超能力青年 ウ☆ホンフー   作:変わり身

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『おしまい』

彼と初めて会った時。彼女は、彼を不思議な目をする人だと思った。

 

彼は人目をよく惹く人だ。

顔立ちは整っており、体つきも細身ながら屈強なもの。整然とした振る舞いや、清らかな雰囲気も合わせ、誰もが彼を無視できない。

彼女もその例に漏れず、少しだけ見惚れてしまったのだから。

 

しかし一番気になったのは、その瞳。

彼が彼女を見つめる視線は、殊のほか不思議な色合いを持っていた。

 

そこにどんな感情が込められているのか、彼女には分からない。

けれど、それが決して軽いものでは無いという事は、朧気ながらに察していたのだ。

 

――どうして、そんな目をするの?

 

彼女は聞いた。

すると彼は一瞬だけ目を丸くして、それを隠すように目を細め、笑う。

 

――あなたと出逢えて、嬉しいのです。

 

彼の顔は、間違いなく笑顔を浮かべている。

にもかかわらず、彼女には今にも泣き出してしまいそうな、そんな表情のようにも映っていた。

 

やはり、彼の事が分からない。

そして彼女は、それを知りたいとも思った。

 

……そっと、手を差し出した。

彼は困ったように眉を寄せ、それを取る事を躊躇する。

 

だが、彼女は一歩を踏み出し、自らのそれと重ね合わせた。

 

大きく硬い、逞しき男性の手。

細く柔らかい、たおやかな女性の手。

 

彼は暫く呆然と立ち尽くしていたが、やがて弱々しく、しかし決して離さないよう握り込む。

そして――震える声で、彼女にこう告げるのだ。

 

――今度こそ、護るよ。

 

彼女は、全てを呑み込み、微笑みと共に頷く。

彼の瞳の色合いが、透き通った雫となって流れ、零れた。

 

 

 

 

 

 

カラン、カラン。

真鍮製のドアベルが、美しい音色を響かせる。

 

テーブルの片づけをしていた保澄雫は、作業の手を止めそちらへと向き直った。

 

 

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

 

「今日は一人です。テーブルでも?」

 

「ええ、こちらへどうぞ」

 

 

平日午後。

雫の実家である喫茶店はランチタイムを過ぎ、混雑とは程遠い状態だ。

座席の余裕は十分にあり、雫はにこやかに来店した男性客を案内する。

 

 

「……凄いイケメンだったな、今の人」

 

 

そうして注文を聞き、店長である父に伝えた後。

少し離れたテーブル席に座る少女達三人組の内、白衣を纏った一人がそう零した。

その言葉に興味を持ったのか、対面に座る少女も視線を追って男性客へと振り返る。

 

 

「……あー、確かに。ひなのさんが好みそうな感じだね。今度あの人?」

 

「いやチラッと思っただけだぞ。いくらアタシでも流石にそうホイホイ一目惚れせんわ」

 

「そうだよ~、だってエミリーちゃんが養ってくれるんだもんねぇ?」

 

「や、やめろよ……最近目が本気になって来ててちょっと怖いんだから……」

 

 

そうして談笑する少女達にくすりと笑う。

この店の常連である彼女達とは、雫も良い友人関係を築いている。父の方を見れば軽く頷いている姿が見え、コップの水を継ぎ足す建前で少女達の輪に加わった。

 

 

「あの人、前は奥さんと一緒でしたよ。綺麗な人で、凄く仲が良さそうでした」

 

「ありゃー、最初から目が無かったかぁ。ドンマイです」

 

「だから違うって言ってるだろ! ……まぁ相手の人を羨ましくは思うが」

 

「憧れちゃうよねぇ、おしどり夫婦。ウチなら雫ちゃんが一番近いかなぁ? いい感じなんでしょお、カレと☆」

 

 

少女の一人がニヤニヤしながらそうからかうと、雫はほんのりと頬を染める。

先日、雫が年上の男性から熱烈な告白を受けていた事は、彼女の友人ほぼ全てが知っていた。

 

 

「ええと、まだ、ちゃんとそういうのになった訳では……」

 

「まだって事はその内って事だよね? ねねね、どこまで行ったかお姉さん達にこっそり――」

 

「――雫!」

 

 

と、詳しく聞き出される前に、雫の父から呼び出しがかかる。

どうやら注文品が出来たらしい。雫はどこか不機嫌そうな様子の父に呆れたような溜息を吐き、少女達に断りを入れると静かにその場を後にした。

 

 

「……まだ親御さんの許可は頂けてないみたいだね」

 

「えー、相手って良いとこのスーパーで働いてるんでしょ? それで海外飛び回って品物探しとか、スゴい人だと思うんだけどなぁ」

 

「父親としては色々あるんだろ。にしても、いいなぁ彼氏……」

 

 

残された少女達も雑談に戻り、穏やかな時が流れてゆく。

 

雫もまた給仕の仕事に戻り、父から受け取ったコーヒーを運び出す。

その届け先は、当然先程まで話題にしていた男性客の元。若干の気まずさを感じつつも、おくびにも出さずカップを差し出した。

 

 

「ご注文のコーヒーとなります。他にご注文はございますか?」

 

「いえ、ありがとうございます。……彼女達とは、ご友人で?」

 

「……はい。すいません、話のネタにしてしまって」

 

 

見ていたという事は、先程の話も聞こえていたという事だろう。

きまり悪げに雫が謝れば、男性客は軽く笑って手を振った。

 

 

「いえいえ、むしろお褒め頂きありがとうございます。私にとっても妻は自慢ですからね、嬉しくなっちゃいました」

 

「ど、どうも……」

 

「彼女もここを気に入っていたので、本当は今日も一緒に来たかったのですがね。私の方でこれから見滝原まで行かねばならないので、連れて来られず」

 

「……見滝原、ですか?」

 

 

その言葉に、雫は最近巷を騒がせているニュースをふと思い出す。

 

見滝原といえば、数日前に発生した大型台風が接近している地域であった筈だ。

今日にも上陸の兆しを見せているらしく、今朝のテレビはそのニュースばかりをやっていた事を覚えていた。

 

今からそんな場所に行って、大丈夫なのだろうか。

そんな心配が顔に出ていたのか、男性客は小さな苦笑をひとつ。

 

 

「まぁ、その被害を抑えるために少々。頼まれた訳ではありませんが、必要な事ですので」

 

「……大変ですね」

 

 

何の職業に就いているのか気にはなったが、深く踏み込むほどの仲でも無い。

当たり障りの無い言葉でお茶を濁した。

 

そうしてそれきり会話も途切れ、頃合いと見た雫がその場を離れようとした時――男性客が思い付いたかのように手を打った。

 

 

「――ああ、そうだ。このお店ってテイクアウトやってます?」

 

「ええと、出来なくはないですけど……」

 

 

店としては明示していないが、対応自体は可能であった。

それを聞いた男性客は「よかった」と笑い、コーヒーをひとつ追加で注文する。

 

その仕事場に持って行くのだろう。それ程気に入ってくれた事に、雫としても嬉しく思い――。

 

 

「あ、出来ればあなたの淹れたコーヒーでお願いしますね」

 

「は? ……あ、す、すいません」

 

 

思わず素の声が出た。

すぐ我に返り頭を下げるも、疑問は消えず。

 

 

「え、っと私の淹れたもの、ですか? どうして……」

 

「ちょっとした手土産です。きっと、あなたのコーヒーを飲みたがっているだろうと思いまして」

 

「……?」

 

 

要領を得ない言葉に雫の首が傾くものの、男性客はそれ以上詳しい事を説明しようとはしない。

 

とはいえ、注文は注文だ。コーヒーの出来に関しても先日父から及第点は貰っており、商品として提供できない訳でも無い。

雫は釈然としない気持ちを抱える反面、しかし自分のコーヒーを求められたという嬉しさもあり。いそいそと、父の下へと戻って行った。

 

 

 

 

 

「いやはや、無理を聞いて頂き、ありがとうございました」

 

 

タンブラーが入った小さな紙袋を手に、男性客がそう告げた。

雫は会計を済ませる傍ら、照れくさそうに小さくはにかむ。

 

 

「いえ……またのご来店をお待ちしております」

 

「ええ。その時はこれの感想を預かって来ますよ」

 

 

男性客はそう軽く紙袋を掲げると、にこやかにその場を立ち去った。

 

よく分からない部分もあるが、次の来店が待ち遠しくなる人だ。

雫はそんな事を思いつつ、遠ざかるその背中を見送り――ドアベルを鳴らす寸前、彼はくるりと振り向いた。

 

 

「申し訳ない。最後に一つだけ、お聞きしても?」

 

「え、あ、はい。何でしょうか」

 

「――今、あなたに願いはありますか?」

 

 

唐突な質問。

それを聞く意図も分からず、雫はきょとんと目を点にした。

 

だが、男性客の視線はどこか真剣なものに感じられ、からかっている様子では無いようにも思えた。

雫も困惑はすれど適当に流す事は無く、多少真面目に考え込む。

 

 

(でも、願いって言われてもな……)

 

 

無意識の内、雫の目が店の中へと、父や友人の少女達へと向けられる。

喫茶店。両親。友人。好きな人。様々なものや人が胸に浮かび――そして、もう一人。

 

「…………」笑みが漏れ、答えは自ずと定まった。

遠慮も気遣いも何も無く、するりと言葉が滑り出る。

 

 

「無いです、たぶん」

 

 

それはともすればいい加減な相槌とでも取られかねないものだったが、男性客はそうとは受け取らなかったようだ。

むしろ安堵したように目を細め、小さな笑みを落とす。

 

 

「――そうですか、それは良かった。ええ、とても」

 

 

男性客はどうしてか懐古を含んだ様子で頷くと、「では、失礼」と手を振って。

カランカランと鳴らしつつ、今度こそ店を後にした。

 

 

(……少し、変な人なのかな)

 

 

まぁ、間違いではあるまい。

とはいえ宗教の勧誘といった類の雰囲気でも無く、それどころか雫への慮りが窺えた。

 

……本当に、どういったつもりの質問だったのだろう。

少しずつ鎮まるドアベルの音色を聞きながら、雫はぼんやり考えて――。

 

 

「……あ」

 

 

ふと、窓の外に見知った人影を見つけ、気が散った。

 

二つに纏めたボリュームのある髪を揺らし、速くもない足で店へと走る一人の少女。

とても大切で、大好きな、誰よりも親しい友人――胸を張って居場所と言える、もう一人

 

 

(うん。やっぱり、ここが良い)

 

 

彼にどういった意図があろうと、そう答えた。それが全てだ。

雫はそれ以上深く考えず。ただ騒々しくドアベルを鳴らす彼女を、いつも通りの穏やかな微笑みでもって出迎えた。

 

 

「――いらっしゃい、あやか」

 

 

 

 

 

 

その日、見滝原の街は未曽有の大災害に襲われていた。

 

暴れる風が建物や自然を薙ぎ倒し、降り注ぐ雨が洪水となりその残骸を押し流す。

市の特徴でもあった近未来的な街並みの大部分が水に沈み、惨憺たる光景を晒していた。

 

それは単なる悪天候によるものではない。ここ数日の内に予兆なく発生したスーパーセルが、ついに街へと至ったのだ。

 

世界的に見ても珍しいとされるその現象は、当然ながら大きなニュースとして連日報道されていた。

特に今日一日においてはどの媒体でも緊急特集一色に染まり、日本中を騒がせている。

 

そして誰もが見滝原市の住民達を案じては、大量の犠牲者が出ると予想し救助を叫ぶ。

それは大きなうねりとなり、災害とは別種の情報的な混乱を齎す程だった――。

 

 

……が、しかし。

混乱の渦中にある当の見滝原の住人達は、その多くが意外な程に冷静であった。

 

 

 

 

 

「……うん、うん……大丈夫。今のところ、不自由も無いし……」

 

 

見滝原の高台に建つ、とある避難施設。

そこに用意された災害時でも通じる非常用電話を手に、その少女は離れた母親に自身の無事を報告していた。

 

内外共に近代化著しい見滝原市であるが、それは見た目だけのものではない。

各種施設の発展に合わせ、市の方針として災害対策にも大きな力を入れている。

 

地震に津波の予防対策、避難経路の明確化、緊急避難警報の速度・精度の向上――。

特に避難施設の配備においては『とある企業』の後押しも受け相当に充実しており、住人のほぼ全員に対応できるキャパシティをも備える程だ。

 

流石に前触れなく発生したスーパーセルへの対応は難しかったようではあるが、人的被害に限れば非常に少なく、怪我人はあれど犠牲者は未だ出ていない。

それどころか避難者の一人一人に対し一定以上の生活水準を確保し、その保護に万全を期している。

 

それはこの少女に対しても同様であり、当事者である彼女よりも、その外に居る両親の方に余裕が無いという、ある種逆転した状況に陥っていた。

 

 

「えっと、建物とかも凄くしっかりしてて……うん、平気。身体の調子もいいし、もしかしたら逃げるよりここでやり過ごした方がいいかもって感じで……」

 

 

その後も心配する母親を宥め、通話を終えた頃には結構な時間が過ぎていた。

幸い電話の数には余裕があり、次の使用者を待たせているという事は無い。とはいえ状況的に長電話は気が咎め、ズレた眼鏡をかけ直すと足早にその場を後にした。

 

 

「――あ、やっと来た」

 

 

通路に出ると、そこには明るい髪色をした少女の姿があった。

偶然にも同じ施設に避難する事の出来た、仲の良い友人の一人だ。親友だとも思っている彼女の笑顔に、少女もほっと息を吐く。

 

 

「ごめんなさい。やっぱり、両親も凄く心配してて……」

 

「お仕事で海外に居るんだっけ。子供を一人嵐の中に置いて行った形になっちゃってるし、不安だよね」

 

「私としては友達と一緒になれたから、お母さんが思ってるほど怖がってないんだけどな」

 

 

そうこうと言葉を交わしつつ、揃って共同の避難スペースへと向かう。

 

こうした状況にあって、友人と合流できたのは少女にとって本当に幸運であった。

もし一人きりだったとしたら、引っ込み思案の気がある少女は誰にも頼れず、不安に押し潰されていた事だろう。

 

無論、今も不安を感じていない訳ではない。

しかしどこか、お泊まり会のような高揚感を持っているのも事実ではあった。

 

 

「……うわぁ」

 

 

そうして談笑する最中。ふと、通りがかった窓の外を見た友人が、慄きの声を上げる。

 

そこに広がる景色は、信じられない程に荒れていた。

稲光は轟き、豪雨は横殴りに叩き付け、暴風に煽られた木々や街灯はお辞儀をするように折れ曲がっている。

分厚い強化ガラスに遮られ音も衝撃も届いてはいないが、視覚だけでもその凄まじさは伝わっていた。

 

 

「……改めて見ると、怖いね」

 

「うん……建物壊れないと良いけど……」

 

 

今の所は施設に異常はないようだが、実際の光景を見ると危機感を煽られる。

 

……この嵐が収まった時、果たして己は無事なのだろうか。

ふとそんな事を考えてしまい、心の奥底からじわりと恐怖が滲み――。

 

 

「……あ」

 

 

そっと、少女の手が握られる。

隣を見れば、友人がはにかんだ笑みを浮かべていた。

 

 

「えへへ……ちょっとだけ、こうしてよっか」

 

「……うん」

 

 

彼女も己と同じ気持ちだったのだろう。

重ねられた手を握り返し、もう一度だけ窓の外を見た。

 

やはり酷い雨風だ。けれど、先程より怖くなくなった気がした。

 

 

 

 

 

彼女達の過ごす共同スペースは、仕切りの無い大部屋に小さなテントを並べただけの簡素なものだ。

しかしこの状況にあって個人的な空間があるだけでもありがたく、各種生活設備も施設の方に充実しており、少女に不満はあまり無かった。

 

強いて言えば、己と友人一家の過ごすテントの距離が離れている事が若干気に喰わなかったが、それだけだ。

距離的にはむしろ平常時よりも会いやすくなっており、この避難所に来てから多くの時間を、彼女とその家族と共に過ごしていた。

 

 

「じゃあ、一回ママのところに行って来るね。すぐ戻って来るけど……」

 

「うん、ここで待ってるから……いってらっしゃい」

 

 

とはいえ、常に一緒という訳でも無い。互いの状況の違いもあり、こうして別行動を取る事も多々あった。

 

少女は速足で遠ざかる友人に軽く手を振ると、そのまま掌を見つめた。

そこにはまだ彼女の温もりが残っており、逃がさぬようにそっと胸へと抱き込む。

 

 

(……やっぱり、不思議。何でこんなに安心するんだろう)

 

 

思えば、彼女と初めて会った時からそうだった。

 

通う学校の教室で、その顔を見た途端。少女の魂とも呼べるものが震えたのだ。

それはまるで運命の人に出会ったかのような。或いは、己の存在意義を見つけたかのような。

己の意思とは無関係に熱を持つ光が、身体の芯で輝いていた。

 

 

(あの子が居れば、何も怖くない。あの子が居れば、どんな事だって頑張れる……)

 

 

どうしてそのように思うのか、やはり理由は分からない。

だが、それで良いような気もしていた。己の深い所に根付いたものであるのなら、きっと理屈なんてものは無いのだろうから。

 

見上げた窓のガラスを通し、自分自身がそう言った。

 

 

(……早く帰って来ないかな)

 

 

大部屋前の通路端。

その壁に背を預けながら、少女はぼんやり待ち望む。

 

早くまた顔を見たい。お話をしたい。出来ればもう一度、手を繋ぎたい――。

そうしてやがて響いた足音に、少女は明るい顔で振り向いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――やぁ」

 

 

 

 

 

 

 

――しかし、そこに居たのは彼女では無かった。

いつの間にか少女の前に見知らぬ男が立っており、胡散臭い笑顔を向けている。

 

 

「……へ。あ、あの……?」

 

「凄いですね、外」

 

 

背の高い、端整な顔立ちをした男性だ。

細身ながらも屈強だと分かる身体は中国服に包まれており、片手に小さな紙袋を下げていた。

彼はどこか気怠げな様子で窓の外を眺め、溜息を吐く。

 

 

「……この嵐も、随分と久しぶりだ」

 

「え、え……?」

 

「あれから、もう何年になるでしょうか。時の流れとは、早いものですね」

 

 

それは半ば、独り言のようだった。

困惑する少女を他所にぽつりぽつりと零しつつ、男性の視線が少女へと向けられる。

 

とても、とても不思議な色合いだった。

善意とも悪意ともつかず、しかし何か大きな感情が含まれていると分かる、奇妙な色。

少女の戸惑いは更に大きなものとなり、気付けば一歩後ろに身を引いていた。

 

 

「あの……どなた、ですか?」

 

「……。まぁ、様変わりした自覚はありますが」

 

 

男性はほんの一瞬目を眇め、苦笑をひとつ。

自嘲のように呟きながら、ゆっくりと少女へと近づいて行く。

 

 

「とはいえ、そういう事でも無いようだ。この時間……ああ、いや、これが本来の……」

 

「え、えと、ちょっと……」

 

「――やはり、外か」

 

 

外?

言いようのない迫力に焦る少女は反射的に窓の外を見るが、荒れた景色ばかりで気になるものは無い。

そうしている内にも男性は歩み続け、やがて少女の目と鼻の先にまで迫っていた。

 

 

(な、なに……? 何なの、この人っ)

 

 

怖い。嫌だ。だが、足が動かない。

彼の纏う濃密な存在感が少女を圧し潰し、芯から身体を震わせるのだ。

 

そしてただ立ち竦む事しか出来ない少女に向かい、男性は手を伸ばす。

 

渦巻く恐怖と混乱が身を縛り、呼吸すらもまともに出来ず。

少女は心の中で友人の名を叫び、涙の滲む瞼をぎゅっと閉じ――。

 

 

「――そこに居るのでしょう? 暁美ほむら」

 

 

ガシャン。

男性の手が少女の――『この時間軸の暁美ほむら』の額に触れた途端、周囲をガラスの割れる音が劈いた。

 

同時に世界の色が抜け、ありとあらゆるものの動きが止まる。

窓の外に吹く風も、雨も、雷光も。そして、ほむらの震えでさえも。

 

否、動きだけではない。世界の時間そのものが、完全に停止している――。

 

 

「…………」

 

 

……しかし、そんな異常な状況にもかかわらず、男性だけは時間を保ち続けていた。

 

静寂にして、孤独の世界。

男性はじろりと周囲を睥睨すると、触れていたほむらの眼鏡の角度をずらし、そのガラスに己の背後を映し込む。

 

――そこに居た『彼女』を認めた瞬間。世界が砕け、白に染まった。

 

 

『ようやく、ね』

 

 

そこは狭間だ。

現在。過去。未来。そのどれでもあり、そしていつでもない時間。

 

何もかもが定まらず、また曖昧であるその場所に、ガラスを震わせるような声が、響いた。

 

 

『こんなにも放っておかれたものだから、てっきり忘れられたものと思っていたわ』

 

「……よく言う。そうさせたのは、あなたのクセに」

 

 

存在するのは、男性と『彼女』の二人きり。先程まで居たほむらの姿も消えている。

男性は小さく息を吐くと、覚悟を決めたように背後へと振り返った。

 

――まず目立つのは、大きな大きな魔女帽子。

次にガラスの肌が目に付き、視線を下ろせば球体の砂時計と化した下半身がよく見える。

 

そんな明らかな異形である『彼女』は、ガラス玉の瞳に冷たい憎悪を乗せていた。

 

 

「――久しいですね。私の知る、暁美ほむら」

 

『あなたにとっては、そうでしょうね――私の知らない、バッドエンド』

 

 

男性――巫 紅虎(ウ・ホンフー)

そして、業因のドッペルとなった暁美ほむらだったもの。

 

かつて終着を経た二人が、今再び刻の狭間で対峙した。

 

 

 

 

 

 

(やはり、こういう事か)

 

 

無音の世界。

油断なく気を巡らせながら、紅虎は静かに思考する。

 

この時間軸に至る間際。あの最後の瞬間、バジリスクの能力は確かにほむらを貫いた。

そうして彼女が死んだからこそ、紅虎は今こうして存在しているのだ。

 

……だが、それで彼女の不死性を断てた訳では無かったのだろう。

過去へと至り、誰も居なくなった刻の狭間で、ほむらはやはり息を吹き返した。

そして過去へ降り立つ事も出来ず、一人孤独に、世界の外側からこの時間軸をずっと観察し続けていたのだ。

 

なんと哀れな――とは、思わない。

そこで彼女が終わらなかった事を、紅虎は既に察していた。

 

 

『――まるで別人ね、あなた』

 

 

口火を切ったのは、ほむらからの疑問であった。

 

彼女が見つめる紅虎の姿は、以前の時間軸におけるそれとはまったく違う。

女性と見紛う程だった体躯は今や屈強な筋肉を纏い、一目で男性と分かる姿となっていた。

 

今の時間軸では誰一人として疑問を抱かないであろうそれを改めて問われ、紅虎は薄く苦笑する。

 

 

「それはこちらのセリフなのですが……まぁ、そうなる理由が消えたから、とだけ。どうせ、大方は分かっているでしょう?」

 

『…………』

 

 

その返答にほむらは黙り込み、不快げに鼻を鳴らす。

 

 

――結果から言えば、紅虎の過去改編はこれ以上無い形で成功を果たしている。

 

 

遠い過去へと渡った彼は、愛する女性との出会いをやり直し、再び彼女と結ばれ――そして、誓い通りに護り切ったのだ。

 

死別の原因そのものを完全に潰し、その後新たに現れた悪意も全て退けて。

そうして彼女の死が無くなった事により性器を切り落とす未来も消え、心身の変化も起きず、本来の姿を保っていた。

 

そう、巫 紅虎は何一つとして失わず、歪まず、堕ちず。

望み続けた過去が拓いた、新たな現在を生きている――。

 

 

「……毎日が夢のようですよ。愛しき彼女が生きて、笑ってくれている……なんと幸せで、満たされる事か」

 

『……ええ、そのようね』

 

 

ほむらにしてみれば、それは挑発以外の何物でも無かった事だろう。

しかし彼女は特に怒りもせず、理性を保ち続けている。紅虎もそれに驚く事はなく、むしろ予想通りというように笑みを浮かべた。

 

 

「冷静ですね、以前のように殺しにかかって来るとも覚悟していましたが」

 

『――メリットが、無いもの』

 

 

忌々しげに、しかし嘲るように。ほむらがそう吐き捨てる。

 

 

『この時間では、随分と派手に動いたみたいね』

 

「はて……」

 

『前回までと差異が大きすぎるのよ。この時間の見滝原には、全てに誰かの手が入っている。それがあなたの仕業である事は、考えなくても分かるわ』

 

 

ほむらの巨大な腕が動き、虚空より幾つもの額縁が出現する。

そこには見滝原市の各所が映し出されており、大きなビルや商業施設、先程まで紅虎の居た避難所施設などがあった。

 

それら全て、かつての時間軸には無かった物だ。

そして、その一つ一つに『とある企業』の影があり、見滝原市全体の発展に大きな寄与をしていた。今や街に無くてはならない、その企業の名は――。

 

 

『――あなた、見滝原をジャジメントに支配させたわね?』

 

「…………」

 

 

ほむらの断言に、紅虎は無言で笑みを向ける。

その反応こそ明確な答えに外ならない。

 

――この時間においても、紅虎はジャジメントに与している。その肯定だった。

 

 

『気付いた時には遅かった。建物、仕事、店、人……今の見滝原は核から末端に至るまで、何らかの形でジャジメントが関わっている。こんな事、「全て」を知っているあなたしかやらないわ』

 

「ええ、私といえど、ジャジメントに街一つを吸収させるのはそれなりに苦労しましたよ。ですが、これで――あなたの愛しい者達は、絶望の道から護られる」

 

『……その通りよ』

 

 

ほむらの視線が、魔女帽子のツバに乗るインキュベーターの死骸を向いた。

 

インキュベーターは、ジャジメントに関わる事が出来ない。その『願い』は、この時間軸においても健在だ。今現在、彼らは見滝原に近づく事すら出来ないだろう。

そう――今もなおほむらが愛し続けている、鹿目まどかの下にも。

 

構図だけを見れば、紅虎はほむらの大切な者達を魔法少女の世界から守る、大きな防波堤となっていた。

 

 

「そして私が消えれば……さて、どうなるでしょうか。少なくとも、この街からジャジメントのロゴは消えるかもしれませんね」

 

『……よくもやってくれたものね。これじゃ、あなたを殺すのはまどかへのデメリットにしかならない』

 

「あなたがまだ存在する事は、大分前から察していましたからね。せっかく愛する者と共に居られる世界となったのです、生存に全力を尽くすのは当然だ」

 

 

紅虎は自嘲するように頭を振り、「それに」と続ける。

 

 

「裏で動いていたのは、あなたも同じの筈だ。それも、私よりも大きな規模で」

 

『…………』

 

 

今度はほむらが口を噤み、目を眇める。

 

時間遡行を果たしてからこちら、紅虎はこの世界に変えられぬ『流れ』がある事を感じていた。

まるで誰かが導いているかのように、以前の時間軸と同じ結果を辿る事象が幾つもあった。

そしてその全てが『鹿目まどか』を中心としたもの。

今の今まで、紅虎は彼女達に直接的な干渉する事がどうあっても出来なかったのだ。

 

 

「過去に戻った後、私は早い時期にあなた達に接触しようと試みた。だがどういう訳か上手く行かない。不運やタイミングの悪さが重なり、どうにも出来ず……結局、終着点である今この時を待たなければならなかった」

 

『…………』

 

「私を起点とするバタフライエフェクトを、必死に防いでいたのでしょう? 鹿目まどかが無事に存在できるよう、この時間の暁美ほむらを通し、魔法(業因)の力でもって時の流れを掌握した……」

 

 

この時間軸において、紅虎の行動は以前の時間軸のそれと大きく変わっている。

特に殺害した人間の数は大幅に減っており、それによる影響は蝶の羽ばたきなどというレベルには無いだろう。

 

そんな世界の歴史すら変わる可能性のあった変化を。ともすればまどかの存在すら消していたであろう波を、ほむらは最低限にまで抑え込んでいたのだ。

 

全ては、『鹿目まどか』がほむらの知る彼女のままで居られるように。

状況も、方法も違う。しかしほむらも紅虎と同じく、愛する者を護り続けていたのである。

 

……それにより、紅虎がほむらの存在に勘付いたのは皮肉だろう。

変化の波が収まり切る今この時まで、彼に手を回す余力を持てなかった事は、ほむらにとって痛恨であった。

 

 

『……それで』

 

「はい?」

 

『ここまでやった上で、今更何の目的で現れたのかしら。まさか――菓子折り持って謝罪に来た、なんて訳じゃないでしょう?』

 

 

ほむらはそう言って、紅虎の持つ紙袋を冷たく見やる。

 

ほむらは紅虎が見滝原だけではなく、他に幾つかの街にも手を伸ばしている事を知っていた。

特に神浜市と風見野市に関してはより深い干渉を行い、特定の人物に対して入れ込んでいるようだ。

 

例えば保澄雫。彼女の想い人の運命を変え、居場所を護った。

例えば佐倉杏子。彼女の父に支援を行い、家族を護った。

 

まるでかつて犠牲を強いた者達に、贖罪をしているかのよう。

それを当て擦れば、紅虎は肯定も否定もせず、黙って肩をすくめ――。

 

 

「――取引をしに来ました」

 

 

ただ、そう持ち掛けた。

 

 

 

 

 

 

『……取引、ね』

 

 

呟くほむらの声音は、酷く平坦なものだった。

 

 

『以前、私が持ち掛けた交渉を無体にしたのはどちら様だったかしら』

 

「最初にヘタクソな嘘を吐いたあなた様では? ……なんて、昔話はどうでもよろしい」

 

 

イヤミにイヤミをさらりと返し、紅虎は口元から笑みを消す。

その様子からはこれまでと違い、何処か切迫した雰囲気が感じられた。

 

 

「私が差し出すのは、あなたの愛する鹿目まどかの守護。つまり今の状態を可能な限り続ける事を約束しましょう」

 

『……そう。それで、私はあなたへの害意を捨てればいいのかしら?』

 

「それもあります。ですが、本命はそこでは無い」

 

 

紅虎は一旦そこで言葉を切るが、しかしほむらの顔に疑問の類は浮かんでいない。

それどころか続く内容が分かっているように、余裕のある表情を見せている。

 

紅虎は小さく溜息を落とすと、ガラス玉の瞳をしっかりと見つめ。

 

 

「――あなたが既に行っているであろう、未来からの干渉の排除。それを、今後も続けて頂きたい」

 

 

――瞬間、涼やかな音色が響いた。

ほむらの喉奥で押し殺された笑みが奏でた、ガラスの囀りだ。

 

その音は、暫くの間白の世界に響き続け――『……』やがて、ぴたりと止まった。

そしてほむらの視線が紅虎から外され、明後日の方向へ向けられる。

 

 

『……タイミングの悪い事。少し、とぼけて引っ張りたくもあったのに』

 

 

その先には、小さく瞬く光があった。

 

白一色の景色に紛れ酷く見え辛くはあったが、ほむらにはハッキリと視認出来ていたらしい。

流れ星のように接近するそれを、彼女は背中から影を伸ばしてあっさりと捕縛。

すぐに手元へと引き寄せると、鋭い爪の先で摘まみ上げた。

 

 

「……それが、そうなのですか?」

 

『ええ――どこかの未来から送られて来る、きっと邪魔者だろうものよ』

 

 

くしゃり。

ほむらがほんの少しの力を込めるだけで、光は容易く砕け散る。

そうして周囲に広がる残滓の中に、紅虎は一瞬だけ人間の形を見た気がしたが……すぐに虚空へと消え、確認する事は出来なかった。

 

 

――紅虎は、この世界に未来人が居る事を知っている。

 

 

もっとも、紅虎が知り、そして出会った彼らは皆、タイムマシンの設計法も理論も全く理解していない所謂『ハズレ』の者達だった。

聞けば過去への技術流出を警戒し、タイムマシンの利用者には非常に厳しい知識・記憶的制限を設けているらしい。とある未来人に丁寧な質問(・・・・・)を行った際、非常に気落ちした事を紅虎はよく覚えていた。

 

だが過去改編を目論んでいる以上、決して野放しにしていい存在では無い事もまた確か。

そしてそれは、ほむらの抱く危惧と全く同じものだった。

 

 

「おそらく、タイムパトロールとやらでしょうね。どうやら私の過去改編は、未来に多大なる影響を及ぼしたようだ」

 

『陳腐な名前……』

 

 

ほむらは呆れた目をするが、それ以上の興味を抱いた様子はない。

彼女にとっては、その正体が何であろうが関係は無いのだろう。どうせ、全て等しく『邪魔者』なのだから。

 

 

『ともかく……あなたは私に、ああいった邪魔者が過去に流れないよう遮る壁となって欲しい。そういう事で良いのかしら』

 

「ええ。好き勝手に過去を弄られる危険と苦労は、よく分かっているでしょう?」

 

『……おかげさまで。わざわざ頼まれずとも、その気ではあったわ』

 

「私もそうだろうとは思っていますが――いつか、手を抜かれそうな気がするので」

 

 

――ぴくり。

ほむらの片眉が、小さく跳ねた。

 

 

「具体的には、20年後くらいでしょうかねぇ。私の過去に、未来人が飛んで行く予感がしてならないのですよ」

 

『…………』

 

 

ほむらは何も答えない。

その無言の肯定に、紅虎は己の考えが間違っていなかった事を確信した。

 

今の見滝原市は、強大なスーパーセルにも――ワルプルギスの夜の襲来にも耐えられる街となっている。

ほむらとの交渉材料となる鹿目まどかの身の安全を考慮し、ジャジメントの技術を用いて災害対策を充実させた結果だ。

 

つまりは、鹿目まどかは生きてワルプルギスの夜を越えられる――。

その『時間の流れ』さえ生まれれば、後はほむらの魔法(業因)が掌握する。鹿目まどかが生き延びたという結果を、不変のものとする事が出来るのだ。

 

 

「限定的とはいえ、私の起こした世界の変化を防げたのです。過去に渡った未来人が起こすバタフライエフェクトも、あなたは同じように防いでみせるのでしょうね」

 

『……あなたに手を出すのは、まどかのデメリットにしかならない。そう言ったと思うけど』

 

「ええ、今はね。しかし無事にワルプルギスの夜を越え……そして、彼女の魔法少女の素質が衰え切り、キュゥべえに纏わる心配事が無くなったその時は――」

 

 

未来人の時間遡行を敢えて見逃し、鹿目まどかの現在を変えないまま、紅虎の過去だけを台無しにする恐れがある。

かつて彼女が放った、怨嗟の通りに。

 

 

『…………』

 

「無論、私もそれを許す気は無い。過去の私はきっと、過去改編を目論む未来人達を抹殺する。……しかし」

 

『――あなたや、その愛する人の生まれる前に何かをされれば、打つ手は無い……ふふ』

 

 

言葉を引き継ぎ、ほむらは笑う。

苦笑とも嘲笑ともつかない、歪な笑みだ。

 

 

『認めたくはないけれど。以前あなたの言った通り、私達は互いに深く理解し合える者なのでしょうね。目的も、行動も、思う事まで、こうも重なる』

 

「真に時間遡行を願う者ならば、みな同じ考えに至りますよ。そして、互いの共存と尊重が基本的に不可能である事も。ある種、宿命なのかもしれません」

 

 

だが。

紅虎は小さく呟くと、ほむらと静かに目を合わせる。

そのガラスの瞳に懇願にも似た光が映り込み――そっと、手を差し出した。

 

 

「――今の私と、今のあなたであれば。共存の無いまま、尊重だけが出来る。そうでしょう?」

 

 

時の流れの内と外。

本来であれば決して交わらない場所に立つ二人は、だからこそ互いの最愛を護る事が出来る。

それは今この時に至ったからこそ成立する、唯一の例外に外ならなかった。

 

 

『……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………』

 

 

しかし、ほむらは差し出された手を取らず。

先程までの笑い声も消え、その表情は被る魔女帽子のツバの下。

紅虎もそれ以上言い募る事はせず、そのまま暫し無言の時が過ぎ。

 

 

『……もし、私がまどかを忘れたままだったなら。あなたを殺す為、この時間さえも壊したでしょうね』

 

 

やがて、ぽつりと呟いた。

 

 

『過去に渡ったあなたを許せず、叶ったあなたの幸せを許せず。後先も何も考えないまま暴れ狂い、きっとあなた以上に世界に変化を齎した』

 

「……でしょうね」

 

『本当は、今だってそうしたいもの。私からまどかを忘れさせたあなたを。謝罪も反省もせず勝手な事だけをほざくその口を頭ごとむしり取って腕も足も全部全部千切り取って甚振って苦しめて惨たらしく殺したいの』

 

 

ほむらの声に殺意が滲み、ツバの下からはいつかのように血涙が垂れた。

紅虎は反射的に戦闘姿勢を取りかけるも、しかし堪えて力を抜く。

 

 

『……憎いわ。損得を考えられるこの理性が。そして愛おしいの。私に我慢をさせてくれるまどかが、記憶が、約束が……ッ!!』

 

「――ぐ、ぅっ!」

 

 

ほむらの背から影が伸び、瞬時に紅虎の身体を締め上げた。

肉が潰れ、骨が軋み、臓腑の奥底より鉄錆の香りが昇る。しかしそれ以上傷つける事はせず、覗き込むように血涙の滑る顔を近づけた。

 

 

『――応じてあげるわ、あなたの取引。私はもう、誰にも過去へ行かせない』

 

 

ガラス玉の瞳の奥に、怨嗟と憎悪が渦巻いているのがよく見える。

しかし同時、そこには確かな輝きがあった。濃密な悪意の中にあって決して染まらず、彼女を導く眩き光。

 

 

――たった一人へ向けられる、純粋なる愛だ。

 

 

『だから、あなたも護り切りなさい。まどかの命を、彼女の幸せを』

 

「っ……ぇ、ええ、元より、そのつもりで――」

 

『いいえ、それじゃ足りないと言っているの』

 

 

ぎしりと、紅虎を捕らえる影が揺れる。

 

 

『最後までよ。可能な限りではなく、まどかの寿命が尽きるまで。あの子が幸せな終わりを迎えるその時まで、全ての悪意から護り続けるの』

 

「……悪意、ですか」

 

『インキュベーターや魔女だけじゃない。一般的な犯罪者は勿論、ジャジメントやあなたのような埒外の脅威からも、全部』

 

 

ほむらは既に、この世界に潜む闇を身をもって知っている。

運が悪ければ、紅虎のような存在と出会う事さえあり得るのだ。今後まどかがそれらに巻き込まれないとは決して言い切れない。

 

 

『もしそれを違え、まどかが喪われる時が来たら――私はその瞬間、時間を護る事を止めるわ。何人もの未来人を過去へ通し、必ず世界を変えさせる。再びまどかが生きている世界となるまで、何度も……!!』

 

 

嘘や脅しでは無い。その時が来れば、ほむらは躊躇なくそれを実行するだろう。

例え己の知らない過去に改変され、全く見た事のない未来に変わったとしても。そこで鹿目まどかが笑う世界を追い求め、探し続ける。

 

やはり、宿命である。身を締め付ける苦痛の中で、紅虎は幽かに笑っていた。

 

 

「く、くく……ええ、誓います。あなたの大切な、鹿目まどかを……私の生きている限り、いいえ、私の死後であっても必ず護り抜きましょう」

 

『あなたのようなものが、どこに誓うと』

 

「――無論、私の最愛に」

 

 

紅虎の瞳の奥に、ほむらのそれと同じ輝きが静かに揺らめいた。

 

それ以上の応酬は無い。

二人はただ黙し、じっと互いの光を合わせ――やがて、その片方が閉じられた。

 

 

「お、っと」

 

 

同時に紅虎を縛っていた影も解け、その身が無造作に放り投げられた。

ほむらは何事もなかったかのように中空に着地する彼から視線を外し、無言のままに背を向ける。

 

 

それは共感。それは諦念。

 

相容れずに折り合い、認めないままに受容する。

 

 

――今ここに、彼らの契約が結ばれた。

 

 

 

「……感謝を」

 

『っ……』

 

 

謝罪では無く礼を告げる紅虎に、抑えた憎悪が再燃を始める。

 

本当は、理解しているのだ。

踏みつけにした者へ頭を下げる資格は、彼は勿論ほむらにもありはしない。

だが、だからこそ。腹立たしくて堪らない――。

 

 

『――消えなさい』

 

 

ほむらが徐に手を翳した途端、白い世界に大きな亀裂が刻まれ、開き。

時を統べる力によって時の外側が裏返り、その内部へと繋がった。

 

……だがそこに、ほむらの戻れる場所は無い。

その時間を生きる暁美ほむらは、別に居る。

 

 

「――さようなら、暁美ほむら。二度と会う事は無いでしょう」

 

『…………』

 

 

ほむらはこれ以上、紅虎の顔も声も気配すらも感じたくは無かった。

故に、彼の全てを無視をして。ただ時を閉じるべく、無造作に腕を振り――。

 

 

『――……、さて。それはどうかしら』

 

 

ふと思いつき、動きを止めた。

そして軽く首を傾げる紅虎を他所に、また明後日の方向を見る。

 

するとそこには、先程と同じく過去へ流れようとする光があり――ほむらはまたもそれを捕らえると、これ見よがしに大きく掲げた。

 

 

『これから先、もしもあなたが愛する人を喪なう事になっても、あなたにはもうどうする事も出来ないわ』

 

「……いいえ。彼女はもう、死なせない」

 

『でも、可能性だけはある。そしてそうなった時、あなたはきっと、再び時間遡行を求めるの』

 

 

光の中には、やはり人の形が見えた。

彼――或いは彼女は、ほむらの手から逃れようと暴れているようにも思えて。

 

 

『――これ、あなたじゃないと良いわね』

 

 

くしゃりと、砕けた。

そして光の残滓が残る中、ほむらは愉快げに笑う。

 

睨む。

しかし白の景色は最早殆ど残っておらず、彼女の姿もいつの間にやら消えていた。

 

 

「……言ってくれるな」

 

 

呟くも、届かず。

 

世界が、時間が、元の形に遡る。

狭間が閉じ切り、現在未来が流れゆく。

 

後にはただ、反響するガラスの哄笑だけが響き続け――。

 

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

 

・ ・ ・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――髪の毛、ゴミが付いていますよ」

 

「……え?」

 

 

突然頭上から降った優しい声音に、暁美ほむらは固く閉じていた目を開ける。

そこには困ったような笑顔を浮かべる男性が立ち、くしくしと指先を弄んでいた。

 

 

「……申し訳ない。どうも、怖がらせてしまったようですね」

 

「えっ……あ、その、ゴミ……です……?」

 

「ええ、ガラスの破片」

 

 

……そのような流れだっただろうか。

いきなり空気が変わった気がして、上手く言葉が出て来ない。

 

そう混乱するほむらを他所に、男性は軽く会釈を残し彼女を通り過ぎて行く。

 

 

「ちょっ――、……」

 

 

思わず引き留めかけるも、考えてみればその理由も無く。

男性もそれきり振り返る事もせず、ただ見送る事しか出来なかった。

 

 

「な、え、えー……?」

 

 

訳が分からず、釈然ともせず。

暫くそのまま呆然としていると――背後よりまた足音が聞こえ、振り向いた。

 

 

「――ごめん、ほむらちゃん! ちょっと遅くなっちゃった……んだけど、どうしたの?」

 

「鹿目さん……」

 

 

駆け寄ってきたのは、今度こそほむらの待ちわびていた友人――鹿目まどかであった。

 

彼女は妙な雰囲気にちょこんと首を傾げたものの、果たしてどう説明したものか。

ほむらは少しの間「あ、うー」と唸り……やがて溜息と共に思考を放棄した。

 

 

「……、通りがかりの人に、頭のゴミを取って貰ったの」

 

「へー、良い人が居たんだね」

 

「う、う~ん…………………………………………………………………………うん」

 

「すっごく悩んだね……?」

 

 

一応何も危害を加えられず、むしろ身を整えて貰ったのだ。

行動だけなら確かに良い人ではあったが、何故かそれを認める事に激しい抵抗感があった。

 

とはいえ、文字通り既に過ぎた事。ほむらは葛藤を投げ捨て適当に頷き、それきり話題を打ち切った。

 

 

「それで、鹿目さんのお母さん、何て……?」

 

「あ、そうなの! あのね、さっきママ、さやかちゃんのママと会ったんだって! さやかちゃんち、みんな揃ってこの避難所に居るみたい!」

 

「本当!? 無事でよかった……!」

 

「テントのある場所も聞いてるから、ほむらちゃんも一緒に行こう!」

 

 

まどかは嬉しさを隠さずそう言うと、ほむらの手を取って歩き出す。

先程の男性の事など既に吹き飛び、二人の中から消えていた。

 

ほむらは重ねた掌をそっと握り、その温もりに笑顔を浮かべ。

彼女達はこれから先もずっと一緒に、この世界、この時間を過ごして行く。

 

 

――ガラスの中の暁美ほむらが、静かに目を閉じ消え去った。

 

 

 

 

 

 

『――ああ、やっと出たね』

 

 

曇天。嵐吹き荒ぶ空の下。

耳に当てた端末から流れたのは、紅虎の友であるジオット・セヴェルスの声だった。

 

 

「どうしました? これから所用があるもので、急な任務は勘弁願いたいのですが」

 

『分かっているとも。大仕事を控えたキミに、少しばかりの激励をしようと思ってね』

 

 

もっとも、その様子じゃボクの心配は杞憂のようだけど。

端末越し、コミカルに肩をすくめた気配が紅虎へと届く。

 

 

『キミ達が相手にするってやつ、話に聞く限り相当みたいじゃない。流石のボクもちょっぴり浮き足立っちゃってサ』

 

「ふふ、それはどうも。ですが、だからこそあなたに頼み事をした訳で」

 

『むしろ、アレがあったからこそなんだけどねぇ……』

 

 

呆れたような溜息を吐くジオットに苦笑し、紅虎は空を見上げる。

 

目に映るのは渦巻く鉛雲と、強風に舞う大きな雨粒。

発動しているストームレインの能力によって、その全ては紅虎の下には届かない。

彼の身は、状況に反した穏やかな凪の中にあり――故に、それがよく見えた。

 

 

「――KYAHAHAHAHAHA――!

 

 

雲流の中心に、逆さまとなった女の影が座していた。

それは遠距離からでも視認できる程の巨躯をくるくると廻し、周囲に侍る影の使い魔と共におぞましい狂笑を上げている。

 

ワルプルギスの夜。

この嵐を引き起こしている伝説の大魔女であり――これより、紅虎が討伐せねばならない存在だ。

 

 

『でも、キミも物好きだよねぇ。あんなの倒した所で、苦労するだけだろうに』

 

「いえいえ、それが私にとっては死活問題でして。何とかしなければ、未来が無くなってしまう恐れがあるのですよ」

 

 

言うまでも無く、暁美ほむらの手によって。

 

幾ら見滝原の災害対策を充実させ、スーパーセルにも耐えられる街にしたと言っても、相手はかの大魔女である。

不幸に不幸が重なった結果、鹿目まどかに類が及ぶ可能性も決して無いとは言い切れず――そうなれば、怒り狂ったほむらに何をされるか分からない。

 

彼女との取引がどう終わるにしろ、念には念を入れ、予めワルプルギス討伐の準備は進めていたのだ。

 

 

「多少、神経質となっている自覚はありますが……楽観視して痛い目を見るよりは、ずっといい」

 

 

今となっては、紅虎には一度のミスも許されない。

ほむらの愛する鹿目まどかを、そして自身の最愛を護るため、危険の芽は全て跡形も無く潰し切ると決めていた。

 

 

「……というか、私を物好きと言うならばあなたもそうでは? 今回、向こうに結構な借りを作ったでしょう」

 

『ああ、なに。そのくらい大した事は無いさ』

 

 

反撃とばかりに言い返せば、ジオットは本当に何でもないといった調子で軽く笑う。

 

今回のワルプルギスの夜の討伐にあたり、紅虎は万全を期すため、ジオットに援軍の調達を要請していた。

その際に冗談として、100%通らないであろう高望みを告げていたのだが――ジオットはすました顔でそれを叶えて来たのである。

 

 

『ほら、あっちはボク達と違って意外と人情派だから。誠心誠意お願いしたら、快くレンタルさせてくれたのさ』

 

「そんな軽い調子じゃ済んでいないでしょうに……」

 

『済むんだよ――ボクの妹の命と比べたら、あまりにも軽いんだよね』

 

 

一転、ジオットの言葉に熱が籠る。

それは感謝であり、恩義の念。かつての彼には存在しなかったであろう、眩き光がそこにあった。

 

 

『前も言ったが、キミはもっと恩着せがましくあるべきだ。キミが助けてくれたからこそ、我が妹は今も元気に生きている。ボクと妻と子と、笑ってくれているんだから』

 

「……そうは言いましてもねぇ」

 

『いいさいいさ。こっちで勝手に返しとくから、キミも勝手に受け取ってくれ』

 

 

そう嘯く彼に白々しさは無く、本心である事が窺える。

 

この時間軸において、紅虎はジオットに起こる悲劇を――彼の妹の死を未然に防いでいた。

それは情や、以前の時間軸で約束をしていたという事もあったが、早期に彼と縁を繋ぐ事でジャジメントでの権力を高めるという打算もあったからだ。

 

だが、ここまで恩に着られるとは予想外ではあった。かつてのジオットを知るが故、余計に。

 

 

『ま、それはともかく……そろそろじゃないかい?』

 

 

その言葉にワルプルギスの夜に意識を戻せば、その姿は先程よりも大きくなっている。

もう数分もせず、かの大魔女は河川敷から見滝原に上陸するだろう。

 

ジオットには多少言いたい事が残っていたが、これ以上雑談している暇も無い。

紅虎は小さく溜息を吐き、話題転換に乗ってやる事とした。

 

 

「……それで、あなたの恩返しは今どこに?」

 

『連絡行ってないの? もう見滝原に入ってるそうだから、多分間合いに入り次第――』

 

 

――斬!

 

瞬間、真空が疾った。

とある鉄塔の上から放たれたそれは、鋭い刃となってワルプルギスの夜に飛ぶ。

 

雨粒。猛風。使い魔。距離。空間。

ありとあらゆる物を切り殺し、やがて刃はワルプルギスの夜に到達。その巨躯に僅かながらの傷を付け、

 

 

G、GI、YAGYAGYAAAAAAAAAA――!?!

 

 

自身の死まで止まない筈の哄笑が、絶叫へと変わった。

 

同時に傷の周辺からワルプルギスの夜の身体が腐り落ち、崩壊を始める。

しかし大魔女は苦しみながらも身を振り回し、瞬時に崩れた部位を放棄。そして続けざまに飛来する真空刃を躱しつつ、巻き上げた建造物を鉄塔へと落とし――。

 

――紅虎が行うよりも些か早く、激戦の火蓋が切られていた。

 

 

『……始まったかな?』

 

「ええ。せめて一言くらい欲しかったんですがね……」

 

 

突如始まった大魔女との戦いに、場所は違えど二人揃って首を振る。

 

――戦っている者の名は、犬井灰根。

ジャジメント最高幹部の一人であり、紅虎すら超える戦闘力を持つ序列1位。

名実ともに世界最強たるアンドロイドである。

 

ジオットや紅虎とは別の派閥に属し、半ば敵対状態にある彼は、本来であれば『レンタル』が可能な存在では無い。

そんな彼を前線にまで引っ張り出したジオットの成果は、正しく奇跡に近いものだった。

 

 

「――では、私も行きますか。このまま丸投げとしては怒られそうだ」

 

『そうなるとボクもどやされそうだし、早く行きなよ。……帰ってきたら、キミの奥さんも誘ってディナーにでも行こうじゃないか』

 

「ええ、楽しみにしていますよ」

 

 

それを最後に通話を切り、頭に闘争の火を入れる。

 

例え犬井の助力があろうと、ワルプルギスの夜の討伐は容易ではない筈だ。

だが、成し遂げる。こんな所で躓いてなどいられないのだから。

 

 

「ドゥーム、チェンジ――」

 

 

呟きが終わるよりも早く、彼の姿が掻き消える。

そして次の瞬間には、既に大魔女の頭上にあり――激突。巨躯を傾げさせる一撃と共に、戦闘の渦中へと飛び込んだ。

 

 

 

――その命がある限り、艱難辛苦は終わらない。

 

 

迫る苦難に際限は無く、気を抜けばあっという間にバッドエンドへ逆戻り。

気付かねばならず。見逃してはならず。常に護り続けなければならない。

 

それはこれ以上無く疲弊し続ける日々になるだろう。

しかし同時に、これ以上無く幸せな日々にもなるだろう。

 

愛する者が、この世界に生きている。

その喜びと幸福を、彼は――彼と彼女はずっと、魂の奥底から感じ続けている。

 

 

――その命がある限り、ハッピーエンドも終わらない。

 

 

時の内側。時の外側。

何もかもが異なる場所で、同じ光が強く、大きく、揺らめいていた――。

 

 

 

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