あれから三十分くらい高速道路を走って、周囲の景色がコンクリートの壁から、古ぼけた住宅の屋根と、禿げた田畑に変わり始めた辺りで、僕の運転する車はカーナビの声に導かれるままに高速を降りた。
僕も女の子も腹を空かせていたから、途中で見つけたコンビニに立ち寄った。僕はカップ麺と明太子のおにぎり、女の子は肉まんをふたつと、缶のおしるこ。正直、どうかしてる組み合わせだなと思った。女の子に一口だけ試させてもらったけれど、やっぱりどうかしてる味がした。一口の代償に、女の子は僕のおにぎりの、明太子の乗った部分だけを器用に齧り取っていった。
腹ごしらえを終えて、再び目的地に向かって車を走らせる。申し訳程度にあった街灯はすぐになくなった。ヘッドライトの光が、紅葉が散った裸ん坊の木々を照らす。CDの再生はとっくに終わっていた。今はエンジンの低い唸り声だけが響いている。
「あとどれくらい?」
「十五分くらいかな」
「そっか」
楽しみ。と女の子は言いながら、子供みたいに小さく足をばたつかせた。厚手のストッキングに包まれた女の子の脚は、僕たちが乗る車を囲う木々の枝の先みたいに、細くて頼りない。ほんの少し力を入れて握ったら簡単に折れてしまいそう。
「これから行くところ、お兄さんは行ったことあるの?」
「あるよ。もう何年も前だけど」
「デート?」
「まぁ、そうだね」
へぇ、と女の子は興味なさげに相槌を打つ。
もう何年も前、いつだったか思い出せない。たしか暑い季節だった。僕は夜景が見たいと言う同居人の声に応えて、ここに来たことがある。そのときはまだ車を持っていなかったから、わざわざ駅前でレンタカーを借りた。ぼんやりと覚えている夜景は綺麗だったかもしれない。それよりも顔の周りを執拗に飛び回る虫のうざったさのほうが記憶に残っている。同居人の顔はもう思い出せない。
真っ暗な道の先に、人工的な光が見えた。薄汚れた看板がある。看板には『展望台駐車場』の文字。ようやく目的地だ。カーナビがどこか満足げな音声とともにガイドを終了した。僕は駐車場の中に車を滑り込ませる。
五台の車が停められる小さな駐車場に車は一台もいなかった。平日の真夜中なのだから当たり前なのかもしれない。僕がエンジンを止めるやいなや、女の子は車のドアを開けて外に降りた。久しぶりの運転につかれた僕は目頭を強く揉んで、大きく息を吐く。コンビニで栄養ドリンクでも買っておけば良かった。
「お兄さん早く!」
後部座席が開く音、続いて女の子の少し興奮したような声。僕は両の掌で顔を拭ってから、車のドアを開けた。
山の空気は湿っていて、冷たくて、むせ返りそうになりそうなくらいに、土の匂いがした。僕はその空気を思い切り吸い込んで、そして思い切り吐き出す。真っ白な息が空気に溶ける。ぼやけた意識が少しだけはっきりしたような気がした。
後部座席が締まる音が大きく響く。こちら側に回り込んできた女の子の手にはギターケース。
「ギター、持っていくの?」
「うん。星を見ながら弾く」
「なんだかアーティストっぽいね」
僕が言うと、女の子は誇らしげに胸を張って見せた。「ほら、行こう」と言って、木で組まれた三階建ての建物くらいの高さの展望台の方に向かおうとする女の子の腕を掴む。振り返った女の子は疑問符を顔に浮かべて首を傾げた。
「どうしたの? トイレ?」
「違うよ」
女の子が傾げた首を反対の方にと倒した。長い黒髪が肩から零れ落ちる。
「あそこ、街の方を向いてるから、光で星が見えないんだ」
「どこなら見えるの?」
首を傾げたまま女の子が言う。僕は掴んだままだった腕を離して、女の子が行こうとした展望台の方とは反対方向、駐車場の出口に向かって歩く。女の子がすぐに横に並んだ。
「どのくらい歩くの?」
「わからないけど、そんなに遠くないと思うよ」
「来たことがあるんじゃなかったの?」
「さっきの展望台は。これから行くところは初めて」
駐車場を出ると、その先には想像以上の暗闇が続いていた。僕はポケットから携帯電話を出して、ライトを点ける。車のヘッドライトに比べると途方もなく頼りない光だけど、無いよりは良い。緩く傾斜した道。アスファルトに引かれた白線はところどころが掠れて消えてしまっている。左手には落ち葉が降り積もった土の斜面。右手には山肌。全くの無音に僕の革靴の足音と、女の子のスニーカーの足音が響いて消える。世界が終わった直後みたいな静けさと暗闇。どこまでも真っ黒な地面から視線を持ち上げて空を眺めてみると、黒い葉を茂らせた木々の枝が、僕たちを包み込んで自らの一部にしようとしているみたいに、幾重にも重なりあっている。当然だけど、星はまだ見えない。木々のせいで月の灯りすら見えない。
「どうして急に星なんか見たくなったの?」
真横で軽快な足音を鳴らす女の子に話しかけてみる。女の子はさっき僕がしたように、星の見えない空を見上げた。
「沙綾に会ったからかな」
「さあやって人は海じゃなかったっけ?」
「ポピパは星だから」
「そうなんだ?」
「うん。そうなんだ」
女の子はどこか上機嫌に言うと、ギターケースを持ったまま、くるくると踊るように回って道路の真ん中を歩き始める。少し先に行っただけなのに、女の子の華奢な後ろ姿が暗闇の中に呑みこまれてしまうような気がして、僕は慌てて追いかけた。
「転ぶよ? 暗いんだから」
「じゃあ、はい」と、女の子がギターケースを持っていない方の手を差し出してきたから、僕は反射的にその手を掴んだ。女の子の手は痛いくらいに冷たくて、少し乾燥していた。
「沙綾、ちょっと痩せてた」
「女の子は痩せてる方が嬉しいんじゃない?」
「おっぱいも痩せちゃったかも」
「それは一大事だ」
女の子に引っ張られるようにして、傾斜した道を進む。人気が全くない道路の真ん中を歩くのは、なかなかに爽快な気分だった。携帯電話のライトはいつの間にか消えていた。充電が無くなったらしい。
駐車場を出てからどのくらいの時間が経っただろうか。終わりが見えない暗闇と疲労感で頭がぼやけてきた丁度その時、左手の山の中にようやくそれを見つけた。気付かないで先に行ってしまおうとする女の子の手を引く。
いつからそこにあるのか分からない、最近の物のようにも思えるし、随分と年季が入っているようにも見える。それは鳥居だった。奥の方には石造りの階段が続いているのが見える。
今度は僕が女の子の手を引いて、一歩一歩、うっかり落っこちないよう慎重に石段を上った。幸いなことに、石段の数は少なくてすぐに上り切ることができた。
登り切った先にあったのは、小さな寂れた神社だった。今にも崩れて闇の中に溶けて消えてしまいそうな寂れた神社。
「お参りするの?」
「したい?」
「別に。お兄さんは?」
「全然」
信仰心なんてこれっぽっちも持ち合わせていないし、それに少なくともこんなおんぼろの中に神様がいるとは思えなかった。
僕は誰が中身を回収しているのかもわからない賽銭箱を横目に、女の子の手を引いて神社の裏手へと向かう。湿った落ち葉の地面が足音を消してしまって、自分がちゃんと歩けているのか感覚が曖昧だ。
神社の裏手に出ると唐突に視界が開けた。地面に打ち込んだ木の杭にロープを渡しただけの、申し訳程度の柵の向こうに夜空が広がっている。空を覆っていた木々の枝にくっついた葉っぱが、僕たちの足元に堆積している落ち葉が、赤や黄色に彩られてることに今更になって気が付いた。
女の子が僕の手をするりと離して、柵の方に向かって歩いて行く。
僕の腰くらいまでの高さしかない柵の、ギリギリの所に立った 女の子の四歩くらい後ろで夜空を見上げてみる。雲一つない透き通った黒。強い輝きの星が見える。けれど空の端の方は都会の光で薄く白くボヤけていて、か弱い星々を呑み込んでしまっていた。
「……ごめん。歩いた割にあんまり星見えないね」
徒労感に苛まれた僕は、そのまま湿った地面にへたり込んだ。お尻が冷たいけれど、いざ座ってしまうと足が萎えてしまって立ち上がる気になれない。このまま地面に溶けて、星空を覆う木々の一部になってしまいそう。
「歌ってもいい?」
黙って星を眺めていた女の子が振り返って言う。いつになく真剣な声色。半分に欠けた月の灯りが、女の子の黒く長い髪に反射して光った。
「いいよ。そのために来たんでしょ」
「ポピパの曲でも?」
僕は少しためらってから頷いた。知りたいと思ったから。以前にライブハウスでポピパの曲を歌う女の子から感じた疎外感のようなもの。僕だけが砂漠の真ん中に取り残されてしまったような、絶望的な疎外感。あれがライブハウスという空間が生み出したものなのか、それともポピパの曲を歌う女の子自身が生み出したものなのか、僕は知りたいと思った。
女の子はギターをケースから取り出すと、音叉を使ってギターのチューニングを始めた。この間やり方を教えてもらったけど、出来る気が全くしなかった。手早くチューニングを終えた女の子は、調子を確認するためにコードをいくつか鳴らした。家でギターを弾く時と全く同じ手順。それなのに、真夜中の神社という異質な場所にいるせいか、見慣れた行為が神聖な儀式のように見えてしまう。
青白い月の光が、目を閉じた女の子の顔を浮かび上がらせた。息を吸い込む音と一緒に、ゆっくりと瞼が開いて緑色が現れる。ギターの音が聞こえた。バラバラの和音。確かアルペジオという奏法。その音の上に女の子の声が重なる。以前にライブハウスで女の子が演奏した曲のひとつだ。
マイクとアンプで増幅されていない生の音はあまりにも頼りなかった。都会の光に呑みこまれてしまった星と同じくらいに頼りない音。カラカラに乾いた音。
足りていないような気がした。何もかもが足りていない。この曲はもっと多くの音が、もっと多くの歌声が折り重なって出来た曲なんじゃないだろうか。
女の子は懸命に歌っていた。ここじゃない何処かに向かって必死にギターを掻き鳴らして、喉を枯らさんばかりに叫んでいる。それでも隙間は埋まらない。月の光が女の子の必死に歪んだ表情を青く照らす。キラキラした雫が頬を伝って地面に落ちるのが見えた。同じだ、ライブハウスのときと。あのときは青い照明のせいで女の子が泣いているように錯覚した。けれど、あれは錯覚じゃなかった。
不意に、女の子の存在が遠くに感じた。木の杭にロープを渡しただけの柵の向こう側、暗い森の底よりもずっと遠くに。
僕は疲れて萎えた足に力を込めて立ち上がる。そのままの勢いで女の子に駆けよって、ギターごと思い切り華奢な身体を抱きしめた。どこかに行ってしまわないように力いっぱい。歌声とギターの音が途切れて、再び静寂がやってくる。
「どうしたの? したくなった?」
「……違うよ。どうして泣いてるのさ?」
「お兄さんだって泣いてるよ?」
「え?」
驚いて自分の頬を触ってみると、手に生温かい感触。確かに泣いていたみたいだ。なんで? 女の子が僕の頬に自分の頬を擦り付けてくる。ふたり分の涙が混ざり合う。温かい。
「お兄さんは泣き虫だね」
そう言って女の子は僕の背中に手を回して、僕の方に体重を預けて来た。疲れ切った僕の脚は、情けないことに女の子の軽い体重すら支え切ることが出来ず、ふたり揃って落ち葉の溜まった地面に崩れた。間に挟まったままだったギターが肋骨にめりこんで鈍い痛みが走る。木の板が軋んで割れる、致命的な音が聞こえた。
女の子が僕の頭の横に両手を付いて、体を起こした。肋骨の鈍痛が和らぐ。涙の粒が、僕の顔の上に落ちる。女の子は、多分壊れてしまったギターを、落ち葉の上に優しく寝かせると、そのまま僕の上に倒れ込んできた。僕が背中に手を回して抱きしめると、女の子はさっきみたいに、涙に濡れた頬を僕の頬に擦り付ける。こんなにも涙を流しているのに、女の子の身体は全く震えていなかった。嗚咽すら聞こえない。自分が泣いていることに未だ気付いていないのかもしれない。ただ、涙だけが止めどなく流れている。
「やっぱり聞こえないや」
「聞こえないって、何が?」
多分、独り言だったのだろうけれど僕は訊いてみた。女の子は少しだけ身体を起こす。至近距離で視線が合う。
「星の鼓動」
「……なにそれ?」
「さぁ?」
なんだろうね。そう言って女の子は曖昧に表情を歪めた。緑色の瞳の端から新しい涙が一粒、また一粒と生まれては青白い頬を伝って、僕の上に雨のように落ちてくる。晴れた日の雨のように温かい。
その光景は美しかった。女の子の後ろに広がるちっぽけな星空よりもずっと、どうしようもないくらいに美しくて、そしてどうしようもなく哀しかった。