ウサギ小屋からは出られない   作:ペンギン13

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3月。大切な。

 今年は桜が見たいと思った。少し遠出をして、なるたけコンクリートの灰色が少ない所で、缶ビールでも飲みながら女の子と一緒に見たいと思った。ここのところご無沙汰な女の子の歌でも聴きながら見れたなら素敵。

 抜けるような青い空。空の端の色が透明。柔らかな陽光。緑の匂いのする風。宙を舞う花弁は、酒気に色付いた女の子の頬と同じ薄桃色。歌声。アコースティックギターの音色。

 夜は相変わらず寒くて、昼もまだ温かいとは言えない最近だけど、その光景を想像すると、不思議と胸の辺りが温かくなったような気がした。

 

***

 

 三月になった。

 何の変哲もない、普段通りの朝。窓の曇った満員電車に揺られて始業の三十分前に出勤。手早くその日の予定を組み立てて、上司の話が長い朝礼も普段通り。

 普段と違ったのは朝礼が終わって、同僚がめいめい外回りに出掛けたり、ノートパソコンに向き合う中、電話を掛けようとする僕の肩を上司が叩いたこと。少しいいか? 上司が言った。こっちが終わってからでしたら。僕が受話器を掲げて見せると上司は頷いて、会議室にいる。僕は背を向ける上司に返事をする。なんとなく嫌な予感を感じながら、僕は数字が擦り切れた電話のダイヤルを押した。

 

 電話を終えた僕は上司の機嫌を損ねるのが嫌だったから、会議室に足早に向かった。会議室はオフィスと同じ階にあるからすぐに着く。ノックを三回。立て付けの悪いドアを開ける。十畳程の広さの会議室には長机が向かい合わせに二台。その周囲を囲うようにクッションのくたびれた椅子が数脚。奥には薄汚れたホワイトボード。窓のブラインドが下ろされた室は蛍光灯の光に照らされてなお薄暗く陰気な印象が拭えない。一番奥の椅子に腕組をした上司が腰掛けて、じっと瞑目している。

 

 お待たせしました。僕が恐る恐る言うと、上司は目を閉じたまま自分の向かいの椅子を顎で指して座れと言った。僕は言われるがまま椅子に腰掛ける。

 少しの沈黙の後、上司は重々しく息を吐いてから、最近はどうだ? 帰省した時の実家の父みたいに言った。そういえば、しばらく実家に帰っていない。僕はぼんやり、特に何もありません。

 

 

「何もないか」

 

「ええ」

 

 僕が頷くと上司はまた重たい息を吐いた。

 

「時期が時期だから、なんとなく察しているとは思うが」上司は言いながら茶封筒を取り出して、僕の方に渡して寄越した。促されて中を見てみると、三つ折りのB5の用紙が一枚。用紙の一番上にはやや大きな文字で辞令と記されている。

 

「異動だ。四月一日から、去年の夏に出向した大阪の営業所での勤務になる」

 

「誰がですか?」

 

「お前以外に、誰がいる?」

 

 呆れた様に上司が言った。確かに用紙に書かれているのは、何処からどう見ても僕の名前。上から下まで並んだ文字列を何度か目でなぞった。自分のことなのに他人事のように思えた。現実感がない。幽体離脱をして自分の姿を見下ろすのはこういう気分なのかもしれない。けれどそれは一瞬のことで、直ぐに胃の底に黒くて冷たいものが落ちた。腹の奥で広がった黒い靄が不快な焦燥に似た感情を生み出し満たした。

 この会社で急な転勤は珍しいことではない。入社一年目で北海道の旭川にある支社に飛ばされた同期がいる。所帯持ちでもない限り、この会社は人を容赦なく異動させる。僕が今まで東京の本社にいられたのは、辞めて行った例の音楽好きの先輩が恐ろしいことに僕以外に仕事の引継ぎを一切していなかったことと、先輩が去った後に後を追うように退職する人が続いたから。

 もう一度、紙面に目を通して内容の割に薄くて軽い紙を机に置いた。対面の上司に向き直る。上司の顔には細かな皺がいくつも見て取れた。苦労が多いのかもしれない。僕が乾いた喉で「それは拒否できませんか?」と言うと、上司の眉間に刻まれた皺がぐっと深くなった。

 

「何故だ?」

 

「嫌だからです」

 

「嫌だから……」

 

 子供のわがままか。上司は嘆くように言って眼鏡を乱暴に外して眉間を強く揉んだ。子供のわがまま。実際その通りだと思う。だけどそれ以外に言いようが無かった。嫌だった。今のこの生活を、日常を奪われることがどうしようもなく嫌だった。

 眼鏡を掛け直した上司は、ジャケットの内ポケットから手帳を取り出した。黒い革の年季の入った手帳だ。指先を舐めて頁を捲る。目当ての頁を見つけると上司は手帳を机に置いて僕の方に向けて見せた。

 白紙の頁は半分が文字で埋まっていた。神経質に細かく直線的な形の文字は上司らしいなと思えた。頁の一番上に僕の名前が書いてある。その下には日付が並ぶ。日付の横には『体調不良』や『遅刻』と書かれている。この頁には去年の僕の勤怠がまとめてあるらしい。一二月四日、女の子の誕生日の日には『無断欠勤』と赤い字で書かれている。

 

「これを見てどう思う?」上司が低い声で言った。

 

「酷いなと思います」

 

「これで拒否なんて出来ると思っているのか?」

 

「……どうにかなりませんか?」

 

「どうにもならん。そもそも正当な理由の無い異動の拒否は契約に反する」

 

 従わないのなら解雇だ。上司は言った。

 それきり沈黙が降りた。壁掛け時計の針の音が嫌に大きく聞こえる。横目に時計を見ると時間は上司と話し始めてから一五分程しか経過していない。背中が冷たい。汗でシャツが背中に貼りついている。手のひらに鈍い痛みを感じた。いつの間にかきつく握っていた手を開くと爪の痕が赤く残っていた。蛍光灯に反射する手汗が気持ち悪くてズボンで拭った。

 時計の分針が五回鳴った頃、どうしてなんだ。上司が言った。空気に浮いて溶けて消えてしまいそうな、弱々しい疲れた声音だった。

 入社から今まで、良く働いてきたじゃないか。あの馬鹿。お前の指導役だった、あの馬鹿が辞めて、他の連中がずるずる抜けていく中、お前はよく働いてきたじゃないか。俺はお前に期待していたんだ。たまに厳しいことを言ったかもしれないし、少しは無茶をさせたかもしれない。でもそれはお前に期待していたからなんだ。あのまましっかり働いていたらもっと大きな仕事を任せられて、もしかしたら周りより早く昇進だって出来たかもしれない。どうしてなんだ?どうして期待を裏切ったんだ?

 上司の問いへの答えは直ぐに出てきた。考えるよりも先に声が出ていた。

 

「ウサギと一緒に住み始めたんです」

 

「……ウサギ?」

 

「はい。大切な、ウサギです」

 

 とても大切な。

 目を丸くした上司は、すぐに俯いて重たい息を吐いた。解雇の予定だった。溜息と一緒に言った。

 無断欠勤はまずかった。近頃は遅刻も多かった。本当なら解雇になるはずだったんだ。それを俺が上に掛け合って止めたんだ。向こうの営業所の所長は俺と同期で、夏に出向したときのお前の働きぶりを痛く気に入っていた。懲罰のような異動になるが、あいつなら俺の代わりにお前をしっかり育ててくれるはずだ。これまでどおり真面目に働けば数年でこっちに戻ってこられるかもしれない。

 上司は手帳を閉じてジャケットの内ポケットに丁寧に仕舞った。椅子から立ち上がって「今日はもう帰れ」と言った。ドアの方へ歩いて行ってノブに手を掛けて、一週間有給扱いにしてやるからよく考えろ。これ以上、期待を裏切るな。背中を向けたまま言って上司は出て行った。不快な音を鳴らして閉じるドアを僕は無言で見つめた。

 


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