ウサギ小屋からは出られない   作:ペンギン13

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嬉しかった。

 終電からしばらく経った駅前は閑散としていた。駅を挟んで飲み屋が軒を連ねる繁華街の反対にあるこちら側は、平日の夜ということもあってか酔客の姿は見当たらない。タクシー乗り場に客待ちの車両は一台も無い。等間隔に連なった電灯の白い光がアスファルトを冷たく照らしている。

 女の子は百貨店の降りたシャッターの前までやってくるとようやく歩みを止めて、そして繋いでいた手をあっけなく離した。

 ここまで随分と速足で引っ張って来られたものだから、僕はすっかり疲れ果てて、そのまま地面に座り込んだ。春の夜の空気は冷たいけれど、火照った身体に地面の冷えた固さが心地良かった。

 

「どうしたのさ、いきなり」

 

 乱れた呼吸を整えながら僕が言うと、シャッターの方をぼんやり眺めていた女の子は振り返って「なんだか懐かしいね」

 なんのことだろうと思ったけれど、降りたシャッターを背にアコースティックギターを持つ姿を見て腑に落ちる。

 

「初めて、お兄さんと会ったのがここだった」

 

「……そうだったね」

 

「どうしてお兄さん、あのとき私のライブ観ようと思ったの? 音楽、興味なさそうなのに」

 

「君が聴いていけって引っ張ったから」

 

「え、そうだっけ?」

 

「そうだよ」

 

 ――お兄さん一曲聴いていかない?

 

 鮮明に覚えている。笑顔でギターを掻き鳴らす姿。リズムに合わせて揺れる長い黒髪。どうしようもなく乾ききった歌声の心地良さ。

 確か去年の夏くらいのことだった。酷く懐かしく感じるのにまだ一年も経っていない。

 

「あのときのお兄さん、今にも死にそうな顔してた」

 

「……そんな酷かった?」

 

「うん。演奏してる途中で寝ちゃったとき、本当に死んだのかと思った」

 

 女の子が真剣に言うものだから僕は苦笑い。

 

「ライブが終わって起こしたらゾンビみたいにふらふらしてて、それなのにCDを売ってくれって」

 

「え、あのCDって君が鞄に入れたんじゃなかったの?」

 

「違うよ。お兄さんがちゃんとお金を払って買ったんだよ」

 

 覚えてないの? と言われるけれど、全く記憶になかった。

 

「嬉しかった。途中から寝てたけど、私の曲のライブを最後まで観てくれたのは沙綾以外だとお兄さんが初めてだったから。CDを欲しいって言ってくれたのもお兄さんが初めてだったから」

 

 凄く、嬉しかった。そう言って女の子は本当に嬉しそうに小さく微笑んだ。

 女の子はずっと手に持っていたアコースティックギターのストラップを肩にかけると「今度は寝ないでね?」と言って、ポケットから音叉を出してチューニングを始めた。

 

「壊れてるんじゃなかったの?」

 

 素人目に見てもギターは明らかに壊れている。弦をまとめているブリッジ(女の子に教えて貰った)の部分が割れてしまって、チューニングのためペグを絞めると弦の張力に耐えきれないブリッジは不安定に動いた。

 女の子はチューニングをする手を止めて、今度はペグをくるくると回して弦を緩めると、器用にブリッジの弦を留めるピンを引き抜いて、太い弦を二本外してしまった。

 ブリッジにかかる負担が大きく減ったおかげで、チューニングを終えたギターは、どうにか弾けるようにはなったらしく、女の子は音程の怪しいコードをいくつか鳴らした。

 

「なにを聴きたい?」女の子が首を傾げて言ったから、僕は「君の曲が聴きたい」と答えた。

 

「私の曲でいいの?有名な曲だったら大体弾けるよ?」

 

「君の曲がいい」

 

 女の子はピックを使わず指でギターを弾き始めた。親指と人差し指と中指と。骨ばった長い指が滑らかに動いて弦を弾いた。女の子の歌声が流れ込む。久しぶりの歌声。弦が四本しか張られていないギターは大昔のラジオみたいな陳腐な音を鳴らした。夜の街の微かな音にさえ掻き消されてしまいそうな、どこまでも乾いた音色。歌声。

 罅割れたアスファルトが。傾いた電柱が。泥で汚れた割れた硝子が。茶色い錆に覆われた廃車が。何もかもを覆い隠す砂漠の砂が。崩れかけの音楽を女の子は酷く優しい表情で奏でる。

 頬に温かいものが伝うのがわかった。拭うと手が濡れた。女の子の輪郭が緩く崩れた。全部崩れてしまえば良いと思った。目の前の百貨店や、すぐそこの駅や、繁華街の毒々しい明るさや。日常の何もかもが崩れて壊れたその後に、女の子の歌とギターだけが存在していたなら、それはとても素敵なことのように思えた。


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