八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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growing pains:haruno

「って」一色は踏み出した足に、ぐっと力を入れる。「諦めるかバカ!」

 下品な笑い声で腰を振る男の一人に体当たりをして一色は走り出した。一色の高い声と、男二人の抗議の声に周囲の人の意識が集まる。「ふっざけんな!」

 すみません! すみません! と一色は人混みを掻き分けて進む。ちらちらと降り注ぐ雪に騒ぐネズミの被り物をした女子高生集団を避けて、通りが一瞬見えた。それはすぐに人で埋め尽くされるが、方向は分かった。一色は再び声を上げて先を急ぐ。ぜえぜえと白い息が盛んに吐き出される。

 スペースを見つけてそこに飛び込む。突然現れた一色に並んでいた人の好奇の視線が刺さり、居心地の悪さに少し身じろぎをするが、またすぐに移動する。

「いっ」

 乱暴に腕を掴まれ一色は思わず声を上げてしまう。振り返ると、先ほどの男がニヤつきながら息を吐いている。

「ひどいじゃん、ねえ」

「ちょ、離してよ!」一色は必死に腕を振りほどこうとするが、一色の細い腕は掴みやすいのか、しっかりと握りこまれていて痛みが走る。「痛いって!」

「逃げるのが悪いんだって、っておい何見てんだよ!」

 男は唾を飛ばして周りを威嚇する。一色とその男を中心に少しずつ人の輪ができ始めていた。じりじりと離れつつも、まるで人生の貴重な一ページを記録するかのように携帯を構えだす姿を見て、一色は俯き唇を噛んだ。

「せんぱい……」

 小さく呻くように呟くと、視界の端に黒いブーツが侵入してきた。

 え、という間もなく、一色の腕は解放される。熱を持っていたはずの腕が突如冷たい風に晒された感触が気持ち悪い。

「ってえな! はなせよ!」

 男の吐き捨てるようなセリフに一色は腕を抑えながら振り返る。

「悪いな」

 葉山隼人は一色をチラリと見て、男の腕を捻り上げた。

「いてててて!」

「先約があるんだ」

 一色が突然のことに口を閉じたり開いたりさせていると、葉山は男の背中側に捻った腕を思い切り押して、遅れて登場していたもう一人の革ジャン男にぶつける。

「葉山先輩」

「いこうか、いろは」手首の存在を確かめるように蹲る男をよそに、葉山隼人は一色の背中を押す。「比企谷が待ってる」

「え、せんぱいが?」

 葉山隼人は首肯し、少し歩くと路上に停めてあったスポーツタイプの高級車、その助手席に一色を押し込んだ。一色は初めて乗るような車の内装に視線を彷徨わせ、シートの触り心地に少し引いていたが、運転席に葉山隼人が乗り込んできたのを確認して訊く。

「せんぱいはどこにいるんですか?」

「さあ」葉山隼人はギアに手を置いて、わざとらしく肩を竦めた。「急ごう」

 一色はフロントガラスを見つめるその横顔に驚く。

 葉山隼人が喜んでいる。

 この瞬間を噛み締めている。

 何に対しても冷めている男が見せる一瞬の熱に、一色の顔も熱くなる。

 多分、この顔がずっとできるなら、本物になっていたかもしれないな、と一色は笑う。

「もう遅いですよ」

 一色がそう言うと、葉山隼人は横目で一色を見て首を傾げた。

 車は国道に入り、インターを目指す。

 雪はなおも強く、濃く一色の視界を霞ませていった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 低く唸りを上げる車内は静かで、地面に近い車高に慣れていない一色はお尻の辺りがムズムズしていた。高速道尾を南下しているのは分かったが、どこに向かっているのかまではまだ分からない。ハンドルを握る葉山隼人を見ると、ハンドルの右側に設置された携帯スタンド、その常に表示されている画面をちらちらと気にしている。

 なんでナビ使わないんだろう、一色がそう思うのと同時に車のスピーカーから聞きなれない音が鳴り響いた。ごうごうと唸る様子は巨大な獣の威嚇にも思えた。一色が耳を澄ませると、葉山隼人のスポーツタイプの車とは別の音がしていた。なんですかこれ、と訊こうとした刹那、ザザ、とノイズのような音が走った。

『あれ、もう気が付いた?』

 一色は自分の身体が硬直するのが分かった。辛うじて運転席に視線を向けると、葉山隼人は険しい顔で先を見つめていた。

『まだ寝てていいから、大丈夫だよ、比企谷君』

 あの女の声だ、一色は車内に響いた声に噛みつくのに耐え、口をわなわなとさせながらもなんとか話す。

「な、なんですか、これ」

 葉山隼人は深く息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出した。「比企谷の依頼だ」

「依頼?」一色は眉をひそめる。

「ああ、でも、一色の知る比企谷じゃない」一色が黙っていると、葉山隼人は何かを諦めたように続けた。「三年前、あの事件で消えた、もう一人の比企谷からの依頼だ」

 葉山隼人がおかしなことを口走り始めた、と一笑に付す一色と、やっぱり、と頭の中で漂っていた点と点が繋がる一色がいた。いやいや、と頭を振るも、拭いきれない過去が一色の思考を抑え付けてくる。

「もう一人の、せんぱい……」

 一色の頭を掠めたのは三年前のクリスマスイブ、踏切の前で一色の唇を奪ったあの一瞬だった。まるで、人格が入れ替わるような、あの一瞬。

 いや、と一色は考え直す。あの瞬間に感じた違和感は少し違う。もっと、なにか混ざり合うような―――。

「ここからは、もう一人の比企谷から聞いた話だ」一色はその口ぶりに、葉山隼人自身も完全に信じられている訳ではないのだと悟った。「比企谷は、自分の身を守るため、もう一つの人格を作った」

 そこから先は荒唐無稽、到底信じられるような話ではなかった。若気の至りで女に手を出したいい訳ではないのか、言い訳にしては幼稚すぎやしないか、一色は話の腰を折らないように必死だった。心を避難させるためにもう一人の人格を作り、それが今は雪が降る時だけ顔を出す。そんなことが。

 そんなことが、そんなことが、あって、欲しい……。

 一色は零れ落ちそうな涙を堪える。

 二月一日、と葉山隼人が言い、一色の意識は引き戻される。「一年前の二月一日、比企谷に呼び出されたんだ」

「せんぱいに……?」

 ふっと息を吐くように笑い、葉山隼人は頭を掻く。「びっくりだよな」

「いえ、そういう訳では」一色の語尾は消え入るようだった。

「協力してほしい、と比企谷に頭を下げられたよ」

「協力って何をですか」

「”もし、もう一度俺が出てくるようなことがあれば、一色に聴かせてほしい”って、比企谷八幡の出す答えを」

 黒く、うねるような感情が一色の胸に広がる。

『雪ノ下さんにプロポーズした』

 あの雪の日、あの静かな声が再生される。何度も忘れようとしたあの声は、この三年間一色の頭の中で幾度となく明瞭に蘇った。夢の中、ふとした瞬間、比企谷八幡に抱かれている時、気を抜けば一色の幸せなんてなかったことにされるのではないかと常に怯えていた。

 比企谷八幡の出す答え。

 聞きたくない、と一色は耳を覆いたくなる。聞いてしまったら、すべてが終わってしまうような気がして、一色が必死に抱え込んでいた幸せがするりと逃げてしまいそうで、気がおかしくなりそうだった。

 その時、また小さなノイズが走る。

『陽乃さん』一色はよく知った声に虚空を見つめる。『次、停めてください』

『次? パーキングだけどいい?』雪ノ下陽乃の驚く声がする。

 葉山隼人が鋭く視線を走らせ携帯を一瞥したかと思えば、ウインカーを出してアクセルを吹かした。車線を右に替え、スピードを上げる。

『はい、お願いします』

『うん、分かった』

 一色は息を止めていた。もしこれが通話状態だった場合、向こうに存在を知られてしまうのではと危惧したが、隣の葉山隼人が、消音状態だよ、と口を開いた為に、一色もため息をつく。

「そこに行くんですか」

「みたいだな」

 葉山隼人はギアに手を置き、前方に車がいなくなったのを確認して左車線に戻る。

 もしかしてせんぱいのGPSでも見ているんじゃ、と一色は葉山隼人の横顔を見たが、そんな訳ないか、と視線を戻す。雪は数十分前よりも勢いを弱くしていて、何かが終わりに近づいているんじゃないか、そう一色は感じた。

 

『着いたよ、比企谷君』

 フロントガラスが雪を跳ね上げ、夜の帳は完全に降りきった。雪ノ下陽乃の声はその闇に輝く一筋の光の様な艶やかさを持ち、一色は歯ぎしりをする。

『すみません、ありがとうございます』

 バタン、とドアを閉める音がして、次いでコンクリートと靴が擦れる音が続く。もう一回小さくドアを閉める音がしたため、雪ノ下陽乃も外に出たのだろう。

『どこいくの?』雪ノ下陽乃は怪訝な声を発する。

『少し歩きましょう』

 一色も、どこに行くんだ、と知らず握りしめていた拳に力が入る。車内に響き渡る声は、二人の会話を横で聞いているようで、何もできないという事をまざまざと見せつけられているようで一色の心臓は抗議するように跳ねる。

 しばらく、比企谷八幡の足音と雪ノ下陽乃のヒールが鳴らす音が流れる。

 一色は音に気が付く。比企谷八幡の足音だ。比企谷八幡が踵を擦って歩くとき、それは人混みだったり、嫌なことが待っている時だったりあるが、一番は体調不良の時だった。一色がスピーカーに耳を澄ませると、少し辛そうに歩く比企谷八幡の姿が脳裏に浮かんだ。

『海が鳴ってる』そう言ったのは雪ノ下陽乃だった。

『見えないですけど、多分、この下は海ですかね』

 一色は腕を伸ばし、目的地の設定されていないナビを触る。ピコピコと触れていると、現在地よりさらに南に海があった。

『雪、弱くなってきたね』雪ノ下陽乃の言葉と共に、自らの身体を擦る音も聞こえてきた。雪の降る海岸の寒さは、千葉県民ならよく分かっているだろう。『比企谷君?』返事がない事を心配してか雪ノ下陽乃は名前を呼ぶ。

『陽乃さん』

『うん』

『会うのは、今日で最後です』

「え」

 一色は思わず身を乗り出した。雪ノ下陽乃も同じような反応をしただろうが、一色の驚きによって掻き消される。今の比企谷八幡は、一色にキスをした”あの”比企谷八幡はの筈だ。続きを聞き漏らさないよう、一色は息をひそめる。心なしか葉山隼人の運転も一定の速度を維持しているようだった。

『どうして?』

『俺には、あなたを幸せにすることができないからです』

『そんなことない。十分幸せだよ。年に一回でも、二年に一回でも、雪が降ったら会えるだけで私は幸せだよ』

『すみません……でも、俺にあなたの時間を奪う権利はないんです』

『奪ってなんかない!』

 何かが破裂したような、突然の叫び声に一色と葉山の肩が震える。おそらく比企谷八幡のポケットにある携帯が通話中になっているのだろう、常に籠ったような音だったが、その声だけは鋭く一色の鼓膜に響いた。

『奪ってなんかない! 奪ってなんかないよ、ねえ比企谷君』

 縋りついているのか、比企谷八幡の着ているものがズルズルと音を立てる。

『陽乃さん、ひとつ聞いていですか』

『うんなあに?』

『陽乃さんは、俺に何を求めてるんですか』

 一色は、そんな曖昧な、と言いたくなる。しかし、その声には比企谷八幡には一つの回答が見えているんだな、そう思わせるような迫力があった。

『なにって、全部だよ。比企谷君の全部、比企谷君の生活の全部、比企谷君の心の全部だよ』

『俺はもう、壊れませんよ』

『壊れる……って何が?』

 比企谷八幡が空気を吸い込む気配があった。

『俺の心はもう、壊れませんよ』

 雪ノ下陽乃も一瞬沈黙し、一色は比企谷八幡の考えと言葉の意味が分からず頭を抱える。どういう意味ですかせんぱい、と呟きかけた時、「やっぱりそうか」と隣から声がした。一色が顔を上げると、険しい顔をした葉山隼人が暗闇を見つめていた。前方を見つめているのに、意識が別のところに飛んでしまっているかの様だった。フロントガラスに映っているのは、単なる景色ではない、そんな気がした。

『え、い、いいよ? なんでダメなの?』

 雪ノ下陽乃、その声が明らかに震えていることに一色は気が付く。

『陽乃さん、あなたは、壊れてしまいそうな俺が欲しかったんじゃないですか』

『何言ってるの…?』

『人を傷つけて、自分を傷つけて、ギリギリのところで精神を保っている比企谷八幡を求めているんでしょう』比企谷八幡が言葉を切っても、雪ノ下陽乃の応答がない。通話が切れたかと心配したが、比企谷八幡がさらに詰める。『二年前の冬からおかしいと思ってた。俺の知ってる陽乃さんはもっと慈愛に満ちた瞳で俺を映してくれた。でも今は違う。陽乃さん、あなたはきっと、きっと、雪ノ下陽乃がいなければ生きていけない、雪ノ下陽乃がいなければ壊れてしまう、そんな存在を求めていたんじゃないですか』

「以前、比企谷にも言ったが」電話口の比企谷八幡がそう言い切り、刹那の沈黙が訪れたかと思えば、突然葉山隼人が言葉を発した為に一色は首を向ける。「あの人は、好きなものをかまいすぎて殺すか、嫌いなものを徹底的に潰すことしかしないんだ」

「どういうことですか」

「一番好きなものを、自分無しではいられなくしたいんだ。あの人は極端なんだ、自立するなら、自分一人で立ち上がれと要求する。雪乃ちゃんはそのそのタイプかな、自立を目指す癖に、少しずつ依存してしまう、そんな弱さをあの人は許せない。今は変わったようだけど」

 葉山隼人はちらりと一色を見てから言葉を紡ぐ。

「もう一つは、かまってかまって、自分の存在なしではいられないような弱さを要求する。昔の俺がそうだった。あの人の言う事を信じて、それに従っていれば幸せになれる、そんな思いすらあったよ。要するに俺は殺されていたんだ、殺し続けられていたんだ。そして、そこから抜け出そうとした時、あの人は俺に価値を見出さなくなった」葉山隼人の表情は苦く、先ほどの憂いに満ちた瞳は過去に思いを馳せていたんだと一色は感じた。「だから、今の俺の中途半端さが、あの人は大嫌いなんだろうな」

「じゃあ、その弱さをせんぱいに求めたってことですか」

「だと思う、でもただ弱いだけじゃだめだ。自分をもち、力をもち、哲学をもつ、それだけの強さを持ち合わせながら、雪ノ下陽乃の存在に縋ることでしかそれら全てを保てないような、そんな歪んだ弱さを捜しているんだ。あの人の欲望で壊された人間を俺は何人も知ってるよ」

 葉山隼人は、比企谷八幡がその一人であるかのように目を細めた。

 一色はスピーカーから絶え間なく流れるノイズに晒され続け、静寂を捜すように身を捩った。

 でも、必要とする気持ちは、愛する気持ちなんか分からないじゃないですか、不意に浮かんだそんな思いに、一色は驚く。忘れようとぶんぶん頭を振る。

『あははははは、はは……、何言ってるか分かんないや』

 狂ったような笑い声をあげ、雪ノ下陽乃はそう言った。

『陽乃さん、知ってますか』

『なにを?』

『俺が、比企谷八幡が心を保つために雪ノ下陽乃に縋ったことを、雪ノ下陽乃の欲求を満たす為に掌で踊っていた比企谷八幡の存在を』

『やめて』

『それを、あなたが嫌った共依――』

『やめて!!』再び空気が震える。一色と葉山隼人がいる車内にもひりひりとした波が伝わる。雪ノ下陽乃は鼻を啜り、切れ切れの声で叫んだ。

『私の愛を、―――共依存なんて呼ばせない!!』

 ブツ、と音が切れた。

 充電でも切れたのか、一色が運転席に顔を向けると、葉山隼人は舌打ちをしてアクセルを踏み込んだ。スタンドに置かれた携帯がピコンと何かを受信した。

「もうすぐ着くぞ」

 葉山隼人はそう言って車線を変える。

 一色は祈るように両手を握り合わせる。

 自分が何を祈っているのか、何を怖がっているのか、分からないまま一色は祈る。

 できるのならば、気持ちが、愛が、愛だと証明されますように、そんな恥ずかしい事を、一色は考える。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 クリスマスイブのパーキングエリアは車も疎らで、暗く広い駐車場はうすら寒さすら感じさせた。いくつかの乗用車と長距離トラックが間隔をあけて停まっている。正面の自動販売機とトイレだけが発光していたが、その黄色とも白色ともつかない灯りは酷く冷たく見えた。

 葉山隼人は少し乱暴に車を停めると、外に出る。呆けていた一色も急いで続く。

「比企谷を捜すぞ」首を振りながら一色に言う。

「せんぱいの居場所が分かってるわけじゃないんですか」

「分かっているのはこの付近にいるってことだけだ、細かい位置までは分からない」

「そんな」

 一色は広いパーキングエリアを見渡す。そこは一色のイメージする何もない場所ではなく、トイレを中央にして、左右に遊歩道が伸びていた。街灯も少なく危険な香りが漂っている。

 葉山隼人もそれを察知したのか、顎に手を当てて考え事をする。

 私一人でも大丈夫です、と言おうとした時、一色の背後で足音が聞こえた。タッタッタ、と駆け足のような音が近づいてくる。一色は驚いて葉山隼人を盾にするように隠れた。

「あ、よかった、葉山君」

 可愛らしい、中性的な高い声に一色は「あ」と声を上げていた。「戸塚先輩」

「こんばんは、一色さん」

「あ、こ、こんばんはです」

 戸塚彩加が丁寧に頭を下げる為、一瞬ここが大学の通路で、偶然出会ったかのような柔らかい空気に包まれる。一色はそのまま、せんぱいいるのでお茶でも、と言いそうになったのをグッと堪えた。

「せんぱいの居場所分かるんですか?」

「うん、こっちだよ」

 方向を指で示しながら走り出す戸塚彩加に一色と葉山隼人は顔を見合わせて続く。正面から左、ドッグランのような空間を抜けて木々の生い茂る遊歩道に足を踏み入れた。

 一色は白い息を吐きながら戸塚彩加に訊く。「戸塚先輩もせんぱいに頼まれたんですか?」

「うん」と戸塚彩加は微塵も疲れを感じさせない足取りで首だけ振り返る。「葉山君と一緒にね」

 一色が隣を見ると、葉山隼人がコクンと頷く。

「やっと、力になれたかな」戸塚彩加は力なく呟いた。

 一色は、はっと気が付く。葉山隼人が笑っていた理由、それは比企谷八幡からの依頼を遂行するからだ。”あの”比企谷八幡が葉山隼人に頼みごとをするなんて、と考えれば分かる。ただ、比企谷八幡の力になれると喜ぶ戸塚彩加と葉山隼人では少し感情に差があるようにも思えた。

「あそこだよ!」

 戸塚彩加が叫ぶ。一色の視線の先には白い灯りと、それに照らされて闇夜に浮かび上がるベンチがあった。せんぱい、と呼ぼうとしたが、一色は足を止めていた。戸塚彩加と葉山隼人もそれに習う。

「―――だから、全部勘違いなんです。あのプロポーズも」どくん、と一色の心臓が強く脈打った。ベンチに力なく座る雪ノ下陽乃から比企谷八幡は離れる。「さようなら、陽乃さん」

 雪ノ下陽乃に背を向けた比企谷八幡の身体がぐにゃりと曲がり、地面に膝をつくとそのまま横の芝生に倒れた。

「せんぱい!」

 一色は一心不乱に駆け出して、比企谷八幡の身体を起こした。どこか怪我をしていないか、血は出ていないか、気を失ったような力の抜けた顔を見て、少し落ち着く。葉山隼人と戸塚彩加も遅れて白い街灯の舞台へと立つ。

「分かんなくなっちゃったんだ、私」

 それが雪ノ下陽乃の声だと一色は遅れて気が付く。それほどに覇気を失い、色の抜け落ちた声だったからだ。一色は睨みつけようと力を入れたが、ベンチに座る雪ノ下陽乃は、少女のように小さく見えた。

「私がしてきたのは間違いだったのかな。好きな人のすべてを求め、受け入れるのは、悪い事なのかな」一色は思わず黙ってしまう。同じ境遇なら私も比企谷八幡を許してしまうのだろう、そう確信できるから。「私の愛は、全部勘違いなのかな」

「勘違いなんかじゃ、ないです」

 葉山隼人も戸塚彩加も驚いて一色の方を見る。一色も同じように驚いていた。それが自分の声だと気が付くのに、数秒かかる。雪ノ下陽乃も思わぬ言葉だったのか、頬を濡らした綺麗な顔を上げる。

「あ、いや……」

 一色が言い淀んでいると、それを引き継ぐ声が聞こえた。

「勘違い、なんかじゃない」

 とても懐かしく感じたその声に、一色は思わず涙してしまった。腕にある比企谷八幡の身体に力が入るのが分かる。筋肉が収縮するのが分かる。顔の筋肉が歪みながらも、動くのが分かる。

「せん、ぱい……」

 比企谷八幡は重そうな身体を起こすと、ちょんと一色の頬に触れ、それから雪ノ下陽乃に向き合った。

「雪ノ下さん、あなたの愛は本物ですよ。そして俺の、”あいつ”の愛も、絶対に本物です」

「どうしてそう言いきれるの」雪ノ下陽乃は力のない瞳で比企谷八幡を見つめた。「君は、比企谷君で、比企谷君じゃないんでしょう? もう彼は、戻ってこないんでしょう?」

「ええ、”あいつ”はもう戻ってきません。さっき話しましたから」

「ほら、分からないじゃない」

「いえ、もう、一緒になったので」そう言って比企谷八幡は胸に手を当てた。何かを懐かしむような、何かを悲しむようなしぐさに、一色と葉山隼人、戸塚彩加も息を呑んだ。「全部、分かります」

「記憶があるんですか?」

 一色が後ろから問いかけると、比企谷八幡はうなずいた。

「雪ノ下さん、俺はあの事件前、不安定だったかもしれません。でも、ひとつだけ確かなことは、あの瞬間、”あいつ”を包んでいたのは、雪ノ下さんの愛です」

「……でも、それが私の嫌う共依存なのよ。全部、勘違いなのよ」

 比企谷八幡は力強く一歩踏み出した。「共依存で何が悪いんですか! 共依存が愛じゃないなんて、誰が決めたんですか、雪ノ下さんの愛を受け取った俺がそう言うんです、他の誰がそれに反対できますか!」

 雪ノ下陽乃が目を見開いた。

「愛は主観です。もちろん、俺が、”あいつ”が雪ノ下さんにしたことは許されることじゃない。でも、雪ノ下さんが俺を大切に思ってくれたことを、誰にも勘違いだなんて言わせない」

 ぽつり、と雫がコンクリートに沁み込む。一色の足元を濡らし、戸塚彩加の足元を濡らし、雪ノ下陽乃の足元を濡らす。そして、比企谷八幡の足元にも垂れる。

「だから、だから言わなきゃならない、俺には、”あいつ”が大切に思った雪ノ下さんの時間を奪えない。俺は、”あいつ”じゃない比企谷八幡は、一色いろはを愛しているから」

 比企谷八幡が膝をつく。時間が止まったように、比企谷八幡は以外の者は動けない。その瞬間を邪魔することは、誠意を込めて託した一人の命を汚すような、そんな空気が漂っていた。

「雪ノ下さんにしたすべての事を謝ります。申し訳ありませんでした」比企谷八幡は額を地面に付ける。

 木々は騒めき雪を振り落とす。何秒、何分、十何分と感じられた時間のあと、比企谷八幡は顔を上げて叫んだ。

「そして、”あいつ”からの伝言です。愛してくれてありがとう、愛してます、陽乃さん」

 そう言って、もう一度額をつけた。

 葉山隼人が顔を逸らし、一色いろはは堪えきれず声を上げて泣いた。

 雪ノ下陽乃は顔を覆って嗚咽を堪える。身体中の液体を足しても足りないのではないかという程に、涙が止めどなく溢れる。

「……ごめんなさい、ごめんなさい、愛に、応えられなくて、ごめんなさい」

 潮が運んできた音は、比企谷八幡と雪ノ下陽乃の関係に静かに幕を下ろした。

 走り続けた列車は、忘れられない別れで終着する。

 長い人生の旅路、その一瞬、成長痛の様な時間が後に与える影響は計り知れない。

 正解なのか、間違いなのか、それは人生のもっと先、振り返った時に分かることなのか、それすら分からない。

 ただ、今起きているすべては間違いで、いつかそれが正解だったと気が付くその日まで、人は歩き続ける必要があるのだろう。

 だからきっと、彼ら、彼女らの、青春ラブコメは間違い続ける。

 

 

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