これだけ長い時間接客してもらって、肝心のウサギを飼うことについては保留。
僕が店員だったなら、徒労感が間違いなく顔に出たと思う。けれど、目の前の従業員はむしろほっとした様な笑顔で「安心しました」
「安心ですか?」
「はい。この子のこと、しっかり考えてくれるんだなって。自分で勧めておいてなんですけど、勢いで飼って持て余してしまう人が多いんです」
従業員は、僕の膝の上ですっかり夢の世界に旅立ったウサギに視線を注ぎながら言って、ポケットから名刺入れを取り出して中から二枚、それぞれ僕と女の子に渡して寄越した。
「この子のこと、決まったらいつでも連絡してください。そうですね……三日間だけ、他のお客さんに貰われないようにしておきますから」
「いいんですか?」
「本当はダメなんですけど、特別です」内緒ですよ? と、少し悪戯めいた表情。
「お二人でしっかり話し合って決めてくださいね。子供みたいなものですから」
「子供、ですか……」
念を押すように言う従業員の言葉を僕は反芻する。
このウサギが子供だとして、僕は父親になるわけで、そしたら母親は……。
ふと隣に視線をやると、女の子は従業員の話を聞いていないのか、ひたすらウサギに視線を注ぎ続けている。
その様子に肩の力が抜けた僕は「よく考えてみます」と従業員に言った。
「ぜひ、そうしてください」従業員は、ほんの少し苦笑。そして僕の膝から慎重な手つきでウサギを抱き上げる。夢の中のウサギはピクリともしない。家のソファで眠りこける女の子そっくり。
ウサギをケージに戻しに行く従業員の背中を僕は未練がましく見送った。
ーーーーー
女の子が多分、家のウサギ用の小物を購入するのを待って、それから従業員にお礼を伝えて、僕らは店を出た。
随分と長居していたらしい。短い冬の日は暮れて、空は濃い藍色に染まりつつある。等間隔に並んだ街灯の灯りが寒々しい。
腕時計を見ると夕食にはまだ少し早い時間。もう一件くらいどこかに行ってもいいかも。
これからどうする?
訊こうとしたけれど隣にいるはずの女の子は、さっさと駅の方に歩き始めていて、僕は慌ててその後を追った。
「先に行かないでよ。この辺り、詳しくないんだから」
「良かったの?」
「え、何が?」
脈絡の無い問いに僕は首を傾げる。なんのことだかさっぱり。
点滅する信号を速足で渡り切る。女の子は歩調を緩めずに歩き続ける。
「あの子、飼わなくて良かったの」
「あぁ、そのこと……」
女の子の隣に並んで横顔を窺う。車道に並ぶ信号待ちの車のテールランプが、女の子の白い頬を赤く照らす。するりと女の子が右に折れた。多分来たときと同じ道なんだろうけれど、暗くなった今、不慣れな道は迷路みたい。
「お兄さん、あんなに懐いてたんだから飼えばよかったのに」
「だから逆だよねそれ」
速いペースで歩きながら話すことに辟易した僕は、女の子の手を掴んだ。肩が小さく跳ねて歩みを止める。細い指先が氷柱みたいに冷たい。
「どうしたの?」女の子は首を傾げる。
「歩くのが早すぎて、ちょっと疲れた」
僕が溜め息交じりに言うと、女の子は少し呆れた様子。
「ウサギに逃げられたら捕まえられないよ?」
「大丈夫。檻にしっかり鍵をかけておくから」
「虐待だ。ウサギ愛護法違反だよ」
「動物愛護法じゃなくて?」
どんなものか訊いてみると、女の子の言うウサギ愛護法は思っていたよりも物騒で、犯すとウサギのエサになるらしい。
掴んでいた手がするりと絡んで、女の子は歩き始める。今度はゆっくりとしたスピードで。乾燥したアスファルトを踏みしめる音がふたつ重なったり離れたり。氷柱の指先が温かく溶ける。
そうして歩いていくと踏切に辿り着いた。来るときはすんなり渡れた踏切は、今は頼りない遮断桿が水平に下りて、帰途に就く人の行く手を阻んでいる。
交互に点滅する警報灯の光を目で追う。
「これからどうする?」光に同調して鳴る警報音の音に掻き消されないよう、少し大きな声で僕は言った。
「どうするって?」
「どこか行くの?」
僕が言うと女の子は少し黙考。そして「もう帰ろうかな」
「いいの?」
「うん。 たくさんウサギ見れたから満足」
満足、と言うけれどその声音はなんだか淡泊。
「……じゃあ何処かでご飯食べて帰ろうか。家の冷蔵庫、なんにもなかったし」
何か食べたいものがあるかと訊けば、今度は熟考。さすが、食い意地が張っている。
会話が途切れても聞こえてくるのは鳴り止まぬ警報音。随分長い踏切だなと思い向こう側を見てみると、車がささやかな列を形成し始めている。もしかしたら近くで事故でもあったのかもしれない。
「……すき焼き」
女の子の呟きみたいな小さな声は、なんでか鮮明に聞き取ることが出来た。
「すき焼き? 食べたいの?」
「うん。誕生日だから」
「……どういうこと?」
誕生日は特別だからすき焼きなんだよ。と妙に誇らしげに言う女の子に、よくわかっていない僕は曖昧な頷きを返した。
そして内心で、誕生日なんだっけ。そういえば今朝方言っていたような。
すき焼きを出すお店を頭の中で探す傍ら考える。なにかプレゼントのひとつでもした方がいいのかな?
そうして考えてみると、思い当たる店がひとつあった。
「ごめん、ご飯の前に寄りたい所あるんだけど」
「山? 海?」
「……違うよ、君じゃないんだから」
「なら何処?」
「ここの隣駅」僕は開かずの踏切を顎で指した。
「それなら歩いて行こう。開きそうにないし」
女の子が僕の手を引く。いつの間にか後ろに出来ていた列を抜けて、線路沿いの道をふたり歩き始める。道路を隔てた柵の向こう側に線路が続くのが見える。
「スタンドバイミーみたいだね」と女の子。
「映画だっけ?」
「そう。見たことある?」
「だいぶ昔に、一度だけ」
内容は曖昧だけど、あらすじくらいはなんとなく覚えている。
歩くリズムに合わせて女の子が小さく、スタンドバイミーの歌詞を低く口ずさむ。ギターが壊れてからしばらく聴かなかった女の子の歌声。伴奏は女の子のジャックパーセルが地面を擦る音と、背後に聞こえる警報音。
「お兄さんはあると思う?」
唐突に歌が途切れて、次いで聞こえてきたのは主語の無い質問。
僕は目を開いて「何が?」と問い返す。
「死体」
「……映画じゃないんだから」
「だよね」と、女の子は言って、再び歌を口ずさむ。
空を見上げる。藍色だった空はもう真っ黒。月明かりは見えない。辺りを照らすのは街灯の無味乾燥な白い光。
目を閉じると、瞼にこびり付いた警報灯の赤がじわり。
女の子の問いには否定を返したけれど、この先には死体が本当に転がっているかもしれない。もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない、とびきり新鮮な死体が。
背後から轟音。目を開くのと同時に電車が通り過ぎる。女の子の高く結わえた黒髪が風に弄ばれる。
僕は女の子の手を引いて身体を寄せると、風で乱れた髪の毛にそっと唇で触れた。