市役所に来るのは久しぶりだった。前に訪れたのはいつ頃だっただろう。不意に以前の同居人と一緒に転居届を出しに来たときのことを思い出した。次に来るときは婚姻届けかな? 冗談めかして言う同居人は多分笑顔を浮かべていたと思う。その笑顔を思い出すことは出来そうにない。
そういえば女の子は転居の届け出だとか、住民票の書き換えだとか、そういうことはきちんとやっているのだろうか。なにそれ? と首を傾げる女の子のとぼけた顔は簡単に想像できた。
開庁から間もないというのに、市役所にはすでに多くの人の姿があった。老人や作業着姿の
若い男や肌色から一目で外国人とわかる女や。多種多様な人々がそれぞれの窓口に並ぶ光景は少し異様だ。僕は保険の窓口の整理券を取って待合席に腰を下ろした。
十分程待って、僕の番号が呼ばれた。窓口に行くと柔らかい雰囲気の中年の女性職員が「どうぞ」と椅子を勧めた。
「今日はどうされましたか?」
「えっと、失業保険? の相談に来たんですけど」と僕が言うと女性職員はあらあらと困ったような声を出した。
「ごめんなさいね。失業保険のことはね、ここじゃなくてハローワークさんじゃないとね、できないんですよ」
「あぁ、そうだったんですか……」
お時間を取らせてすみません。席を立とうとすると、女性職員は待って待ってと呼び止めた。
「もうお仕事の方はお辞めになったの?」
「……いえ、まだ悩んでいる所で」
「あら、そうなの?」
女性職員は、なら少しね、待っててくださいね、と言うと席を立って奥の方に引っ込んだ。
窓口の向こう側は事務机が規則正しく並んで、多くの職員がノートPCのキーを叩いたり、電話を掛けたり、難しい顔をして分厚いファイルと睨めっこしたりしていて慌ただしい。他の窓口の方に目をやると、日本語が話せないらしい来庁者に困り顔の男性職員の姿があった。聞き耳を立ててみるけれど少なくとも英語ではないようだ。来庁者の容姿からして中国語か韓国語だろうか。時々、奇妙なイントネーションの日本語が聞こえてくる。
「お待たせしました」女性職員が何枚かの用紙を手に戻ってきた。女性職員は僕が見ていた方の窓口の方をちらと見て、大変そうねぇ、と呑気に呟いた。お兄さんは何か外国語ができるの? これからはね、英語だけじゃなく色々話せなきゃ駄目だなと思うのよ。この間いらっしゃった方なんてベトナムの言葉しか分からない方でわたし困っちゃってね。
つらつらと話し続ける女性職員に内心で参りながら、はぁなるほどそうですねと相槌を打っていると、近くを通りかかった年配の職員が女性職員の肩を小突いて、ようやく一方的な雑談は終わった。女性職員はごめんなさいねぇと人の良い笑みを浮かべた。
「これね、近くのハローワークの地図ですから良かったら行ってみてください。もし転職の相談とかしたいなら、事前に連絡した方が良いですよ。病院みたいにね、待たされちゃうかもしれませんから」
女性職員は地図の他にも数枚の用紙を机の上に置いて、それからね、もし今のお仕事を辞められて、すぐに次が決まらないようでしたら市役所の方にももう一度いらして下さいね。健康保険だとか、年金だとか、色々と手続きがありますからね。と慣れた手つきで用紙の項目に赤いペンで丸を付けたり線を引いたりして、一通り説明が終わるとそれらの用紙を三つ折りにして封筒に仕舞って、僕の方に渡して寄越した。
「色々と大変でしょうけど、頑張ってくださいね」
「はい。ご丁寧にありがとうございました」僕は封筒を受け取ってジャケットのポケットに仕舞った。
そういえば転職と言えば私の主人もね、そう、ちょうどあなたくらいの歳の時に出会ったんですけどね……。
「色々とありがとうございました」また長くなりそうだったから僕は慌てて言って席を立った。帰り際、横目に見た窓口では外国人とのコミュニケーションに四苦八苦する職員の姿があった。
***
その日も女の子の帰りは遅かった。
怪しまれないよう終電間際まで時間を潰して帰ったのに部屋は真っ暗で冷たかった。これといった収穫が無い一日だったこともあって、徒労感に苛まれる。
何かを食べる気にもなれず、シャワーを済ませソファにもたれて、市役所で紹介してもらったハローワークの場所や利用の仕方をスマートフォンで調べていると、玄関のドアの開く音がした。時計を見るとすでに一時を回っている。
リビングに姿を現した女の子に「おかえり」と声をかけると、女の子は目をしばたかせて、ただいま。
「遅かったね。バイト?」
「うん。お兄さん、いつ帰ってきたの?」
「つい今しがた」嘘は思っていたよりもすんなりと出てきた。
そっか。と女の子は興味なさげに言うと、辺りにトートバッグを放って、そのままふらふら寝室の方に行ってベッドに倒れ込んだ。
大丈夫? スマートフォンの電源を落として訊いてみるけれど返事はなくて、女の子は芋虫みたいにベッドを這って寝転がると、半分空いたスペースを此方に来いとでも言うように手で叩いた。
僕は歩み寄ってもう一度「大丈夫?」声をかけるけれど、女の子はまたベッドの空いたスペースをぼすぼす叩くから、大人しく隣に身体を横たえると、伸びてきた女の子の手が背中に回って、首元に顔を埋められる。
「……いい匂いがする」
「シャワー浴びたから」
忙しかったの? 僕が訊ねると、女の子は無言で頷いた。長い髪の毛がくすぐったくて身を捩ると、背中に回った手の力が強くなった。
「今の時期は、学生の送別会とかで大変」酷く眠たげな声で女の子が言うから、僕は「お疲れ様」そっと痩せた背中を撫でた。
しばらくそうしていると「バンド、みんな解散なんだって」僕の首元に顔を埋めたまま、くぐもった声で女の子は言った。どうしてみんな、バンドをやるんだろう?
「楽しいからじゃない?」
「楽しくても、最後は寂しいよ?」顔を上げて女の子は言った。至近距離の女の子からアルコールの匂いを感じた。
ギターの人、泣きながら弾いてた。うん。就職が地方なんだって。そうなんだ。ボーカルの娘も、ずっと声が震えてた。……そっか。……どうして、みんなバンドをやるんだろうね? ……。終わっちゃうのにね。無くなっちゃうのにね。
無くなっちゃうのは寂しいのにね。女の子は呟くように言ってそのまま寝息を立て始めた。
***
翌朝、目を覚ますと隣に女の子の姿はなかった。玄関の方を見ると女の子のスニーカーがなくなっていた。恐ろしいことに女の子は深酒をした翌日でも平気な顔でランニングに出掛けることがある。
少し、長く眠っていたらしい。普段なら駅に向かって歩いている時刻、帰ってきた女の子と鉢合わせたら怪しまれるかもしれない。僕は慌てて身支度を整えて、家を出る。晴れた空。市役所の職員に勧められたハローワークへと向かう足取りは重い。
***
ハローワークでもあまり大きな収穫は得られなかった。
コンビニの無料の冊子に比較すると、随分と多い求人情報を目にすることが出来たけれど、あったのは現在の生活を維持するに心もとない職ばかり。
運良く、翌日に取り付けることができたカウンセラーとの予約面談では、現状の維持は難しいとやんわり伝えられる始末。
あまり大きな声では言えませんが、貴方の在籍している会社は比較的まともなんです。労働時間に関しては間違いなくブラックと呼ばれるものですが、残業分の賃金は支給されているんですよね? 残業代ありきの今の収入を求めるのは正直、かなり難しいです。
「今日日、残業代すら支払わない企業も珍しくありません」男性のカウンセラーは声をひそめて言う。
「こちらで紹介して頂けるところでもですか?」
「……その質問に対しては立場上、否定することしか出来ません」
……それはつまり、肯定ということか。僕は暗い心持ちになる。
失業手当に関しても、貴方の辞め方ですと良くて自己都合、最悪だと懲戒にあたるので、給付額や期間にも影響が出てくると思います。
「……このまま今の職を続けるのが正解なのでしょうか?」僕が訊ねると、カウンセラーは、私の知る限りいま貴方が在籍している会社はまともな部類です。曖昧な表情で最初と同じことを繰り返した。