家に戻る途中の道、僕の手を引く女の子は急に右の路地に折れた。どこに行くのかと思ったけれど、僕はすっかり息が上がっていたから大人しく付いて行くしかなかった。
女の子が僕を引き摺って行った先は公園だった。ブランコと、隅の方に木製のベンチがあるだけの小さな公園だ。中央に立つ電灯が、背の低い柵で宅地から切り取られた、猫の額ほどの大きさの公園を白々しく照らしている。家からそう遠くないと思うけれど、初めて訪れる場所だった。
僕はようやく足を止めると、お金が入ったビニール袋をその辺に置いて、土の地面にへなへな座り込んで、そのまま横になった。耳の奥がどくどく鳴って、身体中が熱くて、生きているのだなと思った。墨の様に暗かった空は深い藍色に染まっている。夜明けが近い。
女の子はビニール袋の中から小銭を何枚か取って、公園のすぐ外の自動販売機からペットボトルのスポーツドリンクを一本だけ買ってきて、寝転がったままの僕の額に置いた。見下ろす女の子の輪郭が電灯の白に滲んで眩しい。ピアスと、首輪の金具が銀色に鈍く光る。
「お兄さん、相変わらず体力無いね」
「……君は相変わらず元気だね」
僕は身体を起して地面に胡坐をかいて、スポーツドリンクを呷った。中身が半分ほどになってしまったペットボトルを女の子が取って、薄い唇で飲み干して、丁寧にキャップを締めて傍らに置いた。
「大繁盛だったね」僕がビニール袋を指して言うと、女の子は頷いて「うん。こんなの初めて」
ビックリした、と言うわりにはあまり関心が無さそうに、ビニール袋を引き寄せて、中身を覗きこんだ。僕も一緒になって覗きこむと、小銭に紛れて一万円札が数枚ある。
「けど、残念だね。あれだけ騒ぎになったら、しばらくあそこでライブ出来ないんじゃない?」
「ううん、大丈夫。もうあそこでは歌わないから」
「え?」
女の子はビニール袋の口を固く結んで中身がこぼれないようにすると、それを僕の胸に押し付けた。
「足りないと思うけど、今までの家賃とご飯代」
今までありがとうございました。深々と頭を下げる女の子の、言葉の意味が理解できなくて、僕は女の子の手を離れたビニール袋が自分の腿に落ちるのを見つめた。
女の子は顔を上げると立ち上がって、ブランコの方に歩いて行った。僕は呆然とその姿を視線で追う。ふたつあるブランコの片方を女の子が指差したから、疲労で萎えた脚で立ち上がって、腿から転がり落ちたビニール袋をそのままに、女の子の隣のブランコの台に腰を降ろした。
塗装がすっかり剥がれて木部が露わになった台は氷の板みたいに冷たい。
緩やかに女の子はブランコをこぎはじめる。古びた鎖のきぃきぃ鳴る音が、他に音のない夜と朝との中間の公園に響く。
「私は、大丈夫だよ」女の子が真っ直ぐ前を向いたままで言った。
「私は、お兄さんがいなくても大丈夫」
女の子の穏やかな笑みを湛えた横顔が左右にゆらゆら揺れる。きぃきぃ揺れる。すぐ隣にいるのに、ずっと遠くに行ってしまったように感じた。自分の身体の中の、何か重要な臓器が唐突に消失したような、そういう致命的な喪失感が足先から這い上がってくるのを感じた。
……大丈夫って。絞り出した声はついさっき喉を潤したばかりなのにカラカラに乾いていた。
「住むところとか、どうするのさ」
「大丈夫。今日みたいにライブをやって、バイトの稼ぎもあるから、もしかしたらお兄さんよりもお金持ち」
「そんな毎回、今日みたいにいくわけじゃないでしょ」
「そしたらまた、沙綾の所でお世話になろうかな。本当にどうしようもなくなったら実家に戻ればいいし」
だから大丈夫。私は大丈夫。女の子は相変わらず前を見たままで言った。きぃきぃ揺れる。女の子の身体が揺れるのは、痩せた木に一枚だけ残った枯葉を見るみたいで不安な気持ちになる。
「……一緒に付いてきなよ。大阪にさ」
ずっと言うまいとしていたことがぽろりと零れた。女の子がブランコを揺らすのを止めて、首だけで此方を向いた。
「去年、出張で行ったとき向こうの社員に教えて貰ってライブハウスに行ったんだけど、凄く盛り上がってて。そういえば駅前に君みたいにギターを弾いてる人もいた。きっと音楽が盛んなんだ。だからさ、向こうに行ったとしても、きっと今とそう変わらない生活が出来ると思う。だから……」
一方的に言い募る僕を止めたのは隣から伸びてきた女の子の指先で、皮膚の固くなった指先を僕の唇にそっと押し当てた女の子は「それはダメ」微かに首を振って言った。
「……どうして?」
「だって私が一緒だと、また壊れちゃうから」
よいしょ。立ち上がった女の子がブランコの台の上に足を掛けて乗って、ぐっと勢いをつけて漕ぎ始めた。古くなった鎖が悲鳴を上げて、女の子の身体を大きく揺らした。
「私は大丈夫。お兄さんもきっと大丈夫。だってほんの少し前に戻るだけだもん。私はどこかでギターを弾いて、お兄さんはお仕事を頑張って。ただ、元通りになるだけだよ」
女の子はさらに勢いをつけてブランコを揺らした。地面と身体とがほとんど平行になるくらいの勢いで一心にブランコを漕いで、ついには一回転してしまうんじゃないかと思ったとき、女の子は片足を思い切り振り抜いてスニーカーを宙に舞わせた。
履き込まれてボロボロのスニーカーは高く高く飛んだ。そのまま飛び続けて空に吸い込まれてしまうのではないかと思われたスニーカーは、あっけなく降下して、遠くの地面に跳ねて、電灯の明かりの届かない暗がりに転がっていった。
ブランコを漕ぐのを止めた女の子は「おぉ飛んだ」と満足げに言って、靴を履いた方の足だけで台から降り、片足飛びでスニーカーの方に行こうとする。
そのまま電灯の光の届かない暗がりにそのまま溶けて、消えてしまいそうだったから、僕は思わず立ち上がって「壊れたっていい」ウサギみたいに跳ねる背中に言った。女の子が片足だけで器用に振り返る。
「別に壊れたっていい。だから着いて来て欲しい」
「ダメだよ」
「どうして」
「だってお兄さん、お仕事凄く頑張ってた。いつも遅くまで頑張って、死にそうな顔で帰ってきて。私、お兄さんの頑張ってることを壊したくない」
「大丈夫だって」
「ダメ。私がいると壊れちゃう」
もう何も壊したくない。もう壊れるところを見たくない。
女の子は首を振って言って、片足だけで立っていた身体がぐらり傾いた。
僕は慌てて駆け寄って頼りない肩を支えようとすると、女の子が僕の胸に手を突っ張って拒絶して、虚を突かれた僕の方が今度は体勢を崩して、女の子諸共、地面に転がった。
土の地面は、アスファルトに比較するとマシなんだろうけれど十分に固くて、打ち付けた肩が痛んだ。
地面に倒れるときに反射的に抱え込んだ女の子が逃れようともがいたから、僕は力ずくで折れそうな身体を抱き寄せる。女の子の抵抗は次第に弱まっていって、最後に胸に頭突きをひとつ見舞ったきり、すっかり静かになった。「お兄さん、苦しい」くぐもった声で言ったから、僕は背中に回していた手をそっと解いてやった。自由を取り戻した女の子は、ごろり転がって仰向けになった。
「穴、空いちゃった」
女の子が靴を履いていない方の足をついと持ち上げた。靴下の爪先に穴が空いて親指の先の白が露わになっている。すぐ傍にある横顔に土埃がついていたから拭ってやると、手のひらに頬を押し付けてきて、ぶぅ、と鳴いた。
「ウサギの真似?」
「うん。よくわかったね」
ウサギには声帯がないけど、嬉しいときや怒ったとき、ぶぅぶぅ鳴くんだよ。
女の子が教えてくれたこと。
ふたりして仰向けになったままで、しばらくの間、夜明けの空を眺めた。ほんの数時間前の真っ暗が幻だったみたいに空の藍が鮮やかになって、端の方に太陽が白く滲んできている。
近くを走り抜けるバイクのエンジン音が聞こえた。自転車の走っていく音が聞こえた。
昨夜の喧騒が幻の様に思えた。朝になってしまう。幻の時間が終わって現実がやってくる。現実が。日常のお終いがやってくる。それはどうしようもなく哀しいことのように思えた。
「……どこか、遠くに行こう」
空を見上げたままで僕は言った。女の子の視線がこちらを向くのがわかった。
「お仕事はどうするの?」
僕は身体を起こして、立ち上がって「どうでもいい」砂埃を払いながら答えた。
女の子の方も身体を起こして「よくない」首を振った
「いいんだよ。どうでもいいんだ」
僕はこちらを見上げる女の子に手を差し出す。「遠くに行こう。ずっと遠く何処か。車、運転するからさ、行こうよ」
遠くに。遠くに。ふたりだけで。そうすればもうなにも、壊れるものなんてなくなるから。
女の子が視線を地面に落として、短くない沈黙が続いた。僕はただ手を差し出し続ける。いくらかの時間が経って、ぽつりと女の子が言った「遠くって?」
「どこでもいいよ。君はどこに行きたい?」
女の子は一度地面に視線を落としてから「カリフォルニア」と答えた。
「……車でいけるかなぁ。どうしてカリフォルニア?」
「ジャックラビットと遊んでみたい」
「凄く足の速いウサギだっけ?」
「それとホテルカリフォルニアを見つけて、隣に花園ランドを建設するの」
……なにそれ? 聞き馴染みのない言葉に僕は首を傾げと、女の子が差し出したままだった手を唐突にぐいと掴んで立ち上がって、素早く背後に回ったかと思うと、僕の背中に跳び乗ってきた。危うくまた地面に転がりそうになるのをどうにか踏ん張ってこらえた。
危ないよ。僕の文句を無視して女の子は「花園ランドはね、ウサギが沢山いてもふもふで、美味しいものが沢山あって、音楽がずっと流れてる、悲しいことがひとつもない、素敵なところ」と楽し気に言った。熱っぽい吐息が耳にくすぐったい。
「楽しそうなところだね」
「楽しいよとっても。お兄さんは副園長ね」
「僕で務まるかなぁ」言いながら、お金が入ったビニール袋と、アコースティックギターを拾い上げて、女の子に渡してやった。
このまま背中に乗ったままでいるらしい女の子を抱え直そうと、尻に手をやると「えっち」女の子が言って僕は「不可抗力だよ」端の方に転がっていたスニーカーを指先に引っ掛けて、すっかり明るくなった公園を後にする。
ほんとうにいいの? 耳元で女の子がとても小さな声で言った。
ほんとうにいいよ。僕は答えた。
*****
家に着いて、交代でシャワーを済ませると、濃い疲労感と眠気が身体にずしり圧し掛かった。昨日から一睡もしていないのだから当たり前といったら当たり前だ。
だけれど、この一週間、ひたすらに精神を苛み続けた見えない影に追われる焦燥から解放されたのだと思うと、気怠い疲労感ですら快い物の様に感じられた。
疲れているのは女の子の方も同じなようで、シャワーから戻って寝巻になった女の子の瞳は半分くらい閉じていて、うつらうつらとしていた。
僕らは一度だけ唇を軽く触れ合わせて、一緒のベットに入った。カーテンの隙間からやわい陽光が差し込む、薄暗い寝室で、指と指を繋いで、微睡む意識で、これからについて話した。そうしてどうしようもなく心地良い眠りに落ちていった。
いつもありがとうございます。次回で最終話です。