ぽたぽたと汗が地面に落ちて、真っ黒なアスファルトに、黒い染みを作った。手をついた膝が笑ってる。背中にぺったりと張り付いたシャツが気持ち悪い。疲れた、とにかく疲れた。体中が熱い。
荒い息を吐いたり吸ったりして、呼吸を整えていると、ぴたりと首筋に何かが当てられた。冷たい感触。驚きで自分の物とは思えない素っ頓狂な声が出る。ぼとんと鈍い音を立てて、冷たい感触の正体、スポーツドリンクのペットボトルが地面に転がった。女の子がそれを拾い上げて僕に差し出してくる。
「お兄さん、体力無いんだね?」
「・・・そう言う君は体力があるね」
荷物のことを考えろとか、革靴なんだけどとか、いくつかの文句が頭の中を過ったけれど、考えてみたら女の子もギターを持ったまま走ってた。煙草を吸ってるクセに、なんて体力だ。
ペットボトルを受け取って、中身を流し込む。甘ったるいスポーツドリンクが喉を通って胃に落ちていく感覚。
体の熱が引いてきて、ようやく一息つくと、女の子は中身が半分くらいまで減ったペットボトルを僕の手から奪って、一気に呷った。汗で光る白い喉が上下する。何故か目が離せなかった。
女の子は空になったペットボトルを地面に置いて、左手につけたリストバンドで首筋の汗を拭うと、近くのガードレールに腰掛けた。秋も深まって気温が落ちてきたからか、女の子は白いTシャツの上にカーキ色のミリタリージャケットを羽織っていた。
ただガードレールの上に座ってるだけなのに、ファッション誌の一ページみたいにサマになっている
なんとなく気後れしたから、拳みっつぶんくらいの間を空けて、僕もその隣に腰を下ろした。深呼吸。埃っぽい都会の風に混じって、甘い汗の匂い。すぐ後ろを自動車が走り抜けていく。
「あーあ。しばらくあそこでライブできないかも」
「ああいうことってよくあるの?」
「うん。だけどあのお巡りさんは怒りんぼ。ちょっとびっくりした」
ちっとも驚いているように見えなかったけど・・・。
しかし、意地悪な話だ。誰の迷惑になるわけでもないのだし、歌くらい好きに歌わせてやればいいのに。
「もうちょっと大きい駅に場所、変えてみようかな。ここ、お兄さんくらいしか止まってくれる人いないし」
それは・・・残念だ。心底。口には出さないけれど。僕が聴きたいから、なんて理由で、ここに引き留めるわけにもいかない。
女の子が長い黒髪をうざったそうに耳に掛けるのを横目で盗み見る。車のヘッドライトの光が耳元で反射した。小振りな耳に無数のピアス。つけているのは知ってたけど、ちゃんと見るのは初めてだった。好奇心に負けて、耳たぶにぶら下がった一番大きなピアスを摘まんでみる。熱い。女の子の肩がぴくりと跳ねた。
「痛くないのこれ?」
「最初は痛かったけど、今は全然。お兄さんも空けてみる?」
「僕は会社に怒られちゃうから」
・・・会社。そういえば明日も仕事だった。腕時計に目を落とすと、いつの間にか長針と短針とがてっぺんで重なり合おうとしていた。
女の子について走って来たから、随分と家から離れてしまった。さっさと帰ってシャワーを浴びて寝ないと。ああ、出張の荷物の片付けもあるんだ。
「ごめん、帰らないと。明日も朝から仕事なんだ」
ガードレールから降りようとするけど、降りられなかった。女の子の手が僕のスーツのジャケットを中のシャツごと鷲掴みにしていたから。
さすがギタリスト、凄い握力。いや、ギタリストは関係ないか。掴んでるの右手だし。
「どうしたの?」
「私、帰る場所が無い」
「え?」
「家、近所じゃなかったの?」と訊くと、女の子はふるふる首を振って、電車でここから一時間以上はかかるであろう地名を口にした。終電はとっくに行ってしまっている。
「でも、僕と初めて逢ったとき、このくらいの時間までライブやってなかった?」
「うん。全然人集まらないから粘ってたら、あんな時間になってた」
「その後はどうしたの?」
「始発まで歩いてた」
それはまた、なんというか逞しい・・・。
適当にネット喫茶にでも入ればいいのにと思ったけれど、そういえば金欠だって言ってたっけ。
「私、帰る場所がない」
女の子は先程と同じ言葉をそのまま言う。
相変わらず何を考えてるのかよくわからない顔。緑色の瞳に僕の顔がゆらりと映って見えた。何を考えてるのかわからないけれど、少しだけ不安そうには見えた。
だから、また始発まで歩けばいいなんて、とても言う気にはなれなかった。
「うち、来る?」
「行く」
即答だった。女の子がガードレールから飛び降りるのに引っ張られて、僕もつんのめりながら降りる。足元に置きっ放しだったペットボトルが倒れた。そして、そのまま車道に転がっていって、行き交う車に踏まれてペチャンコになった。
無残なペットボトルの末路を女の子とふたり笑い合った。おみやげが入った紙袋を女の子に押し付け、キャリーケースを引いて歩き始める。女の子の、僕のジャケットを掴んだ手はそのまま。家に着いて玄関の扉の鍵を閉じるまで、ずっとそのままだった。
ーーーーー
「部屋、広いんだね。家賃高そう」
「まぁぼちぼちかな・・・」
駅近で1LDKの我が家は確かに家賃が割高だ。同居人が出て行ったタイミングで引っ越しても良かったんだけど、結局そのまま住み続けている。
きょろきょろと部屋の中を見回す女の子に「シャワー先に貰っても良い?」と訊くと「いいよ」と言ってくれたから、お言葉に甘えて、キャリーバッグを玄関の横に放置して脱衣所に直行した。
服を脱いでいる途中で気が付いた。甘えるも何も、ここは僕の家じゃないか。
走ったせいで、いつも以上にかいた汗を洗い流して部屋に戻ると、女の子がソファに座ってギターを弾いていた。テーブルの上には、おたまじゃくしが踊るルーズリーフが数枚並んでいる。
「真夜中なんだけど」
「・・・。うん、ごめん」
謝りながらもギターをつま弾く手を止めようとはしない。まぁ、ジャカジャカ掻き鳴らしてるわけじゃないしいいか。
寝室のクローゼットからバスタオルと、部屋着、それと奥の方で眠っていた新品の女物の下着を取り出して、女の子に渡した。受け取った女の子は「変態?」と、真顔で首を傾げる。
「なんで?」
「下着、女物。着るの?」
「着ないよ。出てった同居人が置いてったやつ。見ての通り新品だから、安心して」
「・・・同居人が変態?」
「どうして、意地でも変態にしたがるのかな?」
「まともな会社員だったよ」と言い聞かせて、女の子を脱衣所に放り込む。
ソファを我が物顔で独占するギターをケースに戻して、身を沈めるとようやく人心地ついた気がした。
テーブルの上の楽譜を一枚手にとって眺めてみる。昔、音楽の授業で読み方を習った覚えがあるけど、どれが「ド」なのかもわからなかった。
これが女の子の音楽になるのかと思うと、僕なんかが触ったらいけないような気がしてきた。急に神聖なものに変化した紙切れを、そっとテーブルの上に戻す。
ひとつ息をつくと、思い出したように、強烈な疲労感と眠気が体にのし掛かってきた。考えてみると、長期出張から戻ったその日に、終電とまではいかないものの働かされ、その挙げ句が、荷物を抱えて全力疾走だ。そりゃあ、疲れてもいるだろう。
ソファからどうにか身体を引き剥がし、寝室から毛布と枕を持ってきて置いておく。女の子には悪いけどベッドは僕が使わせてもらおう。ちゃんと寝ないと明日一日、乗り切れる気がしない。
携帯のアラームをセットして、ベッドに倒れこむ。約一ヶ月ぶりの、自分の家の寝床は、驚くほど落ち着くもので、僕の意識を一瞬で闇の中に引き摺り込んでいった。
ーーーーー
ベッドが軋む音で目が覚めた。
浅い眠りから引っ張りあげられたものだから、今が夢の中なのか、現実なのかが、イマイチ曖昧だ。 けれど、ぼやけた天井が、急に緑色に染まって意識が一気に覚醒した。女の子が僕の上に馬乗りになって、こちらをじっと見下ろしてる。
「どうしたの?ベッドで寝たかった?」
身体を起こそうとするけど、女の子の手が僕の肩に乗っていて、情けないことに身動きひとつとれない。
「死んじゃったのかと思った」
僕の顔を見下ろしたまま、ポツリと女の子が言った。
死んだみたいに眠るんだね
出て行った、同居人の素っ気ない言葉が蘇る。
自分の寝姿なんて見たことがないから、わからないけど、もしかしたら相当、酷い顔で寝ているのかもしれない。
「大丈夫、生きてるよ。身体は頑丈だから」
体力は無いけどね、と付け加えておどけてみせたけど、女の子はクスリとも笑わずに首を振る。長い髪の毛から水滴が散って、僕の頰にいくつか落ちた。
「歌、急に聴きに来てくれなくなったから、いなくなっちゃったと思った」
「それは、ごめん。急に仕事が入っちゃって」
髪の毛、ちゃんと乾かさないと風邪引くよ?
そう続けようとした言葉は、急に近づいて来た女の子の顔に遮られた。鼻先がピッタリとくっ付きそうな近距離。かかる吐息の熱さで脳が溶けそう。
「お兄さん、知ってる?」
なにを?と、言えたのかわからなかった。深い、底の見えない緑色に吸い込まれてしまって。
「ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ」
女の子の身体がもたれ掛かる。濡れた髪が冷たい。
そうして今度こそ、僕の意識は闇の中に沈んでいった。