女の子が「あっ」という、現在の状況にはそぐわない、間の抜けた声を上げて動きを止めた。ベッドのスプリングの、きしむ音が止まった。
急に静まり返った寝室に、僕と女の子の荒い吐息の音だけが聞こえる。女の子が跨がっている以外の場所の熱が、緩やかに引いていくのを感じた。
僕の顔を見下ろしたままの女の子に「どうしたの?」と訊いた。上下する真っ白な肩を、蛍光灯の灯りが更に白く照らしている。
「今日、何日だっけ?」
僕は、唐突な問いに疑問を抱きつつ、サイドテーブルに置かれたデジタル時計の日付を見た。
「十二月三日……いや、明けて四日だね」
一拍置いて「もしかして、駄目な日だった?」と僕が訊くと、女の子は首を振った。流れる黒髪が綺麗だからひと房手に取ってみる。艶やかな黒が何の抵抗もなく手から零れ落ちる。
「誕生日」
「え?」
「今日、私の誕生日だ」
女の子は他人のことのように言った。
「えっと、おめでとう?」
「ありがとう?」
お互いに首をかしげながら言って、そして小さく笑い合った。
「何歳になったの?」と、僕が何気なく訊いてみると、女の子は両手でピースをして見せて「二十二歳」と答えた。
思っていたよりも若いんだなという感想を抱くのと同時に、迂闊に年齢を聞いてしまったことに後悔を覚えた。また女の子の存在が明確な物になった。腰の辺りに感じる女の子の体重が、少し増したような気がした。
「へくしっ!」
女の子が小さくくしゃみをした。そして自分の素肌の身体を抱いて身震いした。「寒い」と呟くと、女の子は僕の上から降りて、そのまま横で丸くなった。
女の子はアルバイトから帰ってくるなり、僕を引き摺って行ったものだから、寝室のエアコンは動いていない。
僕はサイドテーブルに置いてあるエアコンのリモコンを取って、設定温度を限界まで上げて起動した。用の無くなったリモコンを、床に脱ぎ散らかされた服の床の上に放った。
横で丸まったままの女の子の背中は、新雪で拵えた雪うさぎみたいに真っ白で、染みのひとつも見当たらない。脂肪の薄い背中に浮き上がった背骨の形を指先でなぞると、女の子はくすぐったそうに身をよじらせて、シーツに新しい波を作った。
僕は女の子の腰の辺りに手をやって、仰向けに転がした。シーツの海の上に、女の子の痩せた身体が浮かんでいる。あばら骨の輪郭に触れると、吐息のような声が鳴った。白くて細い手が伸びてきて、僕の腕を掴む。そしていつものように自分の首元に添えさせるから、僕は反対の方の手も、女の子の首に添えた。
どうしようもなく無防備な首筋を、親指の腹で上からゆっくりと撫で下ろすと、女の子は裸の爪先でシーツを引っ掻いた。僕のことを見上げる緑色の澄んだ瞳がドロリとした熱に染まる。エアコンが温風を吐き出す音が聞こえた。
僕はいつも通りに、女の子の首筋に添えた親指に力を加える。そうすると女の子の方も、いつもどおりに緩く口の端を弧の形に吊り上げた。ゆっくり、ゆっくり力を込める。女の子の身体が震えて、背中が弓なりに持ち上がる。力を込めた親指を少しだけ上にずらす。女の子の口の端から透明な唾液が糸を引いて垂れ落ちて、シーツに黒い点を落とす。開いた口の中に真っ赤な舌が見えて、そのさらに奥の暗闇から音が漏れる。垂れた瞳の端から雫が零れた。いつもどおり、いつもどおり。
ーーーーー
疲れ果てて眠ったというのに、目覚めは早かった。時計を見ると午前四時を少し過ぎた所で、最後に見たときから一時間しか経っていない。温度を限界まで上げたエアコンを点けっ放しにしていたせいだ。酷い喉の渇きを感じた。女の子が身体を起こして、長い髪の毛を煩わし気に掻き上げる。飛び散った汗の雫が数滴、僕の身体に落ちた。
目が冴えてしまった僕たちは寝るのを諦めて、少し早い朝食をとることにした。僕はとりあえず下着だけ身に着けてキッチンに向かった。寝室の外は空調が動いていないのだから当然寒かった。何かを作る気にもなれず食パンの袋と冷蔵庫にあったイチゴジャムだけを持って、リビングのエアコンの電源を入れると、速足で暖房の効いた寝室に戻った。
寝室に戻ると、女の子は素肌の上にTシャツだけを着て、ベッドの上に座っていた。まだ目が開き切っていない女の子の横に持ってきた食べ物を置いて、僕はクローゼットからパジャマを取って身に付けた。
「はい」と女の子がイチゴジャムに塗れた食パンを差し出してくれたから、僕は「ありがとう」と言って受け取り口に運んだ。強烈な甘味が味覚を刺激して、冷気で中途半端に目覚めていた脳が一気に覚醒するのを感じた。
女の子が自分の分の食パンにジャムを塗りたくっている。ジャムのスプーンを持つ左手とは反対の、食パンを持つ女の子の左手に僕の視線は吸い寄せられた。普段、家の中でも付けたままのリストバンドが無い。ただでさえ白い肌なのに、日に全く触れていなかったその部分は、より白く見える。
一緒に暮らしているのだから当たり前なのだけれど、女の子の左の手首を見たのはこれが初めてではない。だけどこうしてまじまじと見るのは初めてのことで、何か彼女の隠している部分を見ているような気がして、僕はお腹の奥が熱くなる錯覚を覚えた。
「それ、痛くないの?」
女の子の右手に無数に描かれた横長の傷跡を指差して僕は言った。
寝ぼけ眼の女の子は、ゆるゆると視線を自分の左手首に落として、しばらく動きを止めると「あぁ」と何か納得したような声を漏らして「ごめん。いま隠すから」と言った。
「なんで隠すの?」左手に食パンを持ったまま、脱ぎ散らかした服を漁り始める女の子に僕が訊ねると「だって気持ち悪いでしょ?」と女の子は答えた。
「気持ち悪い?」
「うん。ライブハウスの音響さんに、引かれるから客には見せるなって言われた」
「僕はお客さんじゃないでしょ?」
「お兄さんはお客さんでしょ?」振り返らずに言った女の子は言う。
僕は食べかけの食パンをそっとベッドの上に置いてから、女の子の方に這って行って、ジャムが並々と塗りたくられた食パンを持つ、女の子の左手を掴んだ。傷に触れてしまったのか、女の子の身体がびくりと跳ねて、手からこぼれた食パンが僕のワイシャツの上に、グロテスクな音を立てて落下した。
「別に気持ち悪くないよ、むしろ綺麗だと思う」
僕は本心からそう言った。色の薄い肌の上に並んだ傷は、表面が引き攣っただけの治りかけの物もあれば、まだ真新しい不完全なかさぶたが覆っただけの物もある。そのいくつかの傷跡は、あまりにも均整がとれた、ヨーロッパの何処かの国の高名な人形職人が拵えたビスクドールのような、女の子の身体の中で唯一の不完全な物で、彼女が僕と同じ生きた人間であるということを教えてくれる物だった。
女の子は自分の手と僕の顔を見比べて「お兄さんは変態だね」と言って笑った。
「変態はそっちの方じゃない?」
「私? どこが?」
「この傷もそうだけど、僕に首を絞めさせるでしょ? 結構なマゾヒストだよね?」
女の子は眼を瞬いて「マゾヒスト?」と首を傾げた。僕が少し考えて「痛いのや苦しいのが嬉しい人のこと」と言うと、女の子は「ああ」と納得したように頷いて「沙綾のことか」と言った。まだ見ぬ沙綾さんのイメージが大きくゆがんだような気がして、僕は聞こえなかったふりをした。
「私、痛いのも苦しいのも好きじゃないよ?」
「嘘だ」
「ほんと」
「ならどうして、僕にああさせるのさ?」
僕は空いている方の手で女の子の髪の毛を持ち上げた。露わになった華奢な首にはくっきりと僕の手の形が赤く残っている。女の子は自分の首をそっと撫でて「安心するから?」と疑問形で言った。
「安心?」
「うん。なんていうか、大丈夫になる」
「……そうなんだ?」
「うん」
他人に首を絞められること、大切な血管が通る真上の皮膚を傷つけることが安心につながるとは僕には到底思えなかった。むしろ恐怖しか感じないと思う。
急に女の子の手が伸びてきて、僕の首を触った。声が漏れそうになるのを堪える。左の太い血管を上から下になぞって、女の子の首にはない喉仏を何度か撫でた。
「今度、私もしてあげようか?」
なにを。と返すのは無粋に思われたから、僕は「お手柔らかに」と答えた。女の子は目元だけで微笑んで、僕の喉仏を深爪気味の指先で軽く引っ掻いた。
ーーーーー
五枚あった食パンは、一枚を僕が食べて、もう一枚は僕のシャツの上に落ちた。そして残りの三枚はというと女の子の胃袋の中に収まった。新品のイチゴジャムは、半分程減っていた。
早い朝食を終えた僕は、残ったジャムを冷蔵庫に戻して、散らかった衣類をひとまとめに抱えて洗濯機に詰め込んだ。真っ赤な染みが付いたシャツは早々に諦めて、へばりついた食パンごとゴミ袋に丸めて放った。
適当に後片付けを済ませて寝室に戻ると、女の子はこちらに背を向けてベッドで丸くなっていた。Tシャツに背中のラインが隠されていることが残念に思った。
「二度寝するの?」僕はベッドサイドに腰掛けながら言った。
「うん。食べたら眠くなった」
「バイトは夜から?」
「今日はお休み」
さっきみたいに暑さで起きる羽目にならないように、エアコンの設定温度を23℃温度を落とすと、駆動音が急に落ち着いて、外から車の行き交う音が聞こえてきた。時計に目をやると時刻は六時近くになっていた。ついでに日付をもう一度確認する。十二月四日。水曜日。週のど真ん中だ。
衣擦れの音がして、女の子が僕の背中を突いた。振り返ると、丸まったままの女の子と視線が合った。
「お兄さんはお仕事?」
少し考えてから「いや」と首を振って「そういえば休みだった」と答えた。「じゃあ一緒に二度寝しよう」と女の子は眠たげに言うと、身体をずらして一人分のスペースを開けてくれたから、僕は蛍光灯の灯りを消した。
朝の光がカーテンの隙間から漏れて、女の子のTシャツの裾から、しなやかに伸びた脚を照らしている。僕がそれを綺麗だと褒めると、女の子は「やっぱり変態だ」と楽しそうに言って、穏やかに寝息を立て始めた。