リーファウス街道を一つの影が駆ける。
「白鯨……どこだ」
屋敷を飛び出したルイスだった。
「森の方でも何かあるっていうのに……来るなら来いよ」
ルイスはリーファウス街道に沿って走り、一度フリューゲルの大樹の近くで一旦引き返した。そこから行きとは違うルートでアーラム村の周辺を目指す。
スバルが白鯨と遭遇してからどれ程の時間が経過したのか分からない。もっと言えばどこで遭遇したのかも分からない。だが、すぐ近くにいたはずの白鯨を見逃す事は出来ない。ラムが言っていた怪しい動きというものが白鯨によって引き起こされている可能性もあるからだ。
道すがら考える。
スバルは白鯨の能力の影響を受けていなかった。ルイスにレムという名前のメイドに関しての記憶は無い。スバルとルイスは同時にロズワール邸に住み込むようになり、それからこの方ラム以外のメイドは見たことがない。家事は基本的にラムとスバルの二人、場合によってはルイスが駆り出される事はあったがそれだけだ。それ以外の人間が家事に関わった事はない。
スバルの言葉が妄言だという可能性も無いわけではない。ルイスにとってはそちらの方が感情的には納得出来る。だが、理性的な部分ではスバルの言葉が真実であると言っている。
そもそもの話、スバルには嘘をつく理由がないし、妄言にしては白鯨というピンポイント過ぎる言葉が出ている。今の時期はリーファウス街道辺りに霧がかかると言われている事からも信憑性は高まる。
白鯨の能力の影響を受けない人間。そんなものは聞いた事がない。だが、スバルならばあり得るかもしれない。ルイスはそう考えていた。そう思わせる事を以前スバルはやっているからだ。
アーラム村近辺にまで引き返して来たルイスは更に違うルートで白鯨を探すべく飛び出した。
そしてその数秒後。
「やっとか」
薄くではあるが、霧が掛かってきた。ここまできてただの自然現象なんて事はない。ルイスは霧が濃い場所へと足を向ける。
そして見つけた。数百年人々を苦しめ続けた三大魔獣が一つ、白鯨。これまで数え切れない人々を死に至らしめた白鯨はその巨大な顎で地面を抉りながらルイスを飲み込まんと大口を開けながら迫る。
「十数年……アストレア家に不和をもたらした存在」
ルイスは剣を抜かず、ただ白鯨が到達するのを待つ。
「こんな獣のせいで、か」
手を伸ばせば届く距離まで近付いた時、ルイスが動いた。白鯨の顎を蹴り上げたのだ。
人間の何十倍もの大きさである白鯨がただの蹴りの一発で打ち上げられる。何が起こったのか理解出来ないでいる白鯨は宙で身を捩らせた。
「人間関係がややこしい事になるが、仕方ない」
ルイスは追撃するように地面を蹴って跳躍する。そして何も持たぬ片方の手を指先まで伸ばして手刀を天に掲げ、振り下ろした。
その腕からは想像もつかない衝撃が走り、赤い液体が舞う。もはや斬撃とも呼べる衝撃はルイスの腕を起点に広がり、最後は何もない空間へと抜けた。
一撃で胴体を真っ二つにされた白鯨は呻き声を上げながら浮力を失い重力に従うまま地面に向かう。次第に目の色が失われ、地面に衝突する前に鳴き声は止んだ。
三大魔獣の一つを仕留めた事を確認したルイスは白鯨の亡骸を踏み台に屋敷へ向かうために跳んだ。
そして、その途中。
◆◇◆◇◆◇
『ここにいたらまずいんだ。頼むから俺の言う事に従ってくれ』
前回、前々回の周回を踏まえてロズワール邸ないし
はメイザース領はこのままでは消滅する。あるいはそこまでいかなくても必ず危険な状態に陥る。
だからこそ、スバルはエミリアに対して死に戻りの事は避けて出来る限りの事を伝えた。
だが、
『また、それなの?』
エミリアからの返答は拒否だった。
彼女からすれば当然といえば当然の反応だ。スバルはどうして逃げなければならないのか、その肝心の理由を話していないのだから。
何故なのか、その理由を説明するために死に戻りについて口に出せばあの手に心臓を鷲掴みにされる。
全て洗いざらい話せば地獄の痛み。かと言って死に戻りについて話さなければエミリアを説得する事が出来ず最悪の未来が待っている。
『分かった。全部、話してやるよ』
このままではどうやってもエミリアを説得出来ないと判断したスバルは全てを話す覚悟を決めた。スバルが何もしなければエミリアは死ぬ。あのルイスだって役に立たない。
ならば。例え地獄の苦しみに襲われたとしても、例え血反吐を吐いたとしても、全てを話してエミリアを救うのだ。そのために死に物狂いで戻ってきたのだから。
スバルは意に決して死に戻りという単語を口にした。その瞬間、世界の時間は止まりあの手が心臓を掴みに来る。そのはずだった。
『…………ぁ』
しかし、痛みはいつまで待っても来ず、ついには世界の時間が再び動き出した。
スバルの心臓へと伸びるはずだった黒い手はどこへ行ったのか、その答えはすぐに分かった。エミリアの体がスバルへと寄りかかり、口から赤い鮮血が溢れ出したのだ。
それきりエミリアは動かなくなった。
スバルは悟った。あの手はスバルではなくエミリアの心臓へと伸びた。あの手を呼んだのは紛れもなくスバル。スバルの意思であの言葉を口にした。
そう。エミリアを、スバルが殺したのだ。
◆◇◆◇◆◇
永遠に目覚めなくなったエミリアを抱いて泣き喚いていたスバルはベアトリスの手によってどこか知らない地へ飛ばされた。殺してくれ、と頼んだスバルへの答えとして。
エミリアはもういない。レムも、恐らくはもういないのだろう。
こんな世界では生きていても仕方がない。死なせてくれ。誰か殺してくれ。
スバルの頭の中にはもはやそんな考えしかなかった。
「スバルか?」
だから、ルイスを見ても介錯人を見付けたとしか思わなかった。
「白鯨は倒したぞ。でもなんでここに……エミリア様はどうしたんだよ」
エミリアを見て異変を感じ取ったルイスが駆け寄るがどうでも良かった。
「血が……何があったんだよスバル! 早く治療を!」
ルイスの手元が光を帯びる。治癒魔法を使おうとしているのだろう。
だが、無意味だ。治癒魔法で傷を治したとしても死人は蘇らない。やるだけ無駄だ。
「クソッ! どうしたら……そうだ、フェリス! フェリスなら」
誰であろうと無理だ。それが例え王国最高の治癒術士であったとしても。
ルイスが手に取ったエミリアの手が力なく地面に落ちる。元から白かった肌は青白くなっており、脈は存在しない。そうしてエミリアの死を認めたのであろうルイスも力なく地面に両手をついた。
そんなルイスに構わず殺してくれ、そう口にしようとした時、木の枝を踏んだような乾いた音が響いた。
「そこにいるのはもしや半魔の少女なのではないデスか?」
全身が黒い装束に包まれた特徴的な集団。ほとんどの者が頂点の尖った覆面を着けており、その顔を確認する事は出来ないが、先頭に立つ人物は唯一覆面を着けていない。
ルイスは幽霊のように立ち上がると、声がした方へ振り向きながら神剣を握った。
「おや? 貴方は確か、戦神……」
「ッ……!?」
直後、ゾワッと何かがスバルの身体を突き抜けた。
その正体が何か、すぐに分かった。ルイスだ。ルイスから戦いにおいて素人のスバルでも感じられる圧倒的な闘気が放たれているのだ。
スバルに殺気を読む、などという達人技は出来ない。
だが、この時スバルは死を覚悟した。先ほどまで死にたいなどと考えていたスバルは本能的な恐怖をもって死を覚悟させられたのだ。
「魔女、教……?」
普段のおちゃらけた態度とは180度違う、凍えるような声。発せられる声、僅かに動かされる首から指先まで、あらゆる挙動が見えない圧をもってスバルを押し潰そうとする。
末端の魔女教徒が左右からルイスを挟むように襲い掛かった。
そして直後、その魔女教徒が文字通り消滅した。
いつの間にかルイスは神剣を抜いていた。
次の瞬間には残りの魔女教徒も先頭にいた一人を除いて消えた。
音もなく、見えもしない。
正しく異次元。人間という生物の枠を超えている。化け物だ。
最後の一人が何かを言っているが、スバルには聞こえなかった。雑音など存在しない。むしろ静寂だった。にもかかわらず聞こえない。何が起こっているのか全く分からない。否、知ろうとするのを拒んでいるのかもしれない。
神剣が本来ならスバルの目で追えるほどの速度で振るわれると、地面は抉れ最後の一人も消滅した。途轍もない力が通過した地面の歪みはどこまでも続いており、その終着点は存在しない。
その場に残されたのはスバルとルイスの二人のみ。
正常に思考出来なくなったスバルはただ呆然とルイスの姿を眺め、そして目が合った。
その瞳には何も映っていない。真っ黒に塗り潰したガラス玉のような瞳にはスバルの姿さえ映っていない。
ルイスは突然神剣を手放した。神秘を内包した漆黒の剣は何もない地面に投げ出される。
そしてルイスは何かを呟きながらおぼつかない足でどこかへ去っていった。
そしてスバルは。
突如振り始めた雪と共に死を迎えた。
◆◇◆◇◆◇
「二日続けて蒸かし芋かよ……」
「なに? 何もせず怠惰を貪っている分際で文句でもあるのかしら」
「そりゃ、朝昼晩全部蒸かし芋だったら文句の一つでも出るだろ。エミリア様が何も言わないからってずっとそんな感じだったら嫌がられるぞ」
「ハッ! イスほどじゃないわ」
「は!? 俺が嫌がられる訳ねぇだろ」
「……フッ」
「お前今鼻で笑ったな!?」
スバルとレムを王都に残して帰還してから早二日。
ルイスとラムの絡みは相変わらずであるが、ロズワール邸にはどこか暗い空気が漂っていた。
ムードメーカーであるスバルはおらず、家事を完璧にこなすレムがいないために食事は全て蒸かし芋。誰の前でもふざけて賢人会の前でも態度の変わらない道化もいない。エミリアはスバルとの別れ際の事を引きずって何にも気が入っていない様子だ。
ラムは元々エミリアとよく喋る訳ではなく、ルイスはルイスでなかなか元気付ける事に成功していなかった。
「そんな事より森の方を見てきなさい。何か怪しい気配があるわ」
「……魔獣か?」
「分からないわ。でも、とりあえず昼食までに戻って来なさい」
そうして厨房から追い出されたルイスはアーラム村の周囲を取り囲む森へと向かった。
魔女教徒が現れ、ルイスは『怠惰』の大罪司教を名乗る人物を討ち取った。
そしてその翌日。
再び魔女教徒が現れないと限らないため早起きしたルイスが何か摘まみ食いしようと調理場に向かった時、ちょうど自室から出てきたエミリアとばったり遭遇した。
「エミリア様、どうかされたんですか?」
「ううん、何かあった訳じゃないんだけど、久し振りに朝の体操でもしようかなって」
そう言うエミリアの表情は明るくない。
朝の体操、恐らくスバルが始めた『らじーお体操』の事だろう。口には出さないが、エミリアはまだスバルとの別れから立ち直っていない。
「俺もご一緒しても?」
「そうね、一人だと寂しいもの」
エミリアの承諾を受け、ルイスは後をついて庭に出た。
静かな庭で一組の男女が無言で体操。気まずい空気が流れながら体操が終わり、そしてエミリアは膝を抱えて地面に座り込んだ。ルイスも同じように地面に腰を下ろした。
「やっぱりスバルの事で何か思うところがあったんですか?」
これまではほんわかと包んで元気付けようとしていたが、細かい言葉の駆け引きを苦手とするルイスは直球で聞く事にした。
「……うん、スバルにはいっぱい助けてもらったの。だからあんな偉そうに言う権利なんて私にはなかったのに」
ルイスはエミリアとスバルのケンカ別れの一部始終を遠耳で聞いていたため、それぞれが何を言ったのか知っている。
それを踏まえて言えば、
「普通にスバルの方が悪いと思うんですけど」
そう、普通にスバルが悪い。
ラインハルトには言ったが、スバルが未来視のような能力を持っていたとしても「お前は全て俺の言う通りにしていればいいんだよ」は無い。百歩譲ったとしてもその理由を言わなければ頷く者などいない。
「ううん、もっと他に方法があったはずなのに……」
客観的に見てもエミリアの方が悪い理由はあまり見つからないが、それでもエミリアは自分が悪いと思っているらしい。
謙虚と言えば美徳にも聞こえるが、行き過ぎるのはよろしくない。
「まぁ、そこまで言うなら後でちゃんと話し合いをして仲直りして下さいよ。陣営内で仲間割れとかやめてほしいですし」
「そう、よね」
エミリアが「終わりにしましょう」と言っていたのを聞いていたが、一先ずそれはおいて話を続けるルイス。ルイスはべつにスバルが嫌いな訳ではない。むしろ好きの部類に入る。しめじめとした人間よりもスバルのようなはっちゃけた人間の方が接しやすいからだ。
そしてこのような空気が苦手なルイスは早くも話のネタを失った。エミリアからは特に何かを言ってくる様子もなく、このままでは待っているのは無言の気まずい空間。
(スバル……早く帰ってこい)
ルイスはゲートの治療でしばらくの間王都に滞在する予定のスバルに助けを求めた。
その時だった。
「失礼します」
ロズワール邸の敷地に白髪の剣士が足を踏み入れたのは。