ウサギ小屋からは出られない   作:ペンギン13

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甘い匂い。ハンバーグ。一緒に。

 聞き覚えの無いアラームの音で目が覚めた。

 いつまで経っても鳴り止まない音は僕の携帯から流れているらしく、引っ張りよせて適当に画面をタップすると、アラームの四倍くらいやかましい音が受話口から溢れだした。

 跳ね起きて時間を確認して、背筋に氷を落とされたような感覚。携帯電話の右上に表示された現在時刻は、普段なら会社で上司のありがたいお言葉を、みんなで聞き流してる時間。つまるところ、完全に遅刻だった。

 携帯電話越しに平謝りして、そこらに落ちてる衣服に足を取られながらスーツに着替えて、転がるように家を出た。太陽の光が眩しくて、涙が滲んだ。

 入社以来、初めての大遅刻をやらかした僕は、同僚が好奇と同情の視線の中で、上司からバケツいっぱいの怒声とお小言を嫌味を頂戴した。今回ばかりは全面的に僕に非があるから仕方ない。

 出張明けで目を逸らしたくなるくらいに仕事が溜まっていたけれど、駅まで全力疾走すればなんとか終電に間に合う時間には、なんとか片づけて会社を出ることが出来た。

 

 最寄りの駅前のコンビニで、弁当を念のためふたつ買い込み温めて貰って、二日連続の全力疾走でふらふらになった足で、家に到着して玄関のドアを引くと、女の子の随分と履き込まれたキャンパス地のスニーカーがちょこんと並んでいた。開いたままドアの奥からギターの囁き声に混じって調子外れな鼻歌が聞こえる。

 良かった。どうやら帰ってなかったらしい。弁当が無駄にならないで済んだ。

 スニーカーの横に自分の革靴を並べて、リビングに入ると「おかえり」と呑気な声が飛んできた。

 そこには昨日見たのと、ほとんど同じ光景。ソファに座って、ギターを爪弾く女の子。散らばった楽譜のルーズリーフ。

 違うのは、冷蔵庫に入ってたはずの黒い瓶と、その中身のピンク色のお酒が注がれたグラスが、テーブルの上に載っていること。それから女の子が口に咥えた煙草から立ち昇る白い煙。

 既に吸殻が何本か転がっている灰皿を避けて、弁当が入った袋をテーブルに置くと、女の子の瞳がキラリ輝く。僕が「待て」と言うと、女の子はギターを弾くのを急に止めて姿勢を正した。まるで犬みたい。

 

「お嬢さん。部屋の中が禁煙だって知ってたかい?」

 

「なんだってお兄さん。そいつは初耳だ」

 

 アルコールが回っているのか、トロンとした目つきの女の子に悪びれた様子はこれっぽっちもない。お酒の瓶を軽く振ってみると、中身は半分くらいに減っていた。そこそこ度数が高いのによく飲むなあ。関心半分、呆れ半分で瓶を元の場所に置く。

 不思議な匂いが鼻腔をくすぐった。やたらと甘ったるい、独特な匂い。よく見ると口に咥えた煙草がいつもの物じゃない。テーブルの上にある煙草の箱は、以前ライブハウス受付で、あの不気味な金髪の女が僕に寄越したのと同じものだった。

 そこまで悪い匂いじゃないし、なんとなく興味が湧いたから、女の子の口から煙草を引っこ抜いて、自分の口に持っていって吸い込んでみる。「あっ」と女の子が慌てて腰を浮かすのが見えた。

 身体がふわりと浮いてグルリと一回転。肺胞のひとつひとつ、細胞のひとつひとつに煙が染みこんでいく感覚。前に吸った物と全く違う味。思考がぼやける。いや冴えわたる。どっちだ。わからない。

 ぴたぴたと、頬に冷たい感触。気持ちいい。安心する。握ってみるとそれは女の子の手だった。いつの間にか目の前に女の子の顔。心配そうな表情に見下ろされてる。さっきまで立ってたはずなのに、床に座り込んでる自分がいた。

 

「大丈夫?」

 

「・・・ラクダになるかと思った。これ、本当に美味しくないんだね」

 

 煙草を女の子に返して、ギターをどけて、ふらつく身体をソファに横たえる。こちらの様子を覗きこむ女の子に「大丈夫、もう大丈夫」と手を振って見せる。煙草一本でこの有様、格好悪いったらない。

 

「弁当買ってきたから、お腹減ってたら食べていいよ」

 

 テーブルの上のコンビニ袋を指差して言って、そのまま目を瞑った。なんだか視界に入ってくるもの全てが眩しく見える。目を閉じても、瞼の裏でなにかが万華鏡のように光っていた。

 少しして、ガサゴソと袋が擦れる音の後、女の子が弁当を食べ始める音が聞こえた。部屋の中に、ハンバーグのチープな匂いが満ちて、甘ったるい煙草の匂いを消し去っていく。

 吸ったり吐いたり、深呼吸を繰り返していたら、だいぶ気分が楽になってきたから、そっと目を開けてみる。なんでか見慣れた天井が素敵なものに思えて愉快な気持ちになった。身体がふわふわする。

 天井から視線をずらすと、黙々と弁当を口に運ぶ女の子の横顔。ただ食べ物を口の中に入れて咀嚼してるだけなのに、それがやたらと画になっていて、美人というのは本当に得な生き物だなと思った。

 

「美味しい?」

 

「ふん!」

 

 口いっぱいに白米を含んだままで頷く女の子を見て、思わず笑ってしまった。

 

「食べられそうなら、ふたつとも食べちゃっていいからね」

 

 そう言うと、女の子は嬉しそうに頷いて、弁当をやっつけにかかる。割りばしの先がプラスチックの容器に当たる音が響いた。

 ぼんやり、ソファに寝転がったままで女の子の横顔を眺める。いつもどおりの横顔。昨日の夜のことが幻か何かだったかのように思えてくる。でも僕にもたれかかってくる女の子の軽すぎる体重と柔らかさは、はっきりと記憶に残っていて、とても夢の中の出来事だったとは思えない。

 僕の視線に気づいた女の子は、なにを勘違いしたのか、ハンバーグを一切れ、箸の先に突き刺して差し出してきた。

 食欲が戻ったわけじゃなかったけど、厚意を無下にするのもどうかと思ったから、首を伸ばして、箸に食らいつく。添加物まみれのハンバーグは、普段は少しくどく感じる味なのに、今日に限ってはなぜだか、やけに美味しく感じた。だから、再び差し出してきた一切れにも食いついてしまう。

 

「なんだか餌をあげてるみたい」

 

「じゃあキミが飼い主?」

 

「どっちかっていうとお兄さんが飼い主じゃない?ここ、お兄さんの家なんだし」

 

 それじゃあ、と僕は身体を起こし、女の子の手から箸を取って、もう半分程に中身が減った弁当から白米を女の子の口元に運ぶ。

 

「お肉の方がいい」

 

「好き嫌いしないで食べなさい」

 

 横暴だ、虐待だ、などと言いながらも、女の子は白米を食べた。

 それから「次はハンバーグ」「ポテト。ソースつけてね」と言われるままに、女の子の口に食べ物を放り込んでいくと、あっという間に空のプラスチック容器が出来上がった。

 

「どうする?弁当、もうひとつ食べる?」

 

「ううん。もうお腹いっぱいだからいいや。明日食べる」

 

「明日もここにいる気?」

 

「だめ?」

 

「別に。大丈夫だよ」と女の子に返して、空の容器と、手つかずの弁当をキッチンに持っていく。まだ少しふらつくけど、煙草にやられた体調は随分と良くなっていた。だけど、分別だとかを気にするのは億劫な心持ちだったから、45リットルのゴミ袋の中に油で汚れたままの容器を放り込んだ。ゴミ袋の中は、似たような容器が折り重なっている。

 次のゴミは明後日だったかな。どうにも曜日感覚が曖昧だ。

 リビングに戻ると、テーブルの上のお酒と五線譜はそのままで、女の子の姿が消えていた。寝室の扉が開かれて電気の光が漏れていたから見てみると、ベッドの上に寝転んでノートに鼻歌混じりに何かを書き込んでいる女の子があった。作詞でもしてるのかと思って近づいてノートを覗いてみる。そこには文字ではなく、カエルの頭にウサギの耳が生えた、なんだかよくわからない生き物の絵が描かれていた。

 パタパタと、女の子の剥き出しの白い脚がベッドを叩いて、シーツに皺を作る。昨日、僕が貸しのはスウェットの上下だったはずなんだけど、何故か女の子の格好は、上はスウェットのままで、下は多分クローゼットから引っ張り出したのだろう、少し前まで僕が寝巻にしていたジャージの半ズボンになっていた。寒くないのかな?

 シーツに皺が増えるのと一緒に、女の子の膝の裏の上あたりが露わになっていくのが見えて目を逸らした。ノートの上にはウサギ耳のカエルの他に、パンダらしき動物の絵が増えていた。

 

 

「キミは、いつもこういうことしてるの?」

 

「こういうことって?」

 

 ノートに注がれていた女の子の視線が持ち上がって、シャープペンの先が紙を引っ掻く音が途切れた。

 

「こんなふうに、男の人の家に転がり込んで、ご飯食べさせて貰ったり、みたいな」

 

 女の子はパチパチと瞬きをして、首を振った。

 

「ご飯食べさせてくれるって付いて行ったら、無理やりされそうになって、それからしてない」

 

「・・・それ、大丈夫だったの?」

 

「うん。思いっきり蹴ったら動かなくなったよ?」

 

 足をパタパタさせるのを止めた女の子が、僕のお腹の下あたりを見て、あっけらかんと言う。女の子の脚が突然、鋭利なナイフのように見えて、僕は思わず一歩後ずさった。

 

「じゃあ、なんで僕のとこには来たのさ?」

 

「お兄さんは、大丈夫だから」

 

「大丈夫?」

 

「うん。安全そう」

 

 そう言うと、女の子はお絵かきを再開してしまった。

 喜んでいいのか、少し微妙な気持ちだった。信頼してもらえるのは嬉しいけれど、全く男として見られないというのも複雑なものだ。

 ベッドに腰を下ろして、ノートを覗く。パンダのような生き物が次々と量産されていくのを眺める。

 

「本当に安全だと思う?」

 

 絵を描く手を止めた女の子が、首を巡らせてこちらを見る。

 

「もしかしたら狼かもしれないよ?」

 

「ラクダじゃなかったの?」

 

「ラクダの皮を被った狼かも」

 

 女の子の脇腹を突くと、びくりと身体が跳ねた。思っていた以上の大きな反応が面白くて、そのままくすぐってみると、女の子もやり返してきて、僕たちは小さな動物がじゃれ合うみたいにもつれた。ベッドがギシギシと不快そうな音を鳴らして、布団や枕や、女の子が絵を描いていたノートやシャープペンが、ベッドの下に落ちた。

 ひとしきり暴れた後、僕は仰向けになった女の子のお腹の辺りに跨っていた。負けん気の強い女の子が起き上がろうとするのを、肩を抑えて止める。不安になるくらいに細い肩とお腹周り。昨日の夜中とは真逆の光景。ふたりぶんの荒い息の音だけが部屋の中に満ちている。

 

「あのさ」

 

「なに?」

 

 呼吸を整えて、女の子の顔を見下ろして言う。

 

「一緒に、ここに住まない?」

 

 目は見れなかった。なんとなく後ろめたくて。だから、整えられた眉毛と眉毛の真ん中の辺りを見て、そう言った。

 

「家賃は?」

 

「え?」

 

「ここ、半分こでも家賃高そう」

 

 女の子はいつもの調子で言う。息が上がったままなのは僕だけだ。

 

「いいよ、そのくらい。こう見えて、それなりに稼いでるから」

 

「石油王?」

 

「・・・ほんの少しは稼いでるから」

 

 流石に石油王には敵わないけど、色々とあって仕事ばかり生きてきて、入ってきたお金も、ろくに使わないでいたから、女の子一人くらい抱え込んでも大丈夫なくらいの余裕はある。

 

「今なら三食昼寝付き。どう?」

 

「それはお得だ。でもそれじゃお兄さんに得がなくない?」

 

「いいんだよ。まるまる太らせて、そのうち食べてやるから」

 

「わあ怖い」と、ちっとも怖くなさそうに女の子が言うから、肉が殆どついていない、あばらの辺りをくすぐってやった。笑い声を上げながら身をよじらせるのを、体重をかけて押さえつける。しばらくそうしていると女の子の手が伸びてきて、僕のシャツの左胸の辺りをギュッと握ってきた。やり過ぎたかなと思ってくすぐる手を止める。

 シャツを握りしめたまま、熱っぽい息を吐く女の子を見下ろす。形の良い額に、汗で前髪がペタリと張り付いていたから、払ってやった。女の子の目が良く見える。さっきは見れなかった目には、感情が読み取れない色が浮かんでいる。

 

「お兄さんはいなくならない?」

 

 ここはなくならない?熱っぽい息が混じった声で、僕の目を見たまま、女の子が言った。どういう意味かはわからないけど、最近はいつかみたいに死にたいと思うことが無くなっていたから、僕は頷いた。

 

「そっか」

 

 僕の目から視線を外した女の子が、目を瞑って、そして開いて、天井を見上げてから呟く。僕が跨っているお腹が大きく膨らんで、萎んで、女の子は長い息を吐いた。さっき食べたハンバーグの匂いがした。

 

「うん。それなら住もうかな」

 

 その言葉に僕は、何故だか酷く救われた気持ちになったから、大きく息を吐いた。多分、女の子と同じ匂いがすると思う。

 シャツを握っていた女の子の手が解けて、ベッドの上に落ちた。そして、あばらの辺りに添えたままの僕の手をスルリと取って、自分の首に持っていく。女の子の細い首は、汗が滲んで少しヌルヌルしていて、火傷しそうなくらいに熱い。

 

「まだ、まるまる太ってないけど、食べても良いよ?」

 

 天井から僕の目に視線を戻した女の子の瞳には、さっきまで無かった色が見えた。ハンバーグの上にかかっていた、トロトロのソースみたいな色。今度の感情は読み取ることが出来た。僕は、力強く脈打つ女の子の首を包む手に、ゆっくりと、ゆっくりと力を加えた。

 


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