そういえば最近、コンビニに行かなくなったな。
いつものひとりの帰り道に、ふと思った。左手に持ったスーパーのビニール袋が音を立てる。中に入っているのは、卵のパックと、六枚切の食パンが二袋、それと半分に切られたキャベツ。ついこの間までなら、まず買わなかった物が入っている。最近は少しずつ、僕も料理をするようになった。女の子ばかりに作らせるのが申し訳なかったから。僕が作った女の子に負けず劣らず個性的な料理を、女の子が残さず食べてくれるのが嬉しかったから。
今朝、家を出る前に冷蔵庫の中を確認したら、食べきれなかったご飯と、ハムが数枚残っていた。今日は多分チャーハンかな。女の子が何も作ってなかったら、僕が作ってふたりで食べればいい。
家に着いて、ドアを開けて、無意識に「ただいま」とリビングに向けて声をかける。返事は返ってこなかった。リビングに灯りが付いていない。空気が冷え切って、人の気配がしない。視線を下に向ける。昨日までそこにあったはずの、女の子の履き込まれたスニーカーが無かった。どうしたんだろう。いつも女の子は、コンビニとか、少し外に出るくらいなら電気は点けたままで、酷いときは鍵も開けっぱなして出て行ってしまうのに。
暗いリビングに入って手探りで電気のスイッチを点ける。蛍光灯が瞬いて、見慣れた室内を無機質に照らした。寒い。女の子の姿はやっぱりない。そして、いつもならそこにあるはずの、ギターケースも無くなっていた。
突然、固いフローリングの床が柔らかい不安定なものに変化したような気がして、するりと手から、鞄とビニール袋が床の上に落ちた。卵が潰れる嫌な音。膝から力が抜けて、思わずその場に座りこんだ。
フローリングの床が冷たい。なのに頭の奥がやたらと熱い。一気に低くなった視界の端に青いものが映った。女の子が引っ越してきたときに持ってきたキャリーバッグだ。数回、瞬きを繰り返して、キャリーバッグが確かにそこに存在することを確認する。
緊張で強張っていた身体から力が抜けて、僕はそのまま仰向けに寝転がった。冷えた床が体の体温を奪っていくのを感じた。天井に向かって大きく息を吐く。大丈夫、少し、ほんの少し驚いただけ。目を閉じて深呼吸を繰り返して僕は起き上がった。大丈夫。うん。大丈夫だ。
ギターを持って女の子はどこに行ったのか? この間、寒さで手がかじかんで路上ライブはしばらく出来そうにないと言っていたばかりだ。その答えはすぐ近く、リビングのテーブルの上にあった。
『帰ってなかったら迎えに来て』
そう書かれたメモ用紙が置かれていた。そのすぐ横には車の鍵。この間見たときに付いていたはずのキーホルダーは根元から引き千切られて無くなっていた。
迎えに来いってどこに? 僕が仕事に行っている間、女の子がどこで何をしているのか、僕は知らない。もう一度メモ用紙に目を落とす。言葉足らずな、少し角ばった文字。右下にはいつか女の子が書いていた、ウサギとカエルを足して二で割ったような謎の生き物が、ギターを抱えたイラストが添えられている。
……もしかして。
腕時計を見ると、長針と短針がぴったりと重なっていた。もう終電はとっくに終わっている。急がないと。
僕は車の鍵をジャケットのポケットに突っ込む。空腹だったことを思い出したから
、床に落としたままだった、卵まみれのスーパーの袋から食パンを取り出して封を開けた。二枚まとめて咥える。食パンの袋をその辺に放る。そして駐車場に向かって走った。
ーーーーー
「寒い」
「そんな格好してるから。コンビニに入ってれば良かったのに」
ギターを後部座席に置いて、助手席に乗り込んでくるなり女の子は言う。
女の子の格好は秋口とほとんど変わらず、Tシャツの上にミリタリージャケットを着ただけ。いつもの膝に大きな穴が空いたダメージジーンズは洗濯中で、今日はホットパンツに厚手のストッキングを穿いているから、ほんの少しはましに見えるけれど、やっぱり寒そう。車内の空調の温度を上げてやると、女の子は気の抜けた息を吐いた。
女の子がいた場所は、以前に僕がライブを見に来たライブハウスだった。ここにいなかったら、もう思い浮かぶ場所がなかったから、ライブハウスが入っているビルの入り口に、丸まって座り込んでいる女の子の姿を見たときは心底ほっとした。
「もっと早く来ると思った」
「これでも、かなり飛ばして来たんだよ?」
時間が時間だから、そこまで道は混んでいなかったけれど、それでもここまで来るのに一時間はかかった。またこの入り組んだ住宅街の道を引き返すと思うと、少し気分が重くなる。
カーナビに自宅の住所を打ち込む。女の子がシートベルトを締めたのを確認して、ハザードを消して、車を発進させる。カーナビから無機質な、女性の声のガイドが流れた。対向車は見えない。場違いに光り輝くコンビニが後ろに遠ざかって、街灯と、信号機のヘッドライトの灯りだけになる。
「バイト続けてたんだ?」
「言ってなかったっけ?」
「うん。言ってなかった」
そして訊いてもなかった。
赤信号。ブレーキを踏み込む。車が止まった。カーナビの声に従って、左のウィンカーを灯す。ウィンカーの規則的な音が、会話の無い車内に響く。何かの音に似ているなと思った。そうだ、女の子が部屋でギターを弾くときに使う、メトロノームの音に似ているんだ。信号が青に変わって、ハンドルを左に切ったままアクセルを踏み込む。ようやく入り組んだ住宅街を抜けられる。大通りに出ると、いくつかのヘッドライトとテールランプの光が目に突き刺さった。
「ライブどうだった? お客さんは来たの?」
「沙綾が来た」
ふわりと、柔らかい声色で女の子が、僕の知らない名前を口にする。
前を走る大型トラックの後について、高速道路のインターを通り過ぎる。深夜だからか、走る車の数は来たときよりもさらに少なくなっていた。先を走るトラックが急に加速して間隔がどんどん開いていく。
「さあやって、友達?」
「……友達。うん、友達かな」
返事に間があったのが気になって、ちらりと女の子の横顔を盗み見る。いつもどおりの横顔。多分、いつもどおり。
視線を目の前に戻す。遠くにトラックのテールランプが見えた。しっかりと整備された黒いアスファルトの地面がどこまでも続いている。変わり映えのしない景色。一定の速度で進んでいると、真っ暗な空の中を飛んでいるようで、そのうち闇の底に呑みこまれてしまうんじゃないかと不安になった。不安を紛らわすためにオーディオの再生ボタンに手を伸ばす。ずっと入れっぱなしのCDが再生される。幻想的で、けれど怪しげな乾いたギターの音。ドラムと同時にフェードインする男のしゃがれた歌声。
「これ、お兄さんのCD?」
珍しい、少し驚いたような女の子の声。その声に僕は首を振る。
「うん。人から貰ったんだ」
「それって、一緒に住んでた人?」
「違うよ。会社の先輩」
ついこの間の、同居人が置いていったものを、女の子がたんたんと台無しにしていく様子を思い出して、僕は思わず即答する。
CDをくれた先輩。妙な先輩だった。やたらと明るくて、少し馴れ馴れしくて、そしてしょっちゅう上司と喧嘩してた。これといった趣味は無いと言った僕に「音楽くらい聞け」と突然、机の引き出しからこのCDを押し付けるように渡してきた。趣味でギターを弾いていると言っていた。去年の暮れに突然会社に来なくなって、それからのことは知らない。来なくなった理由も知らない。旅に出たいとよく口にしていたから、今頃どこか遠い所にいるのかもしれない。そうだとしたら、少しだけ羨ましい。
「お兄さん、このバンド好き?」
「好きっていうほど聴いてないけど、嫌いではないかな。有名なの?」
「有名、凄く」
そうか、有名なのか。確かに、一曲目のメロディはどこかで耳にしたことがあるかもしれない。その一曲目が重なり合ったギターの音の余韻を残してフェードアウトしていく。次の曲が再生される前に、女の子の指が巻き戻しのボタンを押した。
「イーグルスのホテルカリフォルニア。知らない?」
そういえば、そんな名前のバンドだったかもしれない。曲名の方はちんぷんかんぷんだ。先輩が相当に聴き込んだらしいこのCDは、貰ったときにはジャケットは既にボロボロで、日本語の解説は無くなっていた。
「どんな曲なの?」僕が訊くと、女の子はオーディオのボタンを弄ってリピートに設定した。そして少し間を開けてから、ぽつぽつとこの曲の歌詞について語り始めた。
コリタスの温い香りが立ち昇る、カリフォルニアの砂漠のハイウェイ。運転に疲れた主人公は遠くに揺れる灯りに誘われるように、夜を明かすためのホテルに向かう。ホテルの入り口にはひとりの女。礼拝の鐘の音が聞こえる。女について回廊を下りていくと、どこからともなく聞こえてくる。「ようこそホテルカリフォルニアへ」と。
ホテルは、主人公のお気に入りのワインは置いてなかったけれど、とても快適だった。宿泊客達は陽気に、そしてどうしようもなく退廃的に踊り過ごしていた。最初は楽しかった。でも次第に主人公は不安になる。来る日も来る日も、妖艶な女に群がり、踊り狂う怠惰な毎日に不安になる。
主人公はホテルを出ていこうとした。出口を探して必死に走り回る。外に出るために必死に。そんな主人公を見た夜警は言う。
『チェックアウトは自由だ。だが、ここからは永久に出られない』
「おしまい」と言って女の子が小さく息を吐いた。話し疲れたのかもしれない。
「色んな考え方がある曲だけど、大体こんな感じ」
驚いた。怪しげなメロディではあるけれど、てっきりラブソングかなにかだと思っていた。そんな物語みたいな曲だったのか。先輩はなにを考えてこのCDを僕に渡したのだろう。あの先輩のことだから何も考えていないのかもしれないけど。
「どう思う?」
「え、なにが?」
「この曲のこと聞いて、どう思った?」
「えっと……コリタスってなんだろうって思ったかな」
「大麻」
「は?」
「コリタスは大麻って意味」
そうなんだ……。大麻の香りってどんな匂いなんだろう。これまでの人生で見たことも無いものだし、多分間違いなく、これからの人生でも接することは無い物だと思う。
「私は、主人公が羨ましいと思った」
曲がフェードアウトするのと同時に、女の子が言った。少しの無音。そしてまたホテルカリフォルニアが再生される。
「羨ましいって、出られないのに?」
女の子が頷く気配を感じる。ギターのメロディが車内に満ちる。歌詞の意味を知った後に聴くと、今までとはまるで別の曲のように聞こえる。
「だって、出られないってことはなくならないってことでしょ?」
「そうなの?」
「そうだよ」
だから、羨ましい。感情の見えない声。女の子の横顔を覗くけれど、時速百キロ流れる外の景色を眺める横顔の表情は陰になって見えない。対向車線の車のヘッドライトに照らされた耳のピアスがキラキラ光る。
カーナビの音声が響く。沢山のギターが絡み合うソロを邪魔するように。この先のインターで高速を降りろとのことだ。ようやく家に帰れる。ウィンカーのレバーに手を伸ばす。その手を横から伸びてきた女の子の手が掴んだ。ハンドルを取られそうになる。本当なら曲がるはずだった高速の出口が後ろに消えていった。
「びっくりした。危ないよ?」
「ドライブに行こう」
「え?」
僕の間抜けな声を掻き消すように、カーナビが新しい経路を表示して読み上げた。
「今何時かわかってる?」
「そろそろ二時だね」
何でもないことのように女の子が言った。
「僕、明日……というか今日も仕事なんだけど」
「この間、どうしてドライブに行かなかったんだっけ?」
それを言われると、なんというか、何も言い返せない。
僕は、案内を無視したのにもかかわらず健気に道案内を続けるカーナビの電源を一旦落とす。ついでにそろそろ聞き飽きてきたホテルカリフォルニアのリピートを解除した。一日くらい、寝なくても何とかなるだろう。昔から身体だけは頑丈だから。
「どこ行きたいの? 海だったっけ?」
「海はいいや。沙綾に会ったから」
「その、さあやって人は何者なの?」
「人間だよ? ちょっと海っぽい」
海っぽい人ってなんだろう。凄く日焼けしてるとか?想像できない。
「ちょっと会ってみたいかも」と僕が大して思ってもいないことを言うと、すぐに女の子「だめ」という声が返ってくる。
「沙綾、良い匂いがするから、お兄さんに食べられちゃう」
「僕のこと、なんだと思ってるのさ……」
「この間、どうしてドライブに行かなかったんだっけ?」
ついさっき投げかけられて誤魔化した質問が再度飛んできた。僕は質問に答えず、カーナビに手をやる。
「海じゃないなら、どこに行きたいの?」
「山」
「山? どこの?」
「どこでもいいよ」
山だったら、決して近くは無いけれど、なんとかこれから向かえそうな所に心当たりがあった。カーナビに、その心当たりのある場所の名前を打ち込む。先程、道案内を唐突に打ち切られたのにも関わらず、無機質な音声は文句ひとつ言わずに、新たな目的地への経路を表示する。間違ってもカーナビには生まれ変わりたくないと、心の底から思った。
あ、女の子が声を上げた。そして少しの間を置いて「うんと星が見える所がいいな」と、ぼんやりと、ここじゃない何処かを見るように呟いた。