億劫だったけれど、すき焼き鍋はその日のうちに片づけることにした。鍋の底で白く凝固し始めた脂は、放っておくと面倒なことになりそうだった。きっとまた来年に使うだろうから丁寧に洗った鍋を、他の食器と一緒に水きりかごに立て掛ける。こんな量の食器を洗ったのは久しぶり。冷たい水に触れて酔いが少し醒めた様な気がする。
洗い物を終えてリビングに戻ると、ソファに座った女の子がなにやら紙袋をガサゴソやっている。テーブルの上には、少し前に女の子が買ってきたジャックダニエルの角瓶と、氷と琥珀色で満たされたロックグラスがひとつ。よくこんなに飲めるなと呆れ半分、感心半分。ふたりで空にしたワインボトルは、捨てるのはもったいなく思えたからテレビ台の隅に飾った。
僕は「それ、なに買ってきたの?」ソファに腰掛けながら訊ねる。紙袋にはウサギのロゴが印刷されていて『うさぎのあな』のものだと分かった。酔いで手元が覚束ないらしく、テープ留めされていた袋の口が無残に破けている。
「おもちゃ」
ふわふわした声音で女の子は、袋からボールを取り出して寄越した。手のひら大のボールは布製で柔らかそう。他にも玩具がふたつ。木片のような物は何に使うのかと訊ねれば「ウサギに噛ませる」と言う。ウサギの世界は奥が深い。
最後に、紙袋から出てきたのは玩具じゃなかった。首輪。深い青色の首輪だった。
「ウサギに首輪なんてつけるの?」
「あんまり。嫌がる子が多いから」
女の子は空になった紙袋を辺りに放って、首輪に付いた値札のタグを歯で噛んで切った。そして「はい」と、僕に渡して寄越した。首輪は革製で思いの外、造りがしっかりしている。濃い青に銀の留め具が映える。
「綺麗だね」僕が言うと女の子は「そうでしょ?」と得意気。
「つけて」
「え?」
「それ、つけて」
僕は手元の首輪と女の子の顔を何度か見比べる。冗談かと思ったけれど、酔いで据わった女の子の目は本気のように見える。特に抵抗もないから、僕は首輪の留め具を外して自分の首に宛がう。当たり前だけどウサギ用の首輪は小さくて、僕の首には留まりそうもない。困って女の子の方を見ると何故か呆れた表情。
「どうしてお兄さんが着けるの?」
「君が着けろって言ったんでしょ……」
抗議の意を込めて僕が首輪を振って見せると、女の子は「こっち」と、自分の首を指差す。「私に着けて」と髪の毛を持ち上げていった。
「別にいいけど、これ小さいよ?」
「大丈夫。私、首細いから」
知ってる。もう何度もこの手で触れているから。絞めあげているから。
正面から手を回して女の子の首に首輪を宛がう。アルコールと暖房の熱で上気した首筋は薄っすら汗ばんで酷く熱い。留め具の金属が肌に触れると女の子は身を捩った。
女の子の首は確かに細いけれど、ウサギ用の首輪はさすがに留まりそうになかった。力ずくでやれば出来ないこともなさそうだけど、間違いなく苦しいと思う。
僕は少し考えて、台所からアイスピックを探して持ってきて、ベルト部分の穴を増やすことにした。肉厚な革に苦戦する僕の手元を女の子は興味深そうに眺めている。そうしてようやく空いた穴は、もともと空いていた穴から随分とずれた不格好な仕上がり。
「髪の毛、上げて」
僕が言うと、女の子は何故だか嬉しそうに髪の毛を持ち上げた。首輪はなんとか、女の子の首に留まった。
「苦しくない?」
「大丈夫。ぴったり」
女の子は髪の毛を耳にかけて、首輪を撫でて「似合ってる?」
露わになった、ピアスが無数に空いた耳は薄く朱が差している。縛める首輪の青は女の子の肌の白に溶けたように浮いていて、僕は頰から首輪まで、指先で撫でて「凄く、似合ってる」
満足げに微笑んだ女の子は僕の肩に手を置いて、そのままぐっと体重を掛けてきた。僕は抗うことなくソファに仰向けに倒される。女の子は僕の腰の辺り跨ると、テーブルからウィスキーの瓶を取って呷った。唇がつけられる。熱い液体が舌を溶かして、嚥下した喉を甘く灼いた。肉の脂の味がした。女の子の背中を掻き抱く。女の子の身体は痩せて骨張っているけれど、女性のしなやかさと柔らかさが確かにあって、その感触は昼に抱いた、白と黒の毛並みが綺麗なウサギのことを思い出させた。
唇が離れて「そういえばさ」女の子の髪の毛に指をくぐらせながら「あのウサギどうしようか?」僕は言った。
女の子は身体を起こして、髪の毛をうざったそうに搔き上げると僕を見下ろして「いらない」少し笑って言った。白い手がシャツ越しに腹を撫でるのがくすぐったい。
「いいの?」
「うん。いらない」
腹を撫でていた手は鳩尾に、胸に、鎖骨に。頭に移って髪の毛をグシャグシャにしたり、頬を引っ張られたり、好き放題されるがまま。そして最後に、細くて長い指が僕の首に絡まった。
「昨日、今朝だっけ? お兄さんにもしてあげるって言ったよね?」
「言ってたね」
喉仏の上を親指の腹で撫でながら女の子は「いい?」首を傾げる。サラリと流れた黒髪を指で梳いて僕は「いいよ」
じわり。絡んだ指に力が入るのがわかった。恐怖や不安のようなものは感じられず、不思議と穏やかな心持。そのことが可笑しくて笑うと、女の子も笑った。
頭蓋に血液が集中する感覚。鼻の奥と目の裏側が圧迫される。視界の端が深緑色に滲む。女の子の顔がぼやける。
朦朧としてきた意識で、僕は手を伸ばしてなんとか女の子の頭を見つけて、自分の方に無理やり引き寄せた。滲んだ視界が夏を凝縮した様な緑色に満たされる。無意識に酸素を求めて半開きになっていた口が塞がれる。水音が反響する。どちらのものかわからない唾液が、だらしなく頬と顎とを流れるのが冷たい。
視界が完全に黒く染まって、意識を手放す刹那、確かに聞こえた。いらない。
「だって、ここは私のウサギ小屋だから」
確かに聞こえた。
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何故、僕に首を絞めさせるのか。そう問うた僕に女の子は『大丈夫になる』と答えた。その意味が多分、少しわかった。
女の子に首を絞められて意識が闇の底に落ちる瞬間に僕は何かに赦されたような、そんな気持ちになった。