「お疲れ。飲む?」
ライブハウスの入っているビルの、道路を挟んですぐ向かいにあるコンビニ。その駐車場の陰の暗がりでしゃがみ込んでいる女の子に、買ってきたばかりの缶ビールを渡す。
「ありがとう」と言って受け取る女の子の隣にしゃがんで、自分の分の缶を袋から取り出す。プルタブを起こす軽快な音がふたつ重なった。
「乾杯!」
「うん、乾杯」
少しへこむくらいの勢いで缶をぶつけ合うと、女の子は中身がこぼれたのも気にしないで、豪快に飲み始める。あまりに気持ちの良い飲みっぷりなものだから、見ていて自然と頬が緩んだ。ライブのときの雰囲気とはまるで別人だ。
女の子のライブは、僕が遅れてきたせいもあって、あのキラキラした曲の後に二曲だけ演奏してお開きになった。二曲とも、やっぱり僕の知らない曲で、普段の曲とは何もかもが違っていた。
缶から口を離して、にへらと微笑む女の子顔を見ると、さっき見ていたライブが、実は夢の中の出来事だったんじゃないかと思えてくる。いや、そう思いたかった。女の子のライブ見ている最中に感じた不安は、最後の曲の演奏を聴いている恐怖に変わっていた。
立ちふさがる困難にへこたれずに、前に進み続けることを歌った歌詞は、普通に聴いたら「誰かを応援する歌なのか」「元気が出るな」くらいの感想で済んだのだと思う。けれど、その曲を演奏する女の子が歌う姿があまりにも必死で、しかも何故か悲壮感のようなものを帯びていたものだから、そのうち女の子が取り返しのつかない所まで進んでいってしまうんじゃないか、そんな恐怖に包まれた。
腹の奥の方から再び湧き上がってきた恐怖を、ビールの炭酸と苦みで一気に飲み下す。隣から「いい飲みっぷり」と呑気な声が聞こえた。
「ライブっていつもあんな感じなの?」
「あんな感じって?」
「えっと、なんていうか・・・。お客さん、いつも少ないのかなって」
訊いてから、なんだか凄く失礼なことを尋ねてしまった気がして、少し後悔する。
けれど、女の子は気にする様子もなく「いつもガラガラ」と笑って答えた。
「最初のころは高校の頃の友達が見にきてくれたんだけど、最近は全然。私のライブってドタキャンの穴埋めがほとんどだから、急で予定が合わせにくいんだって」
それにみんな就活とか自分のバンドで忙しいから、と他人事みたいに言って、女の子はビールの缶に口をつける。
絶句した。それじゃあ、この子はキャンセルが出るたび、あんな海の底みたいなところで、来るかもわからない客を待ちながら歌ってるのか?あんな静かな所で、たったひとり。
今日、ライブハウスの重たい扉を開けたときに見た光景が、脳裏に鮮明に蘇ってゾッとする。
「それなら、他の場所で、ちゃんと日にちを決めてやれば、見に来て貰えるんじゃない?」
その光景があまりに虚しすぎて、思わずそんな提案をすると、女の子はちょっと困ったような曖昧な表情を浮かべる。初めて見る表情だった。
「お兄さん、ノルマって知ってる?」
「ノルマ?」
急に現実的な言葉が出て来て、間抜けにおうむ返し。
もちろん知ってはいる。月末になると上司が壊れたラジオみたいに繰り返す口にする言葉だ。
「うん、ノルマ。ノルマを払わないとライブは出来ないんだ」
それは初耳だった。でも確かに考えてみると当然のことだ。場所代を徴収しなければ、ライブハウスの収入源はドリンクカウンターの商品だけになってしまう。それじゃあ、とても経営が立ち行かない。
「例えば」と女の子が、ライブハウスが入っているビルを指差す。丁度わらわらと人が出て来ているところだった。女の子の後のバンドの出番が終わったらしい。僕がライブハウスに到着した時に建物の前で溜まっていた若者の姿も見えた。その表情は皆一様に笑顔で染まっている。
「あのライブハウス。私は穴埋め要員だからノルマが無いけど、本当は二五〇〇円のチケットを十枚売らなきゃ赤字」
確か女の子が演奏した時間は、二十分に満たないくらいだった。僕が遅れて来た時間を加味しても、持ち時間は三十分くらい。
たったそれだけの時間、演奏するのに、そんなお金がかかるのか・・・。
「私、あのライブハウス以外にもバイト掛け持ちしてて、それでも毎月カツカツ。お客さん十人も呼べないし、他でライブなんて年に何回か出来ればいい方なんだ」
道路の向こう側ではしゃぐ若者たちの姿が目に入る。全部で十人位。半分がバンドの人だと考えると、彼らもノルマを達成できていないということになる。それなのに彼らには、それを悔やむ様子はなくて、それどころか心の底から今を楽しんでいるような充実感に満ちた顔をしている。正直、少し羨ましかった。
ちらと女の子の横顔を盗み見る。女の子も僕と同じく、よく見る何を考えてるのかわからない表情で、対岸のバンドとそのお客のことを眺めていた。
もしかして羨ましかったりするのかな?今日、演奏していた曲も、なんとなくだけど、ひとりで演奏するために作られた曲じゃないような気がした。
「キミもバンドを組めばいいんじゃない?そうすればノルマだってーー」
「バンドは」
珍しく、というか会ってから初めて、女の子は僕の話を遮った。
びっくりして女の子の方を見ると、先程と変わらず、若者たちの様子を見たままで
「バンドは、出来ない」
無感情に、そうポツリと呟いた。
出来ない? やりたくないとかじゃなくて、出来ない?
そんな疑問が湧いた。けれど、僕は訊けなかった。もしかしたら女の子にとって、あまり嬉しくない話題なのかもしれないと思ったから、訊くことが出来なかった。
向こう側で騒ぐ若者たちの笑い声が、夜の住宅街にひと際大きく響く。
僕がなんだか居たたまれなくなってしまって、女の子から視線を逸らすと、そのまま気まずさをごまかすように、空いている方の手をポケットに突っ込んだ。指先に何かが当たった。引っ張り出す。それは受付で金髪の女から貰った、変わったデザインの煙草の箱だった。
夢に出てきそうな、女の青白い顔を思い出してしまい、ブルりと震える。だけど煙草はこの微妙な雰囲気を紛らわすには丁度いいものだった。缶を地面に置いて、早速、封を開けようとして、すでに銀色の紙が剥がされていることに気付いた。
普通、お近づきの印に手の付いたものを渡すかな・・・。
女の笑い声が聞こえてくるようでげんなりしたけど、中は白いフィルターがみっちり詰まっているのが見えた。とりあえず吸ってみて、マズかったら捨ててしまおう。どうせ貰い物だし。一本引き抜く。
箱のデザインも妙だったけど、中身はもっとヘンテコだった。普通の煙草と違い、吸い口の部分と煙草の葉を薄い紙でひとまとめにしているらしく、先端の方がこより状態になっている。
手巻きタバコって言うんだっけ?どうやって吸うんだこれ?
初めて触れる存在に、どうしたものかと困惑していると、横から伸びてきた白い手が、僕の手を煙草ごと鷲掴みにした。
「欲しい?一本あげるから吸い方を教えてよ」
「それ、どこで買ったの?」
見たことがない真剣な表情の女の子のふたつの瞳に、僕の顔が映る。深い緑色。呑み込まれそう。
「受付の、金髪の人に貰ったんだけど・・・」
「ちょうだい」
女の子の左手が、僕の目の前に手のひらを上にして差し出される。箱ごと寄越せと言わんばかりに。
「な、なに?そんなにこれ好きなの?」
「好きじゃない。けど、それビックリするくらい美味しくないから。お兄さん、吸ったらショックでウサギになる」
「・・・ウサギ?」
突然出てきた可愛らしい単語に、気が抜けた。
でも、渡してきたのがあの女だと思うと、ありえそうだなと思えた。白雪姫を六人くらい殺してそうな見た目だったし。
意地でも吸いたいというわけでもないから、いつの間にか鼻の先にまで迫っていた女の子の手のひらに、煙草の箱を載せた。
女の子は、掴んだままだった手に残った一本も、抜け目なく回収して箱に戻すと、さっさとポケットの中にしまって、ひとつ息をついた。
「ウサギ、嫌いなの?」
「ううん、好きだよ。どうして?」
「吸ったらウサギになるって言ってたから、嫌いなのかと思って」
「お兄さんはウサギっぽくないから。どっちかっていうと・・・ラクダ?」
「ラクダ・・・」
喜んでいいのか、微妙すぎるチョイスに言葉が出てこなかった。
けれど、主を背中に乗せて、砂漠をえっちらおっちら歩くラクダの姿は、朝から晩まで上司にこき使われる僕と重なる部分があるかもしれない。
まさか、そこまで深く考えて言ったわけじゃないのだろう。自分の卑屈さが嫌になった。
「はい、一本しかないから半分こね」
どこから出したのか、火が点いた煙草が、目の前に現れた。
たまに女の子から漂っている、煙の匂いが鼻腔をくすぐる。
「煙草を半分こって斬新だね」
「いらないなら、あげないよ?」
引っ込もうとする女の子の手を引き留めて、指に挟まった煙草に直接口を付けた。
じんわりと、肺の中が満たされていく。今度は前みたいにむせなかった。
「お行儀悪い」と文句を言いながらも、女の子は一口吸っては、同じように煙草を僕の方に差し出してくれた。
「また、ライブ見に来てくれる?」
煙草の先から半分が灰になった頃、ポツリと呟くように女の子が言った。
重さに耐えきれなくなった灰が、アスファルトの上に落ちる。
僕はそれを指先で弾きながら「いいよ」と答えた。
「けど、次は君の曲を聴かせて欲しいかな」
「私の曲、そんなに好き?ポピパの曲より?」
「うん。僕はラクダだから」
女の子がポカンとした表情をするから、可笑しくて笑った。
ポピパ。確か昨日女の子が言ってた。そうか、バンドの名前だったのか。
そのポピパというバンドがどんなものなのか、僕は知らない。
けれど、キラキラよりはカラカラな方がずっと良かった。その方が安心するから。
ゆらゆらと揺れる煙草の煙が、夜風になぶられて消えた。少し冷たい風。秋の気配を感じた。
向こう側にいた若者たちは、いつの間にかどこかに消えていた。