泪の果てに立ちて なお独り   作:世紀末イルカ

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prologue

 

忘れる事ができた。

 

そう思った頃に夢を見る。

まるでそいつを忘れてはいけないと、自分で自分に戒めているように。

 

夢の内容は単純。

一人の人物が出てきて、私と他愛のない話をするだけ。

私は普段はあまり人と話さないけれど、そいつだけは特別だった。

 

そいつは私と対等に話してくれた。変な憧れとか、期待とかを押し付けてくるような奴じゃなかったから、私も話しやすかったのかもしれない。

そいつは誰よりも優しくて、ひたむきに頑張る奴で、一緒に居てもまったく疲れない、むしろもっと一緒に居たいと思えるくらい心地のいい奴だった。

 

 

今回見ている夢も、以前見た景色を映像化したものだ。

中学三年生に進級して間もなく、いつも通り部活の帰りに少し寄り道した時の出来事。

あの時の言葉は今でも覚えている。

というか、忘れたくても忘れられない一言だった。

 

 

『泪が一番だよ…誰が何と言おうと…ボクは泪が―――』

 

 

「ナ…」

言葉を発しかけたところで、益子 泪は目を覚ました。

寝ぼけているのか、夢に出てきた人物を探そうと体を起こす。

しかし、自分が今いる場所は自身が通う学校の女子寮の一室であり、夢に出てきた人物がいるはずもなく、少し経ったところで益子の意識は完全に覚醒した。

 

額に溜まっていた汗を拭うと、ゆっくりと目線だけを横にあるベッドへ反らす。

同じルームメイトである旭 海莉が、こちらに背中を向けて、静かに寝息を立てていた。

 

カーテンの隙間から差し込む青い光を見るに、夜は明けているようだ。

益子はいささか乱暴に頭を枕へと落とすと、再び眠りにつくように瞼を閉じた。

 

しかし、先ほど夢に見た人物が妙に頭から離れない。

益子にとっては、もう忘れることのできた人物だと思っていたが、こうして時々夢に現れては、自身の心を乱していく。

はた迷惑な奴だ、と心の中で吐き捨てるが、そのはた迷惑な奴を自身の夢に何度も出してしまう自分にも苛立ちを感じた。

 

何度も体勢を変えて枕に顔を埋めながら、なんとか眠りにつこうとするが、意識がはっきりしてしまってどうにも眠れそうになかった。

 

仕方なくゆっくりと体を起こすと、自身の枕横においてある音楽プレイヤーを手に取り、上着を羽織って静かに部屋を出て行った。

 

イヤホンジャックを耳に嵌めながら、階段を下りていく。

玄関の扉を開けると、淡い夜明けを迎えた雲ひとつない空と、人影一つ見えない静寂を保つ景色が広がっていた。

 

益子は玄関の前に座り込むと、音楽プレイヤーの再生ボタンを押した。

同時に時刻を確認すると、五時を少し過ぎていた頃だった。

 

なんとなく気に入っている曲を耳に流すが、頭の中には全く響いていかなかった。

先ほど夢に見た人物を機に、自分の中で忘れたい過去がどんどん頭の中に蘇っては消えることを繰り返していたからだ。

 

(…お兄ちゃん)

益子は頭を下げながら、上着に付いているフードを深く被る。

 

(……ナオ)

頬を伝う雫を、万が一にも誰かに見られないようにする為に。

 

 

 

 

 

真っ暗な学校敷地内で、今もなお明かりがついている建物があった。

名門、埼玉栄枝高校の体育館では今、男子バドミントン部の練習が終わった頃であった。

咽返るような熱気と、鼻を突く汗の臭いが立ち込める。

 

壮絶な練習の後なのだろう、周りの部員たちが床に座り込んで体育館の壁を背に休んだり、急いで飲み物を口に運ぶ姿が見て取れた。

 

そんな部員たち一人一人の様子を遠目からうかがっている青年がいた。

 

青年は、汗で濡れた黒髪を乾かすようにタオルで強く拭き取る。

タオルの隙間からは、あどけなさの残る中性的で端正な顔立ちが窺えた。

身に着けている黒いシャツは汗で体に張り付いていて、鍛え上げられた身体のラインがくっきりと浮き出ている。

 

「それでは、休憩が済んだ人から片付けに入ってください」

青年がタオルを置いてそう言うと、部員たちは活きのいい返事をして、てきぱきと器具や備品の片づけをし始めた。

青年も手際よく床に散らばるシャトルを拾い上げる。

片づけが大方済んだところで、遠目から部活の監督が片手を挙げてこちらへ向かっているのが見えた。

青年は急いで顧問の元へ向かう。

 

「それじゃあ奈央、頼む」

「はい」

監督が合図をすると、奈央と呼ばれる青年は整然とした返事で応じた。

 

「集合!」

そう元気よく声を張り上げると、多勢の部員たちは挙って奈央の下へと集まった。

何も言われずとも精力的に整列するその姿は、まるで軍隊を思わせる。

実力・気品、いずれを取っても手に余る猛者達であるが、それらを統制するのが埼玉私立栄枝高校の主将である蓮田 奈央の役目であった。

 

 

ミーティングを終え、部員たちが体育館の外へと出て行く。

時刻は既に21時を少し回り、いつもの終了時間と比べると少し遅かった。

外の景色は黒一色に塗りつぶされ、青白い月明かりが差し込んでいた。

 

「じゃあな、奈央」

「うん、また明日ね」

 

「蓮田先輩、お疲れ様でした」

「お疲れ様、気をつけて帰ってね」

帰っていく部員たちを見送ると、体育館が施錠されているかを確認し、自身も学校の外へ出る。

 

「奈央くん」

突如、暗がりの中から奈央は声を掛けられた。

声のした方に顔を向けると、見覚えのある人物がこちらを見据えていた。

 

「推さん!」

些か驚いた様子で目を見開いた。

奈央より少し背が高いその人物は、奈央が幼少の頃から付き合いのある益子 推であった。

 

「お久しぶりです、お変わりありませんか?」

「もちろん、奈央くんも元気そうで良かった」

互いに笑顔で再会を喜ぶ。

推は埼玉栄枝高校のOBであり、奈央とはかつて同じ部活動で研鑽し合った仲だ。

推が大学に入学してからは、時おり連絡はしていたものの直接会う機会が少なくなっていた為、今方の再会は奈央にとってはとても嬉しいものだった。

 

「まさかこんな時間に会えるとは思いませんでした」

「なんとなく高校の前を通ってみたら体育館の電気がついてたから…もしかして、と思って少し待ってたんだ」

推と奈央は他愛のない話をしながら、所々に照明灯の光が差し込む通り路を練り歩く。

奈央の部活動の話や、推の大学生活の話など、会話の内容が尽きることはなかったが、ふと推がある一言を口にすると奈央は言葉を詰まらせた。

 

「そういえば、まだ…泪とは連絡を取ってないのかい?」

「……」

それは、推の実妹である益子 泪についての事だった。

泪は、推同様に奈央が幼少の頃に多くの時間を共有した仲であり、奈央にとって大切な人物であった。

しかし、色々な事情が重なって今は疎遠になってしまった。

 

「はい…」

「…どうして?」

「泪が嫌がるかもしれないので…」

奈央は推から視線を外した。反射的に外してしまった。

たった今の言い訳を推に悟られないようにする為に、少し俯いて表情を隠した。

 

「…そうか」

推も、それ以上何も聞かなかった。

自分なりに気づいていることもあったが、あくまで奈央と泪の問題であり、二人に解決してほしかったからだ。

 

「……」

一方で、奈央も自分自身に嫌気がさしていた。

推に気を使わせてしまっている事、連絡を取らない理由を泪の所為にしている事、臆病で気の小さい自分は昔と何も変わっていない事にも。

このままではいけない、それは頭の中では分かっているが、いざ状況を変えようと思うと怖くなって一歩踏み出せずにいた。

 

「それじゃあ、俺はこっちだから…今日は久しぶりに会えてよかったよ」

「こちらこそ嬉しかったです、ありがとうございました」

信号機の手前に差し掛かったところで、推が別方向を指差して言う。

奈央は丁寧に頭を下げると、推は笑顔で手を振り、歩き去っていった。

 

 

「ただいま」

歩いていく推を見送った後、帰宅した奈央は洗面所に直行し、すぐさま汗まみれのハーフパンツとシャツを脱ぎ捨てる。

 

「…うわ、くさい」

自身でも臭うと感じるほどの、染み付いた汗の臭いを嗅ぎ取ると、すぐさま洗濯機に投入し、スイッチを入れた。

 

「兄貴ー、帰ってるの?」

奈央が体を拭いていると、どたどたと騒がしい足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。

音が徐々に大きくなり、洗面所の前で止んだかと思えば、ノックも無しに勢いよく扉が開かれた。

 

「お母さんがご飯食べるのかだって」

現れたのは奈央の実妹である蓮田 加奈子だ。

 

「ノックしてよ…」

下着一枚の兄を前に、まったく気にする様子もなく母親の伝言を伝える実妹に対し、ノックという技術を身につけてほしいと切に願う奈央だった。

しかし、この気遣いのなさ故なのか、傍からは仲の良い兄妹に見えるらしい。

 

「食べるよ、カバンとか部屋に持ってったらすぐ食べる」

「あーい」

気のない返事とともに扉も閉めずに加奈子は走り去っていった。

 

奈央は洗面所にあらかじめ用意していた部屋着に着替えると、二階にある自室へと入った。

重いカバンをそっと置き、机の上にあるいくつかの写真立ての内、一つを手に取った。

 

その中に収められている写真の中央には、中学生くらいの少年と少女が仲良さそうに並び、こちらに笑顔を向けている。

そしてその二人を挟むように、先ほど出会った推の中学生時代の姿と、まだ小学生だった頃の加奈子が写っていた。

 

「懐かしい…」

口元を綻ばせ、フッと優しく息をつく。

写真立てを元の位置に戻すと、机の前にある椅子に腰掛ける。

 

少しだけリラックスした表情でゆっくりと目を閉じた。

瞼を閉じれば今も蘇るのだ。

写真に写る少女、益子 泪と過ごした日々の事を―――

 

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