ほとんど縋るような気持ちで、僕はハローワークに通い続けた。何かの偶然で良い求人に巡り合えるんじゃないか。カウンセラーが転勤を体よく断るアイデアを出してくれるんじゃないか。
当たり前だけれど、そんな他人任せの願望は叶うわけもなく、上司から与えられた一週間の期限は瞬く間に過ぎていって最後の日。
その日も帰ると部屋は真っ暗なままで、僕は玄関に腰を降ろすと、そのまま崩れ落ちるように廊下に仰向けに寝そべった。冷たいフローリングが背中に心地良い。ポケットからスマートフォンを取り出して見ると、上司からの着信があったらしい。ここ数日、全く同じ時間にかかってくる電話に僕は一度も出ていない。
……どうしたものかなぁ。身体を起こして暗闇に独り呟くけれど返事は返ってこない。
大きく溜息を吐くのと同時に玄関の鍵が音を立てて開いた。あまりに突然だったものだから、溜息と悲鳴とが混じった情けない声を上げてしまう。
ドアがゆっくりと開いて、共用廊下の蛍光灯の光に照らし出されたのは、女の子の見慣れた華奢なシルエット。暗がりで座り込んでいる僕の姿に、女の子は特に驚いた素振りも見せず、初めからいることが分かっていたみたいに、じっと僕のことを見下ろしている。
おかえり、と言おうとしたけれど、口から漏れたのは言葉にならなかった空気の塊だけ。女の子が大股で僕の方に近づいてきたと思ったら、そのまま身体を強く押されて、僕はあっさり床に転がされてしまった。手からすっぽ抜けたスマートフォンが、廊下を滑って壁に衝突した。
なにするのさ。文句のひとつでも言ってやろうと身体を起こそうとするけれど、痛いくらいの力で肩を押さえつけられてしまって、情けないことに身動きが取れない。
僕に覆いかぶさった女の子の後ろの玄関の扉が閉じて、再び暗闇が訪れる。闇は先程よりも濃い。女の子の長い髪の毛がはらはらと落ちてきて僕の視界の周りを覆ったから。
「どこ、いってたの?」
「え?」
「今日、どこいってたの?」
無感情な声音。内蔵の表面を爪の先で触れられるような怖気を感じながら、僕は努めて平静に「平日なんだから仕事にきまってるでしょ?」と返す。
「なら昨日は?」
「仕事だけど」
「一昨日は?」
仕事。言い終わる前に女の子の手が首元に伸びてきたから、僕は慌ててゾッとするほど冷たい手を掴んで「なに? どうしたの?」
女の子の顔が近づいてきて、額と額が音を立ててぶつかった。至近距離の輪郭のぼやけた瞳に温度は無い。
うそつき。女の子が言った。
「お兄さん、嘘ついてる」
「嘘なんか……」
「お仕事、今日も昨日もそれに一昨日も行ってないよね?」
女の子の目がスッと細くなるのがわかった。覆いかぶさる身体を押し返そうとして、やっぱりやめた。急に身体から力が抜けた感じがした。女の子は僕が嘘を吐いていることを確信している。
諦めた僕が「どうして知ってるの?」と訊くと、女の子は「最近バイトで帰る時間が遅くなったから、駅で待ってればお兄さんと帰れると思ったんだけど全然会えなかったから」と身体を起こして言った。
「だからおかしいなと思って、朝。お兄さんが家を出たあと後ろを付いて行ったんだ。どこに行ってるのかなと思って」
「探偵みたいだ」
「うん。ちょっと楽しかった。途中で見失っちゃったけど」僕の腹の辺りに跨ったままで女の子が小さく笑う。薄く張った氷みたいな微笑み。
「新しいうさぎを見つけた?」女の子は言った。
「違う。そんなんじゃないよ」
「じゃあ、どうして?」
「それは……」
「やっぱり」
「だから違うって」
「でも、言えないんでしょ?」僕を見下ろした女の子が無感情に言う。胃の奥に氷を放り込まれたような心地。いっそ口汚く罵られた方が楽だった。以前の同居人がそうしたように、ヒステリーでも起こされた方が気楽だった。ただ、こちらを見下ろす女の子の視線が辛くて、僕は手で顔を覆った。
どうして? 女の子がまた言った。
僕は女の子のことを見るのが怖くて手のひらで視界を遮ったまま一度、深い息を吐いた。どうして? 声が降ってくる。手をどかすとより暗闇に慣れた視界に女の子の姿が鮮明に見えた。
女の子の瞳を見て言った最初の言葉は「ごめん」
それから僕は話し始めた。ここ数日していたこと。それから、この棲み処がなくなってしまうかもしれないことを。
*****
私のせいだ。
僕の大して長くもない話を聞き終えた女の子がポツリと言った。
違う。僕が否定しても、女の子は首を振ってまた「私のせいだ」と言って、緩慢な動作で僕の腹の上から降りると、膝を抱えて壁に凭れた。
「ごめんなさい」
「だから、君のせいじゃないって」僕は身体を起こして言う。冷たい廊下に張りついていた背中の筋肉が強張って鈍く痛んだ。
「私がいなかったら、こんなことにはならなかったでしょ?」
抱えた膝に顔を突っ込んで言う女の子の表情はほとんど伺えないけれど、酷く落ち込んでいることだけは良く分かった。
「また、私が壊した」
「なにも壊れてないよ」
「でも、これから壊れる」
また、無くなっちゃう。か細い声で女の子が呟く。心なしか細い肩が震えているように見える。女の子に手を伸ばそうとして止める。かける言葉が見つからない。伸ばしかけた手がぱたりと床に落ちた音が嫌に大きく聞こえた。
それっきり重苦しい沈黙が落ちる。膝を抱えて蹲る女の子の身体は、いつもよりもずっと小さく見えて、頼りなくて、そのまま闇に溶けてしまいそう。きっと僕の方も。いっそこのまま溶けてしまえば良いと思った。女の子とふたり。このまま。これから先のことを思うと、それが何よりの幸いだと思えた。
「……お兄さん、どうするの?」
永遠に続くと思えた沈黙を破ったのは女の子だった。膝に埋めていた顔を上げた女の子は真っ直ぐに僕の方を見て「これから、どうするの?」
「どうするって?」
「大阪に行くの? 行かないの? それとも新しいお仕事を探すの?」
「……わからないよ。どうしたらいいか、わからないんだ」
それはこの一週間、ずっと考え続けていたことだった。市役所であったりハローワークであったり、自分でもいろいろと調べても、解決策は出てこなかった。
この生活を続けたかった。この夕方と夜との間みたいな薄ぼんやりとした現実感の無い、どうしようもなく心地良い日常をずっと、ただ続けていたかった。それなのに突然に夜が訪れてしまった。暗くて寒くて、なにも見えない夜が。わからないんだ。僕は呟いて、さっきみたいに床に寝転んだ。仰いだ天井は星の見えない夜の空みたい。
衣擦れの音が聞こえて目をやると女の子が立ち上がっていて、そのまま僕の方を振り返らず、足音はリビングの方に消えた。このまま自分の荷物をまとめて出て行ってしまうのかもしれない。本当にそうなったらどうしよう? どうもしない。あのときと、以前の同居人が出てったときと同じで、独りの日常が戻って来るだけだ。
足音が近づいてきた。そちらを見るのが何故だか恐ろしくて、知らんぷりして、だけれど目を閉じることも出来ず、無心に天井を眺めていると、唐突に視界が黒く覆われた。驚いて手をやると布の感触。僕のコートだ。
「夜はまだ冷えるから」
「今日は廊下で寝ろってこと?」
「違う」
着て、と女の子に促され、のろのろ身体をコートに袖を通すと、手を握られた。
「行こう」女の子が言った。「どこに?」という僕の問いには答えず、繋いだ手を強い力で引いて、僕はなんとか靴をつっかけて付いて行く。玄関の鍵も閉めずにずんずん歩く女の子の繋いでいない方の手には、ケースにも入っていない壊れたアコースティックギターが握られている。