体中の水分が枯れるまで流れ続けるんじゃないかと思った女の子の涙は、僕の背中が地面にくっついてしまう前にピタリと止まった。僕の方の涙もいつの間にか止まっていた。濡れた頬を撫でる夜の空気が冷たい。
「帰ろうか」
僕が言うと、女の子は涙や鼻水を僕のコートで拭って、確かに頷いた。
帰りは来た道を戻るだけで、それに下り坂だったから思っていたよりも早く、展望台がある駐車場に戻ることが出来た。
しかし、以前にどこかで聞いた、山道は登りよりも下りの方が辛いというのは本当だったらしく、車に乗り込んでようやく一息ついた瞬間、左右のふくらはぎの軋む音が聞こえた。シートに体を沈めると、そのまま溶けて染みにでもなってしまいそう。それくらい疲弊していた。
女の子が、多分どこかが壊れてしまったギターが入ったケースを後部座席に積み込んでいる。キーを差し込んでエンジンを掛ける。フロントパネルの時計に表示された時刻は午前四時。思っていたよりもあの寂れた神社に長居していたらしい。
エアコンの温度と風量を最大にするのと同時に、後部座席のスライドドアの閉まる音がした。それからすぐに助手席のドアが開いて女の子が乗り込んできた。
「吸っても良い?」
女の子はポケットから煙草の箱を取り出して言った。きっと冷え切っている手の中に収まってるのは、ここのところ見かけなかった、例の変わったデザインの煙草の箱。
シートに匂いがつくかなと思ったけれど、他に誰かを乗せるわけでもないから、僕は女の子に「いいよ」と言って、窓を少しだけ開けた。
女の子は煙草を一本、口に咥えてライターを擦った。甘い匂いのする煙が車内に漂う。運転席側の窓をほんの少しだけ開けた。窓の隙間から、湿った森の空気が入り込んで、煙草の煙に混ざり合う。疲れ切った体に不思議と心地よい。エアコンが吐き出す空気が温かく、頭がぼうっとしてくる。
「りみがいなくなっちゃったんだ」
車を走らせる気になれずに、気ままに漂う紫煙の軌跡を目で追っていると、今まで無言だった女の子が唐突に言った。女の子は短くなった煙草をドリンクホルダーのおしるこの空き缶の中に落とした。
「大阪の、ゆりさんと同じ大学に進学して、家族でそっちに住むって」
「その、りみさんっていう人は、ポピパのメンバー?」
「出発する前の日、他のバンドの人も集まって、ありさの家の蔵でライブをやって、人が多すぎてぎゅうぎゅうだったけど、凄く楽しかった。ハコフェスって知ってる? ライブハウスじゃなくてスタジオでライブをやるフェスがあるんだ。お客さんとの距離がこんなに近いの」
女の子は僕の顔のすぐ近くまで顔を近づけてきて、軽く額をぶつけると元通りシートに収まる。新しい煙草を咥えて火を点けた。女の子は笑っていた。本当に楽しそうな笑顔。路上で歌っているときとは違う笑顔。初めて見る笑顔だった。僕は何故だかその笑顔が見てられなくて、フロントガラスのまだ夜明けの気配を感じさせない、真っ黒の空に視線を逸らした。
「ライブが終わった後は、そのまま蔵でポピパのメンバーだけでたくさん話をしたんだ。たくさん、朝までずっと」
初めての蔵でのライブ。ポピパがポピパになった文化祭のライブ。スペースというライブハウスでのオーディション。皆で海に行って遊んで、そこでもライブをしたこと。ちょっと喧嘩をしたこと。そして仲直りしたこと。
女の子の語る思い出話には、ポピパのメンバーの他にも、聞いたことが無い名前が沢山出てきた。僕とは大違いだ。僕には彼女、出ていった同居人しかいなかった。
そうして女の子が次々と語る話に耳を傾けているうちに、今まで僕の中で、不確かで薄もやに包まれたような、ぼんやりとしていた女の子の存在が、明確な輪郭と質量を伴ったものに変化するのを感じた。同時に深い恐怖を感じた。全身が粟立つような恐怖。背骨を直接、ナイフの腹で撫でられるような、どうしようもなく深い恐怖。相手の存在を深く認識するということは、その存在が失われたときの喪失感も、大きくなるということに他ならない。その喪失感がどれほどの空虚を生み出すのか、僕は知っている。
「その、ポピパはどうしたの? どうして君は今、ひとりで音楽をやってるの?」
だから、これ以上、女の子のことを知りたくなかった。なのに訊いてしまった。
「ポピパは、私が壊しちゃった」
先程までの思い出を語るのと同じ調子で言うものだから、女の子が何と言ったのか理解が追い付かなかった。呆けた僕の顔を見て女の子は変な顔、と笑った。短くなった二本目の煙草を空き缶の中に放って、すぐに三本目に火を点けた。いつになく吸うペースが速い。
「……壊したって、どういうこと?」
「りみが出発した後、残ったメンバーで集まってどうするか話し合ったんだ。ポピパをお休みにするか、おしまいにするか、それとも続けるか。どれに決まってもりみが辛いだろうから、だからみんな話せなかった」
女の子はまだ長い煙草を缶に落として、今度は新しい煙草を取り出さずに、空いた手を体の前で組んで、自分の親指の爪をじっと見つめた。僕も吸い込まれるように女の子の、少し深爪気味の、しなやかな親指に視線を落とす。
「話し合って、香澄と有咲はお休みにしようって言って、私と沙綾は続けたいって言って、意見がふたつ別れちゃった」
「どうして続けたいと思ったの?プロを目指してたとか?」
僕の質問を、女の子は首を振って否定する。滞留した煙が女の子の髪の毛にかき混ぜられて複雑な模様を描いて、そして消えた。
「沙綾はその方がりみが安心するからって」
「安心?」
「うん。沙綾、お家の都合でポピパの前に組んでたバンド抜けたことがあるんだけど、そのバンドが新しいメンバーを見つけてちゃんと続いてるのを見たとき、凄くホッとしたんだって。だからりみも、ポピパが続いてる方が安心するんじゃないかって」
沙綾らしいよね?と言って、くすぐったそうに、はにかむ女の子に、僕は曖昧に頷いた。
「私はね、続けないとバンドが無くなっちゃうと思ったから、だから続けたいって言った。お兄さん、活動休止したバンドがどうなるか知ってる?」
「休止なんだから、そのうち再開するんじゃないの?」
「ううん、ほとんどのバンドはそのまま無くなっちゃうんだ。私、高校の頃ライブハウスでアルバイトしてたから、そういうのを沢山見た。今のバイトでもしょっちゅう見てる。再開してもメンバーが入れ替わってたりして、そのままの形で戻ってきたバンドなんてほとんどなかった」
そういうものなのか。たまにネットで見かける、バンドの活動再開のニュースは、女の子の話を聞く限りだと、奇跡のようなことなのかもしれない。
僕は何故だか寂しい気持ちになって、シートの上に垂らしていた掌を握ったり開いたりした。その掌の上に女の子が手を重ねてきた。どちらともなく、ゆっくりと握りしめる。車内はもう少し暑いくらいに暖房が効いてるのに、女の子の手は冷たい。
「それで、どうしてその……君がポピパを壊すことになるの?話を聞いた感じだと、そのまま続いてそうなものだけど」
「私、自分の気持ちを言葉にするのが下手くそ。そのせいで有咲のこと怒らせちゃった。『私たちの絆はそんな脆くねーっ!』て。有咲はね、普段はつんつんしてるけど、本当は誰よりもポピパのことが好きなんだ」
自慢げに言って、女の子は僕の手を強く握った。けれど僕が「仲直りはしたの?」と訊くと、その力はすっと弱まった。そして女の子は視線を足元に落として、小さく首を振った。「どうして?」と僕は訊いた。女の子の、ポピパの思い出話を聞いた後だと、有咲さんじゃないけれど、彼女たちの絆が、こんな些細なことで壊れるとは、僕にはとても思えなかった。
車内を沈黙が覆った。動き続けるエアコンの駆動音が煩わしく思えたから、風量を絞ると、今度はエンジンの低い唸りが耳についた。
「話し合いをした夜、沙綾のお家で悲しいことがあったの」
女の子は言った。
「悲しいこと?」
「うん。とっても悲しいこと」
悲しいこと、と聞いていくつかのことを思い浮かんだ。けれど、その全てが口に出すのは憚られて、僕は開きかけた口を閉じることしか出来なかった。
「沙綾がバンドを続けられなくなっちゃって、仲直りできないまま、みんなも自分の生活で忙しくなって……」
唐突に、女の子が窓を開けた。甘い匂いで満たされた車内に、山の空気が流れ込む。朝の香りがした。黒で満たされていた空が濃い青に変化している。夜明けが近い。濃紺の空を眺める女の子の横顔がやけにはっきりとして見えた。
「もう朝だね」
僕は女の子の横顔から目を離せないまま「そうだね」と答えた。「帰ろう。今日もお仕事行くんでしょう?」僕を振り返って言う女の子の瞳は、いつもと変わらない吸い込まれるような緑色。今は赤や黄で彩られている山の木々も、夏になればこんな緑色になるのかもしれない。そんなことを考えながら、僕はもう一度「そうだね」と女の子に返事をした。
ーーーーー
薄明るい山道の風景はどこか滑稽で退屈なものだった。僕はいまさらになってやって来た眠気に抗いながら、なんとか山を下り終えた。女の子はというと、車を走らせ始めてすぐに眠ってしまった。なんとなく、柔らかな頬を突いてみたけれど目を覚ます気配は無かった。 数時間前に立ち寄ったコンビニの駐車場を通り過ぎる。横目に見た駐車場は半分程埋まっていて、作業着を着た男が軽トラックに乗り込んでいた。
「んぅ……」
女の子の眠りはそこまで深くなかったようで、高速に入った際にETCが鳴らした音に不満げな声を漏らしながら、のそりとシートから身体を起こした。寝ぼけているのか、まるで開き切っていない目で辺りを見回している。
「まだ高速に乗ったばかりだから、もう少し寝てなよ」
「ん……」と、きっと僕の言葉を理解していないであろう女の子は、目を擦りながらポケットを漁り始めた。ピックや小銭がシートの隙間に転がり落ちた。そうして煙草とライターを探り当てると、箱から直接一本咥えてライターを擦った。車内に残っていた山の匂いの気配を、紫煙の匂いがベタベタと上塗りする。胸を大きく膨らませて煙を身体に取り込んだ女の子は、半分眠った目でもう随分と明るくなった外を見て、そして小さな声を漏らした。
「……だ」
「え? なに?」
僕が訊き返すと、女の子は前を向いたまま、緩みきった表情で「お兄さん。ホテルカリフォルニアだよ」と舌足らずに言った。
僕は女の子の視線を追う。遠くの景色にポツンと見えたそれは、ホテルカリフォルニアなどではなく、寂れたラブホテルだった。お城のような建物を照らす毒々しい色の照明が、夜と朝のちょうど中間位の青に侵食されて、ひたすらに虚しいものに成り下がっている。
だけど僕は「本当だ」と努めて明るい調子で言った。女の子が小さく肩を震わせて笑った。僕もつられるように笑った。ふたり分の笑い声が、呑気に浮かぶ白い煙を揺らした。