落ちる。
「――……」
落ちる、落ちる、落ちる。
彼女はただ、落ちていく。
その視界に映るものは、どこまでも広がる空と海。
陸地と呼べるものは無く、場所も方角すらも分からない。
どこまでも広がる青の世界を、彼女は――美樹さやかは、延々と落下し続けていた。
(……どうなったんだろ、あたし)
耳元で風の渦巻く音を聞きつつ、ぼんやりと思う。
あの時、己はバッドエンドの腹に生まれた妙な『穴』に呑み込まれた筈だ。
突き刺さる刀剣により穴だらけとなっている身体からは、未だに血が噴き出し続けている。死んで天国に……などという展開では無いと思うが、さて。
(って事は……あの『穴』、ワープ的な感じだったのかな)
自身に別の場所へと繋がる『穴』を開ける能力、とでも言えばいいのだろうか。何とも奇妙な力である。
しかしだとすれば、己は一体何処に飛ばされた?
少なくとも、見滝原でない事は確かだろう。それどころか、日本ですら無いかもしれない。
海と空しか見えない場所など、さやかには見当もつかなかった。
(イヤな海外初体験……)
思わず漏れた溜息が、遥か天空へと落ちて行き――同時、その空に伸びる赤い糸へと目が向いた。
出発地点は、己の断たれた左腕。糸の先を追えば、とある地点から空中に溶け込むように消えている。
――あれこそが、今もなお見滝原へと続く儚い繋がり。己が落ちて来た筈の場所。
(『穴』は見えないけど……でも、繋がってるなら、終わってない)
『穴』に呑み込まれる直前、さやかはとある閃きを得た。
ホンフーは、同時に二種類以上の能力を使えない。
ならば、どうにかして『穴』を使わせたままでいさせれば、ほむらの魔法への対応も攻撃反射も出来ない、ある種無防備な状態に陥るのではないか――そんな直感。
(そうよ、『穴』が閉じるの邪魔出来てたら、きっと……)
そしてさやかは、己の身に刺さる刀剣が治癒魔法を邪魔したように、『穴』へ異物を挟む事でその閉塞を邪魔出来るのではないかと考えた。
咄嗟に切り落とした左腕に目を付け、一度両腕を千切られた時と同じく、治癒魔法を応用し血と魔力の糸を繋いだ。
『穴』の先がどうなっていたとしても、それを通す形にさえなればいい。
血と魔力のどちらかが異物として働き、『穴』を閉じられなくなる……かもしれない。
無論、全てを筋道立てて思考する暇があの場にある筈も無く。正解であるかも分からなかった。
思い付きと反射が導く、悪足掻きに過ぎなかったが――さやかはそれに全てを賭けた。
……彼女にとっては、あのままただ終わる事の方が怖かったのだ。
(ちょっとでもいい。少しでも長く邪魔できたら、あとは――、あっ)
距離的な限界が訪れたのか、或いは少し気張ったのが悪かったのか。
突然魔力の繋がりが途絶え、ふつりと切れ落ちた。
当然、空に続いていた血糸も元の血飛沫へと戻り、青の世界を僅かに穢す。
さやかは暫く呆然とその様子を見つめていたが――やがて先程のものとは比べ物にならない程に大きな溜息を吐き、その身体から力を抜いた。
(あーあ……もう、ホントに何もできないや)
これで、終わり。
戦いに戻る事も、己の足掻きの結果を知る事も出来はしない。
後はただ、海に落ちるだけ。戦う事も戻る事も出来ず、ここで散る――。
(……でも、何だろ。あんまり、わあああーって感じにはならないな)
こんな絶望的な状況でありながら、その心は驚く程に凪いでいた。
少し前の自分であれば、みっともなく泣き喚き、怨嗟の叫びを上げていただろうに。
これが成長か、諦観か。それとも――後を託せる相手が居たからか。
「……ほむら……」
そっと、懐から己のソウルジェムを取り出した。
おそらく、頭部破壊により気絶していた最中にでも、ほむらが投げ寄越していたのだろう。
近くの水面から拾い上げた時には、まだ青い輝きを保っていたが、今やどす黒く濁り切っている。
やはり無茶が過ぎたのだ。このままでは、遠からず己は魔女と化す。
(グリーフシードは……ああ、持ってたの、ほむらに預けたんだった)
全ては、正真正銘の全力を賭すために。
とはいえ、杏子の……武旦の魔女の物まで預けた事には、未だ未練が残っている。
せめてあれだけでも、ソウルジェムと一緒に返しといて欲しかった。心中でぼやいたが、それがあってもどうにもならない状況である事もまた、分かっている。
さやかは小さく苦笑を零し――強く、ソウルジェムを握りしめた。
(……恭介に、ちゃんと好きって言いたかったな)
小さな頃から想い続けて来た、大好きな幼馴染。
本当は、ずっと彼の傍に居たかった。彼の奏でるヴァイオリンを、ずっと聴いていたかった。
――ギシリ。掌中で宝石が軋む。
(まどかと、仁美とも……もっと一緒に居たかった)
まどかは己の嫁にすると決めていたのに……なんて冗談はさておいて。
彼女の優しさに二度と触れる事が出来ないという事実は、さやかの胸を深く抉る。
仁美とも、想い人を巡る決着が付いていない。
ちゃんと帰って、恋のライバルとして大喧嘩をするのも悪くないと思っていたのに。
――ギシリ。宝石の形が歪み、指が沈む。
(お母さん、お父さん、マミさん、学校、先生……思い残し、沢山あるよ……でも)
堪らず目を閉じれば、何気ない日々の記憶が次々と溢れ出す。それが幸せで、苦しい。
そして全てが過ぎ去った後、一つの影が傍にあった。
赤い装束を纏った彼女は、心底呆れたような、それでいて慈愛を含んだ目を向けていて。
――ギシ、ピシリと。表面に白い筋が差し、異音が響いた。
(……ごめんね。せっかく、守ってくれたのに)
空を見る。雲一つない、高く蒼い空。
零れた雫が風に弾け、露と消えた。
恐怖も、躊躇いも無い。握り込む手に、より一層の力を込めて――。
「杏子。あたし、ね――」
――その想いは最後まで紡がれる事無く、青の破片が空を舞う。
何処とも知れぬ海上に水柱が一つ、大きな飛沫を残し、消えた。
■
――カシャン。
小さく、乾いた音が鳴った。
「く……っぁ、はぁ、ぁッ……!」
同時、激しい雨音に混じり、荒い呼吸音が繰り返される。
それは酷く、苦悶に満ちたものだ。肺が壊れているかのように激しく喘ぎ、ざらついた呼気がひゅうひゅうと抜ける。
豪雨の中にあって尚はっきりと響き渡り、その光景を周囲の景色に焼き付けていた。
――暁美ほむら、彼女の生を。
「はぁっ、はッ、ぁ……っぁ、くぅッ……!」
バシャリ、と。ほむらの手からレーザー銃が零れ、冠水へと落ちた。
即座に水が泡立ち、大きな煙が吹き上がる。熱を持った銃身により、水面の一部が沸騰したのだ。
……つまりは、それ程に銃を酷使したという証明。
そしてその標的は、彼女の睨むすぐ先に居た。
「――……」
そこにあったのは、真っ黒な『穴』の塊。
歪な形をしたそれは、ほむらの前にただ立ち続け、やがてぐらりと傾いた。
同時に『穴』の黒が薄らぎ、消えて。
飛び込んだ冠水からの水飛沫が収まれば、その中心には力なく浮かぶ人間の姿が現れる。
それは、片腕を失っていた。
それは、片足を失っていた。
それは、胴の半分を失っていた。
それは、頭の半分を、失っていた。
――それは、右半身の殆どを消し飛ばされたウ・ホンフーの姿であった。
……先の一瞬。
時が止まるか、『穴』がホンフーの全身を覆うか、どちらが先かの競い合い。
制したのは、見ての通りほむらの方。彼女は、ホンフーの左半身が『穴』に覆われた時点で、盾の作動に成功したのだ。
そうして時の止まる最中、ほむらは関節の破壊された腕を必死の思いで振り回し、レーザー銃を連射した。
時間停止により空に留まり、束ねられた無数の光線。
それらは灼熱の壁と化し、魔法を解除した瞬間に、ホンフーの右半身を――『穴』の展開が間に合わなかった部分全てを呑み込み、灰燼に帰していた。
「はぁッ……やった、の……? バッドエンド……を――っあぐッ!」
それを確認しようと前に進もうとして、失敗。自身もまた冠水の中に倒れ伏す。
身を起こそうにも、穴開きの関節部は完全に壊れ切り、激痛を送り続けるだけのものとなっていた。
仕方なくそのまま顔だけを上げれば、視線の先に沈むホンフーは身動ぎ一つせず、がらんどうの片瞳を曇天へ向けている。
(……動いていない。息も気配も、無い)
見た所、失われた部位は全身のおよそ四割に達しているだろうか。
半身のみならず、脳の半分も抉られるようにごっそりと消えている。傷口が炭化し出血こそ無いが、ほむらには明らかな致命傷に見えた。
――奴はもう、起き上がる事は無い。その筈だ。
(……あ、ぁ。やっと、やっと――……)
体の芯から力が抜け、上げていた頭が再び冠水に浸かる。
しかしそのまま身を起こす素振りも無く、ただ流水に身を晒した。
殺せたという実感は無かった。
何せ、ライフルでの銃撃を受けても元気に走り回っていた男だ。例えあのような状態にあるとしても、やはり不安は残らざるを得ない。
念の為、完全な肉塊へと変えておきたい所ではあったが――それに苦心する時間は、もう残されてはいないだろう。
……ほむらは激痛を堪えて身を捩ると、ホンフーと同じく仰向けに曇天を見上げた。
「…………」
酷い天気だ。
雨風は激しさを増し続け、ひっきりなしに雷鳴が轟き続けている。
暴風に吹き飛ばされた建造物や木々の残骸が、空の彼方で渦を巻き――その中心に、一つの巨影が座していた。
逆さに浮かぶ、女の形。
幻影などでは無い。それは確かにそこに在り、くるくると舞い廻り耳障りな哄笑を上げている――。
「――ワルプルギスの、夜」
――その名を口にした瞬間、音が降った。
響き渡るのは、荘厳でありながら陳腐なる輪舞。
暴風雨や雷鳴の音さえ掻き消し、かの大魔女に相応しき悪辣な劇場を構築する。
ほむらが越えねばならない、最後の壁。その顕現であった。
「っ……ぐ、ぁ!」
歯を食いしばり立ち上がろうと試みるが、やはり失敗。
地に立つ足の膝がずれ、自重に耐え切れず骨が外れた。再び倒れ、水飛沫が舞う。
(く……やはり、手足がもう……!)
魔法少女である以上、ほむらもある程度の傷は魔法によって治癒できる。
しかし、あくまでも『ある程度』でしかない。重傷を即座に完治させる事など、治癒に特化した魔法を持つ者でないと不可能であり――それが出来る仲間は、つい先ほどに消え去った。
(……ああ。そう、そうだ。それに、これまで準備した物も、殆どが……)
この日の為に集めた重火器類や、地雷などの罠。
それらの多くは、ホンフーの妙な超能力により動作不良を起こされている。
今使えるのは、盾に入っていたレーザー銃を始めとした小火器のみ。
如何にレーザー銃が強力とは言え、ミサイルの直撃すら耐えるワルプルギスの夜を倒しきれるとは思えなかった。
「…………」
先程とは別種の虚脱感が身を包み、身体が鉛を背負ったかのように重くなる。
手の甲を見れば、そこに収まる己のソウルジェムが急速にその濁りを増していた。
ほむらはグリーフシードを取り出そうとするも、やはり激痛により手が止まる。
ただ、不愉快に嗤うワルプルギスの夜を見つめた。
(……バッドエンドは、斃した。けれど――)
代償が、大きすぎたのだ
佐倉杏子と美樹さやかの二人と、集めた武器を失った。
挙句の果てには四肢を壊され、動く事すらままならない始末だ。
無論、無傷でホンフーに勝てるとは思っていなかった。
今の状況も最悪のケースとして想定し、覚悟だってしていた。だが、
(だからといって、こんな終わり方っ……!)
――杏子の死が。さやかの最期が。頭にこびり付き、離れない。
(何の意味があったというの!? 最後に台無しにされて、足掻く事も許されず! 杏子は、さやかは、一体何の為に……!)
見滝原は、間もなくワルプルギスの夜に蹂躙される。
まどかも、仁美も、上条恭介も、学校の皆やマミと杏子の墓だって。ありとあらゆるものが掌から零れ落ち――そして己は何時ものように時を遡り、やり直すのだ。
全てを、無かった事にして。
それは何度も経験し、慣れ切った結末の筈だった。
心を動かす事も無い、見飽きた絶望の筈だった。
――だというのに、何故こんなにも苦しい。
(もっと、早く諦めるべきだった。佐倉杏子を失った時点で、見切りをつけられた筈なのに――)
後悔するが、己にそれが出来ない事はよく知っていた。
時間遡行を行うという事は、その時間のまどかを捨てるという事。
無数の時間遡行を繰り返してきたほむらであったが、一つの躓きだけでそれを選べるような、悼ましい存在に成り果てたくはなかった。
「――……っ」
残った力を振り絞り、盾に触れる。
気付けば、周囲一帯を無数の影で囲まれていた。
いつかどこかで倒れた魔法少女達を模った、影の使い魔。ワルプルギスの夜の下僕たちだ。
空から落ちる輪舞に合わせて踊る彼女達は、絶望を塗り付けるようにゆっくりと包囲の輪を狭め続けていた。
(……いいえ。いいえっ! この結末にも、意味はあった……!)
そのような状況の中にあり、ほむらは強く己に言い聞かせる。
(今回の事があったからこそ、私は埒外の脅威を知る事が出来た。触れてはならない存在が居ると、心底理解できた)
一連の出来事が無ければ、ほむらはジャジメントやホンフーの存在を知る事は無かっただろう。
そして今ここに至らなければ、その力を正確に理解しないまま、次の時間軸で取り返しのつかない行動を起こしていたかもしれない。
(ここまで来たからこそ、美樹さやかの行き着く先を見る事ができた)
最も、今回におけるさやかの戦闘力は、様々な特殊な条件が重なったが故の物だろう。
狙って同じ状態にする事は不可能に近いだろうが――されど、美樹さやかという魔法少女の『運用法』を知れた事は、大きな収穫と言える筈。だから。だからこそ。
――この時間は、犠牲は。決して無意味なんかじゃなかったのだと、信じた。
(……美樹さやか。あなたの想いを無かった事にして、私はまた繰り返す)
残る僅かな砂を魔力で無理矢理落とし切り、砂時計をぐるりと回す。
過去から現在へ、現在から過去へ。
流れた砂の意味合いが逆転し、この世界、この宇宙へと反映されていく。
(それを謝るつもりは無い。そして次の時間でも、あなたを見捨てる事に躊躇はしない。けれど)
真っ白な世界。
過去と未来を繋ぐ時の狭間を、ほむらは落ちる。
徐に、盾の中から黒い宝石を解き放つ。さやかから渡されていた、グリーフシードだ。
かつて彼女が杏子に贈っていたものと、武旦の魔女が落としたもの。
今この場において、ほむらはそれらをリボンの代わりとする事にした。
「――あなたの守りたかった、まどかは。彼女だけは、必ず――」
時の狭間に消え行くそれを見送る胸に、より強く決意の焔が燃え盛る。
それを決して絶やさぬよう、強く強くその魂に焼き付け、刻み。
望む未来へ至る為の過去へと、ほむらは還り、進んでいった――。
――背後。置き去られた、現在の時間。
打ち捨てられた彼の指が、微かに跳ねたと気付かぬままに。