6月に入りました。
またお暇ができたら読んでもらえると嬉しいです。
感想をもらえるももっと嬉しいです。
雑踏に包まれているような感覚。それが煩わしくも心地よく感じ、再び睡魔が襲ってきた。
少し肌寒く、薄い掛布団を掛け直すと、横目で窓の外を見る。
6月も2週目に入り、止まない雨に身体も慣れたことで、雨音さえも眠りに誘う要素となっていた。
毎週訪れる水曜日の休み。惰眠を貪る事ができる為、火曜日の夜からの夜更かしが常となっていたが先週からちょいと理由が変わってきた。
面接に合格してすぐにバイトのシフトに入ることになった俺は、12時閉店の店舗のラストに入ることになり、帰宅は1時近くになることが判明した。
固定制のシフトを敷くこの店は、履修の状況を見て働く時間を申請することができる。4限が終わってから間に合う時間なので入れない日はないのだが、サークルがあると嘘をついて日曜日に休みをもらったのは内緒だ。
八幡おやすみないと死んじゃうっ!
というわけで、火曜・木曜・土曜の週3日の勤務に決定した。
昨日も1時に帰宅。煌々とした店にいたこともあり、なかなか寝付けずに結局3時の就寝になってしまった。
そういえば、水曜日もお休みじゃないか。接客にうなされていた所為で忘れていたが日曜日に続き、水曜日も完全休暇。
これはかの有名な完全週休2日制というやつなんじゃないですか!
週休2日制と完全週休2日制の違いは社畜の皆さんならわかっているだろうが、大きな違いがある。
小町に「日に日に目が死んでいく」と評されたこの1週間だったが、完全週休2日と聞くとテンションが上がってきた。
思考を切り替え、この休みを甘受するようにと身体に伝達する。
重いことには変わりない腰をあげ、朝食とも昼食ともつかない食事を取ろうと階段を下りているところで、携帯が軽快な鈴の音と共にメールを受信した。
<☆★ゆい☆★>
『ヒッキー!
週末3人でごはん行こー!』
なんだスパムメールか...。
携帯の画面を開いたまま洗濯機の上に置き、洗面台で顔を洗う。
表情による凹凸で、うまく洗えない。
しびれを切らし、そのまま顔を上げる。
「気持ちわりぃ顔しやがって...」
こんな顔してるとまた女王にキモがられてしまう。
顔を拭き、上がった口角を手で抑える。
完全週休2日制じゃなかったのには騙されたが、仕方ない。
仕方ないから、行ってやるか。
***
「皆さん、日本語って50音ありますよね。でもアルファベットは26種類しかないんです。ということは、日本語ができている皆さんは英語なんてすぐできちゃうんです」
どこにも筋の通っていない論理を展開している英語教師をよそに隣の席をチラとみる。筋がないのは刺身だけで十分だ。
休みすぎと釘を刺されたにも関わらず、戸部はいない。まあ、単位に響くほどじゃないからいいんだが。べ、別に心配なんかしてないんだからねっ。うん本当にしていない。
寧ろ俺の方が心配まである。この時期になると隣の人ともある程度の信頼関係を築いている訳でそこに俺が入るということはまた変な空気を生み出してしまうということでいやこの時期じゃなくても変な空気生み出すんですけどあ俺の存在が空気なるほど。
涙が零れないように上を向いたところで、教室の扉が開く。
「スンマセン、遅れましたー...」
戸部か?声に覇気がなく一瞬知らない人が入ってきたかと錯覚したが、顔を向けると確かに戸部だった。
元気のなさに疑問を抱いたのは、教師と戸部の友人も同じだったらしく、口々に心配の声を上げる。
「大丈夫?戸部君、また体調悪くなった?」
「大丈夫ー?」
「どうしたー?」
関係の深さはどうであれ、これだけの人間が口を揃えて心配するというのは、戸部の人格によるものなのだろうと思い、素直に感心する。
「うぇっ!っべー、元気ないように見えた?なんでみんな腹壊したの知ってんのよー!」
チョットー!と戸部は自分に覇気がないことに今気づいたかのように大仰に手を振り、何でもないと全快ぶりをアピールした。
「んだよー、トイレ籠ってただけかよー!」
「戸部君超陰キャー、キャハハ!」
「チョイチョイ、俺以上の陽キャは居ないっしょーっ!そこんとこヨロシクゥ!」
「「ワハハハ」」
一瞬にして、教室が喧騒に包まれ、雰囲気が柔らかくなった。
なんだそれ。
と、素直に思ってしまった。
戸部の視線が、戸部に纏わりつく黴雨の湿気ではない陰鬱な影が、そして、観衆が。
隣に座り、周りの奴等と一言二言交わすが、誰も気付き、気遣う様子は見られない。
授業に向き直り、和やかな雰囲気で教師とコミュニケーションをとる姿は、確かに戸部だった。確かに。
横目で見つめながら、平塚先生の言葉が頭の中を反芻する。
『いつか彼女の事を理解できる人が現れるかもしれない。彼女のもとへ踏み込んでいく人がいるかもしれない。...ただ、私はそれが君だったらいいと思う。」
なんで今それを思い出しているのか、自分にも分からない。
真の本物まで手を伸ばさなかった、後悔と自責の念からだろうか。
しかし、それを何故。
視線を戻し、時計を見つめる。彼には、踏み込んでくれる人は存在するのだろうか。沢山の人間に囲まれて、幸せな人生を送っているのだろうか。
そんなくだらないことが、頭をよぎる。
人に囲まれている人が、人を好いていると決まっているわけではないのに。
戸部からのアプローチは、放課後だった。
―――
「ヒキタニ君っ!」
授業が終わり、颯爽と帰宅しようとしているところで、後ろから声を掛けられて、止まる。
振り返ると、息せき切って走ってきたのだろう戸部が、深い呼吸を繰り返していた。が、それもすぐに止み、通常の呼吸に戻る。
伊達にサッカーやってないなコイツ。なんだっけ、確か最後の大会いいところまで行ったんだったか。あんまり覚えてないけど。
「いや、っべー、引退してから殆ど走ってないから体力落ちてるわー」
やっぱフットサルサークルとか入った方がよかったべかーとぶつぶつ言い、額に手を当てて、大げさにリアクションをする。うぜぇ...。
「なんだ、用がないなら帰るぞ」
背を向けようとしたところで、戸部がまたも大きく身振り手振りをしアピールをしてくる。
「チョチョチョ!用あるからっすっげーあるからっ!」
慌ててんのか一周回って余裕なのか、よくわからない動きで俺の足を止めにかかる。
「ヒキタニ君、この後時間ある?」
戸部が俺に用...?
訝し気な視線を投げかけながら、予定を思い出す。うんまあ、バイトのない曜日なら暇なので予定とかはないんですけどねっ!
改めて、今日はハナキン。金曜日だ。
バイトあるって嘘つくか...。
「悪いけ...」
言いかけたところで、先ほどの光景が頭に浮かぶ。あの気色の悪い光景を、そして、その一人となっているを俺を。
「いや、別に用事はないが...」
「マジ?ラッキー!」
用事に付き合うとかは言ってないんだけど...。
「いや、ちょっと相談があってさ...」
突然神妙な顔つきになったことで、こちらも少し気が引き締まる。
場所を変えたいとの希望を受け、少し歩いた先の喫茶店に向かうことになった。
―――
閑散とした店内には、有名アーティストのオルゴールバージョンが流れていて、よくある喫茶店という感じがした。
戸部は、店員に奥まった位置の席を希望した。
そこまで徹底されると、他人に知られてはいけない話なのかと疑うが、たかが学生にそんな話があるとも思えずいまいち気が張らない。
注文を終え、店員が去った所で口を開く。
「で、相談ってなんだ?」
緊張なのか、向かいの男はしきりに水の入ったグラスを口に運んでいた。
それを置くと、右手を襟足に伸ばし髪を掻きながら話し始める。
「いや、その、ヒキタニ君ってさー、隼人君のことなんか知ってたりしない?」
突然の改まった、戸部らしくない口調に面を食らいながら、やっぱり、と思う。
陽乃さんの様子、質問から、高校3年の時に何かがあったのは明白だ。
そして何より、戸部がこの大学にいる以上、体育で葉山と同じサッカーを履修しないのはおかしい。
もちろん、その高校3年の出来事により、葉山との縁を切る。もしくはサッカーへの興味をなくしたということもあり得るが、先ほどのサークル云々の言葉、そして今しがた彼の口をついて出た、葉山への執着ともとれる発言でその可能性は否定していいだろう。
「なんかってなんだ?高校3年のことならクラス変わってるから知らんぞ」
俺のカマを掛けるような発言にも、彼は敏感に反応を示す。
高校という言葉に、一瞬身体を強張らせたものの、本題ではなかったのか別の時期の葉山の事を訪ねて来る。
そう、今の葉山隼人の事を。
「いや、なんつーか、さっきさ、隼人君とばったり会ってさ、大学の中でよ?俺もうびっくりして話しかけたんだ。最初は隼人君も驚いた顔して話してくれたんだけど、やっぱり様子おかしくて、授業遅れるからって行っちゃって...」
戸部もまだ整理できていないのだろう。どうにもまとまらないが、整理すると、戸部が遅れてきた理由は、葉山との邂逅を果たしてたから、そして彼はぬぐい切れない違和感を、この場まで引きずってきたというわけだ。
どうにも彼らの関係がつかめない、しかしまあ、戸部の疑問にはすぐに答えられる。
「葉山の様子がどうとかは知らんが、一緒に体育はやってるぞ」
「うえっ?まじ?ヒキタニ君隼人君が同じ大学って知ってたん!?てゆーか友達だったべ?」
目を見開き早口にまくしたてる、やはり戸部は知らなかったのだ、そして葉山も。
「別に友達とかじゃないんだけど...」
一応補足しておく、大事なところだからな!ハチマンウソツカナイッ!
「いや、そっかぁ...、ヒキタニ君でもしらないかー」
なんで俺なら知っていると思ったのか甚だ疑問だが、これで戸部の相談は終わりを迎えるらしい。
ただ、俺の中にあるしこりはまだとれないままだ。
既に来ていたコーヒーに口をつけ、窓の外を見る。梅雨の雨は止むことを知らず、太陽との顔合わせはまだまだ先になりそうだ。
空が曇っているのに、頭の片隅まで曇っていては気分が悪い。
雨を見ると、彼女の囁きを嫌でも思い出す。
-私はまだ、君に期待していいのかな?-
言葉と共に、彼女の手が置かれていた右肩に何かがのしかかってきている気がした。
期待というのは、傲慢な感情だと思う。
期待に添えて当たり前、期待に添うことができなければ失望。
コンスタントに結果を残し続けていると、その期待というのは知らず知らずに重くのしかかり、しかもそれに気付くのは失望の渦に巻き込まれた時なのだ。
教師が性犯罪を起こす。病院で死亡事故か起こる。イクメンと呼ばれていた政治家に不倫疑惑が出る。これらの事が大きく取り出たされるのは、期待、とのギャップによるものだ。
逆にどうだろう、期待されていない者が結果を残した時、周囲の人間の反応は。そして結果を残さなかったとき。期待されている人とは、真逆ではないだろうか。
何が言いたいのかというと、つまりは結果を残せということなのだ。クレバーな人間は一生クレバーで居続けなければならない。
陽乃さんが何を求め、何を期待しているのかは分からない。
それでも、何かを求め、何かを期待していることは明白だ。
ていうか、そろそろ原因を知らないとムカついてくる。
「なあ戸部、高校3年の時、何があったか教えてくれないか?」
期待に添おうとか、そんな大層なことは考えていない。とにかく自分の靄を晴らしたい。そう思い、訪ねだけだった。
聴くだけのつもりだった。
***
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
揺れる車内で、本を開きながら戸部の話を思い出す。
読もうと取り出したが、思考が始まると止まらなくなり、本をしまうのも億劫となった。
きっかけは、大岡に彼女ができたことから始まる。
葉山グループには属さない、それも別のクラスの子だったということで、教室内では特段変わったことはなかったらしい。しかし、放課後の遊びに、大岡は参加しなくなった。
まあ、高校生の恋愛なんぞそんなものだろう。それだけがすべてで、それ以外は見えなくて。その恋人と一生一緒などと勘違いし、間違える。高校生からの付き合いで結婚しました。なんていうカップルはテレビで紹介されるほど稀なのである。
しかしそれは、逆説的に高校からの付き合いそのまま結婚、というのも確かに存在することに他ならない。
話が逸れてしまったが、大岡は幸せなリア充ライフに勤しんだという。
付き合いが悪くなったというだけで、葉山グループが彼を無下にする訳もなく、いつも通りの関係性を葉山の仲介により、続けていた。
リア充を恨むのはリア充以外なだけで、全員がリア充と言えるそのグループでは大きな問題にはならなかったのだろう。
だが、変化というのは悪いことだけではない。人生に一度きりしかない高校生活。その時間を薔薇色に染めたいとの希望は誰しもが抱いている。
彼ら彼女らは、大岡の生活に羨望を覚えた。部活帰りまで健気に待つ少女、時には部活をサボり街に繰り出していく様子をまざまざと見せつけられた。そして学校では、校内一のイケメンが率いるグループでの楽しい会話が行われる。
そんな彼を追い出す、ではなく、そんな彼のような生活を送りたいという願望。高校3年という残り少ない時間に、彼らの思考は乗っ取られてしまった。
以前から思いを寄せている、三浦、そして戸部は一念発起の思いで行動に移し始める。もちろん、葉山は止めた。海老名さんもそうだ。
まだ早い。もう少し待ってみよう。気持ちがわかってからでも遅くはないのではないか。
そんな常套句が長く通じるわけもなく、時を迎える。
これは俺の推測だが、海老名さんが奉仕部に依頼をしなかったのは前科があるからだろう。
元々由比ヶ浜が同じクラスではなくなった時点で、綻びはできていたのだろう。必死に縫い合わせ、時に新しい布を充てる。そんな均衡を保つような存在を失った集団に残された道は瓦解のみだった。
憧れ、手を伸ばした彼ら彼女らは、何も手にすることはなかった。
葉山が気持ちに応えられるわけもなく、その葉山のサポートがなくなり、奉仕部という退路(来たとしても雪ノ下と由比ヶ浜が受けたかは分からないが)を自分で塞いだ海老名さんも拒絶をした。
”君たちにとっては、今この時間が全てのように感じるだろう。”それは彼らも例外ではなかった。希望を失った人間程脆いものはない。
夏休み前に、由比ヶ浜が慌ただしく走り回っていたのはそのせいだったのだろうか。いつか話してくれる。そうたかを括って待ち続けた俺たち二人は、ついに何も知ることはなかった。
そういう関係を、築き上げてしまった。
三浦と海老名さんがグループにいられるわけもなく。告白の手伝いどころか、阻害にも思えてしまった戸部も悪化。
極めつけは大岡の彼女だ。葉山との繋がりが切れかけた大岡に、彼女は価値を見出せなくなった。要するに葉山に近づくための手段にしか考えていなかったのだ。
もちろん、大岡本人に伝えて別れたわけではなかったが、女子の秘密ほど脆いものはない。人づてに伝達し、大岡の耳にまで届いてしまう。それを聞いた大岡の感情は落胆、ではなく、怒りだった。
元々鬱憤が溜まっていたのか。チェーンメールの件もあるし、仲が本当に良かった訳ではなかったのだろう。
三浦がその元彼女をシバいたという噂も出たらしい。さすがあーしさん...。
様々な要因が重なり、葉山が死に物狂いで守ろうとしたものは、儚く、散った。
後から事の重大さに気付いた戸部は、葉山との必死なコンタクトを図ったが夏の大会を最後に、葉山との関係は冷めきってしまったという。
それでも定期的に連絡は取っていたそうだ。
ただ、卒業してから会うという戸部の思いは、葉山には受け入れがたいものだったのだろう。
ここまでが、高校三年からの出来事。
そしてここからが、俺が一歩踏み出してしまったが故に発生してしまった、本題だ。
戸部は、謝りたいと。
自分にとっての葉山の存在は大きく、彼が頼ってくれなくても、一緒にいた時間は楽しかった。
葉山がどう思っているのかは分からない。しかし最後の大会、葉山の尽力により、総武校サッカー部は過去最高の成績を収め、その経歴のおかげで独力では入ることのできなかったこの大学に推薦という形で入ることができたという感謝も伝えたい。
そう、言っている。
もちろん戸部が行動に移してない訳もなく、それとなく連絡の内容には入れていたという。
だが、葉山の反応はイマイチで、本当に伝わっているかは分からない。
何より、それを完全に伝え、拒絶をされてしまえば彼らの関係は決定的になってしまう。
その危惧が、戸部の行動を制限してしまっていた。
戸部の願いは、わだかまりのない関係の再建。
それも、可能な限り高校時代の人間を含んだ関係。
その為の葉山へのアプローチと情報収集。
それが、戸部の依頼だ。
陽乃さんの言葉が頭をチラつき、ついできる限りの事はやるなどという返事をしてしまった。
失望されるのが怖いのか、それとも、未だあの場所を葬ることができていないのか。
そんな曖昧な自分が、嫌なはずなのに。
***
1枚の紙を、折り、折り、折ると、ブックカバーができる。
こんな簡単な作業なのに、知ろうとしなければ知ることはないのだから不思議だ。
折ったカバーを備品棚に入れ、もう一度折々する。
かれこれ30分近く同じ作業をしているが、全く苦じゃない。というか接客が嫌すぎる。接客なければ本屋最高なのに。接客のない本屋って何、密林?
最近は密林でさえ宛名入れますかとか聞いてくるぞ。偶に一人で、八幡神宮様へとかやってるのは秘密だ。え、俺だけじゃない?ダヨネッ!
一度顔を上げ、時計を見ると11時を少し過ぎた頃だった。そのついでに店内を見渡すが、人はまばら、という表現を使うのも申し訳ないくらい人がいない。
客が少なそうという理由で選んだ俺が言うのも何だが、大丈夫かこの店...。
レジの淵にある作業台で、今のところ毎回シフトに入るたびに立ち読みをしている常連客を見ていると、不意に視界が暗闇になる。
「うぉっ...」
急なことに驚き、身を捩るが思ったより力が強い、いや違う。後ろの柔らかい感触に力が入らないだけだこれ。
「だ~れだっ♪」
社員は2階の事務所で作業、売り場にはバイトが2人ときたらもうこの人しかいない。
「いや何してるんですか城廻先輩...」
名前を当てたところで目の拘束が解かれ、明るさの変化に戸惑う虹彩が瞳孔を絞っていく。
背中の体温が消え、身体が離れたのが分かった。べ、べつに残念がってなんかないんだからね!
それに続いてゆっくりと後ろを振り向くと、そこにいたのはやはり総武高校元生徒会長だった。
「社員さんも上に行ったし~、比企谷君とお話ししようと思って♪」
優しく両手を合わせ、首をかしげるその姿は昔と変わらない、高校時代と同じあどけなさだった。
「今みたいなことしてたら怒られますよ...、そこに防犯カメラありますし...」
レジの外にあるカメラは、客の顔ではなく、レジスタッフが映るような位置に設置してある。あれ意味あんのかよ...。
事務所に一括管理するモニターがあったことを思い出し、心配するが、当の本人はあっけらかんとして答える。
「この作業台カメラの死角なんだよ~」
あ、そうなんですか...。めぐりんおそるべし。
驚いた、本当に驚いた。
「比企谷君、学校はどう?友達はできた?」
作業台の横に立ち、俺の目の前の紙束に手を伸ばしながら聞いてくる。
「城廻先輩でも悪口とかいうんですね」
「えっ、ごめんなさい...。そんなつもりじゃなくて...」
からかわれた仕返しに、軽口を叩いたつもりだったが彼女には伝わらなったらしく、涙目になってしまった。
「あ、いやすみません冗談です...、いや友達いないのは本当なんですけど、全然悪口じゃないんですみません」
慌てて謝罪をすると、城廻先輩はいたずらっ子のような笑みを浮かべ、上目遣いで覗いてくる。
「えへへ、分かってるよ~。比企谷君が素直じゃないからからかっちゃった♪」
やはりこの人は1枚上手だ。そのほんわかした雰囲気からは想像できないほどの芯を持っている。
人を好いて、人から好かれ、周囲を作っていく手腕は、いまだ健在なのだろう。
ただ、こんな表情を見たのは面接の時以来だ。
今日初めて二人きりで話す機会ができたが、これまでは他の人がいたり、城廻先輩が先に帰宅してしまったりと一緒に働く時間はあまり多くなかった。
しかしその限られた時間でも、彼女の様子がおかしいことは分かった。微かな違いかもしれない、それでも分かった。
目の前で俺について質問し、時に自分の事を話す彼女は、確かに城廻めぐりだった。
では、この店内で、店長と俺以外に見せる表情、対応は、どういうことなのだろう。
初めて一緒の時間に働いたとき、俺の一つ上、城廻先輩の同級生に当たる男性バイトと話をしている表情に昔の面影はなかった。雰囲気は、陽乃さんに重なる。
近いのに、絶対的に遠い。
物理的な距離も、心なしか離れている気がする。
それが意識的なものなのかは分からなかったが、今目の前の彼女を見る限り、自ら選択した結果なのだろう。
「あっ、比企谷君!もう閉店準備しなきゃ!」
そう言い、パタパタと駆けていく彼女の後姿に、コートに走っていく葉山の姿が重なる。
選択をしたというのなら、それを尊重するのは大事だろう。
選択をして、うまくいったにせよ失敗したにせよ、それが結果だ。
ただ、人生にセーブデータがあると仮定して、やり直しができるかの仮定をしたのは誰だろうか。
最初から選択肢を持たない人間に、そんな仮定は無意味である。
彼、彼女に、選択肢は現れたのだろうか。
どうあがいても、そうなったのかもしれない。
どうしても、そうせざるを得なかったのかもしれない。
後悔すら、できなかったのかもしれない。
―――
「「お先に失礼します」」
「はいお疲れさまー」
残って金庫の照合やらの作業を行う社員の言葉を背に、従業員出入り口から外に出る。
まだまだ雨は止みそうにない。ぽつぽつと肩を叩かれるのも煩わしく、傘をさしたいところだが生憎両手に花、ではなく両手にゴミを抱えている為甘んじて受け入れるしかない。
だが断る!
ゴミ捨て場まで走っていこうとしたところで、またも視界を遮られる。が、今度は水色だった。
「袋もってくれてありがとっ、一緒に行こ?」
全てを癒す女神の様な笑顔と女神の様な一言で、心が奪われる。
キュンッ。
おっと、危ない。勘違いし(以下略)
「すみません、ありがとうございます」
城廻先輩の傘に入れてもらい、歩幅を調整しながら一緒に歩く。妹で培ったスキルが色んなところで火を噴くぜ!
ん?傘?
うおおおおいい!これは伝説のレジェンダリィウェポンと噂の相合傘とかいうアレでは?
意識をし始めると、肩に触れる体温が急に熱を帯び始め、心臓の鼓動で身体が跳ねているような錯覚に陥る。
やばいやばい早く離れないと身が持たない...。
店専用のコンテナに捨て入れ、自分の傘を差す。だ、だから残念がっ(以下略)
「じゃあ、お疲れ様です」
これ以上の接近戦は自分のヒットポイントを削るだけなので、素早く離れようとすると、鞄をごそごそとしていた先輩が顔を上げ、聞いてくる。
「比企谷君、今日は歩き?」
「はい、そうですけど...」
普段は自転車で通勤しているが、今日は朝から雨だったため、徒歩で来た。そんなに離れているわけではないが、思ったより時間がかかり、途中から小走りで出勤した覚えがある。
そういえば、城廻先輩とは初めて上がり時間が被った。どうやって通勤しているんだろうか。
俺の言葉を聞いた彼女は、鞄からデスティニーランドのクマを取り出し「じゃあ、送っていくよー」と言った。
よく見ると、クマの頭から延びる紐の先に黒い長方形の物体が付いている。
「え」
俺の返事を聞かずに、踵を返すと駐車場へと進んでいってしまった。
慌てて追いつくと、そこには軽自動車が一台ぽつんと置いてある。街頭に当たるその車は、黒色にも見えるし、もしかしたら紫色な気もしてきた。
駐車場を一台空け、手前の車に隠れる形で奥にもう一つ、ミニバンが止まっている。広い駐車場の片隅に止まる車はこの2台だけなので、恐らく従業員のエリアとして使われているのだろう。線引きや目印もない為、今まで気付かなかった。
「いや、そんな大丈夫ですよ、家すぐそこなんで」
「自転車で10分って、歩くと結構あると思うんだけど~」
「なんで知ってるんですか...」
もしかして俺の個人情報流出してる?やる気のない態度とかしたら家にピザ届いちゃうの?
「えへへ、実は比企谷君の書類見えちゃって」
まあまあ、乗って乗ってと促される。これ以上雨空の下に女性を立たせるのも申し訳なく助手席に乗り込んだ。
「お邪魔します...」
人のテリトリーを侵している気がして、ぼそりと呟いてしまう。
うおっ、なにこれいい香り!なんなの女の人って車の中までいい匂いするの?香水肌に塗り込んでるの?
ボンネットをくるりとまわって、城廻先輩が運転席に乗り込む。
鈍い破裂音のような開閉音が響くと、車内は静寂に包まれる。こちらに向き直る彼女は、髪から水が少し滴り、どこか艶っぽく見えた。
見てはいけないものの様な気がしてしまい、思わず顔を背ける。
その動作を違う意味で受け取ったのか、少し身を捩り、髪を撫でつけながら少し俯く。
「あ、ごめんね。汗かいてるからちょっと臭うかも...」
「え、いやいや、すごいいい匂いですよ。むしろ先輩がいい匂い過ぎて、車の中にもフローラルな香りが充満してるくらいで...」
勘違いを急いで訂正しようとして思わず捲し立てるが、言葉の途中で、先輩の顔が赤くなっていくのがわかり、言葉に詰まった。そしてそれは俺の顔面も同じだろう。
「あ、ありがとう...、車は消臭剤だと思うけど...」
そう言い、吹き出し口を指さす。
なんだか見覚えあると思ったら、松岡〇造がCMをしているアレが付いていた。
「これの匂いか...、あ、いやでも先輩もすごいいい匂いですよだーれだってしてきたときも後ろから赤ちゃんみたいな匂いがして...「も、もう、大丈夫だから!あ、ありがとう...」
だめだ、死にたい。なんというか、こう、死にたい。
誰か殺してくれ...。
ミスを挽回しようとして、急にハンドルを切るものだから、逆の車線すべてを止めるような、二次災害が勃発してしまっていた。
葬式の様な静寂が車内に響き、エアコンの音だけが嫌に大きく聞こえる。
「や、やっぱり俺「ひ、比企谷君の家あっちであってる?」
エンジンをかけると、歯車が空転するような小気味いい音に続き、重厚なエンジン音が轟く。
「え、あ、はい。あってます...」
俺の声を確認すると、シートベルトの注意と共に車を発進させる。
急いでシートベルトをしたところで、すぐに信号に捕まった。
顔を右側に向けると、前の車のブレーキランプに照らされた彼女がこちらを見て、笑っている。
「あはは、やっぱり比企谷君といると楽しいなぁ」
「俺も、城廻先輩と話してると楽しいですよ」
先ほどの痴態の後も、互いの顔が朱色に染められている今は、素直な言葉がすんなりと出て来る。
一夜の過ちと評してもいい(俺史)今晩だったが、俺と彼女の「楽しい」という感情には嘘も偽りも、そして間違いもない。
そう、確信できた。
どうでしょうか、次も6月ですね。
更新頻度はまちまちになりそうですが、2ヶ月3ヶ月開くという事はないと思います。
また読んでいただけると嬉しいです。