ウサギ小屋からは出られない   作:ペンギン13

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うさぎのあな。

 二十分程電車に揺られて、山手線に乗り換えてさらに十分。久しぶりに訪れた大きな駅は、相変わらず人が多くて騒がしい。甘ったるい匂いのする洋菓子を売る店や、流行りの洋服を扱うブティックが軒を連ねる、煌びやかな駅ビルの中を通り抜けて、駅を出てすぐの大通りの信号を渡る。飲食店が立ち並ぶ狭い通りを、五分ほど真っすぐ。途中で右に折れて踏切を渡る。そこから女の子は、古い建物と極端に新しい建物とが混在する、個性のない東京の道を慣れた様子で突き進んで、迷うことなく目的地にたどり着いた。

 真新しいオフィスビルの一階。良く磨かれた硝子のドアに白のゴシック体で『うさぎのあな』の文字。その外観は新しく開業した病院のような洗練された清潔感を放っていて、硝子の奥に見えるウサギのケージに気付かなければ、何の店かもわからないまま、素通りしてしまいそう。

 女の子に続いて店内に足を踏み入れる。いらっしゃいませ、と奥の方から声。他に客はいないらしく閑散としている。程よく暖房された店内は決して広くはないものの清潔そのもの。白いタイルの床が光沢を放っている。ずっと以前に同居人に連れられて行ったペットショップの雑然とした様子をイメージしていたから意外。

 左手に整然と並んだ統一規格のケージの中には様々な種類のウサギ。タブレット端末がレジ代わりの小さなカウンターの横には、品のある木製の丸テーブルと、ウサギの耳を模った背もたれの椅子が三脚。カウンターの奥は硝子張りになっていて、ウサギにブラシを当てる従業員の姿が覗ける。右手には、ウサギのエサや遊び道具らしいものが棚にずらり。

 花の蜜に誘われる蝶々みたいに、女の子がウサギのケージの方にフラフラと歩み寄る。ウィンドウに鼻の先がくっつきそうなくらい顔を近づけて、眺めているウサギはぬいぐるみのように小さくて、全身の毛の色は真っ白なのに目の周りだけが、化粧でもしているみたいに黒い。ケージの隅のプライスカードに『ドワーフホト』と書かれていて、どうやらこのウサギの品種らしい。

 他のケージに視線を移すと、このドワーフホトとは全く違った毛並みや大きさのウサギがいて、その種類の豊富さに純粋な驚きを覚えた。

 

「ウサギって、こんなに種類があるんだね」

 

「みんなかわいいでしょ?」

 

 僕が素直に頷くと、女の子は満足げに鼻を鳴らして、あっちのウサギはネザーランドドワーフ。その隣の耳が垂れてるのはホーランドロップ。ここにはいないけれど、アンゴラウサギっていうのが有咲に似ていて。

 ウサギの品種から性格まで、すらすらと説明してくれる。こんなに饒舌な女の子は初めて見た。その横顔はギターを弾いているときと同じか、もしかしたらそれ以上に生き生きとしている。

 女の子の話に耳を傾けていると、凄くウサギにお詳しいんですね、背後から控えめな声。振り返るとお店のエプロンを身に着けた、少しふっくらとした体型の、多分三十代くらいの女性の従業員。私の出る幕が無いです、と苦笑を浮かべた。

 

「お家にウサギがいらっしゃるんですか?」

 

「いえ、彼女が実家で飼っているらしくて……」

 

「あら、そうなんですか?」

 

「はい。20羽……もしかしたらもっと増えてるかも」

 

「20羽!?」

 

 従業員がやや大きい驚きの声を上げた。ウサギのプロから見ても、20羽という数は常軌を逸しているらしい。従業員の声に反応したケージの中のウサギの視線がこちらを向いた。

 ご飯はどうしてるんですか? お家の中で飼ってるんですか?

 興奮した従業員の質問に女の子は淡々と、けれど満更でも無い様子で答える。その内容はだんだんと専門的なものに変化して、初心者にはとてもついて行けそうにない。所在無い僕はケージのひとつに歩み寄る。

 ケージの中のウサギは耳が垂れていて、白と黒の毛並みが定規で線を引いたみたいに綺麗に分かれている。なんとなく女の子の髪の毛と、裸身の肌を想起させた。ウサギは今朝の女の子みたいにぼんやり、何もない中空を黒い瞳に写している。僕はじっと、その艶のある一対の黒を覗きこむ。このウサギに限らず店内の、ケージに収められたウサギたちは一体、何を考えて生きているのだろう?

 お腹が空いた? 眠たい? 交尾したい? ……それとも、この檻から出て行きたい? 誰かに逢いたい?

 

「その子、気になりますか?」

 

 急に声をかけられて肩が跳ねる。背後で女の子と話し込んでいたはずの従業員が、いつの間にか横にいた。

 

「お連れ様を取っちゃってごめんなさい。随分と熱心に見てましたね?」

 

「そうですか?」

 

「お兄さん、私が声かけても気付かなかった」

 

「本当に?」

 

「うん、ほんと」

 

「それは、ごめん」

 

「うん」

 

 僕と女の子のやりとりに、従業員は小さく笑い声を漏らす。仲が良いんですね。

 

「もしよかったら、その子のこと抱っこしてみませんか?」

 

「え、でもいいんですか?」

 

「はい。デートの邪魔をしちゃったお詫びに。それに丁度、運動の時間でしたから」

 

 別にデートじゃ。言おうとして、説明が面倒臭そうだから止めた。

 どうする? 女の子に訊く。喜々として頷くと思ったのに意外、女の子は「お兄さんに任せる」

 その反応に内心で戸惑いつつ僕は従業員の女性に、それじゃあお言葉に甘えて。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 カウンター奥の硝子張りの部屋の中は、床一面が柔らかい人工芝で覆われていた。従業員に言われた通りに靴を脱いで入ると、芝の感触が靴下越しにくすぐったい。

 室内には、直径が150㎝くらいの八角形の背の高い柵と、中央に設えられたトリミングの際にウサギを乗せる台があって、奥には給湯器付きの二層シンク。コンセントに伸びるケーブル類が全てカバーで覆われているのは、誤ってウサギが齧ってしまったときに感電しないためだと、女の子が教えてくれた。

 

「あのウサギのことずっと見てたね」

 

「そんなに見てた?」

 

「見てた。気に入ったの?」

 

「どうだろう。毛並みが綺麗だなとは思ったけど」

 

「そっか」

 

 数分待って、従業員の女性が戻ってきた。お待たせしました。

 両の手で大事に抱いたウサギを、壊れ物でも扱うみたいにそっと、人工芝の床の上に降ろす。白と黒の毛並みのウサギは、口元を忙しなく動かして周囲を見回すけれど、意外にも逃げようとしない。女の子がウサギのすぐ傍にしゃがんで、大人しい子なんですね。

 

「そうなんです。凄くのんびりさんで、ご飯も近くに持って行かないと食べようとしないんですよ」

 

 困った風に言いながらも、背中からお尻にかけてを撫でる手つきは慈しみに溢れている。早速、抱っこしてみますか? 従業員は立ったままの僕を見上げて言った。

 立ったままだと危ないので、こちらに座って下さい。従業員に言われるがまま、女の子の隣に腰を下ろす。正座の方が良いよ、安定するから。今度は女の子に言われるがまま正座。何故だか背筋が伸びる。

 

「それじゃあ、まず私がお手本をお見せしますね。最初は頭を優しく撫でて、安心させてから……」

 

 額の辺りを重点的に撫でられたウサギは目がトロンとして気持ちよさそう。不規則にグゥ、グゥという鼻息ともつかない独特な鳴き声。ウサギには声帯がないから、喉の奥を狭めて音をだすんだよ、と教えてくれたのは女の子。

 

「落ち着いたら……まぁこの子はいつも落ち着いてるんですけど、こんな風にそっと胸の下に手を入れて、反対の手でお尻を支えてあげます」

 

 従業員はゆっくりと、けれど無駄のない動きでウサギをヒョイと持ち上げて見せる。ウサギの方も抱かれ慣れているのか、そこにいることが当然とばかりに従業員の腕の中に収まっている。「凄いですね」僕がため息交じりに言うと、従業員は「これでもプロですから」と、笑ってウサギを膝の上に降ろした。

 

「抱っこが苦手な子も中にはいるんですけど、そういう子は抱っこのあとにご褒美におやつをあげたりすると、ウサギの方もだんだん慣れてくれるんです」

 

「苦手でも、やらなきゃいけないんですか?」

 

「爪を切るときや、獣医さんに診てもらうときにどうしても必要なんですよ」

 

 ちょっと申し訳なさそうに言いながら、従業員はエプロンのポケットから一口大(ウサギにとって)のビスケットのような物を取り出してウサギの口元に運んだ。ウサギはビスケットを鼻先で数回つついてから齧りつく。従業員の指ごと齧ってしまいそうでひやひやした。

 

「では、次はおふたりの番ですね」

 

 ウサギがビスケットを咀嚼し終わるのを待って、従業員はウサギを膝から床に降ろしながら言った。

 お手本を見たところで正直出来る気がしない僕は、縋るような心持で女の子に視線をやるけれど「私はいいから、お兄さんやらせてもらいなよ」と。

 

「え、けど……」

 

「大丈夫。その子、凄く大人しいから噛んだりしないよ」

 

「ウサギって噛むの?」

 

「びっくりして噛みついちゃう子はいますね」と、従業員は小さな噛み痕がついた手を見せる。

 

「でも、彼女さんが言う通り、この子はちょっと鈍臭いくらいに大人しいですから大丈夫ですよ」

 

 それじゃあ、まずはさっき私がやったみたいに頭を撫でてあげてください。従業員に言われて、僕はおっかなびっくり、大人しく床に座るウサギの頭に手を伸ばす。耳から目、頬にかけてが黒、額から口元にかけては白の毛並みに指先が触れる。すべすべした感触が心地よい。ウサギが気持ち良さげに目を細めるのがわかったから、思い切って指先だけで撫でていたのを、従業員がやっていたように、垂れた耳ごと、手のひら全体で撫でてみる、ぐぅ。

 手のひらに伝う鳴き声の振動。おぉ、と思わず声が漏れた。

 

「お上手ですね。ウサギに触ったことあるんですか?」

 

「いえ、これが初めてです」

 

「本当に? ウサギの才能ありますよ」

 

「なんですか、ウサギの才能って」

 

「さぁ? なんでしょう?」

 

 従業員は小さく笑って、そのまま撫でてたら寝ちゃいそうですから、そろそろ抱っこしてみてあげてください。

 僕は、従業員が見せてくれたお手本を思い出しながら、ウサギの胸の下に左腕を差し込む。全くの初対面の僕に対してウサギは暴れるどころか、自分から腕に体重をかけてきたように思えた。それに安心を覚えて、僕はウサギの身体を軽く持ち上げて、すぐに反対の手でお尻を支えてやった。毛皮の下のしなやかな筋肉の感触と、意外と熱い体温が、右の手のひらを通して伝わる。ウサギの顔がこちらを向く。おやつを期待しているのかも。

 抱き上げたままでウサギと見合っていると、ぬっと視界に黒い影。ウサギを見るために身を乗り出した女の子だ。女の子の、髪の毛が高い位置で結われて露わになっている首筋には、今朝に比べると随分と薄く見える赤い掴み痕。女の子に請われて、僕が自分の意思で付けた痕。滑らかな手触り。確かにそこに存在する、生命のグロテスクな温かさ。ぐぅ、とウサギがまたひと鳴き。先程よりも直接的に感じた振動は、無意識に酸素を求めて喘ぐ女の子のそれによく似ている。

 

「この子、飼うの?」

 

 ウサギから僕の方を向いた女の子が言った。翠色と黒色の二対の瞳に見つめられた僕は戸惑って「え、そういう話だったっけ?」

 

「お兄さんが凄く懐いてる」

 

「……それ、逆じゃない?」

 

 ウサギに懐く人間とはいったい。僕は従業員がそうしていたように、ウサギを自分の正座の膝の上に乗せて、背中の曲線を撫でた。「食べさせてあげてください」と従業員が先程と同じビスケットを差し出してきたから受け取って「わかりました」恐る恐るウサギの口元に近づける。鼻先に当たるくらいまで近づけると、ウサギはようやく齧りついてくれて、指先に咀嚼の振動が伝わる。その様子を隣の女の子はじっと見つめている。

 

「……本当に良く懐いてますね」

 

「……僕がですか?」と訊くと、従業員は目を丸くしてから少し笑って「ウサギがですよ」

 

「今のお家では、ウサギは飼っていないんですよね?」

 

「はい」

 

「もし良かったら、その子を飼ってみませんか?」

 

 商売っ気をこれっぽっちも感じさせない、穏やかな調子で従業員は言った。ウサギと一緒の生活は大変なこともありますけど、とっても素敵なんですよ。

 

「そうなんですか?」

 

「ええ、それはもう」

 

 従業員が女の子に「ですよね?」と同意を求めると、女の子は無言でコックリ頷いた。視線はウサギに注がれたまま。

 膝の上のウサギは、ビスケットを食べ終えていよいよ眠たくなったのか、瞼がつぶらな瞳のほとんどを覆いつつある。ここまで懐いてくれるのなら飼うのも吝かではないと思えた。僕一人なら無理だけど、今なら女の子もいるわけで、ウサギも遊び相手に不自由しないだろう。ウサギは寂しいと死んでしまう。いつだったか女の子が言っていた。

「飼おうか?」僕は女の子に訊いた。飼おう。即答を期待して。けれどその期待は裏切られて、女の子は僅かな沈黙の後で「お兄さんが決めて良いよ」と答えた。

 

「僕が?」

 

「うん、お兄さんが」

 

 ウサギに注がれていた女の子の視線はいつの間にか持ち上がって、僕の目をじっと覗きこんでいる。感情を上手く読み取れない、いつも通りの瞳。……いや、いつもと少し違う?

 女の子から視線を逸らせないまま、僕は「少し考えさせて下さい」と妙に乾いた喉を震わせて言った。


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