。

 やっぱり一年ばっかりだな、と頬杖をいて、あれ、と気が付いた。なんで俺がここにいるんだ、と。

 チラリと真横の窓に目を向けると、暗く冷たい空に大粒の雪が舞っていた。試験官の合図で一斉に立ち上がる一年生に混じって外に出る。携帯を見ると、一色いろはからLINEが来ていた。『せんぱい、雪ですよ』

 その文字を見た瞬間身体がぐらりと傾く。途端に、俺が眠っていた間の記憶が雪崩のように襲い掛かって来る。頭を割らんばかりの勢いに思わずトイレに駆け込んだ。個室の鍵を掛けると、どん、と壁にもたれた。巻き戻すかのように次から次へと場面が切り替わる。とてつもないスピードで逆再生されるのに、言葉を認識できてしまう。認識できるが故に膨大な情報量が脳に負荷として降りかかり、膝をついて白い便器に吐いた。胃がひっくり返るような嗚咽の間も酷い頭痛が襲い掛かる。

 分かる、分かる、と呟く。全部分かる。

 全部俺なんだもんな。

 息切れする狭間に、俺の脳裏には雪ノ下陽乃の姿がこびりついて離れなかった。

 

 駅のロータリーで寒さに震えながらベンチに腰かけていると、目の前に黒く光るタイヤが音を立てて停まる。ドアの閉まる破裂音とヒールが奏でる音階に顔を上げると、身体に衝撃が走って仰け反る。鼻孔をくすぐる懐かしい匂い。腕を背中に回すと、ゆっくりと抱き締めた。

「おかえり」涙ぐんだ声は、何故か色香を感じさせた。

「ただいま、陽乃さん」

 人の往来など構わず、たっぷり時間をかけて存在を確かめると、どちらからともいわず立ち上がり、白い高級車に乗り込む。シートベルトをして、ギアに置かれた雪ノ下陽乃の手を上から包み込む。

「陽乃さん、多分、時間はないです」

「うん、分かってる」

 雪ノ下陽乃はフロントガラスを見据えたままそう言い、アクセルを踏み込んだ。インターを経て高速道路に入ると、鎌倉へと向かっているのが分かった。右車線を走り、次々と車を抜いていく様子は、焦っているようにも高揚しているようにも見えた。俺は舞う雪を見つめながら、ゆっくりと瞼を閉じる。

 視界の片隅にあるのは、俺ではない比企谷八幡が歩んできた記憶だった。一色いろはの存在は俺の意識すら苛む。振り切るように、眠った。

 ドアの閉まる音で薄く目を開けると、前方に歩いていく雪ノ下陽乃の背中が見えた。数回瞬きをして、俺も外に出た。陽乃さんは浜辺へと続く階段を下りていくところだった。辺りを見渡して、江の島近くの海岸だと分かる。追従するように砂浜を踏みしめると、雪で湿った砂がスニーカーを飲み込む。砂浜に等間隔に刻まれた穴が消え、横を見ると陽乃さんのハイヒールが転がっていた。数歩先にもう片方も見える。視線を上げると陽乃さんが冷たい波打ち際で手招きをしている。俺はその月光に包まれた姿に目を奪われた。

「なにやってんですか」ストッキングを濡らしながら、海水に足を突っ込んでいる陽乃さんにいう。この寒さだ、水温は触れずとも分かる。

 陽乃さんは手招きをやめず、美しい顔で笑った。「ちゃんと冷たいから、夢じゃないんだって」

「それなら頬をつねるとかあるでしょう」

 言いながら俺も、靴のまま海に入る。波が打ち付ける度に冷水がくるぶしに強襲し、スニーカーの中を侵し始める。

 更に進み、ふくらはぎの半分まで浸かった陽乃さんは空を見上げた。傘も持たず、雪が白い肌に溶けていく様子は痛々しいと共に、この世で一番美しい光景に見えた。改めてその姿を見ると、コートの中はスーツに身を包んでいる。仕事中に呼び出してしまったか、と少し申し訳なくなるが、仕事だと分かっていたら呼ばなかったのか、と内なる声が叫び、それもそうだな、と思う。

「ねえ、このまま一緒に死のうよ」

 だめ? と可愛らしく首を傾げる。セリフの恐ろしさと、表情の純真さに頭がくらくらする。

「すみません、俺の身体じゃないんで」

 お前の身体だろう、とまた誰かが叫ぶ。

「やっぱり、比企谷君、おかしかったもんね」くすくすと手を口元に添えて笑うから、可笑しかったもんね、と言ったように思えてしまう。「じゃあ、あなたはどっち? 酷い方?」

 酷い方、と形容されたことに胸が痛くなる。それと同時に、なにか大きな力に押し込まれそうになった感情が沸き上がった。比企谷八幡が耐えられない出来事は同じように俺も耐えられない。俺の荒んだ心の矛先は、目の前で悲しく微笑み雪ノ下陽乃に向かった。

「そうですね」口が歪む。「酷い方です」

 すみません、と背を向けかけたが、水を掻き分けて近づいてきた陽乃さんの姿に動けなくなる。ゆっくりと腕を回して、抱き締められるのに身を任せた。唇が震える。お互い海水に足首まで浸かった所為も、過去に侵した失態の数々を思い出した所為も、それを加味して尚、抱き締めてくれた所為でもあった。頬を濡らすのは複雑な感情の入り混じった、紛れもない比企谷八幡の冷たい涙だった。

 極限まで追い詰められた俺は、その爆発した感情を雪ノ下陽乃にぶつけた。それは暴力行為という、一切許されない行為にまで到達する。破壊衝動、どうしようもなく壊したくなる、人も、物も、関係も。雪ノ下陽乃は俺の状態にいち早く気が付くと、妖しい雰囲気を纏い、俺を許した。俺のすべてを許した。

 雪ノ下陽乃は俺がぶつける劣情も、衝動もすべて受け入れた。身体中に痣を作りながら、俺がおさまる時間を作ってくれた。俺が自らの身体に傷をつけることでその行為から逃れようとすると、雪ノ下陽乃は自分の身体を差し出した。

 だんだんと自分の精神がコントロールできなくなっていった。折本やボブの女、そして遥を追い詰める度に心臓が誰かに握りつぶされるような苦痛が襲い掛かった。それでも、俺の思考は雪ノ下陽乃に助けてもらえるという酷い感情に支配された。廃人のような状態になろうと、雪ノ下陽乃は俺を抱え上げ、慰め、精神を差し出した。依存というのは、こういった状態から始まるのだな、とぼんやり思った記憶がある。それはもう一方の比企谷八幡が正常に機能していることの証拠でもあった。

「いこっか」と手を引かれる。

 逆らう意志のない俺は、濡れた身体のまま車に押し込められ、再び動き出した躯体に運ばれた。数十分すると、見たことのある景色、白いホテルが見えてくる。流れるような動作でホテルマンに鍵を渡す陽乃さんに倣うように俺も外に出て、乾く様子のない靴に渋面を作りながら歩いた。

 見たことのあるエントランスを抜け、エレベーターを使い、重苦しいドアを開けた。

 なにも変わらない、美しいままの夜景が目に飛び込んでくる。ちらちらと降る雪景色に心を奪われる。

 陽乃さんに呼ばれて浴室に足を踏み入れると、上はキャミソール、下は下着のみという刺激的な彼女の姿に驚く。風邪ひくよ、と言われて同じように服を脱いだ。熱いシャワーを二人で浴び、浴槽が溜まるのをまって浸かる。足の間にすっぽりと収まった陽乃さんは振り返り、俺の顔をまじまじと見る。彼女は薄く痣の残る自分の腕を撫でるようにして、「今日は叩かないの?」と大きな瞳で俺を射貫く。

「……叩きませんよ、叩くわけがないです」

「そうなんだ」

 少し俯くと、彼女は立ち上がる。露わになる臀部と腿の裏も肌の色が少し変わっていた。

 身体を拭いて浴室から出ると、バスローブに身を包んだ陽乃さんが月明かりの下、雪景色を見つめている。そこに近づこうと足を踏み出し、あることに気が付く。

 雪が止んだ。

 あ、と思うのと同時に、身体が後ろに倒れる気配がした。グッと堪えて、俺は陽乃さんの肩に手を置く。彼女は白い息を吐いて、光のない目でこちらを見た。

 意識が現実と夢を行ったり来たりしている。歩いている、車に揺られている、灯りが飛び散っていく。

 俺の意識は、家の玄関で電気を落とすように切れた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃は愛に飢えている訳ではない。そう感じたのは、バイトが終わった時だった。自分の足元に目を落とすと革靴を履いていて、スーツ姿だと分かる。机の上の電子時計を見ると一月と表示されている。あれから一年が経っていた。そして再び襲い掛かる記憶の奔流。黙って事務室を立ち、化粧室に入る。人は二度目は慣れる、というが、その通りなのだろう。頭痛に振り回されるも吐き気を催すことはなかった。

 再び事務室に戻ると、設置されたテレビから流れる天気予報を見た。雪が降るのは空気が冷える夜中だけだという。俺はコートに腕を通すと、ビルを飛び出した。

 駅へと走る俺を包み込んでいたのは、愛の存在だった。

 それは紛れもない一色いろはから受け取ったもので、この一年、余すことなくその甘味な世界に浸っていた。比企谷八幡は、愛をふんだんに感じていたのだ。世界の色を変えるほどの愛を。

 だからこそ、比企谷八幡と雪ノ下陽乃を包んでいたものの正体に疑念を抱いた。

 これは愛と呼べるほど、美しいものなのだろうか。

 連絡を取って呼び出された場所は、都内のレストランだった。

 

 個室へと繋がる通路を経て、ステンドガラスで彩られた扉を引く。正面が全面ガラスになり、雪が舞う東京の空を臨む個室。陽光のようなライトに照らされて背を向けて座っていたのは、少し髪を伸ばした雪ノ下陽乃だった。

 向かいに腰を下ろすと、待っていたよ、と小さな声で言われた。

 俺は単刀直入にいう。「一色と同棲しています」

 雪ノ下陽乃の長い睫毛が震える。

「そうなんだ」

 伏せられた視線が再び俺を捉えるとき、やはりそこにあるのは一色いろはから溢れ出ていた純粋な愛ではなく、あの時間に取り残されたままの、哀しい瞳と、醜い期待だった。

 雪ノ下陽乃が父親の会社に入ったであろうことは容易に想像できる。一年前、雪の降る海で手を差し伸べる彼女はアイロンが掛けられたスーツ姿で、人生の岐路をひとつ越えた凛々しい姿だった。そして今の彼女の姿は少しカジュアルなジャケットに身を包み、裾の広がったスカートを履いている。

 タイトに自分を縛り、縛られていた雰囲気から、社会のルールを噛み砕き、自分のルールと照らし合わせる余裕を感じさせる姿だった。

 時間は万能だと、誰かが言った。果たしてそうだろうか。

 時間という薬は、風化することを表しているだけに過ぎない。人間は怒り、悲しみ、喜びを持続することができないのだ。いつまでも一つの事に怒り続けることはできないし、一つの事を喜び続けることもできない。怒り続ける、喜び続けることは力が必要だから。だから時間は万能だと、そう言うしかないのだ。

 ただ、期待なら、どうだろう。

 いつか感じたその快楽を目の前でチラつかせられて、では諦めてください、とそんな状態を続けられて、人が正気を保っていられるとは思えない。

 だから、俺もそれに溺れたのだ。

 時間が解決すると信じて、ゆっくりと足を踏み出した瞬間、たっぷりと蜜を塗られた釣り針が垂らされた。抗うなんて言葉はなかった。頭の中は真っ白だ。

 陽乃さん、と口を開こうとしたが、一瞬早く「比企谷君」と言われた。

「はい」背筋が伸びる。

「一色ちゃんとは上手くいってるの」

「そうみたいですね」

 分かりませんけど。俺だけれど、俺ではないので。

「もう……」雪ノ下陽乃はそれを言葉にしたくないのか、もしくは重要なことを強調するかのように、「壊れないのかな」と呟いた。

 え、と俺が前のめりになった時、「あ、雪が」と陽乃さんが引き攣るような声を上げた。

 俺は知りたくない現実と向き合うように、ゆっくりと背後を振り返る。東京を覆うのは、静かな空気と、激しい夜景だけだった。小さな冬は、どこにも見当たらない。

 俺は何かに憑りつかれたように椅子から立ち上がる。意志とは無関係のその行動に驚き、まだ話したいことのある陽乃さんに目を向けると、彼女も同じ目をしていた。

 口が小さく動いている。

「すみません……」

 辛うじて言葉を残し、やってきた店員にぶつかりながら店を出る。ドアをくぐると途端に体温が急激に奪われ始める。揺れる視界。東京の灯りは冷たく、白球のみ使っているのかと辺りを見渡したが、目の前を横切った車のブレーキランプが白く光ったことで、自分がおかしいのだと気が付く。

 酷い船酔いのような酩酊に近い状態のまま、視界に入った赤地に黄色いアルファベットのファストフード店、そのトイレに転がり込んだ。便器の蓋の上から力が抜けるように座る。前傾姿勢で頭を抱えた。

 時間は進んでいない。あの時から何も。雪ノ下陽乃の時間はもちろん、俺も、比企谷八幡も。そして、それは時間を奪っていることに他ならない。彼女の貴重な時間を奪い続けている。今なお、傷つけ続けているのだ。ならどうすれば、なんて吐き捨てるように口にする。

 答えは分かっているのに。

 やるべきことなど、ひとつしかないのに。

 雪ノ下陽乃の薬指にあった指輪を思い出す。それは一年前からそこに存在していたにも関わらず、見て見ぬふりをしていたものだ。

 プロポーズをしたのは比企谷八幡だった。比企谷八幡の身代わりとして生まれた俺ではない。なぜなら、俺は自分が比企谷八幡であって、比企谷八幡でない事を知っていたからだ。要するに、自分が存在し続けることができないと分かっていたのだ。

 俺は雪ノ下陽乃を幸せにすることができない。だから俺は、比企谷八幡が彼女にプロポーズをしたことが分からなかった。彼女に傾倒していたのはあくまで俺であって、比企谷八幡の精神はまだあの教室に取り残されていたはずだったからだ。

 一際、ズキン、と頭が痛む。交代時間を知らせるベルが頭の中で激しく鳴るようだった。交代ですよ、これ以上は違反ですよ、そんな幻聴が聞こえてくるようだ。

 今なら分かる、その理由が。プロポーズをした理由が。

 比企谷八幡の人格は二つあるが、身体は一つしかない。そしてその唯一の物質が影響を受けるのは、ぐらぐらと揺れる不安定な精神ではなく、何かに縋りついていたとしても、安定している精神の方だった。人を傷つけて、自らを傷つけるような橋渡りをしている人格よりも、不安定な精神を雪ノ下陽乃という支柱を頼りに立っている人格の方が安定していると身体が判断したのだ。そして比企谷八幡も、俺も、自然と影響を受けることになる。俺が求めていた心の安寧は、比企谷八幡も求めていると、勘違いし始める。

 そして今、俺の意識は蝋燭の炎のようにゆらめいている。もし突然現れた誰かが、ふっと息を吹きかけるようなことがあれば、俺という存在は跡形もなく消えてしまうだろう。対して、比企谷八幡の精神は驚くほど地に足ついている。ウィキペディアの充実というページを間借りしたくなるような状況だ。忌避していたリア充という単語をぺたぺたと身体中に張り付けられても文句はいえまい。

 一色いろはは俺の脳内にまで侵食していた。エプロン姿でキッチンに立つ後姿。比企谷八幡のオススメした本を首を傾げながら手に取る姿。ベッドの中で比企谷八幡の腕に抱かれる、あられもない姿。頭痛と共に濁流のように流れ込んできたのは、一色いろはが示した愛だった。

 健全なる魂は、健全なる精神と健全なる肉体に宿る、だったか。比企谷八幡の身体に宿るには、どうにも不安定過ぎたらしい。

 大きく風が吹き、投げ出されるように身体から剥がれるイメージ。

 またこの灯が燈ることはあるのだろうか。

 俺の意識は空気に沁み込んでいくように、消えていった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 街が煌めいている。街路樹には電飾が巻かれ、過ぎ行くテナントにはリースが掛けられていた。スピーカーから漏れ出てくるのは、サンタが街にやってくるあの曲だった。手を繋ぎ、腕を組むカップルが、盛んに声を上げている。キャー、キャー、キャー。黄色い声が、悲鳴に変わる。街が白くなる。雪で覆われる。意識が霞んでいく。ポチャン、と音がして、見れば緑色のリースが赤色に染まっていた。また一滴、そこから赤い雫が垂れた。ピチャン。あ、と気が付いた時には、小さなナイフが腹に刺さっていた。

 ああ、またこの夢か、と呟く。

 きっと、事件とやらの記憶なのだろう。だとしたら背中側だぞ、と思いながら腹から生えるナイフを抜く。力を込めてから、抜いたら血が出るのでは、と考えたが遅かった。まるでケチャップを踏みつけてしまったように、ぴゅっと音がしたかと思えば、ポンプである心臓と同期しているように、ぴゅっぴゅっ、とリズミカルに血が噴き出る。

 血出すぎじゃない? と思うと同時に、お腹の傷口を抑える手が伸びて来る。ぐっ、と傷口を摘むような止血の雑さに苛つきながら顔を上げると、特徴的な金髪が揺れている。「何やってんだよ、戸部」

「いや、やっぱ責任感じるじゃん?」

 ニカッと笑い、血のついた手で襟足をガシガシと掻く。おいおい止血止血、あと責任感じた表情してね?

 もう自分でやるわ、と傷口に視線を戻すと、先ほどよりも短い髪がそこにあった。「葉山か」

「もう、いいのか?」

 俺を見ているのか分からない瞳を向けて来る。いい訳ないよね? 血出てるよね?

 葉山を突き飛ばすように押しのけ、自分の手で傷口を抑える。そしてまた同じように、俺の視界に人の頭が侵入してくる。さらり、と音がしそうなほど艶やかな髪質は、雪ノ下雪乃を彷彿とさせる。

 来た、と俺はそのしゃがみ込んで傷口を見るその女性を抱きとめる。

 自然と溢れ出るのは、頬を流れて顎から垂れるほどの大粒の涙と、内臓が破裂しそうになるほどの罪悪感だった。「ごめんなさい」と誰かも分からないその人に謝る。

 とにかく謝らなければならない、と俺は思うしかなかった。

 とにかく、とにかく、謝り続けなければならないという事だけがはっきりしている。

 でも、顔は見れない。

 見てはいけない。見ることはこの夢のデータにはない。そんな分岐はない。

 分からないからだ。

 きっと見ても分からない。

 それが雪ノ下雪乃の顔であっても、由比ヶ浜結衣の顔であっても、見てしまったら俺にはきっと分からないのだ。

 もう、俺の手から離れてしまったから。

 俺の手から離れてしまったものは、もう、俺以外の誰かが動かすしかないから。

 だからきっと、俺には分からない。

 一色ではない身体の感触を、俺の腕はしっかりと抱き締めていた。

 

 

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