あれから二週間が経った。
外出する際に、コートを着るべきか迷うようになった、肌寒い十一月の中頃、住んでた部屋の片付けやら、引き渡しやらの手続きを済ませた女の子が、僕の部屋に引っ越してきた。友達の家に遊びに来るみたいに、唐突に。
女の子が持ってきた荷物は、愛用のアコースティックギターが入ったケースがひとつ。三泊くらいの旅行に持っていくような大きさの、車輪がひとつ壊れた、青いキャリーバッグがひとつ。たったそれだけだった。
引っ越しを手伝う気でいた僕が驚いて「冷蔵庫とか、洗濯機とかはどうしたの?」訊くと、女の子は「持ってないよ?」と、不思議そうな顔をして答えた。
女の子がいままで一体どんな生活を送ってきたのかが気になったけど、僕は聞くことが出来なかった。知るのが怖かったから。
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「ただいま」
灯りの漏れるリビングに向かって声をかけるけれど、返事は返ってこなかった。女の子のスニーカーはキチンと揃えられたままで置いてあるから、コンビニに出掛けたとか、そういうわけでもないみたい。またソファで眠りこけてるのかな?
靴を脱いで、適当に揃えて、リビングに向かう。ドアを開けると、暖房の生温い風に頬を撫でられた。背中がムズムズする。部屋の中に自分以外の人がいることに、どうにも慣れない。去年の今頃は同居人とのふたり暮らしで、ひとりの期間の方が短いのに不思議だ。
暖色の電気の灯りで照らされたリビングに、女の子の姿はなかった。代わりに、ソファーの前のテーブルの上に、どこかで見たことがあるような、女物の衣服やアクセサリーが綺麗に並んでいる。女の子のCDが入ったままのはずのコンポからは、少し前に流行った、薄っぺらな歌詞のJ-POPが、控えめな音量で流れて、その音に混じって、寝室の方からゴソゴソと、何かを物色する音が聞こえた。
寝室をそっと覗いてみると、床中に衣類が散乱して、スウェットに包まれたお尻がクローゼットから生えて、ゆらゆら揺れている。
「……なに、してるの?」
思わずお尻に向かって、尋ねた。するとクローゼットの中に突っ込んで隠れていた女の子の上半身が姿を現した。せっかくの綺麗な黒髪がボサボサになってしまって台無しだ。
「あ、帰ってたんだ」
「うん。つい今さっき」
「そっか、お帰り。お仕事、お疲れ様」
そう言いながら、女の子は床に散乱した衣類から、女物だけを拾い上げて横に寄せて、僕のコートなんかは丁寧にハンガーに掛け直す。
「ご飯は食べてきたの?」
「え? いや、まだ。食べてないよ」
「なら、冷蔵庫に野菜炒めが入ってるから、温めて食べて。炊飯器にご飯もあるから」
女の子は、ボサボサの髪をそのままで、寄せていた女物の衣類を取り上げると、リビングに戻って行ってしまった。
「あ、ありがとう?」
完全においてけぼりな僕は、間の抜けた声で女の子の背中に、お礼を言った。
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リビングのテーブルが占領されているから、僕はキッチンで立ったまま、女の子作の野菜炒めを温めて、ご飯と一緒に食べた。醤油だけで味付けされた野菜炒めは、味が濃かったり薄かったりして、具材の大きさもバラバラだったけど、コンビニの弁当よりもずっと美味しく感じられて、すぐになくなってしまった。
女の子がここに住み始めてから、何回か料理を作ってくれた。女の子の料理は塩の塊が入ってたおにぎりだったり、肉とじゃがいもが別個に調理された肉じゃがだったり、少し奇抜なものが多い。だけどちゃんと温かくて、ちゃんと人間の味がして、僕は女の子の料理が結構気に入っていた。
シンクで水に浸かっていた女の子の食器と、自分が使った食器を洗ってリビングに戻ると、ソファに体育座りをした女の子が無表情で歌詞カードを眺めながらコンポから流れるJ-POPに耳を傾けていた。その隣に、少し距離を置いて腰を下ろす。
「このアーティスト、好きなの?」
ふるふると女の子は首を振った。
畳んだ衣類の横に積まれたCDの中から、一枚選んで手に取ってみる。五人組の男性アイドルが作り物めいた笑顔を浮かべているジャケットのCDは、確か同居人が気に入っていたものだった。二二歳の夏に一緒に東京ドームにライブを見に行く約束をしていたのを、僕が急に舞い込んだ出張ですっぽかしたのを、同居人が酷く怒ったのをよく覚えている。
いま思えばあれがきっかけだったのかもしれない。ふたりの間にあった目に見えないくらいの小さな歪みに、明確な、大きな亀裂が入ってしまったのは。
テーブルの上に並んだ同居人が置いて行った私物と、CDのジャケットを見比べて、今更になってそう思った。
「好きなの? それ?」
「え?」
「そのCD。ずっと見てるから」
そんなに見てたかなと思ったけど、気づいたら先程まで流れていたJ-POPが消えていて、女の子の手にあった歌詞カードは、プラスチックのケースの中に納まっていた。思っていた以上にぼんやりしていたのかもしれない。
僕は軽く頭を振ってから、女の子に「好きじゃないよ」と答えた。同居人が好きだから合わせていたけれど、僕はこのアイドルグループの愛だったり、平和だったりを歌う歌詞があまり得意じゃなかった。
「好きじゃないなら、どうして持ってるの?」
女の子が僕の手からCDを抜き取って、ジャケットの表面と裏面を交互に見る。
「前に一緒に住んでた人が置いてったんだよ」
「これ、全部?」
CDを持っていない方の手で、女の子がテーブルの上を指差す。僕は頷いた。こうして見ると、同居人が置いて行ったものは全て、僕が何かの機会に送ったものだったり、なにかしらの思い出があるものばかりだった。
「必要?」
「何が?」
女の子の指の先にある物が多すぎて、どれのことかわからないから尋ねると「全部」という答えが返ってきた。
「別に、必要じゃないかな。欲しいならあげるよ」
「全部?」
「うん、全部」
「いいよ」と僕が言うと、女の子は平たんな声で「ありがとう」と言って、ソファから立ち上がると、そのままキッチンの方に行ってしまった。どうしたんだろう?
テーブルの上、衣類の横に並んだアクセサリーの中に、ワインの色の小箱を見つけて手に取った。そういえばこれも捨ててなかったんだっけ。
手のひら大の小箱を開くと、真珠色の布に、小さな白金色の指輪が刺さっていた。買ったときと全く変わらない輝き。真ん中にあしらわれた透明な石が、照明の暖色を反射してピカピカ光った。
「結婚、してたの?」
突然声をかけられて、ビックリして小箱を落としそうになる。いつの間にかキッチンから戻ってきていた女の子が、僕の手の小箱を見下ろしている。照明で陰って表情がよく見えない。
「してないよ。する前に逃げられたから」
へぇ。と女の子は気のない返事を返して、僕のことを押しのけてソファに座る。さっきまであった、ふたりの間の距離が一気に無くなった。女の子のリストバンドに包まれた左手が、僕の右の太ももに当たる。
「どうして逃げられたの?」
ばさりと、女の子がキッチンから持ってきたのであろう45リットルのポリ袋を足元に広げた。よく見ると右手には大ぶりなキッチンハサミが握られている。
「僕が仕事ばっかりで嫌になったみたい」
私と仕事、どっちが大事なの?
ドラマや小説の中だけで存在すると思っていた質問を、まさか現実でされると思っていなかった僕は、なにも応えることが出来なかった。
やっぱり。そう呟いてクシャリと歪んだ同居人の顔は、今でもたまに夢に見る。
「お兄さんは、なんでそんなに仕事をするの?いつも帰り、遅いよね?」
「結婚式にいくらかかるか知ってる?」
質問に質問で返す。女の子は首を振って、テーブルの上の衣類から、ベージュのトレンチコートを手に取った。女の子に似合うと思うけれど、少しサイズが小さいかもしれない。
「結婚式って普通に挙げると、大体三百万くらいかかるんだって」
「そんなにかかるんだ」
CDがいっぱい作れるね、と女の子が言うから、少し笑ってしまった。
「新婚旅行が五十万、子供が一人が成人するまでに三千万くらい、お金が必要なんだ。だから頑張って稼がないとって思ったんだけど」
逃げられちゃった。と言おうとした僕の言葉は、布を切り裂く物騒な音で遮られてしまった。
驚いて女の子の方を見る。その手には肩口がパックリと切り裂かれたトレンチコートが。胴体から分離してしまった袖を、女の子はゴミ袋に放って、もう片方の袖も肩から切り裂きにかかる。
「着るんじゃなかったの?」
「言ったっけ? そんなこと」
女の子はハサミを操る手を止めない。胴体だけになったトレンチコートを丁寧な手つきで滅茶苦茶に切り裂いて、切り口を手で直接引っ張って破く。
ただの布の塊になったトレンチコートを袋の中に押し込んだ女の子は、今度はさっき僕が見ていた、五人組のアイドルのCDを取って、ジャケット引き抜くと、ハサミで一ページずつ、切り取って、破いてを繰り返した。ジャケットが紙くずになって、跡形も無くなる。女の子がケースに残った、アイドルグループのロゴが印刷されたCDを取って割ろうとしたところで、僕は女の子の手を掴んだ。
「やっぱり、惜しくなった?」
女の子が首を傾げる。瞳がビー玉みたいに光る。
僕は首を振って、CDを女の子の手から抜き取った。そして銀色の読み取り面の真ん中に、白い線が走っているCDを二つに割った。しなびた、古くなったにんじんを切ったときみたいな感触。思ってたより、気持ち良く割れないものなんだな。けれど、心の奥に知らないうちに滞留していた何かがスッと消えたような感じがして、不思議と悪くない気分だった。
「手、怪我したらギター弾けなくて困るでしょ? 割るのは僕がやるよ」
「そっか。うん、確かにそうだ。ありがとう」
「ハサミで手、切らないようにね?」
ハサミが布を切り裂く音。CDが軋む音。布の繊維が千切れる音。プラスチックのケースが割れる音。台無しになったそれらがゴミ袋に詰め込まれる音。女の子の陽気な鼻歌。静かな部屋に色んな音が混ざり合って、オーケストラみたいに鳴り響いて楽しい。
「いつから付き合ってたの?」
「確か、高校生の一年生だったかな」
「長かったんだね」
「うん。長かった」
告白したのは彼女の方からだった。一学期の終業式の後、誰もいなくなった教室で。僕にとって初めての恋人だった。高校を卒業して一緒の大学に通うようになった頃には、僕はすでに結婚を意識していた。彼女の方はどうだったのかな。わからない。
CDケースが割れる小気味よい音と同時に、右手の薬指の先に鋭い痛みが走って、思わずケースを落としてしまった。オーケストラが途切れる。指先を見ると、肌色の上に丸い赤い点が浮いていた。
じわじわと大きくなる赤い点を眺めていると、女の子の手が僕の手を掴んで、血のにじむ指をパクリと咥えた。傷口を吸われる。僕の中を流れる赤い液体が、女の子の中に流れ込んでいく。ザラザラした生温かい感触が指先を撫でる。背筋が粟立った。
けれどそんな甘い刺激は、直後に訪れた痛みに吹き飛ばされた。割れたケースが指先に突き刺さったときとは比べ物にならない痛みが、頭の後ろのあたりを貫く。
「ちょっと。痛い、痛いって」
女の子の口から指を引き抜いて、身体ごと距離を取る。恐る恐る、右手の先を見る。唾液に塗れた薬指がちゃんとくっついていて、安心した。食い千切られたかと思った。
「ごめん。美味しかったから、つい」
「つい、で指を持ってかれたんじゃたまらないよ」
ゴミ袋の中に詰まった布きれを一枚取り出して、女の子の唾液を拭きとる。切り傷から流れていた血は止まっているけど、歯形が綺麗に残っていた。用済みになった布きれをゴミ袋に放って、ついでに床に転がったCDのケースを拾い上げようとすると、横から伸びてきた手に掻っ攫われた。
女の子は、ケースの割れた尖った部分を、右手の小指の先に躊躇なく押し付けた。ぷつりと、聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。女の子の指先に赤い点が現れて、大きくなっていくのが見えた。
「何してるの? ギター弾けなくなっちゃうよ?」
「大丈夫。こっちの小指はそんなに使わないから」
ほら、と女の子が僕に、指を差し出す。真っ白な指先に、ぷくりと浮かんだ赤い雫が今にも零れ落ちそう。それが落ちてしまう前に、僕は吸い寄せられるように、女の子の小指を咥える。少し塩っぽい、少し鉄っぽい液体を舌で絡めとって、そのまま唾液と一緒に呑みこんだ。度数の高いお酒そっくりの熱が、喉を通り過ぎて、胃の底に落ち、血管を通して体中に行き渡る。
……なるほど、確かにこれは美味しいかもしれない。
「あ、そういえば」
女の子の華奢な小指に歯を立ててしまいたい欲求に必死に堪えていると、呑気な声が聞こえてきて、次いで微かな金属音。目の前には久しぶりに見た僕の車の鍵。同居人が好きだった、犬なのか熊なのか、良く分からないキャラクターのキーホルダーがくっついている。
「お兄さん、車持ってるの?」
僕は目だけで頷く。声を出すと指を噛んでしまいそうだから。
「じゃあ、ドライブに行こう!」
唐突に、口から指を引っこ抜かれた。透明な液体が数滴、ソファの上に落ちて黒い染みを作った。汚い。
「どこ行きたいの?」
女の子は瞳を輝かせて「海!」と言った。
「海って、どこの?」
「どこかの」
女の子は、着ているスウェットのズボンをスルリと脱いだ。もうすっかり出かける気になっているらしい。明日も仕事だけど、どうせ運転するのは僕だ。キリの良い所で引き返せばいいか。スーツのままで出かけるのが嫌だったから、僕も着替えようと、ワイシャツのボタンを外す。
今日、散々聞いた布が落ちる音が聞こえた。横を見ると、女の子の真っ白な姿。床の上にさっきまで着ていたスウェットの上下が脱ぎ散らかされている。
鼻歌交じりに着替えを取りに行こうとする、女の子の腰のあたり。透明な白の上に、さっき指先に浮かんでた赤そっくりの痕が、いくつか見えた。
僕は女の子の手首を掴んだ。
その日は結局、ドライブには行かなかった。