ウサギ小屋からは出られない   作:ペンギン13

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アコースティックギター。CD。おにぎり。

 死にたいと思った。

 仕事帰りの最終電車。いつもの繰り返し。つり革を掴んで、流れていく景色を眺めているとき、真っ暗なガラスに映った自分の顔を見てふと思った。

 目当ての駅に到着して、他の乗客と一緒にドアから吐き出される。歩き出す気になれず突っ立っていると、後ろにつかえた人達が肩をぶつけながら追い越していく。そっけないアナウンスの後でそそくさと去っていく電車の光を見送った。

 電光掲示板を見上げると、本日の運行を終えた旨を告げる文字が右から左に流れている。飛び込む電車は来ないらしい。もともと飛び込む気なんてなかったけど。痛そうだし。

 誰もいなくなったホームの階段を下り、改札を出ると、湿度を含んだ空気が頬を撫でた。排ガスの臭いに、わずかにアルコールの臭いが混じっているような気がする。

 もう遅い時間なのに、行き交う人の陽気な笑い声が遠くに聞こえた。そういえば今日は金曜日だっけ?曜日感覚が先々週くらい前からあいまいだ。

 ずるずると、鉛みたいに重たい身体を引きずって歩く。家までの道が果てしないものに感じた。

 

「お兄さん一曲聴いていかない?」

 

 唐突に腕を掴まれた。

  

 緑色の瞳と目が合う。新緑の若葉をギュッと凝縮したみたいな緑の目をした女の子。目線の高さが近くて男かと思ったけど、夢に出てきそうなくらい端正な顔立ちは間違いなく女の子。

 

 女の子は僕の無言を肯定と受け取ったのか、腕を掴んだままずんずん歩いて、すぐ近くの閉店したデパートのシャッター前に連れて来た。

 ここで見てて、と言って、女の子は地面に横倒しに置いていたアコースティックギターを拾い上げた。周りを見ると、僕と同じように引っ張ってこられたのか、何人かの男が、ギターの先っちょの金具を弄る女の子のことを眺めている。

 のろのろと、僕はその場に腰を下ろした。近くで突っ立っている男が咎めるような視線を送って来たけれど無視する。仕方ないだろ。疲れてるんだから。

 

「お待たせしました!それじゃあ一曲目!」

 

 夜中のコンクリートの林の中に、場違いなギターの音が鳴り響いた。

 瞬間、じっとりとした空気が吹き飛んだ。

 アスファルトの地面に注いでいた視線を持ち上げる。揺れる黒髪が見えて、次いで弾けるような笑顔。不思議だった、あんなに楽しそうなのに、女の子の手の中で歌うギターの声も、女の子自身の歌声も砂漠のド真ん中みたいにカラカラに乾いている。

 けれど、その音は不思議と心地よかった。じめじめした僕の中身を乾かしてくれるような気がして心地よかった。

 ひとり、またひとりと、女の子を眺めていた男の姿が消えて、気づいたら僕一人しか残っていなかった。

 それでも女の子は歌い続けた。少なくとも、僕の意識が暗闇に落ちていくその瞬間まで、女の子の歌は聞こえていた。

 

 

ーーーー

 

 

「お兄さん!ちょっと!お兄さん!」

 

 目覚めは今までの人生で五本の指に入るくらいに最低なものだった。

 意識を手放す直前、おぼろげに見えた、街の灯りに照らされた女の子の笑顔が、脂ぎった中年の苛立たし気な顔に上書きされた。中年の顔の後ろには抜けるような青空が広がっている。いつの間にか夜が明けていたみたいだ。朝日が目に痛い。

 

「ほら起き起きた!盗られたものは無い?確認して早く!」

 

 警官らしい男が耳元でギャンギャン喚いて、煩いなと思いながらも、素直に持ち物を確認する。見覚えのない真っ白なCDが一枚、鞄に入っていて、代わりに千円札が一枚、財布の中から姿を消していた。何だろうと思ったけれど、とりあえず警官に、大丈夫です、と言うと、ボタボタと文句を落としながら彼は去っていった。

 あれ、今何時だ?ハッとして腕時計を見る、そして大きく息を吐いた。良かった一度家に戻る時間はありそうだ。

 大きく伸びをすると、背中の辺りから物騒な音が鳴った。地面で寝ていたせいか。体中がギシギシと痛んだ。

 

 家に着いてシャワーを浴びると、もう出勤しないといけない時間になっていた。慌てて鞄に必要なものを詰め込んでいると、正体不明の白いCDが目に入った。

 時間はないけれど、好奇心が勝った。埃を被ったコンポの電源を入れて、開いたトレーにそっとCDを載せる。コンポがCDを呑みこんで、数秒間の読み込み音の後、昨日意識を手放す直前に聞こえていた音が、安っぽいスピーカーから流れ出した。

 乾いたアコースティックギターの音に、女の子の歌声が溶ける。あれは実は夢だったんじゃないかと思っていたけれど、どうやら現実だったらしい。

 コンポのボリュームをグイッと上げて、スピーカーに耳を近づける。目を閉じると、女の子がギターを掻き鳴らして歌う姿が見えて、何故か涙が零れた。

 少しだけ、生きていて良かったと思えた。

 

 

ーーーー

 

 

 あの日から、女の子の姿を頻繁に見かけるようになった。

 夜の人通りが多い時間帯、例の閉店したデパートのシャッター前で歌う女の子の歌を、近くのガードレールに腰掛けて聴くのが、いつの間にか僕のささやかな楽しみになっていた。

 

「あれ?今日はもうお終い?」

 

 残業が長引いていつもより少し遅い時間、駅中のコンビニに寄ってから例のデパートの前に来ると、女の子がかがみ込んでギターをケースに仕舞おうとしていたから、思わず声をかけてしまった。

 女の子の顔がギターからこちらに向く。普段離れたところから見てて思ってたけど、やっぱり凄く美人。こうして近くで見ると、本当に同じ人間なのか不安になってくる。

 

「うん。お腹空いたから、今日はもうお終い」

 

「そっか」

 

 それは残念、と心の中で呟く。仕方がない、また今度、聴きに来ればいいだろう。

 じゃあ、おやすみなさい、と言って立ち去ろうとすると、手首からぶら下げていたコンビニ袋を引っ張られた。

 

「・・・どうしたの?」

 

「お兄さん、良いもの持ってるね」

 

 ずっと無表情だった女の子の口元に笑みが浮かんだ。

 

 

ーーーー

 

 

「美味しい?」

 

 一心不乱に三つ目のおにぎりを頬張る女の子に訊くと「美味しい!」と、元気な返事が返って来た。

 それは良かった。行き交う人たちがチラチラとこちらを見ているような気がした。降りたシャッターの前、体育座りでおにぎりを頬張るTシャツにダメージデニム姿の女の子と、くたびれたスーツ姿の僕。傍から見たら一体どんな風に見えるんだろう。缶チューハイを呷る。口の中で炭酸が弾けて、わざとらしい葡萄の味が舌にべったりと貼りついた。

 

「それ、一口頂戴?」

 

「未成年じゃないよね?」

 

 こくりと頷いたから、缶を差し出すと、受け取った缶を女の子はグイッと傾けた。ケミカルな葡萄の味とおにぎりの味が口の中で混ざる所を想像して、少し具合が悪くなる。

 ぷはっと缶から口を離して唇をひと舐め。ありがと、と突き返された一口ぶん軽くなった缶を受け取る。

 満足そうな溜息を洩らした女の子は、ギターケースのポケットをごそごそと漁り始めた。取り出したのは、煙草の箱と青い使い捨てライター。赤白の箱から口で直接一本引き抜いて火をつけた。浮かぶ白い煙。それが夜闇の黒に溶けるのを女の子は夢でも見る様に眺めている。

 

「お嬢さん、良いの持ってるね?」

 

「吸う?」

 

 頷くと、女の子は咥えている燃え差しをよこしてきた。新しいのをくれるわけじゃないんだ。薄い赤色がついたフィルターを咥えて一気に吸い込んだ。盛大に咽た。

 かっこわるい、と笑いながら女の子は、新しい煙草に火をつける。二人分の煙が混じりあって、やっぱり消えていく。

 

「おにぎりありがとう。昨日からなにも食べてなかったんだ」

 

「どういたしまして。ダイエット?」

 

「ううん」

 

 金欠、と言って女の子は笑った。

 

「この間作ったCDに思ってたよりお金かかっちゃって、次のバイト代出るまでカツカツ」

 

「そんなにお金がかかるものなの?」

 

「五万円くらいだったかな?ジャケットを作るお金が無くなちゃった」

 

 だから真っ白だったんだあのCD。

 CDを作るのにかかる費用の相場なんて知らないから、五万円という金額が適正なのかわからないけれど、たった六曲しか入っていないCDが五万円というの僕には高いように思えた。だって五万もあれば、おにぎりを食べきれないくらい買ってもお釣りが返ってくる。

 

「お兄さん、最初に逢ったとき買ってくれたよね?嬉しかったな。あれが記念すべき一枚目」

 

「それは光栄だ。あれから売れてる?」

 

「ううん、一枚も。不景気ってやつだね」

 

 やだやだ、と他人事のように言いながら、女の子は煙草の灰を地面に落とした。

 CDが売れないと言われている世の中だから仕方のないことなのかもしれないけれど、勿体ないなと思った。あんなに良い音楽なのに。

 この真っ白な飾りっ気の欠片も無いCDを、あと最低でも四九枚は売らないと、赤字ということだ。女の子がここで歌い始めてからもう数週間。それは途方もないようなことに思えた。

 僕は鞄から財布を取り出して中身を確認する。千円札が三枚と、一万円札が四枚。それから比較的仲の良い同僚の顔を思い浮かべる。三人。

 

「CD、良かったら三枚売ってくれない?」

 

「なんで?握手券とか入ってないよ?」

 

 差し出した千円札と僕の顔を見比べて、女の子は首を傾げながら言った。僕も首を傾げたくなった。

 

「同僚に配るからさ。今日は持ってきてなかったり?」

 

「ああ、そういうことか」と納得した風に女の子は呟くと、ギターケースの横に無造作に置かれてるトートバッグから、CDを取り出した。

 

「三百枚だっけ?」

 

「僕にそんなに友達がいるように見える?」

 

「全然見えない」

 

 笑いながら女の子は言って、差し出した千円札三枚と交換で、CDを手渡してくれる。僕はそれを鞄に大切に仕舞い込んだ。

 

「それじゃ、そろそろ帰ろうかな。これ飲んじゃっていいよ」

 

半分も中身が残ってない缶を女の子に渡して、フィルターギリギリまで燃え尽きた煙草の先を地面に押し付ける。火の消えた煙草は、別にそのまま放置して良かったけれど、なんとなくポケットに突っ込む。

立ち上がろうとすると、女の子に待ったをかけられた。

 

「何?もう食べ物は持ってないよ?」

 

「それは残念だけど、そうじゃなくて」

 

 女の子はギターケースの口を開けて、中身を取り出す。木の色のギターは近くで見ると傷だらけだった。太い弦を二本鳴らして、女の子がギターの先の方に付いてる金属の部品を、細長い指先で弄ると音が高くなったり低くなったり。そういう風に使うんだ、そのパーツ。

 太い弦から細い弦まで、音の高さを合わせた女の子は一気に全ての弦を弾いて、よし、と小さな声を漏らした。

 

「お礼。一曲、お兄さんが好きな曲を弾いてあげる!」

 

 胡坐を掻いた腿の上のギターを、ぽんと叩いて女の子が言うから、僕は「じゃあCDの一曲目のやつ」と答えた。

 

「私の曲でいいの?有名な曲だったら大体弾けるよ?」

 

 女の子はポロポロと、どこかで聞いたことがあるメロディをつま弾いて見せた。

 

「君の曲が良いかな。落ち着くから」

 

「へぇ、落ち着くんだ?」

 

 僕が頷くと、女の子は「変なの」と笑って、上機嫌にギターを弾き始めた。

 目を閉じる。カラカラの歌が聴こえてきた。お酒が入っているせいか、いつもよりも少し音程が曖昧で、舌っ足らずなような気がする。

 まばらな足音や車のクラクションがごちゃまぜになった街の音と、女の子の音楽が混ざり合って星ひとつ見えない空に消えていく。それを僕は目を瞑ったまま見送った。

 

 それから、僕と女の子の間にはひとつの決まりごとが出来た。

 それは僕が女の子におにぎりを奢る代わりに、女の子はライブが終わった後で、僕のリクエストに応えて一曲演奏するというものだった。

 女の子は華奢な見た目とは裏腹に、なかなかに食欲が旺盛で、先日ものは試しにと五個差し入れてみたら、ぺろりと平らげてしまった。

 一曲に、おにぎり五個というのは果たして割に合っているのかと思ったけれど、ただのコンビニのおにぎりを頬張る女の子の横顔があまりにも幸せそうだったから、そのくらい、どうでもいいかと思えた。


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