どのくらいの時間が経ったのか分からない。空の黒がさらに深くなって、地面に直接座った尻の感覚が曖昧になり始めた頃、四本の弦が鳴らした不安定なコードが冷たい空気に散り散りになって、長い長い歌声の余韻を残して、女の子の音楽は終わった。
弦を抑えていた手をだらりと垂らした女の子は、駅のある自身の右側のほうを数秒、ぼんやり眺めて、空を仰いでゆっくり深い息を吐いた。釣られるように僕も空を見上げる。滲んだ黒色の空に星はひとつも見えない。
女の子の方に視線を戻すとばったり目が合った。長い時間、ギター弾いて、歌って、血色が良くなった頬に女の子は微かな笑みを浮かべた。寂し気な微笑みは散りかけの桜の花のようで、どうしようもなく美しくて、僕は白痴みたいに、ただただ女の子のことを見上げた。
偶に背後を走り去る車のタイヤがアスファルトを踏む音も。体温を奪う冷たい夜風の吹く音も。自らの呼吸すらも、遠くの世界で鳴る音に聞こえるくらいに、ただただ陶然とその表情に魅せられていた。
だから「なにやってんの、あんたら」と無遠慮に横合いから投げかけられた言葉に肩が跳ねるくらいに驚いた。声の方に視線をやると、スーツ姿の男がふたり、ほとんど凭れ合うように覚束ない足取りで此方に近づいてくる。
なにやってんの? お姉ちゃんそれギター? ストリートミュージシャンってやつ? カッコイイじゃん。すっかり酔いが回っているらしい赤ら顔。呂律の回らない大声で喋っているのはふたりのうちのひとりだけで、もう片方はぐったり項垂れている。
「お姉ちゃんさ、なんか弾いて頂戴よ、景気のいいやつ」男が僕のすぐ隣にどっかり腰を降ろして言った。濃い酒気がつんと鼻についた。連れ合いの男は座ってられないらしく、地面に寝転がってしまった。
「景気のいいやつってどんなの?」女の子が首を傾げる。
そりゃあぱーっとしたやつよ。明るいやつよ。こいつさ、来月から北海道に飛ばされるの。入社してからずっと俺が面倒見てきたやつなんだ。要領は悪いけど真面目でいいやつなんだ。いいやつなもんだから、他人の失敗引っ被って飛ばされるんだ。ぱーっとしたやつで慰めてやってくれよ。あ、お姉ちゃんよくみたら美人さんだな。おいほら、寝てないで起きろ起きろ。美人のストリートミュージシャンが歌ってくれるぞ。お前のために歌ってくれるんだぞ。
男が連れ合いの肩を乱暴に揺さぶる。勝手に歌わされることになってるけれど大丈夫なのだろうか。女の子のほうをちらと見ると、意外に乗り気なのかギターのチューニングを直している。連れ合いの男が緩慢な動きで身体を起こして、膝を抱えて座った。ぐずぐずの吐瀉物が服にかかっていて、独特の刺激臭が鼻についた。どろり濁った瞳が女の子を見上げた。
ぱーっとしたやつ。明るいやつ。酷く抽象的なリクエストに応えて女の子が弾き始めた曲は、僕でも知っているくらいに有名な曲だった。
底抜けに陽気なメロディ。弦の足りない壊れたギターの曖昧な音色がむしろ良く合っている。
坂本九の『上を向いて歩こう』
明るい、だけれど、どこか憂いを帯びた歌詞を、女の子は朗々と歌い上げる。男がリズムの外れた手拍子を打った。女の子に合わせて音程の狂った歌を歌った。嗚咽交じりの歌だ。連れ合いの男も肩を震わせて嗚咽を漏らした。
『川の流れのように』や『ハナミズキ』や。誰もが聴いたことがあるような有名な曲を女の子は次々と歌った。
そうしていると、繁華街の方から流れてきた酔客が、誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫みたいに、僕らの方にフラフラやってきて、それは先のふたりのようなスーツのサラリーマンであったり、派手な身なりの水商売の女であったり、薄汚れた作業着の老人であったり。多種多様な十人位の人たちがギターを手に歌う女の子を中心に囲って、手を叩いて歌った。
作業着の老人が持っていたビニール袋に、ポケットから引っ張り出した小銭を放り込んで、歌う女の子の前に置いた。すると女の子を囲んでいたひとりひとりが、置かれたビニール袋にお金を入れていった。小銭だけいれる人もいれば、躊躇なく万券を放り込む人もいた。一番最初にやってきたふたりの特に泥酔した方は、這うようにビニール袋の方まで行って、財布をひっくり返して中身を全て袋の中にぶちまけて、周囲からは歓声が上がった。
相変わらず座ったままの僕を客のひとりが引っ張り上げて、ほらお前も歌え。無理やりに肩を組んできて、ギョッとする。女の子は愉快そうに笑った。『三六五歩のマーチ』を歌い始めた。ギターのチューニングはすっかり狂ってしまっている。女の子は構わずに弾き続ける。みんなが歌う。僕も歌った。夜闇を吹き飛ばしてしまいそうな大合唱になった。誰かが差し出してきた酒瓶を煽った。強い酒だった。灼けそうに熱い喉で僕は周りに負けないくらいに大きな声で歌った。
*****
黒い空にそろそろ藍の気配が滲み始めた頃、笛の音が聞こえた。興奮した誰かが吹いた指笛かと思ったら、どうやらそうでは無いようで、けたたましく吹かれ続ける笛の音の方に目をやると、夜闇と同じくらいに黒い影がひとつ、此方に駆け足で向かってきた。警察官だ。
なにをしているんだ。解散しなさい。女の子の歌声よりもずっと大きな声で怒鳴って、女の子はギターを弾く手を止めてしまった。つられるように周囲の喧騒がぴたり止んで、水を打ったように辺りが静まり返る。
年配の警察官は僕たちのことを訝し気に見回して、ずけずけと輪の中に入ってきて、騒ぎの中心の女の子に「困るんだよ、こういうの。今何時だと思ってるの?」
非常識だとは思わないのか? ……なんだか見た顔だな。前にも注意受けたことあるんじゃない? 身分証は? ほら早く出して。まったく非常識だ。
「非常識なのはてめぇだろが」
地鳴りみたいな、ドスの効いた声音。全員の視線が声の主である作業着の老人の方を向いた。
「俺らがよ、楽しんでるのを邪魔するお前のがよっぽど非常識だろが」
老人は女の子と警察官の間に割って入って、皺だらけの顔の細い目で警察官を睨み上げた。
じゃ、邪魔をすると公務執行妨害……。老人の迫力に気圧された警察官が後退りながら、しどろもどろに言うと、泥酔してふらふらだったはずの男が警察官の肩を突いて、何を言っているのかまるで聞き取れない大声を上げた。
尻もちをついた警察官は無線機に応援を寄越すよう唾を飛ばしながら言って、作業着の老人が無線を取り上げようとしてもみ合いになって、さっきまで叫んでいた泥酔した男が唐突に地面に吐瀉物をぶちまけて、胃液や麺類の残骸が警察官の黒い革靴にもろにかかった。
鈍い音が三度、連続して鳴った。見ると老人が乾いた固まった泥みたいな握り拳を大きく振り上げていて、それからもう一度鈍い音が鳴った。警察官の鼻がひしゃげて赤黒い鼻血がアスファルトを濡らす。水商売の女の黒板を思い切り引っ掻いたみたいな悲鳴がつんざいた。やれやれ。やっちまえ。囃し立てる声に混ざって鈍い音が連続して、酒瓶が割れて破片が散った。
……これはまずいことになった。
喧騒に浮かれていた気分はすっかり冷めてしまって、僕はどうしたものかと女の子の方に視線をやると、なんとなくそんな気がしていた、緑色の瞳と視線がかちあった。そしてお互いに笑みを浮かべた。
女の子が走り出す。僕はお金が入ったビニール袋を拾い上げて、その後を追う。誰かが何事か叫ぶのが聞こえたけれど気にしない。ギターを抱えて走る女の子にはすぐに追いつくことが出来た。遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえた。ビニール袋から小銭がいくらか零れてアスファルトを打った。
女の子と並んで走り続ける。いつかと同じように、ふたりそろって笑い声を上げながら走り続ける。体力の無い僕が少し遅れ始めると女の子の手が僕の手を取って走り続けた。同じ場所を目指して走り続けた。あのときと違って僕らには帰る場所があるから。ふたりだけの家が。
もう、なくなってしまうウサギ小屋が。