ウサギ小屋からは出られない   作:ペンギン13

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Wasted Time

 峠の途中の休憩所は寂れていた。寂れているというよりは荒れ果てていた。駐車場の白線は殆どが消えかけて、ひび割れたアスファルトの隙間から雑草が生い茂っている。

 かつては茶屋があったらしい簡素な建物は、シャッターが降りていて窓がある箇所は全てベニヤ板で塞がれている。建物全体を蔦が覆っている。錆びの浮いたシャッターに乱雑に描かれたスプレー缶の落書きは随分と以前の物らしく、すっかり色褪せている。

 建物の片隅に申し訳程度に設えられた自動販売機は、手酷く壊されていて、ひとつは地面に転がされ緑が群生しており、もうひとつは辛うじて立ってはいるものの、表面のプラスチック板が割れて中身の半分以上が露わになって、煌びやかに飾り立てられているはずのサンプルはひとつも残っていない。

 世界が滅んで一年位経ったらこんな風景が出来上がるのかもしれない。

 

 今年は残暑が酷い。十月、まだ昼前だというのに高く昇った太陽は容赦なく黒い古ぼけた地面を熱して、足元からじりじりと灼かれているような心地になる。次から次へと汗が顎をつたって落ちて、乾いた地面に染みを作る。

 僕は駐車場のブロックの上に腰掛けて、壊れた自販機の前で歌う女の子を眺める。

 たいして広くない駐車場に停まった車は僕たちが乗って来た薄汚れたのが一台きり。女の子の歌を聴くのも僕ひとりきり。

 暑いのは女の子の方も同じらしく、タンクトップとホットパンツとビーチサンダル。人前に晒すのが憚られる姿格好。伸ばしっぱなしの髪の毛は高い位置で結われていて、歌声を鳴らすたび、くたびれた青の首輪越しに、汗に濡れた首の筋や血管が浮き出るのがよく見えた。

 肩から下げたアコースティックギターには弦が一本も張られていない。錆びて切れてしまってから張り替えていないから。だから女の子は曲の合間合間にボディを叩いてリズムを取ってみたり、なんとなくネックを握ってみたりする以外は、ただ肩からぶら下げて、歌だけを歌っている。

 

 女の子の歌声は変わった。車で移動している最中、煙草を吸う本数が増えたせいか。車中泊が増えて生活が以前にも増して不規則になったせいか。割れたワイングラスみたいなしゃがれた歌声に変化した。

 咳き込む女の子に大丈夫? 尋ねると女の子はロバート・ジョンソンみたいでしょ? と笑った。僕はロバート・ジョンソンを知らないから、曖昧に頷いて「素敵だと思う」

 

 ささくれだった歌声の不安定なロングトーンが真っ青な空に浮かんで、ぼとりと地面に落ちた。女の子は壊れたギターのネックを高く掲げて振り下ろして掻き鳴らす真似をする。そうして自身の右側の方の木々が生い茂る方を数秒ぼんやり眺めてから、僕の方に視線を移して「おしまい」

 僕は座ったままで拍手を打った。ひとりだけの拍手が僕ら以外誰もいない駐車場に響いた。

 

 

*****

 

 

 女の子と旅に出て沢山の景色を見た。

 例えば星空。いつだったか見た都会の光に照らされた曖昧な星空とは比べ物にならない星空。宇宙が目の前に振ってきたような星空。柔らかい土の地面に寝転がってふたり、夜が明けるまで星空を見た。

 例えば夕焼け。海の遠くに落ちていく太陽。橙色に燃え上がった海の稜線が、濃紺の夜闇に塗りつぶされて消えていく様を、ふたり砂浜に座って眺めた。

 暗闇を見た。雨の車中泊。車の天面を雨粒が止めどなく叩く。全ての色が失われてしまったかのような真っ暗な夜。そういう夜、女の子は眠ったまま泣いた。涙を流さずに泣いた。寝言で人の名前を、何人かの女性の名前を呼んで泣いた。

 目覚めてそのことを言うと、女の子は「それ、お兄さんもだよ」と言うから少し驚いて、お揃いだね、笑い合った。

 

 

*****

 

 

 茹だる様な暑さで目を覚ました。窓を開けただけの車内はサウナさながらの蒸し暑さ。寝台代わりの後部座席の倒したシートはすっかり熱をもっていて、座っているだけでも暑い。

 堪らずにドアを開け放つと、生温い風が通って、まとわりつく汗を申し訳程度に冷ました。太陽は頂点を通り越して傾き始めている。駐車場には相変わらず僕らの車が一台あるきり。

 僕は手探りでシートの間に挟まった飲みかけのペットボトルを見つけて、生温い水で喉を潤す。

 じっとり汗に濡れた素肌の感触を背中に感じた。見ると目を覚ましたらしい女の子が長い前髪から汗の雫を落としながら、僕の背中に凭れかかって「あつい」

 持っていたペットボトルを差し出すと手に取らず、そのまま飲み口に齧りついた。飲みやすいよう傾けてやると、女の子は喉を鳴らして飲んで、女の子が飲み下すたびに汗に濡れた喉に巻き付いた、すっかりくたびれた首輪が上下した。口元から零れた水が細い顎を伝って、首に落ちて、胸元に落ちて、汗と混ざって女の子の青白い肌がきらきら光った。

 

「おなかすいた」女の子が言って、シートを這って行って奥の方をがそごそやり始める。

 

「なにかあった?」

 

「うん」

 

 女の子が掲げて見せたのは、スナック菓子の袋と、水のペットボトルが一本きり。

 

「それだけ?」

 

「これだけ」

 

「そろそろ、コンビニがあるところにいかないとだね」

 

「ハンバーグが食べたいな」

 

 お兄さんも食べる? スナック菓子の袋を開けながら女の子が言って、僕は生返事を返して、運転席の方に転がしていた煙草を取って火を点けようとすると、女の子がスナック菓子を口に指ごと突っ込んできて、煙草は地面に落ちて、口の中にはスナック菓子の塩気なのか汗の味なのかよくわからない風味が広がった。

 

 

****

 

 

 休憩所を出てからはひたすらに登坂を走っていた。さすがに食べ物がなくなるのはマズい。それに飲み物も。助手席に座る女の子はスナック菓子を食べ終えて、煙草を燻らせている。甘ったるい匂いのする紫煙が、ゆらゆらたなびいて窓のほうに吸い込まれていく。

 対向車とは一向にすれ違わず、追ってくる車もない。切れ目の無い登坂がただただ続いている。

 カーナビは随分と前から使っていない。目的地に『カリフォルニア』と打ち込んだら、レストランやホテルや、商業施設の場所ばかりを映し出して役に立たないと思ったから。

 だから車内で聞こえる音は、エンジンの低く唸る音と、タイヤが地面を踏みしめる音。それから女の子の鼻歌。

 ふわふわ揺れる陽気な音は、聞いたことの無いメロディだったから「それ、なんて曲?」僕が訊くと「お兄さんの歌」

 

「僕?」

 

「そう」

 

「歌詞はあるの?」

 

「これから考える」

 

「そっか」

 

「出来あがったら聴いてくれる?」

 

「もちろん」

 

「嬉しい」女の子は緩く笑ったかと思うと、急に顔を真っ青にして「ごめん、とめて」と言うものだから、僕は慌ててハザードを焚いて車を路肩に停めた。

 車が停まるや否や、女の子は窓から顔を突き出して嘔吐した。

 吐瀉物が地面を打つ独特の音。女の子の指から落ちた煙草が溜まった吐瀉物の上に落ちて、ジュッと音を鳴らした。僕は細かく痙攣する女の子の背中を擦ってやる。痩せた背中は背骨の感触が鮮明に分かる。

 最近になって、女の子は体調を崩すことが多くなった。最初は車酔いかと思ったけれどそういうわけではないらしく、夜中にこっそり、げぇげぇやっているところを何度か見ていた。

 次に大きな街に着いたら、女の子は嫌がるだろうけれど病院に連れて行こう。不規則な生活が続いているから、どこか悪くしたのかもしれない。

 調子が悪いというと、車の方もここのところエンジンのかかりが良くない。こっちもみてもらわないと。冬の車中泊に備えて防寒具や寝具も買い込まなければならない。口座にはあとどのくらい蓄えがあっただろうか。前に立ち寄ったコンビニで見たときは少し心許なく感じた記憶がある。

 しばらくの間、背中を無言で擦っていると、細かな痙攣は徐々に収まっていって、女の子は長い呼吸を繰り返した。

 

「大丈夫?」窓から顔を出したままの女の子に僕が訊ねると、返ってきたのは「ウサギだ」という脈絡のない答え。

 

「ウサギ?」

 

「うん、後ろの道にいた」

 

 僕は女の子の言う方を見てみる。シートを倒した後部座席には脱ぎ散らかした衣類や弁当や菓子の空き殻や、飲みかけのペットボトルが転がっている。奥のリアウィンドウから見える狭い景色にウサギの姿なんてなくて、ただ走ってきた峠道が続いているだけ。

 

「本当にいたの?」と訝しんだ僕が訊くと女の子は振り返って「いたよ」

 

「すぐに跳ねていっちゃった。凄く速かった」

 

「そっか。ジャックラビットかもしれないね」

 

「うん、きっとそうだよ」

 

 緩く笑う女の子の唇は吐瀉物で濡れて光っていて、僕は頬に手を添えてそれに唇を合わせた。何度か角度を変えて薄い唇の感触を確かめていると、生温いものが口の中に入って来て、強い酸味が味覚を刺激した。

 

 この旅はもう長くは続かない。唾液と吐瀉物の混ざり合ったものを嚥下しながら僕は思う。

 このまま所持金が減っていくと、僕らはきっと取り返しがつかなくなる寸前で、どこか都合の良い街で身を落ち着けて、生活を始めると思う。最初はその日の暮らしも危ういような日々が続くかもしれない。けれど、そういう極限の日々だって、毎日を過ごせばそれが日常になって、やがては安定していく。

 そうして、安定を取り戻したころにまた、僕らは以前のように過去の素敵だった日々の事を思い出して、それを壊したことを思い出して、辛くなって、哀しくなって、またどこかに逃げ出そうとする。

 

 唇を合わせたままで、僕は女の子の身体を強く抱いた。女の子の方の手が僕の背中に回るのがわかった。痩せていた身体は以前にも増して細くなって、だけれど筋肉のしなやかさはそのままで、僕はずっと前に女の子に連れられて行ったペットショップの、白と黒の毛並みが美しいウサギの事を思い出した。

 

 あのウサギも僕らとおんなじだ。

 ペットショップの狭いケージの中に入れられて、ときおり運動のためだとか言って出されて、ようやく誰かに買われたとしても、自由の身になるわけではなく、新しい家の新しいウサギ小屋が待っている。

 

 僕らとあのウサギはおんなじだ。

 

 逃げても逃げても、過去は追いかけてくる。傷の舐め合いの様な緩い幸せな日常の隙間を縫って、過去は僕らを苛む。逃げても逃げても追いかけてくる。

 僕らもウサギも逃げることは出来ない。ずっと囚われ続ける。逃げても逃げても捕まえられる。僕らは逃げられない。ウサギ小屋からは出られない。

 

 ひとつだけ、延々と僕らを囲い続けるウサギ小屋から出る方法があるかもしれない。それは……。

 

 

 僕は最後に一度だけ強く強く押し付けて唇を離した。女の子の唇は吐瀉物の残滓とどちらのかもわからない唾液で濡れている。僕を正面から見つめる翠色の瞳がきらきら濡れている。

 女の子の頬をそっと撫でて、僕は気持ちを伝えた。何度かつっかえて、しどろもどろになりながら伝えた。女の子は大きな瞳をさらに大きく見開いたかと思うと、次の瞬間には、どうしようもなく美しい笑顔で、くすぐったそうな微笑みで、私も。

 

 

****

 

 

 車を走らせ始めて少しして、ようやく長い登坂の終わりが、坂の切れ目が見えた。

 肩に温かな重量を感じた。助手席の女の子が凭れかかってきた。運転中に危ないとか、そういうことを言う気にはならなかった。凭れた頭に頬を寄せると、何日か風呂に入れていないからか、女の子の降ろした髪の毛からは、少し脂の匂いがして、それが酷く愛おしかった。

 車が坂の切れ目に到達する。すると炎の様な橙色が僕らの網膜を灼いた。

 夕焼けだ。

 坂が終わって木々の切れ目から見えたのは、どこまでも続く海。

 終わりが見えない海の稜線を沈む太陽が真っ赤に燃やしている。

 

「綺麗だね」

 

「うん。綺麗だ」

 

 僕はハンドルを操る手を片方、離して女の子の手を取った。指と指を柔く繋いで、もう一度「綺麗だね」言い合った。もう一度、気持ちを伝え合った。

 燃える海の手前、ずっと手前のガードレールは所々が凹んで、ひしゃげて、錆びて、ゴールテープのように見えた。

 僕はアクセルを踏み込む。

 燃える海は砂漠の様に見えた。どこまでも続く砂漠だ。きっとそこにはホテルカリフォルニアがある。




お付き合い頂き、ありがとうございました。

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