ウサギ小屋からは出られない   作:ペンギン13

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インスタントコーヒー。ふるふる。初めて。

 目を覚ましたのは僕の方が先で、時刻は正午を過ぎていた。

 隣であおむけに眠る女の子の、赤黒い痕が残る首に指の先で触れた。太い血管が通る辺り。温かな脈動を感じる。澄んだ寝顔は人形のように無機質なのに不思議。瞼にかかった前髪を除けて頭をひと撫ですると口元がだらしなく緩んだ。何か、良い夢でも見ているのかもしれない。僕は女の子を起こしてしまわないように、そっとベッドを出た。

 

 

 纏わりつく多少の眠気と、ベタつく身体を熱いシャワーで洗い流して浴室を出ると、リビングのソファの上にうつ伏せに眠る女の子の姿があった。長い脚がソファからはみ出してしまって窮屈そう。風邪をひくよ。僕は女の子を揺り起こして、シャワーを浴びてくるよう促した。女の子は緩慢な動作で起き上がると、危うい足取りで浴室の方に消えていった。

 洗濯だとか、色々とやらなければならないことはあったけれど、とりあえず女の子がシャワーから上がってくる前に朝食、というか昼食を作ることにした。

 本当なら卵焼きになるはずだったスクランブルエッグと、戸棚にあったレトルトの白米と味噌汁とをテーブルに並べていると、華奢な身体にタオルを巻いただけの女の子が。赤みの差した白い肩と、乾ききっていない髪の毛の艶やかな黒のコントラストが目に毒。

 

「……ごめん、着替え出しておけばよかったね」

 

「ううん、大丈夫。美味しそうだね」

 

 そのまま食卓につこうとする女の子を押しとどめて、髪の毛は妥協して、服を着て貰ってから、ふたり、少しだけ冷めたご飯を食べた。

 

 

 食後、僅かな洗い物を女の子に任せて、僕は洗濯にとりかかった。ふたりぶんの汗やら何やらを吸い込んだベッドのシーツは精神に良くない匂いがしたから、手早く洗濯機に押し込んだ。

 衣類とシーツとが洗濯機の中で回転するのを確認してリビングに戻ると、焦げた煙草の煙と、コーヒーの香りが僕を迎えた。食器が片付いたテーブルの上にマグカップがふたつ。硝子製の小さな灰皿、それと煙草の箱と100円ライター。

 ソファに凭れた女の子は、咥え煙草の先から煙を漂わせたまま、じっと電源の点いていないテレビの黒い画面を眺めている。

 僕は女の子の隣に腰掛けて、コーヒーありがとう、ウサギの絵がプリントされていない方のマグカップを手に取って、一口啜った。インスタントコーヒーの当たり障りのない安っぽい風味。女の子に習ってテレビの黒い画面を眺める。無音。白い煙がふわふわ漂うのを目で追いかけると、部屋の隅に置かれたギターケースが視界に入った。その表面に薄っすらと埃が堆積し始めている。

 あの日、真っ黒な木々に囲まれた、頼りない星灯りの下でのライブから、女の子がギターを弾くところを見ていない。僕と女の子の間に挟まれたときにギターが上げた、致命的な悲鳴を思い出す。本当に壊れてしまったのかもしれない。僕は死んでしまった貝みたいに固く口を閉ざしたギターケースから目を逸らした。

 

「静かだね」

 

「うん」

 扉越しに洗濯機の駆動音が薄く鳴るだけのリビングに女の子の声が落ちる。歌声もギターの音色も存在しないリビングは確かに静かで、少し物悲しい。

 僕はテーブルの上の煙草の箱から一本拝借して、ライターを擦った。女の子のものと混ざり合った煙が、エアコンの風に掻きまわされて不規則な模様を描く。

 

「どこか、出かけようか」

 

 煙が溶けた空間を眺めながら僕は言った。

 

「どこかって?」

 

「行きたいところある? 出来れば山と海以外で」

 

 この間の山登りの翌日、酷い筋肉痛に見舞われた僕は予防線を張る。こちらは歩くのもやっとの状態なのに、女の子の方はというとケロリとしていて、情けない気持ちになった。

 女の子は思案気な表情で、ミルク入りのコーヒーのマグカップを持ち上げて一口啜った。真っ赤なしたが唇を舐める。そうしてマグカップのウサギのイラストを指の先でなぞって「ウサギが見たい」

 

「ウサギ? ……じゃあ、動物園かな」

 

「ううん、ウサギだけ見れればいい」

 

「そんな都合がいい場所なんて」

 

 ないでしょ。僕が言うと、女の子はマグカップから視線をこちらに移して「あるよ?」

 

 

「本当に?」

 

「うん。ある」

 

「……もの凄く遠かったりしない?」

 

「近いよ」

 

 女の子が挙げた地名は、ここから電車で30分くらい。都内でも特に栄えている場所で、山や海に比べると確かに、ずっと近かった。

 平日でも、常に人がごった返しているその場所に出向くのは、内心でほんの少し億劫だったけれど、自分から出かけようと言い出した手前、反対するのもどうかと思ったし、なにより先程までの気だるげな雰囲気は何処へやら、すっかり出かける気になったのか残りのコーヒーを、一気に飲み干した女の子に行きたくないなんて言えるわけもなくて「そこに行こうか」

 女の子の口元がほころぶのと同時に、扉の向こうから洗濯が終わったらしいくぐもった電子音が聞こえた。

 洗濯物を干してからね、僕は半分程が灰になった煙草を灰皿に押し付けて、急ぎ足で脱衣所の方に向かった。

 

 

ーーーー

 

 

 空は曇り模様だった。薄絹のような雲の切れ間から差した白い陽光が、乾いたアスファルトの上を舐める、そこはかとない温かさを感じさせる曇り空。

 駅までの道すがら、僕の数歩先を歩く女の子の髪の毛は珍しく、高い位置で一本にまとめられていて、女の子が歩みを進める度、上機嫌に毛先が揺れている。

 服装の方も珍しい。厚手のパーカーの上に着た、青地に袖が白のスタジアムジャンパー。ベージュ色の膝上丈のスカート。普段はくたびれたコンバースの足元は、黒のドクターマーチン8ホールで飾られている。全体的にカジュアルな印象の服装は新鮮で、なんとなく、目が離せなかった。

 

「お兄さん、歩くの遅い」

 

 ブーツの踵が地面を蹴って、女の子がこちらを振り向く。ふわり、スカートが膨らむ。伸びた華奢な白い脚はこの季節には少し寒々しい。

 

「そんなに急がなくても、ウサギは逃げないでしょ?」

 

 逃げるよ、ウサギは。歩く速度を緩めて僕の隣に並んだ女の子が言った。

 

「そうなの?」

 

「うん。逃げ足も凄く速い」

 

「速いって、どのくらい?」

 

「40㎞くらい」

 

「……それは速いね」

 

 並んで歩く僕たちを自転車が追い越す。ハンドルがカマキリみたいな、スピードが出るタイプの自転車。

 

「一番早いのは、ジャックラビットで70㎞くらいかな」

 

「へぇ……。 君はウサギに詳しいんだね。ウサギ博士だ」

 

「うん。ウサギのことなら、なんでも知ってる」

 

「なんでも?」

 

 なんでも。女の子が自信ありげに言うものだから、なんとなく悪戯心が湧いた僕は、それじゃあウサギの性欲が凄いっていうのは本当なの? と訊いてみた。女の子はゆっくり神妙に頷いて。凄い、気づいたら20羽になってた。

 

「ちょっと待って、気づいたらって本当に20羽も飼ってるの?」

 

「実家でだけど。今はもっと増えてるかも」

 

 唖然とした。一般の家庭でそんな数のウサギを飼っているのはいまいち現実的じゃない。

 

「女の子のなかに、男の子を入れると大変。すぐに上に乗っかってふるふるして……。お兄さんみたいだね」

 

「え、僕?」

 

「うん、そっくり」

 

「僕はラクダなんじゃなかったっけ?」

 

「ラクダの皮を被ったウサギ?」

 

 結局ゆっくりと歩きながら、そんなどうしようもない、他愛のない話をしているうちに、僕らは住宅街を抜けて、駅に近づくにつれてすれ違う人がぐっと増えて、そうして女の子がよく路上ライブをやっていたデパートの前に差し掛かった。

 女の子が歩みを止めた。人が出入りするデパートの自動ドアの方をぼんやり見ている。つられるように僕もそちらに視線を移す。寄り添ったおじいさんと、おばあさん。ベビーカーを押した、恐らく僕と同じ年の頃の主婦。スーツ姿の男性。その光景は新鮮だった。朝、仕事に行くときも、夜に帰ってくるときもシャッターは閉じていたから。

 

「そういえば初めてだね」

 

 雑踏に掻き消されそうな大きさの声で、女の子が言った。明るい時間に、お兄さんと出かけるの。

 

「そうだっけ?」

 

「そうだよ」

 

「……そっか」

 

 うん。女の子は頷いて、駅の方に歩き始める。僕はもう一度だけデパートの自動ドアの方を見てから女の子の後を追って、隣に並ぶ。

 

「これから行くところに、さっき言ってたウサギ、えっと……」

 

「ジャックラビット?」

 

「そう。そのウサギっているのかな?」

 

 いないと思う。即答。少し興味があったから残念。

 

「多分、日本にはいないんじゃないかな」

 

「外国のウサギなんだ。どのあたり?」

 

「カリフォルニアとか」

 

 ホテルカリフォルニアに住んでるかもね。

 改札口にウサギ型のパスケースを押し当てながら、女の子は面白そうに言った。

 

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