『気持ちは分かるけど急ぎ過ぎだよ!』
僚艦である陽炎型駆逐艦18番艦・舞風からの通信を無視。抱えていたドラム缶は同じく僚艦である陽炎型15番艦・野分に押し付け、自身は最大戦速で泊地へと走る。
早く帰投したい、もっと、もっと速く。逸る気持ちは抑えられないが、彼女の速度では37.25ノットが限界。
泊地の提督からの通信は、遠征に出ていた彼女達にも届いていた。
弥生が目を覚ました。
彼女が急ぐにはそれだけで充分な理由だった。
嘗て、彼女の所属していた艦隊はある海域で深海棲艦の襲撃に遭い、僚艦の殆んどを失った。忌々しい鬼級の化け物、空母水鬼率いる大艦隊に囲まれたあの状態から彼女が生き延びたのは奇跡だ。
その件の後、所属していた鎮守府を自らの希望で離れ移ったショートランド泊地。僚艦を失う事を酷く恐怖しトラウマとして抱えてしまった彼女を支えてくれたのが、当時ショートランド泊地に先に着任していた弥生だった。口数が多いわけではなくあまり感情を表に出さない弥生だったから良かったのかも知れない。自分の事を気遣ってくれつつも、その当時では有り難い程度の距離を取ってくれていた弥生に、彼女は次第に心を開きトラウマも癒えていった。
その。その弥生が。運が悪い、と言ってしまえばそれまでだったが。弥生がレ級との一戦で瀕死の状態で帰ってきた時は目の前が真っ暗になった。何せ、その時弥生の身体はまるでボロ切れのようにズタズタで心肺停止状態だったのだ。本当なら水底に沈んでいた筈の弥生をすんでのところで海中から引き揚げたうえ陸に揚がってからも入渠までずっと心肺蘇生をしてくれた龍驤には頭が上がらない。
やがて彼女は泊地の港に着き、放り投げるように艤装を外した。目指すは工廠の奥。身軽になった彼女は、身体の検査を終えた弥生が休んでいる部屋へと脇目も振らずに只管に走る。
ただ一つ問題があった。弥生の身を案ずるあまりに、彼女には提督からの通信の後半部分が耳に入っていなかったのだ。彼女が聞いていなかったその部分こそ、弥生の身に起こった変化。つまり‥‥‥。
「‥‥‥弥生!!」
バタンッ、と勢いよく開けた扉の部屋の中にはベッドの横に立つ明石と、何故か全身シーツに包まり椅子に座っている弥生の姿。明石の方はそんな事はないが、弥生は少し驚いた表情で此方を見ていた。
「弥生‥‥‥良かったっぴょん!!」
勢いのままに弥生に飛び付き抱き着いた。弥生は体勢を維持できずにそのまま椅子から落ちて、抱き合った状態のまま三回転程右方向に転がった。
「卯月さん、落ち着いてくださいよ」
「明石は黙ってるっぴょん!うーちゃん達の感動の再会を邪魔しないで!」
抱き合って横になったままの体勢で、明石を睨む。しかしその視界内にふと違和感を感じて直ぐに明石から視線を外し弥生に向けると、弥生は包まっていたシーツが開け、肌色が露出している。弥生は見られたのが恥ずかしかったらしく、顔を紅くしている。それを確認すると彼女‥‥‥睦月型駆逐艦四番艦・卯月は、再び明石を睨んだ。
「弥生に何をしたっぴょん!?明石でもやって良い事と悪い事があるっぴょん!!」
「何をって‥‥‥検査をしただけですよ。それに彼女が服を着ていないのは失き‥‥‥」と言いかけた明石を遮るように、卯月の目の前の弥生‥‥‥幸子が慌てた表情で大声をあげた。
「うわーっ!?違いますよっ、違いますっ!ちょっと暑かったから脱いだだけですからね!ボクが失禁なんてする筈ないじゃないですかっ!!」
今起きた出来事に理解が全く追い付かず、卯月は呆然として停止していた。
あの弥生が感情をこれだけ大袈裟なくらいに露にし、初めて聞く程の声量を出している。これで驚かない訳はない。
暫しの間。やがてハッとある事を思い立った卯月は、弥生を抱き締めたまま起き上がると、そのままゆっくりと明石から距離を取る。
「‥‥‥弥生に一体何をしたっぴょん!!」
「ですから検査だけですって」という明石の言葉は信じられない。弥生が動けないのを良い事に、きっと何かの実験体にしたのだ。そうでなければ今の弥生の状況は説明できない。そう思い込んで卯月は明石を睨んだままジリジリと扉の方へと後退していく。
非常に不味い雰囲気だ。幸子にもその位は分かる。目の前のこのピンク色のロングヘアの『卯月』なる少女は恐らく、『弥生』の親友だったのだろう。今の状況を説明しない訳にはいかないが、あまり刺激するのも良くないかも知れない。
「えっと‥‥‥そっ、そうだ!もう少しで白露さんが戻ってきますから!卯月?さんも少し落ち着いてください。取りあえずボクから手を離してください」
幸子の言葉を聞いた卯月の表情が再び固まり、明石に一層鋭い視線を向けている。まずった。幸子が喋れば喋るだけ事態が悪化しそうだ。
「悪戯にも限度があるっぴょん!」と今にも明石に噛み付きそうな卯月を一先ずどうにかできないものか。焦る幸子と卯月の足元に、妖精達が集まって来ていた。明石の言葉は信用せずとも、艦娘にとって重要な妖精達の話なら聞く耳を持つかも知れない。幸子はそう思ってここは妖精達に頼る事にした。
結果として、幸子の判断は正解だった。卯月は妖精達の話と言えども最初は「まさかうーちゃんをドッキリに嵌めるつもりっぴょん!?」と疑っていたものの、最後には納得したようだ。しかしながらその卯月の表情は暗く。その視線は焦点が合っておらず、その場に座り込んでいる。
「仕方ありませんよね‥‥‥すみません」
何と声を掛けていいか分からず、バツが悪い幸子は思わず謝ってしまった。幸子だって本来被害者だ。しかしながら卯月が落ち込んでいる原因は間違いなく幸子にもある。その後ろめたさから、ついそう口にした。‥‥‥だが、これが善くなかった。
卯月の視線が幸子に移り、焦点が合う。と同時にフラリ、と立ち上がった卯月は真っ直ぐ幸子の正面へ。
瞬間。幸子の首に卯月の両手が伸びた。そのまま持ち上げられて、地面から足が離れる。卯月の両腕に力が入れられて、幸子の首が絞まる。
「くっ‥‥‥苦し‥‥‥」とだけ声を洩らし、幸子は卯月の両腕を振りほどこうと必死に手で掴むが、全く敵わない。徐々に絞まっていく首、苦しい呼吸と感じた事の無い痛み。このままだと確実に絞め殺される‥‥‥。声も出せず、心の中で必死に助けて、助けてっ、と懇願する事しか出来ない。
「卯月さんっ!何してるんですかっ‥‥‥キャアッ」
助けようと向かってきた明石だが卯月に呆気なく撥ね退けられ、機具類の並んだ陳列棚に突き飛ばされてしまった。勢いよく突っ込んで倒れた明石の上に機具類が落ちて散乱、傷付きあちこちから血を流し倒れたまま、明石はその場から動けそうにない。
「お前がっ!お前が悪いっぴょん!お前が居なくなれば!お前の魂が消えれば弥生が戻って来れるっぴょん!!!」
一層強くなる卯月の握力。駄目だ、このまま絞め殺される。幸子がそう覚悟した時だった。ドサッ、と何かが落ちる音。辛うじて視線だけをそちらに向けた幸子の視界には、床に落ちている着替えの入った紙袋、それと黒と茶色の何かが突っ込んでくるのだけが辛うじて映っていた。
次の瞬間。突然首の苦しみから開放されて、幸子の肺に空気が戻って来た。相当な痛みの残る首を押えつつ、「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」と咳き込み幸子はその場に踞る。
「幸子ちゃん、大丈夫!?」
間一髪。助けてくれたのは戻って来た白露。見れば卯月は床に倒れ伸びている。まだ動けない幸子は白露に抱き上げられて一先ずベッドへ。明石も白露に肩を貸してもらって何とか立ち上がって椅子に座っている。
危うく今度こそ本当にあの世に行かされる所だった。卯月の気持ちも少しは分からないではないが、流石に行き過ぎだ。洒落にもならない。
「白露‥‥‥さん‥‥‥あり‥‥‥が‥‥‥と‥‥‥う‥‥‥ご‥‥‥」
「喋らなくていいから。入渠しに行こう。ね、幸子ちゃん」
白露と妖精達によって卯月は営倉へ。1週間の禁固と、幸子に決して手を出さない旨を誓約。幸子は明石と共に再び入渠施設へと戻る事になった。
◆◆◆◆◆◆
「本当に殺されるかと思いましたよ‥‥‥」
再び入渠施設の浴室。そう洩らした幸子は明石の右側に並んで湯槽に浸かっている。
「幸子さんも災難でしたね。卯月さんも‥‥‥本当はあんな事する子じゃないんですけど」
とは言え、卯月の事は幸子にとってトラウマになりそうではある。今でも卯月のあの表情を思い出すだけで身体が震える。正直、顔も見たくない。
はぁ、と溜め息をつき顔をあげた幸子は、先程絞められた首の辺りをさすってみる。もう痛みは無い。自分では見えないので分からないが明石に依れば『入渠のお陰でもう首のアザになっている部分は完治した』らしい。明石の身体に出来ていた傷や打ち身、それに彼女の右頬に出来てしまっていた普通なら恐らく残ってしまうであろう大きな傷も完治している。
本当に有り難いシステムである。
「ボクにも艦娘の力があって本当に良かったですよ」
フゥ、と大きく息を吐いて両手を前に突き出し全身で伸びをする。取りあえず艦娘の力があって助かったが、さてさてこれからどうするか。親族や同じ事務所のみんな、それにプロデューサーだってきっと心配している筈。出来るなら一刻も早く元の世界に戻りたい所だが、肝心の手段が分からない。都合良く幸子の魂だけが元の世界に戻れる方法などあるのか?それに幸子の魂が元の世界に戻れたとしても幸子の身体に戻れる保証など無い。ヘタをすればそのまま魂があの世へ、なんて事になるかも知れない。不安は大きくなるばかりだ。
(‥‥‥あれ?)
そして、漸く幸子は気が付いた。幸子の魂がここに居るという事は、向こうの世界にある幸子の身体は現在、魂の抜けた状態という事だ。それはつまり‥‥‥幸子の身体は死んでいるという事なのではないか?と。
「もう、戻れないのかな‥‥‥」
弱気になって両目に涙を溜めて俯く。「何とかなりますよ、きっと」という明石の慰めも気休め程度にもならない。プロデューサーにも会えず、深海棲艦とかいう化け物の居るこの世界で生きていくしかないのだろうか。そう思うと涙が込み上げてくる。正直‥‥‥幸子はアイドルをしているお陰で自分の精神はもっと強いと思っていた。だがそれは勘違いだった。プロデューサーが傍に居てくれたから、これまで何とかやってこれただけだったのだ。プロデューサーの居ないこの世界で、果たして何処まで精神を保てるのか。今の幸子には自信が無い。
ポタリ、と涙が一滴浴槽に落ちた時。入渠施設の扉が開く。幸子がどうにか気持ちを抑え涙を堪えて前を向くと、制服姿の不知火が立って此方を睨んで(幸子がそう感じただけで実際は睨んではいない)いた。
「弥生‥‥‥いえ、輿水幸子。沖立司令がお呼びです。入渠を終えたら医務室まで来なさい」
「わかりました」と小さく頷き、幸子は左手でゴシゴシと涙を拭い、不知火の後ろ姿を見送った。
うーちゃん!(登場と同時に営倉行き)。
勿論この後も卯月は登場します。
次回は幸子の決断(その1)です。