その日はたまたま帰りが早かった。
月末の忙しい時期を超えた後だからなのだろうけれど、こんな健全な時間に帰れるのは珍しい。
しかし、帰りが早いということは、普段微妙にずれていた帰宅ラッシュの時間帯にぶち当たるということで、満員の電車に揺られ、最寄り駅の改札から吐き出される頃にはもう、僕は使い古しの雑巾みたいにくたびれきっていた。
だから僕にかけられている言葉にも、ひんやりとした手に掴まれるまで気付くことができなかった。
「どうして無視するの?」
慌てて振り返ると、整った顔に少しだけ怒気を滲ませた、例の女の子の姿。
美人が怒った顔は怖い、と聞いたことがあったけど、あれは本当らしい。凄く怖い。
「ごめん、ぼうっとしてて。なんでここにいるの?」
「おかえり」
「え?」
「おかえり」
女の子の剣幕に押されて「ただいま」と、声を絞り出すと、万力のようにじわじわと僕の手を締め上げていた手がパッと離れた。
「挨拶は大切なんだから、ちゃんとしないと」
「気を付けるよ。それでなんでここに?ていうかギターは?」
最初は、おっかない顔にしか目がいかなかったけど、よくよく見ると女の子の背中にいつもならあるはずのギターケースが無い。
なんていうか、物凄い違和感。甲羅を忘れてきちゃった亀みたいな。そういえば亀の甲羅の中ってどうなってるんだろう?
普段とは違う疲れのせいか、わけのわからないことを考え始めた僕に、女の子は青い長財布をちょっと誇らしげな顔で見せきた。
「バイト代、入ったんだ」
「そうなんだ?」
僕の淡白な反応が気に入らなかったのか、女の子がムッとした顔をしたから、良かったねと、申し訳程度に付け加えた。
「だからお兄さんにご飯奢ってあげる。いつもおにぎりくれるから、そのお礼」
「そんな気を使わなくていいよ、お礼はリクエストで返して貰う約束でしょ?」
「約束?そんなのしたっけ?」
したよ。と返そうとして思いとどまる。そういえば、なんとなくそういう流れが出来上がっていただけで、明確に約束を交わしたわけじゃなかった。
女の子はさっき離したばかりの僕の手をもう一度掴むと、僕の家とは反対方向の、繁華街のほうへと、どんどん歩き出してしまう。
別に一緒にご飯を食べるのが嫌というわけじゃないから、大人しく付いて行くことにする。
「何が食べたい?」
「出来れば軽めのやつで」
疲れのせいで、あまり食欲がなかったからそう答えると、女の子は少し悩んだ後「じゃあラーメンにしよう!」と、目を輝かせて言った。どうやら女の子にとってラーメンは軽食に分類されるらしい。
女の子は飲み屋やカラオケの客引きを慣れた様子であしらいながら、ラーメン屋の、のれんが目につく度、店先のメニューを眺めて、またすぐに歩きはじめる。
そうして気づいたころには、繁華街と宅地の境目あたりまで辿り着いてしまって、境目に横たわる三車線の道路を帰宅途中と思われる車が行き交っていた。
その道路沿い、中華料理屋の色褪せた赤いのれんを見つけた女の子は、ガラス戸の横に申し訳程度に置かれた食品サンプル見て「ここにしよう」と僕に言う。
今にも崩れ落ちそうな店の外観を見て、冗談だろ、と思ったけれど、奢って貰う側だから何も言えない。
見るからに立て付けの悪そうなガラス戸を開ける女の子に手を引かれて、僕も店内に足を踏み入れると、カウンター席の奥の厨房に新聞紙を広げた店主と思しき男の姿が見えた。
新聞に目を落としたまま、こちらを一瞥すらしない店主を気にもせず、女の子はカウンター席のひとつに腰を下ろした。僕もその隣に腰掛けて、壁にかかったメニューを眺める。
「どれにする?」
「塩で・・・。少な目とかできるのかな?」
「それじゃ足りないでしょ?遠慮しなくていいよ」
「チャーシュー大盛りふたつ!」と女の子が言うと、厨房から愛想の欠片も無い返事が返って来た。
「ちょっと。食べきれる気がしないんだけど?」
「男の子だから大丈夫だよ」
なにが大丈夫なんだろうと思ったけど、もう店主が麺を茹で始めるのが見えたから諦めることにした。
無茶な注文をした女の子はというと、何が楽しいのか店内のあちこちを眺めては機嫌よく鼻歌なんか口ずさんでる。
「楽しそうだね?」
「誰かとラーメン、久しぶりだから嬉しい」
本当に嬉しそうに女の子は椅子の上で前後に揺れる。
年季の入った椅子から不穏な音が鳴って、店主が僕を睨んだ。理不尽だ。
「・・・ポピパのみんなで食べたラーメン、美味しかったなぁ」
「ポピパ?」
聞き馴染みの無い単語が急に出てきたから訊き返すと、女の子はくすぐったそうな微笑を浮かべて、うん、と頷いた。
「香澄の声が治ったお祝いにみんなで行ったんだ。有咲のおすすめのお店で、すっごく美味しかった」
「へぇ・・・友達?仲良かったんだ?」
「うん。大切な友達だった」
ポトリと言葉が油っぽい床の上に落ちる。
女の子の横顔に、影が差したような気がした。
友達だった?今は?
その質問が僕の口から出る前に、タイミング悪くテーブルに丼がふたつ、鈍い音を立てて置かれた。女の子の興味が目の前の丼に移ってしまう。
素早く「いただきます」と手を合わせて、幸せそうに麺を啜る女の子の顔に、さっき一瞬だけ見えた影のようなものは、欠片ほども見当たらない。
気のせいだったのかもしれない。そうだきっと気のせいだ。
ぼうっとしてても麺が伸びてしまうから、僕もさっさと食べよう。
硝子のコップに無数に突き刺さった割り箸の中から、綺麗なものを一本選んで二つに割る。見事にアンバランスな箸が出来上がった。
へたくそ。と女の子が笑った。
ーーーー
お会計を終えて店の外に出ると、普段帰ってくる時間ほどではないけれど、もうすっかり遅い時間になっていた。
先に店を出ていた女の子が、僕に気づいて深々と頭を下げて「ご馳走様でした」と、言ってくるから、僕は笑って「お粗末様でした」と返す。
食後、意気揚々とレジに向かった女の子の方から間の抜けた声が聞こえた。お冷から口を離して、そちらを見ると財布を開いたまま固まった女の子の姿。
どうしたんだろうと思って、女の子の所に行って、横から財布の中身を覗くと、数枚の硬貨があるだけで、お札が一枚も無かった。
どうやらお金を下ろし忘れたらしい。
「ごめん。今度ちゃんと返すから」
「いいよ別に。そのかわり、今度またリクエストに応えてよ?」
繁華街の方に歩き始める。
明日も平日だというのに、飲み屋帰りだと思われるスーツ姿の男と何回かすれ違った。
この時間に繁華街の方に来ることはほとんど無かったからなんだか新鮮。
「ラーメン一杯は何曲分?」
「・・・二曲、かな」
普段おにぎり五個で一曲だから、そのくらいだろうと思って応える。
「たった二曲でいいの?」
「僕からすると二曲も、なんだけど」
最初の頃こそ割高に感じていたけれど、今の僕にとって、女の子の歌には間違いなくラーメン一杯以上の価値があった。
女の子がギターで曲を作って、歌詞を書いて。そうして生まれた曲を自由にリクエストしてすぐ隣で聴けるんだから、チャーハンと餃子を追加しても足りないかもしれない。
そのことを伝えると、女の子はなんでか小さな笑い声を漏らした。
「お兄さんは不思議だね」
「不思議?僕が?」
「うん。私の音楽、人に好かれないから。CDは売れないし、ライブはいつもガラガラ。ここに来る前の路上で、ギターケースに火が付いた煙草を捨てられたこともあった」
だからお兄さんは不思議。と聞いているだけで辛くなることを、女の子は他人事みたいに呑気な口調で言った。
励ましの言葉のひとつでもかけてあげるべきなのかもしれない。けれど僕は何も言えなかった。女の子の言う通り、路上ライブはとても盛況とは言えないし、僕は音楽の良し悪しがちっともわからない。そんな僕が何を言ったってただ虚しいだけだろうから、だから僕は黙りこくることしか出来なかった。
会話が途切れてしまって、聞きたくもない繁華街の浮かれた喧噪が、耳に入ってくる。
もっと自分が話し上手だったら、音楽に詳しかったら。そう思うと情けない気持ちになってきた。こっそり、隣を歩く女の子の横顔を盗み見る。いきなり黙ってしまって、気を悪くしていないか不安だったから。
しかし、そこに女の子の姿はなかった。
びっくりして振り返ると、少し離れた所で、なにやら財布の中身を漁っている女の子の姿。チャリンと硬貨が数枚、音を立てて散らばるのが見えた。
慌てて駆け寄って、落ちた硬貨を拾い集めている間も、女の子は財布のなかを漁っていた。
「どうしたの?家の鍵でも落とした?」
通行人に蹴り飛ばされそうになりながら、なんとか目についた硬貨を回収し終えて渡そうとするけれど、女の子は今度はデニムのポケットをゴソゴソと探り始めてしまう。
なんなんだ、一体・・・。
そうしてお尻の方のポケットに手を突っ込んだ瞬間「あった!」という声とともに、女の子は紙切れを取り出した。
「はい、これあげる」
「なにこれ。・・・チケット?」
小銭と交換で手渡された二つ折りになった紙切れを開いてみると、それはライブのチケットだった。いくつかのバンドが出演するのか、少し長いレシートくらいの大きさの用紙いっぱいに、アルファベットやら漢字やらがずらずらと並んでいて非常に見辛い。
「私がバイトしてるライブハウス。キャンセルが出たから穴埋めで歌うことになったんだ。良かったら聴きに来て」
「ありがとう。けど、貰っちゃっていいの?」
「他に渡す人もいないし。ラーメンのお詫び」
それならありがたく、受け取っておこう。
無くさないよう鞄にしまう前に、チケットの隅に小さく日時が書かれているのが見えたから確認すると、恐ろしい事に明日の日付だった。
「え、ライブって明日?」
「うん。結構よくあるんだ、ドタキャン」
それは非常識な輩がいたものだ。
・・・そうじゃなくて。
「明日って平日だよね?」
「そうだね。確か仏滅」
「それは縁起が悪いな・・・」
「大丈夫。頑張るから」
握りこぶしを作って、歩き始める女の子は気合十分といった様子。
これなら明日のライブは期待できそう。
・・・いや、だからそうじゃなくて。
「僕、明日も元気に仕事なんだけど・・・」
「そっか、頑張って。私も頑張る」
僕を置いて少し前を歩く女の子が、くるりと振り返った。長い黒髪が揺れる。
「だから、絶対見に来てね?」
あまりにも綺麗な笑顔でいうものだから、僕はただ頷くことしか出来なかった。
僕の反応に満足したのか、先に歩いて行ってしまう女の子をぼんやりと見送る。手に持ったままだったチケットをもう一度見る。開演時間はまだ僕がせっせと働いている時間だった。
明日は急な腹痛にでもなろう。
そう心に決めて、人に紛れてしまった女の子の背中を追った。