女の子のライブの次の日のことだった。
始業前、低血圧でまだぼんやりしている僕の所に上司がやって来た。
「熱は下がったのか?」
「はい。風邪薬を飲んで寝たらすぐでした」
「それは良かった。ところで腹痛はどこにいったんだ?」
「・・・あー」
大阪の営業所への長期出張が突如として決まったのは、この上司との会話が原因だったのだと思う。
仙台の営業所への短期出張はこれまで何回かあったけれど、大阪、それも長期となると初めてのことだ。しっかり準備をして臨もうと思ったのに、上司にいつから行けばいいのかと尋ねたら「明後日」とわけのわからない答えを返された。上司なりの小粋なジョークだと思ったけれど、目が笑ってなかったから僕は無言で頷く。
その後、朝礼の際に、上司の口から社員のひとりが一身上の都合で退職したことを告げられた。なるほど、どうやら今回の出張は彼の穴埋めらしい。
不幸中の幸いというか、滞在中に寝泊まりする場所は押さえていてくれたらしく、とりあえず生活に不便はしなさそうな、駅近くのウィークリーマンションだった。
仕事の方は、最初の数日ネイティブの大阪弁に戸惑ったくらいで、それ以外は滞りなく進んでいった。東京に比べて残業が少ないのが心の底から羨ましい。
そんなこんな、約一か月の滞在期間の最終日、ウィークーリーマンションの近くに、そこそこ有名なライブハウスがあることを現地の社員から聞いた僕は、折角だからと足を運んでみることにした。
繁華街の雑居ビルの地下にあるライブハウスは、女の子のバイト先よりも一回り規模が大きく、重たい防音扉の向こうには、以前に想像していた通りの光景があった。一番後ろで見ているのに周囲からぐいぐいと圧迫される満員の客席。色とりどりの照明に照らされて輝くミュージシャン。熱狂の坩堝。これぞライブハウスといった光景だ。
四つのバンドが演奏したらしいのだけど、僕は人混みと、初体験の爆音にすっかり酔ってしまって、一番最後のバンドのことしかまともに覚えていない。
そのバンドはギターボーカルとベースボーカルと、サポートのドラムからなる三人組バンドで、凛とした歌声と、チョコレートソースみたいに甘ったるい歌声が絶妙に溶け合っているのが印象的だった。関西弁と標準語が混じったMCで、正反対な歌声のギターとベースが実は姉妹だと言っていて驚いた。人の頭の隙間から見たふたりの顔は、そう言われると確かに、少し似ていたかもしれない。
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翌日の昼頃、東京に戻った僕は報告に立ち寄っただけの会社で、何故か夜まで拘束されて、帰宅ラッシュを過ぎた頃にようやく解放された。帰りの電車の車内にあった、転職を勧める胡散臭い吊り広告を、真剣に眺めてしまったのは仕方のないことだと思う。
一か月分の荷物が詰まったキャリーバッグを改札口に引っ掛けたりして、ようやく見慣れた駅前に着くと、じわりと緊張感が這い上がってきた。
もし、女の子がいつも通りに、閉店したデパートのシャッターの前で歌っていたら、会うのは、あのライブの夜以来のことで約一か月ぶりだ。なにせ急な出張だったから一声かける間もなかったのだ。
ご機嫌取りにと念のために買ってきた、おみやげの箱菓子が入った紙袋を持つ手に汗が滲む。まさかこのくらいのことで機嫌を損ねるなんてことはないだろうけれど、念のため、念のためだ。
ごろごろとキャリーバッグを引きずって、デパートの近くまで歩いていくと、女の子の歌声は聞こえず、代わりに男の怒声が聞こえてきた。いつも女の子がライブをしている辺りに、珍しく足を止めている人がいる。
まさかと思って見てみると、どこかで見た気がする警官が、ギターを肩からぶら下げたままの女の子に何やら怒鳴りつけている。肩の力が抜けた。酔っ払いか何か、変なのに絡まれてるのかと思ったから。
会話の内容を盗み聞きしてみると、警官は女の子がここでライブをやることに腹を立てているようだった。
唾を飛ばしながら注意する警官の話を、女の子は何を考えているのかわからない表情で聞いている。それに腹を立てたのか、警官の怒声が一段大きくなった。
そんな警官の剣幕もどこ吹く風、ぼんやり気の無い相槌を打つ女の子を雑踏の中から遠目に眺めていると、ばったり緑色の瞳と視線がかち合った。
女の子は、少し目を丸くして驚きの表情を浮かべたあと、口元をニッと歪めた。丁度警官の死角になるあたり、後ろに組んだ手でちょいちょいと、地面に置かれたギターケースと、いつもCDケースを入れてるトートバッグを指差す。そして目が覚めるようなウィンクをひとつ。
次の瞬間、女の子は走り出した。ギターを持ったままなのに、とんでもないスピードでその背中がどんどん遠ざかっていく。たっぷり五秒間くらい、間抜け面でその後ろ姿を見送った警官は、慌てて出っ張った腹を揺らしながら女の子を追いかけ始めた。
ポカンと、小さくなっていく二人の姿と、誰もいなくなったシャッター前に残されたギターケースを見比べる。ああそういうことか。ようやく女の子の意図が分かった。
僕は手早くギターケースの口を閉じて背負い、傍らに置かれていたトートバッグを取り上げると、女の子の後を追いかけ走り始める。キャリーバッグの持ち手が、ギシりと不満そうな音を鳴らした。
ほとんど歩いてるのと変わらない速度で走る警官を追い抜く。何事か叫んだ気がしたけど、気にせず走る。こっちだって、この大荷物で走っていっぱいいっぱいなんだ。他人に構ってる余裕なんてない。
前を走る女の子がこちらを振り返った。暗くて良く見えなかったけれど、多分、笑顔だった。
何故だか笑いが込み上げてくる、運動不足の足が悲鳴を上げるけれど、僕は込み上げてきた笑いを、惜しみなくまき散らしながら走った。前の方からも愉快そうな笑い声が聞こえてきた。
混ざり合ったふたつの笑い声は、ガードレールの向こうの車道を走る、大型トラックの車輪に巻き込まれて、バラバラになって夜闇の中に消えていった。