「――通った……!?」
さやかの後方、風にざわめく木々の裏。
スナイパーライフルの照準器を覗き込んでいたほむらは、鮮血を噴くホンフーの姿に喜色交じりの声を上げた。
(っ、逸るな……!)
しかし、今はまだ油断するべき時では無い。
すぐに冷静さを取り戻し、一度さやかのソウルジェムを浄化すると、先程と同じようにその背中へ銃口を合わせた。
(……彼女の無茶に、助けられたわね)
千切れた腕を利用し相手を引き寄せる、などと。さやかでなければ決して出来ない芸当だ。
そうして二者が直線上に重なった時を見計らい、引き金を引く。彼女の背負うマントにまた赤が散った。
「っ……」
……罪悪感が無いとは言わない。気分も悪い。
だが一方で、この千載一遇のチャンスを逃す気も無かった。二発、三発と連射し、さやかごとホンフーの身体を撃ち抜き続ける。
標的がさやかの影に隠れる以上、細かく狙いは付けられないが、当たるのならばどこでも良い。
絶対に殺し切る。今、この瞬間に決着をつけるのだ。
(美樹さやか! バッドエンドの様子は!?)
テレパシーで問いかける。
背中を撃った事を罵倒されるだろうが、全て承知の上だ。そう覚悟して、襲い来るキンキン声に備えた。だが。
(ちょっと、聞こえているの!? 返事を――チッ!)
反応は無かった。それどころか、テレパシー自体が繋がらない。
咄嗟にさやかのソウルジェムに目を移すも、青い輝きは変わらず掌を照り返し、致命的な事態にはなっていないようだ。
では、銃撃で気絶させてしまったか――罪悪感が肥大するも、努めて無視。
ただ舌打ちだけを残し、再びライフルの照準器に目を戻し、
「――え?」
視界に映ったのは、赤斑の広がる白。
それが間近にまで迫っていたさやかのマントだと理解する前に、ほむらはその場から全力で飛び退いていた。
「なっ、美樹さ――!?」
直後、それまで潜んでいた樹木にさやかが激突。骨の砕ける音と共に、力なく地面に倒れ伏す。
千切られていた両腕は繋がっていたものの、代わりに顔面が完全に潰されていた。
魔法少女故に死んでこそいないようだが、頭蓋も割られた見るも無残な有様だ。
ほむらは小さく息を呑み、掌中のものを投げ渡しつつ、即座にホンフーが居た場所へ目を戻すが――既にその姿は無く。
(居ない……!? そんな、この一瞬で)
否、弾けた雨水晶が軌跡を描き、移動の痕跡として宙に刻まれていた。
ほむらは身を隠すべく走りつつ、その行先を確認し、
「――――」
――旋毛の真上に、酷く嫌な感覚を覚えた。
反射的に前方へ身を投げ出せば、後方で水が弾けた。ほむらの真上から何者かが落下したのだ。
……一体誰が。そんなもの、考えるまでも無い。
「っ……」
見る。
そこにあったのは、手刀を振り下ろした姿勢の人影が一つ。
纏う中国服の所々を赤く染め、一目で大怪我を負っていると分かる風貌。
呼吸は乱れ、立ち振る舞いは幾らか精彩を欠いていた。しかし、満身創痍からは程遠い。
「――やぁ」
――ウ・ホンフー。
鋭く酷薄なその双眸が、確かにほむらを捉えていた。
*
「~~ッ!!」
魂の奥底から恐怖が沸き上がり、全身が総毛立つ。
最早、ライフルが活きる距離では無かった。
ほむらは躊躇なく銃を投げ捨てると、全力で後退。同時に盾より拳銃を取り出し、連続で発砲する。
それは精密とまでは言わずとも、確実に急所を狙ったものであったが――しかしホンフーはその全てを手刀で弾き、容易く対処。すぐにほむらを追って地を蹴った。
(本当に、何てデタラメ!)
その身に幾つも銃弾を浴びながら、まだこんな動きが出来るというのか。
ほむらは忌々し気に顔を歪め、残弾を撃ち切った拳銃を放棄。続けてレーザー銃を抜き撃った。
(ダメ、逃げ切れないっ……!?)
流石のホンフーもレーザーは弾けないようだったが、巧みに射線を見切り追い縋るのだ。
胸裏が焦燥に蝕まれる中、ホンフーは瞬く間に目前へと迫り――ほむらの左腕にある盾へと手を伸ばす。
「……ッ!?」
反射的に盾を守ろうと腕を引き、それが悪手と気付いた時には既に遅く。
急激に進路を反転させた手刀が、がら空きとなったほむらの脇腹を強烈に打ち据えていた。
「か、はっ……!」
視界が明滅し、呼吸が詰まる。
振り抜かれた腕に合わせ身体が吹き飛び、冠水した地面を激しく転がり飛沫を上げた。
瞬時に跳ね起きようとするも、その前に胸部へ足裏が乗り、地へと強烈に縫い付ける。
後頭部が水を突き抜け、その下にあるコンクリートと激突。皮膚を切ったのか、流れる水に赤が差し込んだ。
「――やっと、顔を見せてくれましたね」
静かな、万感の籠った声が落ちる。
激痛に喘ぐほむらが目を開ければ、視界に飛び込んだのは忌々しき怨敵の顔。
少々血色の悪い、ホンフーの微笑みだ。
「バッド、エンド……!」
「数日ぶりですねぇ。デートのお誘い、とっても嬉しかったですよ。ほら、うっかりハートを貫かれてしまうかと」
彼は疲れたようにそう零すと、胸の銃痕を抑える。
手の隙間からは絶え間なく血液が零れ落ち、空中で時を止めていた。
「……最近の少女とは、斯くも空恐ろしいものか。まさか、こんなにもやるだなんて思ってもいませんでした」
決して油断していた訳では無い。しかし、まさかこのような深手を負う事になろうとは。
ほむらだけならばともかく、さやかがここまでの奮闘を見せるなど、ホンフーとしても予想外であったのだ。
「……恐ろしいのはあなたよ。その傷で、どうしてそこまで動けるの……!」
「なに、これでも生身の枠ではそこそこデキる方なので――おっと」
「っ!」
会話の隙を見計らい、ホンフーの頭にレーザー銃を向けたほむらの右腕が蹴り飛ばされた。
鈍い音と共に手中から銃が放り出され、ホンフーはそれをキャッチ。くるくると指で弄び――ほむらの右腕を一切の躊躇いなく撃ち抜いた。
「――あぐッ! ふ、ぅ……!!」
「……いつか、手足をもがれると恐れられた事があるけれど、それも良いかしらね。魔法少女なら、そう簡単には死なないでしょう?」
ちらりと、ホンフーの視線が遠くで倒れるさやかを捉え、すぐに戻る。
「っく……私を、捕えてっ……どうするつもり、なのかしら」
「分かっているくせに。あなたは、私を深く理解しているヒトなのだから」
「――……」
黙り込み、より一層殺意を募らせるほむらの視線にホンフーは苦笑を一つ。
そうして、ほむらに銃口を見せつけながら、その照準をゆっくりと右腿へと移し――。
「――なんちゃって」
「っ!?」
唐突に、ほむらの左腕に衝撃が走った。またもホンフーの脚に蹴り上げられたのだ。
レーザー銃を注視していた為に反応が出来ず、まるで己から差し出すように腕が上がり――いとも容易く、装着していた盾が抜かれた。
「や、やめなさい! それは――ぅぐっ……!」
「クモで盗み見た時から気にはなっていたんですよ。ですが、先程の一瞬で確信しました」
胸の踏み付けを強める事で伸ばされた腕を抑え、ホンフーはしげしげと盾を眺め、探り始める。
ほむらはこれ以上無いほどに焦り、咄嗟に盾を無形の魔力へと戻そうとするが、しかし。
(……消えない……!?)
盾が、己の操作を受け付けない。
思考が僅かに停止し――その間に、ホンフーは盾の機構を作動させていた。
――そう、魔法の主でなければ動かせない筈の、それを。
「なっ……!?」
カシャン。小さな金属音が響いた。
内蔵された砂時計の堰が外れ、落ちる砂に呼応して時が流れを取り戻す。
猛風が吹き荒び、豪雨と変わった雨水晶がほむらの眼球を叩くものの、それを気に留めている余裕は無い。驚愕と混乱が、彼女の中で渦を巻く。
「……そん、な。どうして……どうして、あなたがッ……!?」
「盾……ではない、砂時計……? やはり、これが時を止める為の魔法具か」
カシャン、カシャン。
二度三度、ほむらには答えないまま砂の流れを堰き止め、また流し。時間の停止と再動を繰り返す。
これも『相乗り』による効果なのだろう。
おそらく、時間停止魔法の種火と共に、魔法具の所有権もコピーしていたのだ。未だ自ら魔法を扱う事は出来ないが、御膳立てされていればその限りでは無いらしい。
……となれば。
(……今、ならば。私も時を遡る事が――?)
どうやら、この盾は内蔵された砂時計の流れを操作する事により、時間操作を可能としているようだった。
ならば砂時計を逆転させる操作を行えば、時間遡行の魔法が発動するのではないか。瞬時にそう推測したホンフーの胸が期待に膨らみ、理性が軋む。
(やっと……行けるのか、彼女の下へ)
脳裏に愛しい彼女の笑顔が浮かび、血に染まった。
盾の扱い方は、纏う種火が教えてくれる。
ホンフーは興奮に震える指をいなしながら、ゆっくりと盾の縁へと掌を添え――。
(…………いや、まだだ。それは、浅慮だ)
砂時計を回転させる間際、唇を噛み踏み止まった。
これはゴールでは無く、ただのチャンス。未だ可能性に過ぎない。
一時の感情に逸り何かを求めれば、反対に何もかもを失うのだ。事実、己はそうしてここに居る。
ホンフーは最後に時の流れを正常に戻すと、それきり操作を止めた。
(そう……焦る必要は無い。確実な一手への道筋は、既に目の前に転がっている)
そして降り頻る雨に任せ昂ぶりを鎮め……徐に、ほむらの四肢の関節を撃ち抜いた。
「っ、あぁッ……!」
「はい、達磨と。さ、仲良くしましょうね、これから」
水面に流れ浮く長髪を掴み、目線の高さまで吊り上げる。
ほむらは痛みに喘ぎながらも抵抗を試みるが、継目に穴の開いた四肢がまともに動く筈も無く。目前で笑みを浮かべる怨敵の顔を、ただ睨みつける事しか出来なかった。
現状、魔法の種火を纏い続ける必要性は無い。
身動ぎを続ける彼女に対し、ホンフーはデス・マスを用い洗脳を施すべく口を開き、
「――ぐうっ!?」
「きゃあ!?」
――瞬間、大地が爆ぜた。
周囲数十メートル全域の地面が大きく弾け、冠水から激しい水柱が上がる。
否、それは局所的な津波と変わり、二人を呑み込んだ。
ホンフーはほむらと盾を手放さぬよう強く抱え直すが、これまでの戦闘による消耗は大きかったようだ。
一層激しく暴れるほむらを抑えきれず、身柄を激流に奪われ――その間隙にこちらへ迫る殺気を感じ取る。
「っ――」
見れば、水の流れに一振りの刀剣が乗り、ホンフーに切っ先を向けていた。
今更、それが何かなどと考えるべくも無い。この爆発の下手人を察し、顔が歪む。
(頭を潰したのに、もう再生したのか……!)
本当に、しつこい。
ホンフーは苛立ち混じりにそれを睨むと、纏う異能をカルマミラーへと変更。防御の素振りも無く胸で受け止め、傷をそのまま刀剣の主へと跳ね返す。
「うぐっ――んのぉおおおおおお!!」
波の隙間から現れたのは、今まさに胸に傷を作った美樹さやかだ。
不意打ちが失敗したと悟ったのだろう。
最早隠れようともせずに雄叫びを上げ、ホンフーへと突進。吹き飛ばす勢いで組み付き、両腕を抑えにかかった。
「……刃の仕込みは万全だったと。これだけの爆発、水の下に何本隠していたのやら……!」
「負けるかああああああああ!!」
ホンフーの言葉を気にも留めず、さやかは必死の形相で片手の盾を奪い取ろうと手を伸ばす。
状況の仔細は、先程からひっきりなしに送られていたほむらからのテレパシーで概ね把握していた。
もう一度時を止め、超能力を縛らなければ勝機は無い。そう思っての行動だったが、ホンフーもその思考は予測済み。
軽く身を引く事で手を避けると、今度こそ首を切断するべく手刀を振う。
「――ぐぁッ!?」
――しかし次の瞬間、左腕に刀剣が飛来し、深々と突き立った。
予想外の衝撃に手が緩み、持っていた盾を取り落とす。
(馬鹿な!? カルマミラーは、まだ――!)
驚く最中、雨に混じり赤が舞う。
目で追えば、それはさやかへと続いており――その左腕は、中ほどからすっぱりと切り落とされていた。
近くには幾本かの刀剣が突き刺さっており、己の意思で腕を落とした事が窺える。
「へ、へへ……杏子の思った通りだ」
痛みを感じていないかのような、得意げな声が静かに響く。
「その反射。自爆が効くのはそういう事でしょ。跳ね返す場所が無きゃ、素直に傷を喰らうんだ」
だったら――。
さやかは声に出さず呟くと、己の背後に無数の刀剣を生み出した。
そしてその切っ先は、ホンフーに抱き着くさやか自身の背を向いており。
「――あんたに攻撃するより先に、その場所の肉を削いどけばいい! そうすりゃ、あたしだってッ――!!」
刀剣が勢いよく射出され、さやかの身体を貫いた。
肉が裂け、臓腑を抉り、骨を砕き。そして腹や胸から突き出た刃が、その先にあるホンフーの胴へ次々と差し込まれていく。
(ぎ、ぃ……ッ! これ、もう、傷とか反射とか分かんない……けどッ!)
その気になれば、痛みなど完全に消してしまえた。
込み上げる血の塊を吐き出しながら、さやかは更に刃を生み出し、己の背へと導き続ける。
まるで己とホンフーとを縫い付けるかの如く。
身の内から生える刃を、只管に突き込み続け――剣柄の針鼠となる頃には、幾本もの刃がホンフーの身体へと呑み込まれていた。
「ど、うだぁ……! ごれで、あんた、もッ――!」
肺も大きく傷つき、呼吸も上手く行えない。
しかしさやかは血だらけの顔でにやりと笑い、そう叫ぶ。
対するホンフーは刀剣に貫かれたまま、身動ぎもせず立ち尽くし――。
「……認めましょう」
やがて、ぽつりとそう呟いた。
「っは、ぁ……?」
「少々、見くびっていた。あなたはただ、早熟でないだけ。あの赤い少女とまでは言わずとも、輝くものは確かにあった」
「――!」
その声音が何の苦痛も孕んでいない事に気付き、さやかは己と同様、ズタズタになっているであろうホンフーの腹を見て。
「ひっ……!?」
……そこには傷の類は無く。零れる臓腑や、流れる血液も無かった。
それどころか先程穿たれた筈の銃創すらも見当たらず、代わりに暗く深い『穴』がぽっかりと空いていた。
「――撤回しますよ。あなたは余計では無く、確かに私の敵だった」
強烈な怖気が、肌上を走った。
さやかは本能的に身を引くが、しかし反対に抑えつけられ、徐々に大きさを増す『穴』の中へと引き込まれていく。
どうやら中には空間が広がっているようだが、それが一層怖気を誘う。
「このっ……!? 何よこれっ! は、放せぇっ!」
「ドゥームチェンジ・ワームホール――そろそろ、席を外してくださいな……!」
呑み込まれれば、己は終わりだ――。
ワームホールの詳細を知らぬまま、さやかはそう確信する。
だが幾ら身体強化を重ね掛けしようとも、今の穴だらけの身体では無茶が効かない。
治癒をしようにも刺さる刀剣が異物となって上手くいかず、また刀剣を消せば、その瞬間大量出血により脱力する。
――呑まれるしか、無い。
「あ、あぁ、わああああああぁぁぁぁッ!!」
足を突っ張ろうが、腰を引こうが、時間稼ぎにしかならなかった。
そうこうする内に、やがて身体の半分近くが『穴』を潜って消えた。最早目前まで迫った得体のしれない闇に、さやかの瞳に恐怖から来る涙が浮かび、
(――落ち着きなさい、美樹さやか……!)
頭の中に、嫌いな少女の声が響いた。
(っ、転校生!?)
(あと少し、耐えて。今、時間を――!)
視線だけで見回せば、遠くに転がるほむらの姿があった。
先程の津波により流されたのだろう。苦しそうに咳込みつつ、所有権を取り戻し、左腕に再構成した盾へと必死に手を伸ばしていた。
……しかし、破壊されたその関節部は合わせが外れ、津波の衝撃であらぬ方向へと跳ね曲がっている。
当然上手く動かせる筈も無く、時を止める盾の機構にも上手く届かない。
(――っ、てん、こうせ……)
自身を助けようと足掻くほむらの様子に顔を顰めると同時、引き込む力が強まった。
視線を気取られたのか、ホンフーもほむらの行動に気が付いたらしい。
「あぐ、ぅ……も、もう、だ、め――」
最早、『穴』の外に出ている部分の方が少ない有様だった。
体力、魔力共に限界。最後には後頭部を掴まれ、さやかの全てが『穴』の中へと押し込まれ――。
「!」
――ハッと。霞んだ思考がそれに気付き、瞠目した。
咄嗟に己の腹から突き出ている刀剣を見やり、続いて周囲を見回し――近くに落ちている己の左腕に目を止める。
未だ、水面に血を溶かしている、それを。
(これ……でもっ)
……その瞳には、迷いがあった。
躊躇いと、決して拭えぬ怯えがあった。
しかし、それら全ては赫怒に焼かれ、たった一つの想いが遺る。
「――……」
さやかは、最後に一度ほむらを見た。
そして悔し気に強く唇を噛み、そのまま一気に噛み切って。
「
――敢えて、名を呼んだ。
ほむらが驚き顔を上げれば、視線の先には血と虚勢で固めた笑みがあり。
「――あと、任せたっ――!」
滑り落ちる一筋の涙と共に、そう残し。
さやかの身体は、完全に『穴』の闇中へと落ちて行った――。
*
――なら、託せるよ。ちょっぴりだけね。
つい先刻に聞いた言葉が、ほむらの脳裏に蘇る。
「……っぁ、あ、ああ、あ――」
美樹さやかが、散った。
言葉にできない感情が溢れ、無意識の内に叫びを上げる。
(何故……何故、何故、何故!!)
……ほむらにとって、さやかは見捨てると決めた存在だ。
多少歩み寄ったとはいえ、その前提は変わらない。だからこそ、先程狙撃の中継点として利用したのだ。ホンフーを倒す為、使い潰すと決められたのだ。なのに。
(――何故、こんなにも心が乱れる!)
最後に浮かべたさやかの笑顔が、目に焼き付いて離れない。
ほむらは歯を食いしばり、曲がった右腕を強く地面に叩き付ける。
尋常ではない激痛が脳を貫き、意識が飛びかける。肘から先の感覚が完全に消えたが、それで良い。
ごりごりと酷い音を立てる腕を強引に曲げ折り、殴るように盾へと触れた。
(あの『穴』が何かは知らない、けれど!)
杏子曰く、ホンフーは同時に複数の異能を扱う事は出来ないそうだ。
つまり、今時を止めれば、奴は成す術も無く停止する。
それも、あの忌々しい反射能力を引き剥がされた状態で。
「チッ……!」
しかし、ホンフーもその程度は把握していた。
さやかの身体を完全に呑み込んだ事を確認した後、すぐに『穴』を閉じる。
そして再び魔法の種火を纏うべく、脳の配線を切り替えて――。
「――なに?」
しかし、出来なかった。
何かに邪魔されているかのように、完全に『穴』が閉じ切らないのだ。
(なんだと……っ)
己の腹に目を落とせば、そこにあったのは一筋の細い糸。
赤錆色をしたそれは、『穴』の中から這い出るように続いている。雨に紛れるその先を追えば、近くに落ちるさやかの左腕から伸びており。
――胸に穿たれた銃創が、ずきりと存在を主張した。
(さっきの、肉体再生の魔法かッ!?)
『穴』へ呑み込まれる寸前に発動したのだろう。
鉄錆の糸――切断された腕とさやかを結ぶ血肉と魔力の筋が、『穴』を通した異物として意図的に『穴』の閉塞を妨げているのだ。
それは正真正銘、命を懸けた置き土産。
一度能力を収めなければ、他の能力には切り替えられない。
ホンフーは即座に手刀で血糸を断つも、魔力という無形のそれを吹き飛ばすには至らない。
『穴』は変わらず閉じられないまま、やがて血糸も元に戻る。
「――お、おおおおっ!」
視界の隅で、今まさに盾を作動させようとしているほむらが見えた。
ホンフーは瞬時に『穴』の閉塞を諦めると、反対に全身へと範囲を広げていく。
全身をワームホールで覆えば、カルマミラーと同様、攻撃を無効化できる。
それが例え、時が止まっている最中であろうとも。
――間に、合え……ッ!
ほむらが、ホンフーが吠えた。
見開かれた眼が血走り、鼓動が激しく鳴り響き、そして、
――カシャン。
雨音に混じり、乾いた音が一つ。冷たく空気を揺らした。