薄暗く重たそうな雲が空を覆う、風の強い朝だった。申し訳程度の白線で車道と歩道を分けたつもりの、見慣れた道路を踏みしめて、我々高校生はいつも通り登校する。
……そんな朝の風景を、放課後になった今となっては昔のことのように感じる。雲は相変わらず今日の空を占拠しているけれど、おそらく雨は降らないだろう。根拠はないけれど、なぜかそんな気がする。
校内に有り余る机と椅子のセットが、いくつか向かい合って並ぶ空き教室、……もとい部室の窓から、そんな空を眺めながら考え事をする。眺めると言っても、空はただ視界に入っているだけで、景色に対して何かを思うことはないのだけれども。
考え事というのは、もしも誰かが私の思考を覗いていたのなら、その人は飽き飽きしているであろう内容になる。それを今回も繰り返す。ここが自宅であるかのように無遠慮に、脱力した背中を背もたれに預けながら。
今朝の風景が思い浮かぶ。太陽の存在感が薄いせいでどことなく暗い雰囲気のあった朝でも、陽気な人間というのは陽気なもので、一緒に歩く友達と「寒いねー」なんて言って楽し気に登校していた。
一方私はというと、これは私がリア充であるために朝は彼氏と登校していたのだけれど、そんな私は道行く陽気な人たちの様子を見て「今日は寒いのだ」ということを認識していた。
私は生まれつき、あらゆるストレスを遮断されて生きている。環境の話だとか、そういうことではなくて、わかりやすく言えば病気の話である。痛みなどの肉体的な苦痛はもちろん、精神的な苦痛も生まれつき感じない体質を持って生まれて、そのままの状態で私は今日までずっと生きているのだ。
例えば騒音なんかは、「うるさい」と感じる前に「遮断」されてそもそも聞こえなくなる。暑さでも寒さでも同じようなことが起こるので、私は寒いと言うほどの冷気や暑いと言うほどの熱気を、生まれてこの方感じたことがない。
あくまでストレスを遮断するという性質上、涼しいと暖かいは身をもって知っている。けれども暑いと寒いは、正直ほとんど知識としてしか知らない。そういう人間が私なのである。
もっと詳しい話をするなら、私がストレスを感じない病気だ……というのも正しくはない。「病気」というのはつまり医学的な定義であるわけだけれども、私の体質は既存のあらゆる学問から見てもまったく根拠不明な物となっているので、現代においてこれは病気として扱われていないのだ。
なぜかといえば今の時代、それを病気扱いしていればキリがないからである。聞いた話によると、私のような人間を病人扱いしようとした人たちは、もう数十年も前にそれを諦めているらしい。
では、病気でないなら私の体質は一体何なのだろうか。その答えが用意されていないなんてことはさすがになくて、現代ではこれは、「N」と呼ばれる異能力だということになっている。
異能力Nは昔ならともかく、現代においては珍しくも何ともない物となっている。というかむしろ、現代の人類はほぼ全員が異能力を持っている。
私の「ストレスを遮断する能力」なんかしょぼい物だけれど、私の彼氏はひと昔前の「異能力がなかった時代の軍隊」なら余裕で壊滅させられる金属生命体を、事実上使役していたりする。その手の強力な異能力を持つ人間がごろごろいる、そういう時代なのだ。物心ついた時からそういう時代だったので、特に驚くことはない。
ところでその彼氏は、今日はちょっと用事があるので放課後には会えないのだけれど、それは毎週決まった曜日の決まったこと、いわゆるスケジュール通りの出来事なので特に問題はない。そういう物だと納得している。
だからこそ家にも帰らず、わざわざ一人でこの部室に、ほとんど椅子と机くらいしか置いてないような殺風景な部屋に留まっているのである。これは個人の意見だけれど、部活という物はつまり、暇つぶしのための物なのだ。まあ、暇つぶしなら家に帰ってゲームをするでもいいわけだけれど、あまりそればかりでも仕方がないだろう。
……と、考え事の本題はそんなことではない。他人が覗けば飽きそうな思考とは何なのかというと、それは今回の場合「彼氏も本当のところはせっかくできた彼女と「今日寒いねー」なんてやり取りをしたいんじゃないのか」という話である。
私のような人間と付き合うくらいなので、彼は私の特性に理解を示してくれている。が、その話と、不満が無いかどうかという話では別の話だと思っている。彼も本当のところは普通の子と普通の会話をしてみたいのかもしれない。……この手の思考は、私の特性が、つまりは異能力Nが、生活のあらゆる場面で存在を主張してくるので、そのたびに飽きるほど繰り返している。
彼は私に「寒いね」と言ったことがない。「暑いね」もない。そんなことを言われても私にできる返事は、共感性の欠片もない素っ気ないものか、らしくもなく気を遣ったものかしかないからだ。
寒いねと言って「そう?」と返されればつまらないだろう。けれど「ほんと寒いねー」と返しても、彼はそれが私の本心から出た言葉ではないことを、ありがたいことによくよく知っているのだ。
そうなってくると「寒いね」は私をただ困らせるだけの悪魔の二択、もしくは闇の詰将棋と呼ばれる類の言葉になる。相手がどうでもいい人間なら私だって適当に返せるのだけれど、そうでない場合の対処法は未だに見当もついていない。
そうやって私が困るのを知っているから、優しい彼はそういったことを言わないようにしてくれているのだろう。それは本当にお気遣い感謝することこの上ない。ないのだけれど、でも今日の朝、彼は、寒さにはしゃぐ同学年女子の方をちょっと興味ありげに眺めていた。
いいのだ、別に。彼が私の特性を理解しているように、私も彼の特性を理解しているから。ざっくり言って彼は女性が好きなのである。異能力が影響している私と違って、それは完全に本人の趣味、パーソナリティとしての特性だけれども。
しかしまあ、「異能力の性質」と「それ以外の人間本来の性質」を区別する定義が「学問的な根拠で仕組みを解明できるか否か(もしくは解明できる見込みがあるか)」だけなので、私程度の凡人では彼のその特性を「異能力Nによるものではない」と断言することはできないのも、また事実ではある。
つまり精密な検査をすればもしかすると、彼の女好きも異能力の性質の一部であることが判明するのかもしれない……という話だ。実にどうでもいいことというか、どっちでもいいことだけれども。
ともかく、年齢の下限と上限、ルックスのボーダーラインなどの詳しいところまでは存じ上げていないけれども、少なくとも同い年の女子くらいなら彼は全員が好きだと思う。
その「好き」が私に対してだけ恋愛の意味を持っていて、あとは「この芸能人好き」くらいの意味しか持たないことも知っている。恋愛の意味とやらが具体的にどんな物なのかは、これもまた考え出すとキリがないので、今回は考えないことにするけれど。
もしかすると「ストレスを遮断する」という異能力を持っていなければ、私は彼の特性にストレスを感じていたのかもしれない。そう考えれば、この限りなく病気に近い異能力も悪い物じゃない。私がそれのおかげで寛大になれているのなら、それのおかげで私を必要とする人を引き付けておけるなら、それは幸運なことだ。
結局はそこである。私は悩むようなフリをするけれど、大して深刻にはなっていないのだ。深刻になり得る思考は、異能力によって事前に遮断されるのだから。だから実はいちいち考えるだけ無駄なのだ。解決策がわからないという事実は、考えなくていい理由にはならないので、一応こうやって考えてはみるけれど。その思考にそれ以上の意味はない。
というわけで、いつもと似たような結論を出して、同じようなパターンを何度も繰り返してきた思考回路を一旦打ち切る。毎度同じような結論を出すことになるけれど、なぜか私自身はこの思考に飽きることがない。経験上の話なので、今後もそうだとは限らないけれど。
と、考え事も一段落したけれど、部室には誰も訪ねて来ない。そろそろ帰ろうかと思いかける、その時だった。
ちょうど間の良い具合に、閉じた教室のドアがコンコンと鳴った。
この教室のドアをノックする人は、ドアの擦りガラスの部分にセロハンで直貼りされた大きな紙に、油性ペンで太く大きく書かれた「相談屋(部活)」の文字を見た上でなお引き返さなかった人だ。
「はい、どうぞ」
職員でもないのにまるでこの教室の持ち主であるかのような返事をすると、おそるおそるといった様子で横開きのドアが開いていった。
つつましい開け方から小動物みたいな人間がそこに立っているのかと思ったけれど、ノックの主は意外にも、自己肯定感に事欠かなそうな美男子だった。
「あの、相談が」
扉を開けたままその場で立って話し始めるイケメンくん。よく見れば超絶イケメンというわけではなく、校内一位にはなれても芸能界に入ったら埋もれそうなタイプのように思える。……他人の容姿を評価するのはそれくらいにしておこう。
「入っていいですよ」
「あ、じゃあ、失礼します」
おどおどした様子が信じられないくらい似合わない青年が言われるがまま部室に踏み入る。すると、今まで死角になっていて見えていなかったけれど、彼には連れがいたらしかった。今度は見るからに小心者だとわかる小柄でうつむき気味な、少々暗い雰囲気の女子が彼に付き添う形で現れた。
彼女も私から「暗い」なんて言われればたまったものではないだろうけど、ともかく二人を手近な椅子に座らせる。
「まず、クラスと名前をお願いします」
あらかじめ机の上に置いてあったメモ帳をめくりながら言う。入室早々に自己紹介を求めると威圧感が出ると指摘されたことがあるけれど、残念ながらそんなところにまで気を遣っている余裕は私にない。
ここは相手が話しやすくなるよう巧みな誘導をするカウンセラーがいる部屋ではなく、ただの女子高生が部長として合法的に占拠している空き教室なのだ。何人たりとも過度な期待は寄せないでいただきたい。
「あ、三年D組の
私が二年なので、彼は一つ上の学年だった。
「出来ればフルネームでお願いできますか?」
「あ、
下手したら下級生かと思ってしまうような、その腰の低さをなおさら謎に思う。今は全校生徒が冬休みを控えている時期、三年になったばかりというわけでもないどころか卒業が近い先輩は、どう考えてももっと先輩らしい感じを出しても良さそうなものだけれど。先輩らしい感じというのが、良い意味にせよ悪い意味にせよ。
「そちらの方は?」
目線を投げかけながら話を振ると、彼女は露骨に私から目をそらして、床もしくは自分のつま先を見つめだす。
「…………」
聞こえていないわけではなさそうだけれど、付き添い女子はその場で押し黙ってしまって返事はもらえない。
「あー、すみません、彼女ちょっと人見知りで。相談があるのは僕なんですけど」
「……まあ、いいですけど。それと私二年なので、敬語じゃなくていいですよ」
まともな敬語も使えない身で言えたセリフではないけれど。
「あ、すみません。癖みたいなものなので」
「そうですか? えーと、それで相談というのは」
「あー、はい。……女子に、それも年下の人に話すのも、ちょっと恥ずかしい話なんですけど……」
友達なのか彼女なのか関係性の知れない付き添いの暗め女子と、この威厳のないイケメンはそれで似た者同士らしい。彼もうつむきがちな付き添い人に似て、下こそ向かないものの目線をあちこちに散らしながら話す。
その様子から、彼ら二人はおよそ私とは真逆の人間だと感じた。ストレス遮断の能力によって恥やその類の概念もろもろを持ち合わせていない私よりも、客観的に見てかなりまともな人間なのだと思う。
「その、家に幽霊がいる気が……しましてね?」
「はあ、幽霊」
それは掃除機で吸い込めるタイプなのだろうか。違うのなら、何でも屋みたいな部活をやっておいて申し訳ないけれど、普通に手におえなさそうだ。
「いるかどうか確かめて欲しいんです。そしていたのなら、出来れば退治してほしい。退治というか、撃退……? とにかく家から追い出してほしいというか」
「すみません、相談屋をやっておいてアレなんですけど、私、霊感なくて」
ついでにお祓いとかの知識や技術もゼロ。普通に除霊することはもちろん、演技力があまりに不足しているので、適当にそれらしいことをして「除霊は完了しました」などと言うインチキさえできない。真面目に取り組むという意味でも、適当にあしらうという意味でも、霊障案件は完全に専門外である。
ただ、私が部長を務める相談屋の良いところは、完全に素人のボランティアだということである。無理な物は無理だと断れる、仕事じゃないから。なんと素晴らしいのだろう。
けれど私が思い切って依頼を断る前に、彼はたたみかけてきた。
「霊感はなくても大丈夫です。ほら」
相談主の彼に要求されて、付き添いの女子が両の手のひらに何かを乗せておずおずと差し出してきた。パッと見て、それは手のひらサイズの小さな望遠鏡のように見える。
「これは……?」
「彼女のNです。これで覗くと、幽霊とかが見えるらしくて」
「はあ」
とりあえず受け取る。付き添いを連れてきた意味はその異能力目当てだったのだと判明したけれど、それならそれで新たな疑問が生まれる。
「あの、私の勘違いだったら悪いんですけど」
「はい」
「幽霊がいる「気がする」とか、これで覗くと見える「らしい」とか。なんというか失礼ですけど、これ、自分で使ったことは……?」
余計なことを言ったようで、相談者の二人が微妙な顔をした。しかし相談主の男子は己がイケメンであることを利用して、すぐ良い感じに笑ってそれを誤魔化そうとする。
「いやー、その……、怖くて見れないんですよ、僕ら。だからお願いできないかなー……と」
なるほど。年下の女子に言うのが恥ずかしい話だと言っていた理由はよくわかった。個人的には男性のメンタルにそこまで強さを求めるタイプではないので気にならないけれど、平均以上の自己肯定感に包まれて育ってきたであろう彼にとって、それはかなり無視できないレベルの恥なのかもしれない。
顔を見ただけで他人の自己肯定感を決めつけるのは良くないのかもしれない。けれどこれは顔というよりむしろ態度の話だ。いかにも人付き合いが苦手そうな女子を、協力者として当然のように連れてきたその態度をもってして、自分に自信がないとか自分が嫌いだとか、まさかそんなことを言い出すなんてことがあるのだろうか。
まあ、それはともかくとして。返事をしよう。
「これで幽霊がいるかどうかを確かめて、いた場合は可能な限り撃退を試みればいいんですね?」
「そうです」
「了解です。承りました」
幽霊に対する対策さえ他人のNでカバーできるのなら、恐怖という感情がない私にとって、怪談系の依頼はおあつらえ向きだと思えた。
そして何より、いい暇つぶしになる予感がする。
中学生の頃は漠然と「高校生の二割くらいは一人暮らししてそう」と思っていた私だけれど、自分が高校生になって確信したことがある。一人暮らしとは、基本的に大学生や社会人のものなのだ。
依頼主、幽霊が怖い灰暮くん先輩は、実家暮らしだけれど両親が共働きなのだそうで。そういうわけで、私はあれからすぐ本人に案内されて灰暮家に向かった。付き添い女子とは学校を出る時に別れたけれど、その際に望遠鏡の異能力について説明を受けた。
この望遠鏡の出現と消滅は能力の主の自由だけれど、放っておいた場合の最大持続時間は24時間で、それを超えると自動消滅するらしい。万が一望遠鏡をなくした場合はそれを誰かに拾われて、その誰かが怖い目に遭ってしまうと気の毒なので、即刻連絡してくれという話だった。遠隔でも消滅は出来るのだという。
さらに依頼がつつがなく達成された場合にも、その後望遠鏡は不要になるので、その時も連絡してくれと言われた。言われていることは至極まともなので二つ返事で了解したのだけれど、そんなことより彼女の声が小さく聞きづらかったことが強く印象に残っている。それでいてまったく聞こえないわけではないのが絶妙だとも思った。絶妙って何がなのかはわからないけれど。
それと、なんとなく彼女からは「知らない人に関わりたくないオーラ」が出ていたので連絡は灰暮先輩経由になると思っていたのだけれど、そこは意外とあっさり連絡先を教えてもらえた。当然灰暮先輩の連絡先も教えてもらっているので準備の方は万全となっている。
計画は簡単。先輩の親が帰って来る前にお宅にお邪魔して幽霊を発見、撃退する。単純にそれだけ。発見はともかく撃退は無理な気がするけれど、そこは無償のボランティア、過度な期待を寄せられても困る。やれることだけやろう。
徒歩で移動すること十数分。沈黙が得意なタイプではないらしい先輩の放つ「今日は特に寒いですよね」といった世間話を「そうですねー」と適当に受け流しながら、おそらくひどく冷たいのであろう風の中を進むと、やがて灰暮という表札のかかった一軒家にたどり着いた。
中に通されて、リビングにてテーブルを囲む椅子のうちの一つを引かれ、ちょっと座って待っていてくれと言われたので言う通りにした。待たされている間に首だけ動かして部屋の中を観察してみる。
「…………」
やはり私では、この家に幽霊の存在を感じることはできなかった。学校の鞄に入れて持ってきた例の望遠鏡を覗けば、本当にここで幽霊が見えるのだろうか? 今のところまったくそんな気はしないけれど。
しばらくすると、おそらく自室へ向かったのだと思われる先輩が私服に着替えて私のもとへと戻ってきた。
それを見て、タイムリミットがあることから帰宅を挟まず直でここまで来たばかりに、自分が制服のままだったことを今さらながら思い出す。依頼を終えての帰りが何時になるのかはわからないけれど、あまり遅い時間になるとよろしくないのかもしれない。
……などと考えていたら、先輩は当然のように私に鍵を渡してきた。家の鍵だ。
「じゃあ、帰る時カギ閉めといてくれます?」
「え、先輩は?」
「僕は今日友達の家に泊まる予定なので」
挙動からして見るからにメンタルの弱そうな先輩のことだ、念には念を押し私への依頼はダメ元で、幽霊から逃れるために友達の家へ行くことは元から決定事項だったのだと思われた。
そう言われればそのこと自体には納得できるのだけれど、信じられないのは私に鍵を渡して去ろうとしていることである。私と先輩は初対面だ。初対面の人間に家の鍵を渡すか、普通。
「いや、いいんですか鍵なんか渡して。初対面ですよ?」
「……えーと。今さらですけど、あなたは絹川ヨルさんですよね」
突然名前を確認されて、妙なプレッシャーを感じる。一応名前を知られていること自体は、部活を成立させるため掲示している「相談者募集してます!」みたいな紙に、部長の名前をフルネームで書いていたので不思議なことではない。
こちらも相談者たる先輩の名前を聞いたので、これでフェアなのは確かだけれど。それでも変なタイミングで唐突に「あなたの名前は○○ですよね?」と言われると、なんとなく脅されている気分になってしまう。
「そうですけど」
「名前がわかってるんですよ? 悪いことしようとは思わないのでは?」
……言われてみれば、それもそうだ。
私に鍵を渡した状態で先輩の家に泥棒でも入れば、真っ先に「二年の絹川さんが犯人だと思います」と私が名指しで吊し上げられるだろう。そしてそれはたぶん魔女裁判になる。私はむしろ、普段自分の家でする以上に念入りな戸締りをして先輩の家を出なければならないのだ。
「まあ、そうですね」
「でしょう? それじゃあ僕は行くので、お願いしますね」
「がんばります」
席を立って家を出ていく先輩になんとなく手を振って見送ると、先輩は笑顔で振り返してくれた。
キラキラと画面効果が施されそうな素敵スマイルで誤魔化されかけるけれど、去り際の先輩は幽霊から離れられることで安心していたのか、年下女子にその幽霊を押し付けていることへの恥をまったく感じていないような、すがすがしい様子で去っていったのだった。人間らしくて結構なことだと思う。
「さて……」
おそらく鋭いと思われる先輩の霊感を信じて、私も依頼を遂行することにする。
望遠鏡を取り出して、その効果を半信半疑のまま覗いてみる。その結果見えてきた光景は…………何の変哲もない部屋の壁だった。肉眼で見るのと大差ない。
一応首が回る180度ほどの範囲で望遠鏡越しの世界を見回してみる。しかし、やはり見える物は肉眼の時と同じ。もしかすると幽霊は恐ろしく小さいものなのかもしれないと思って念入りに観察してみたけれど、いくら念入りになったところで見えた物は普通の部屋だけ。
この望遠鏡、
この望遠鏡を信頼するのだとすれば、あとは後ろだ。映像系の怖い話でよくあるのは、怪異の類が何もいないと安心して振り返った瞬間に至近距離におそろしい「何か」がいるパターンだ。それに期待しよう。
何もいませんでしたよと言って先輩が納得するとも思えない。お願いだから何か見えてくれと祈りながら、思い切ってぐるりと回れ右をする。
「わっ」
視界が肌色で埋め尽くされた。
バグかと思って、一度望遠鏡から目を離す。そしてもう一度覗いてみる。やはり見えるのは一面の肌色だった。
あり得ない物が見えたのでこれが幽霊だろう。しかし見えるのが肌色一色だけとはどういうことだろう。幽霊は多少なりとも人型をしているはずと無意識のうちに思い込んでいた私が間違っていたのだろうか。
そこで私は、「マンションで隣の部屋へ続く小さな穴を覗いていた男が、実は真っ赤な目の女に覗き返されていた」というそこそこ有名な怖い話を思い出した。覗いていた男からは隣の部屋は真っ赤なだけで何もない空間に見えていたので、まさかそれが隣人の目の色だとは思わなかったという話だ。
要するに「近すぎるのではないか?」ということ。テーブルを回り込んで肌色から距離を取り、もう一度望遠鏡を覗いてみる。すると今度は別の物が見えた。
若い水着の女性が、若干浮遊した状態で部屋の中にいた。それなりに露出のあるタイプだったので、さっき見た肌色は彼女の腹のあたりだったと思われる。
すると全てが見える人の視点から見れば、制服姿の女子高生が望遠鏡で水着の女性の腹を凝視するという、かなりシュールな光景がさきほどまであったわけだ。
そしてその全てが見える人というのはたぶん幽霊本人のことだと思うのだけれど、当の幽霊さんは興味のないCMを見ている時の人間並みに無感情な様子をしている。
それにしても本当に見えてしまったので、望遠鏡の異能力に感心しつつ、先輩の霊感にはもっと感心する。もしかするとそれが先輩の持つ異能力だったのかもしれないけど、どちらにせよ見事だとしか言えない。それに引き換え無力な私は「破ァ!」とか言って除霊を執行することもできない役立たずである。寺生まれじゃないばかりに申し訳ない。
そんな私にできることは、とりあえず幽霊にコンタクトを取ってみることだろう。話しかけてコミュニケーションが取れた場合は、話し合いにて解決するしかない。試みることが出来ることがそれしかない。
そうとなれば……! と、いざ声をかけようとした、その瞬間。本能だろうか、自分の家に連絡を入れていないことを思い出した。
私も所詮は門限のある学生身分、普段から部活の依頼をこなすためなどで帰宅が遅れる時は一言連絡を入れておくルールになっている。けれども今日はそれを忘れていた。というか幽霊の存在から半信半疑だったので、何も起こらずに帰ることになると思っていた部分が大きい。
しかし幽霊は実在した。そして幽霊にコンタクトを試みたあとだと、その後連絡を入れられるタイミングあるかどうかは定かではない。そもそもこちらから話しかけておいて「あ、ちょっと待って」とスマホを見始めるのはいかがなものか。初対面の人相手に、わざわざそんな悪い意味での「最近の女子高生」を体現することもないだろう。連絡を入れておくなら今だ。
しかし、相手は未知の存在、幽霊である。霊感のない私では勘付けずとも、霊感の鋭い先輩をびびらせる程度には強大な力を持った存在なのかもしれない。ポルターガイストとかで攻撃でもされたら、もしかすると無事では済まないのかもしれない。
最悪の場合を考えるならあえて連絡を控えておいて、私が無事ではない状況になった時に、親にいち早く「失踪した」という考えを持ってもらう方が生存率を上げる意味で良いとも考えられる。
浮遊しているとはいえ、水着の女性そのものはそんなに恐ろしい存在には見えない。しかし人を見た目で判断してはいけないとは現代の常識、その常識が幽霊にも当てはまる可能性は十二分にある。先輩に習い念には念を入れてということで、ここは家への連絡を控えておくことにしよう。
そうと決まれば、いよいよ未知との接触である。
「あ、あのー」
望遠鏡を覗きながら、水着の幽霊へ話しかけてみる。
「…………」
幽霊はこちらを怪訝そうに見てきたものの、それ以外は無反応。通常は見えない存在だ、自分が話しかけられているとは夢にも思っていないのだろう。
ということは私は今、望遠鏡を覗きながら虚空に話しかけるイカれた女として幽霊に見られていることになる。怪訝そうな表情にも納得だ。
「あの、そこの水着の方」
「えっ」
具体的な特徴を口にすると向こうもさすがに気付いた。
「……もしかして、見えてます?」
その幽霊の声は、この世の全てに絶望した者のような無気力で冷たく、そして人間味のある物だった。
先入観があることは認めるけれど、その幽霊から友好的な雰囲気を感じることはできそうもない。連絡は控えておいて正解だったかもしれない。
「見えてます。この望遠鏡のおかげで」
「失礼ですが、どちら様ですか……? この家の人ではありませんよね」
こういう時に、やはり名前を聞いておくことは大切なことなのだと実感する。
「この家に住んでいる高校生の、灰暮廻さんと同じ学校に通う者です。絹川ヨルといいます」
「聞かない名前ですね」
「灰暮さんとは今日が初対面なので。訳あってここへ来ました」
「訳あって、ね……」
敵意をもって睨み付ける目で、浮遊する水着の幽霊は私を観察していた。何かしら彼女の価値観で私を見定めているのだろう。……望遠鏡を覗いたまま話しているという間抜けな格好を、じろじろ見られるのもあまり本意ではないのだけれど。
望遠鏡を通さなければ彼女の存在を感じられないので、睨み付けられても目をそらすということができない。しかし、そのおかげで一つ気付いたことがある。水着という一見恐ろしさとは真逆の姿をしたその幽霊は、光の届かない深海のような、暗く沈んだ目をしているのだ。
そうは言っても、私自身も自分の目が希望に満ち輝いていると思ったことはないけれど。しかしそんな私の目も、望遠鏡で隠れている状態では幽霊から見えることはない。
「訳あっての、訳とは?」
自分がこの家の番人だとでも言うかのように、水着の幽霊は私が何者なのかを引き続き問うてくる。何か気に入らない返答をした場合、超常現象的な力によってこの家を追い出されることになるのだろうか。あるいは、もっとひどいことに。
仮にそういった「不審者を始末する」ような有益とも言える幽霊がこの家に居ついていた場合、依頼的にはどう処理すればいいのだろう……? それでも撃退するべきなのか。仮に望遠鏡で見えたものが水着の幽霊ではなくご先祖様の幽霊だったとしても、先輩は依頼を絶対の物だと言っただろうか。
自分の部活に対しては、いくら素人の無償ボランティアといえども、臨機応変な対応くらいはこちらに求められて然るべきだと考えている。どちらにせよ、まだ判断材料が少なすぎるけれど。
「灰暮さんから頼まれて来たんです」
「頼まれて?」
一瞬躊躇するが、隠した上で上手くやる方法なんか思いつかないので正直に事実を伝える。
「その……、幽霊が家にいるみたいで怖いから、なんとかしてくれと」
幽霊からすれば、私の発言はほとんど宣戦布告だ。どんな仕打ちが来るだろうかと気持ちだけでも身構える。
幽霊は、しばらく沈黙した。襲い掛かってくるようなことはなかったので、おそらくはゆっくり時間をかけて私の言葉を咀嚼していると思われる。
それからじっくりと、怒り出すでもなく、こちらに敵意さえあらわさず、彼女はただ深いため息を吐いた。
「それを、女子高生に頼んだんですね」
「ええ、まあ」
希望の類は何ら持っていなさそうだった幽霊が、ものすごく落胆しているように見えた。私は人を見る目に自信があるわけではないけれど、とりあえず現時点ではまだ彼女は「敵」ではないと認識する。
「私はNの効果で恐怖とかを感じないので、うってつけの役だったんです」
「なるほど。……それで?」
圧迫面接のような重たい場の空気を感じつつ、私は首をかしげる。どうやら重たい空気は暑さ寒さと違って、その存在自体は私でも感知できるらしい。
「それで、とは……?」
「幽霊が怖いから、なんとかしてくれって言われたんでしょう? どうするんです?」
「それは……」
どうするんです、と言われれば。どうしよう、としか返せない。
目の前の幽霊からは、人を寄せ付けない暗いオーラを強烈に感じるけれど。けれど彼女は明らかな悪人というわけではないように見える。そんな彼女を撃退なり退治なりするのは正しいことなのだろうか。可能かどうか以前に、それは正しいことなのだろうか……?
自分の彼氏を基準に考えるので偏見になるかもしれないけど、男というのは部屋にうら若く美しい水着の女性が常駐していれば、それはそれで嬉しいのではないのか? もしかしてこの望遠鏡を灰暮先輩に覗いてもらえば、それで「やっぱりいいや!」ということで解決になったりするのではないだろうか。
私はどうするべきなのだろう。友達の家に行った先輩に電話でもかけてみるか? こういう状況なんですけど、どうします……って。
……そうするのは、この幽霊が本当に悪霊の類ではないかを確かめてからだ。他人に判断を委ねることにも、責任は付き纏うのだから。
「……灰暮先輩にはこう言われています。幽霊がいるかどうか確かめてくれ。いたのなら、追い払ってくれ……と」
好意の類は絶対に、これっぽっちも見せてくれないだろうと思っていたけれど。幽霊はその時たしかに、少しだけ笑った。けれどそれは明らかに自嘲の笑みだった。
「そっか……」
他人の感情に機敏ではない私でも、彼女が悲しんでいることは確かに察することができた。
「どうしましょう? わたし、ここから出ていきたくないですけど」
「ポルターガイスト的な力で私を追い出しますか?」
「それは出来ませんね。ラップ音さえ出せないので」
まとった重々しいオーラに反して、彼女にそれほどの力はないらしい。幽霊とは元々そういうものなのか、それとも個人差があるのか。
どちらにせよ彼女は、そして私も、無力であることに違いはない。
「そうですか。でも私も、昨日まで幽霊なんかいないと思っていた人間なので、何もできませんよ」
「それなのに、私を追い払いに来たんですか?」
言葉に詰まる。
初対面の他人、それも異性の家で一人。なぜか真冬に水着を着ていて宙に浮かぶ幽霊と対面している現実。そんなおかしな現実に対して、手の打ちようはまったくないと思われる現状。おあつらえ向きの依頼だとか言ったのは誰だろう。
黙ってしまった私を見かねてか、浮遊していた幽霊が唐突に、テーブルを挟んで私に向かい合う形で椅子に座った。目で「お前も座れ」と勧められたのでおとなしく従う。
椅子に座った彼女を見て一瞬、もしかして物に触れられるのかと思ったけれど、それを確かめる必要はないとすぐに思考を打ち切った。仮に私が彼女に触れることが出来たとして、力ずくでここから追い出すなんて選択肢はないだろう。そんなあらゆる意味で醜い手は、本当の本当に最終手段になる。
幽霊に従い私が着席した結果、お互いが席に着いて対談をするかのような形になる。口火を切ったのは彼女の方だった。
「話し合いで決めましょう」
「えっ」
それしかないと思ってはいたけれど、向こうから持ち掛けてくるとは思っていなかった。
「わたしはここから離れたくない。あなたと灰暮廻くんはわたしをここから追い払いたい。そして、お互いに無力。……となると、どうでしょう。もはや話し合いしか出来ることはないのでは」
「まあ、そうですけど」
「説得してみせてくださいよ、頼まれたというのなら。急がないと、灰暮くんの両親が帰るまでに、あなたはここから出ていかなくてはいけないのでは?」
落ち着いた口調で言ってはいるものの、彼女の言葉は静かな敵意をまとっていた。
話し合いをする気など彼女にはないのだ。時間を稼いで私を追い出すつもりだ。話し合いは暇つぶしみたいなものだろう。私が部活をそうやって利用するように、彼女は私を暇つぶしの道具にしようというのだ。
灰暮先輩と初対面だということを話したからだろうか、それともこの家に居つく幽霊は灰暮家の人間事情に詳しいからだろうか、こちらにタイムリミットがあることはバレている。ここから出ていく気のない彼女は、ただ時間が過ぎるのを待つだけなのだ。もしかすると、あわよくば二度と私がここへ来ないように、彼女も上手く言葉を使うつもりなのかもしれないけれど。
しかしそうなってくると、私の方も幽霊のことが気になってくる。どうやら本当にここから立ち去る気はないようだけれど、そもそも彼女はなぜ頑なにこの家にとどまり続けようとするのだろうか。先輩に判断を委ねるとしても、そこだけは聞いておかなければならない。
「……そうですね、頼まれたことですし。しましょうか。話し合い」
「ええ。まずは何から話しますか?」
話し合いをしようと言っておいてアレだけれど、何からと言われても困る。こちらに策はないのだから。
私は人に気を遣うのが苦手だ。交渉とか説得とかを得意とする人間が、人に気を遣うことを苦手としているなんて事例はあるのだろうか。私は自分がネゴシエイターになれないことを確信している。しかし、今はやってみるしかないのも事実。馬鹿なら馬鹿なりにやるしかない。
「あの、話し合いとなると、まずはお互いの事情を知ることが大切だと思うんです。私はあなたのことを何も知りませんし」
「そうですね。いいですよ、何でも聞いてくれて」
幽霊が少しほほえんだように見えた。この話し合いがどういう方向に行っても構わないからこそ、まるで友好的であるかのような台詞が言えるのだ。明らかに相手のペースに乗せられている。
だったらいっそ、彼女の言葉にそのまま甘えるしかない。
「答えてくれるなら、ものすごく気になっていることがあるんですけど、いいですか?」
「なんでもどうぞ」
「興味本位なんですけどいいですか」
「はい。なんでも」
今さらながら同性とはいえども、至近距離かつこんな場所で堂々と、視界に収めていてもいいものなのかと自問自答しながら。
「なんで真冬に水着なんですか」
外の風が窓を揺らした。ガタガタとそれなりに大きな音がして、何とはなしにお互い一瞬黙る。
風が止んでから、間髪入れずに答えは与えられた。
「死んだ時の姿から変わることができないからです」
私だけ、沈黙したままとなった。見えていた地雷を踏んだことに、今さら後悔があるわけではないけれど。
次に言うべき言葉が思い浮かばない私を見かねたのか、そんな義理はないはずの幽霊が口を開いた。
「海で溺れたんです」
「えっ、冬の……?」
「夏のですよ。死んだのはずっと昔の話です」
わざとではないけれど、次々地雷を踏んでしまう。私だって別に、彼女に死んだ時のことを詳しく語らせる趣味があるわけではない。けれども馬鹿な私は、これでも必死なのだ。心の痛みを感じない人間というのは、こういうものなのだ。嫌いたい人は嫌えばいい。私を嫌うことは、全ての他人が持っている当然の権利なのだから。
申し訳ないと思うのは、この幽霊と初対面だったこと。私に対して「話し合いをしよう」と言い出す時に、彼女は何の覚悟もしなかったはず。しなかったというより、出来なかったはず。私という人間の性質について、彼女は何も知らなかったのだから。
申し訳ないと思う気持ちも、罪悪感と呼ぶにはあまりに軽い、Nの効果で遮断された残りカスみたいな感情だけれど。だからこそ、私は彼女が止めるまで話し合いをやめる気はない。
「それからずっとここに?」
「いいえ。この姿ですから、自分で自分に違和感が湧かないようにと初めはずっと海にいました。街中に水着姿で立っていたら、誰にも見えなかったとしても恥ずかしいですし」
「それじゃあ、どうしてこの家に?」
「小さな子どもが溺死したのを見てから、海には二度と近づかないと決めたんです。自分と同じ苦しみを子どもが味わっているのに助けられないなんて、そんなものは見ないフリをした方が楽ですからね」
淡々と話す幽霊はまた自嘲的な笑みを浮かべている。
私が言えたものではないが、この人はとっくに、心のどこかが欠けてしまっているのではないだろうか。
「海を離れてから、すぐここに?」
「しばらく普通に街にいましたよ。初めの頃はこの格好でいるのが耐えがたいほど恥ずかしかったんですけど、まあ、いつの間にか慣れました。それに映画をタダで見れたり、悪いことばかりじゃないんですよ」
「映画見るんですね」
「昔の話です。今は、なんというか、……興味が持てません」
ここへ来る前、今回の依頼が私向きの内容だと感じていたことを思い出す。この話し合いが依頼のために必要なことだというのなら、確かにこれは私向き、罪悪感を持たない人間にはおあつらえ向きな内容だろう。本当にこれが、必要なことだというのならの話だけれど。
「それで、この家にたどり着いた理由とかはあるんですか……?」
「ありますよ。灰暮廻くん、彼は、私の好きな人に似ているんです」
「好きな人?」
「わたしが生きていた頃に付き合っていた男性です。もっともわたしは、その人の高校時代なんて知らないんですけどね」
彼氏がいた。そういう事実が浮かび上がってくると、こちらもいろいろ想像してしまう。海に行った理由も、その水着の露出が多いタイプなのも、もしかしてその彼が理由なのだろうか。だとしたら生前の彼女は、今とは違った性格の人だったのだろうか……とか。
そして水着の幽霊のその姿が、溺れ死んだ時そのままの姿だというのなら、きっと海に行った時には彼氏も一緒にいたのだろう。
どんな経緯で溺れてしまったのかはわからないけれど、その時彼女が抱いたこの世への未練は、それは想像もできないほど強いものだったはず。それこそ化けて出るのも当然と言えるほどに。
「彼氏さんに未練があって幽霊になったとか……?」
「その通りです」
「じゃあ、もしかして幽霊になったあとは彼氏さんのところに」
「行きましたね。ずっと見守っていようと思いました」
それだけ聞けば健気な話だ。しかし実際は違う。健気な話なんかではない。事実として彼女は、今まったく別の高校生の家に居ついているのだから。
「それで、何かあったんですか……?」
「彼が浮気していたことを知ったんです」
「……なるほど」
10代の小娘にはまだわからない世界だけれど、世間を騒がせるスクープなんかを見ているだけでも思うことはある。きっと浮気というのは、子供が思うほど特別なことではないのだろう。
「それで、その人から離れたんですね」
「そうなります」
そうしてどういう経緯か、おそらく偶然で、後々彼女は灰暮廻を見つけることになる。結果としては知りたくない事実を知ることになったものの、当初は成仏できない未練にまでなった彼氏を、彷彿とさせるような男を見つけるに至るのだ。
そこに運命のようなものを感じてしまうのは、もはや当然のことなのかもしれない。そしてそのまま灰暮廻の家に居ついてしまったりするのは、私なんかでは理解が及ばないけれど、もしかすると至極自然なことなのかもしれない。
「なるほど、それで話し合いなんですね。それを聞いた上で「出ていけ」とは確かに言いづらい」
「聞かれたことを答えただけですが、そう思ってくれたなら、わたしにとっては何よりです」
勝ち誇ったような幽霊は、なんだか私が自爆したみたいな言い方をする。……いや、確かに自爆したのか。普通ならそうだ。気の毒な話を聞いたら、誰だって少なからず同情する。同情したら、向こうの主張を通してあげたくもなる。
……だけど私は違う。
これが仕事だったら、それでも迷わずに「ここから出ていけ」と言っていただろう。それができるNだ、それが私の異能力だ。Nに遮断された上で残った「言いづらい」なんて感情は、吹けば飛ぶ程度の重さしかない。
でも、実際のところこれは仕事じゃない。どうしても、どうしてもどうしても必ず依頼通りの結果を用意しなければならない、というわけではない。
「恐怖心を遮断するNを持っている、って言いましたよね」
「そんな風なことを聞いた気がします」
「あれは正確じゃなかったので訂正します。私は、心身ともにあらゆるストレスを遮断するNを持っています。罪悪感も、当然遮断します」
一瞬、幽霊の表情が凍り付いた。自分が死んでいることを今初めて思い出したかのような、恐ろしさを孕んだ無表情のまま動かなくなった。
取り返しのつかないことをしてしまったあとのような、二度と動き出さないのではないかと思えるほど深い沈黙が訪れる。地雷なんて言葉では茶化せない、本当にまずい何かに私は踏み込んでしまったのかもしれない。
しばらくしてから、彼女は笑った。今度は自嘲なんかではなく、本当におかしそうに。
「そうだったんですね。道理でグイグイ来ると思いました」
「すみません」
「いいんですよ。何でも聞いてくれと言ったのはこっちですし」
そう言って、幽霊は立ち上がった。床にではなく、空中に足をついて。
「おめでとうございます」
彼女は天井の近くから私を見下ろして、そんなことを言った。当然、意味がわからない。
「はい……?」
「わたしはこの家から出ていきます。二度と戻って来ません」
「えっ」
「頼まれたことが達成できてよかったですね」
幽霊はそのまま窓に向かって飛行して行き、そのまま鍵のかかった窓に頭を突っ込み外に出ようとしていた。椅子には座っているように見えたのに、やはりステレオタイプなイメージ通り彼女は窓をすり抜けたのだ。
「ま、待って!」
思わず叫んだ。すると窓をすり抜けかけて首無しのようになっていた幽霊が、こちらに引き返してきてくれる。
「なにか?」
「なんで出ていくんですか……? あなたは、時間を稼いで私をあしらうつもりじゃ」
また、幽霊は笑った。幼稚な子供を見るような目で。
「それを聞いてどうするんです?」
「どうするって、気になったから聞いたんですよ」
「……彼から消えてくれと言われたんです。それだけで十分でしょう」
彼というのが誰のことなのか、少しのあいだ考えなければわからなかった。
彼女に消えてくれと言った男、それは灰暮廻だ。未練になるほどの彼氏に似ているらしい、その高校生のことだ。
私は彼女に、なぜこの家に来たのかを確かに伝えた。灰暮廻から、幽霊を追い払ってくれと頼まれた……と。なぜここへ来たのかと、ただ彼女に聞かれたから、それに答えただけのつもりだった。
自分が何をしたのかにようやく気が付く。たしかに幽霊は、もう二度とこの家には寄り付かないだろう。彼女は、拒絶された上でなお傍にいたいとは言えないのだ。
でも、それならどうして。
「なら、なんで話し合いなんて」
「いちいちうるさいですね」
親切な幽霊が、あるいはもう失う物のない幽霊が、私に答えを教えてくれる。
「見ず知らずのあなたの口から、彼のそんな言葉を聞くことになるなんて癪だったので、仕返しをしてやろうと思ったんですよ。身の上話でもしてあげれば、あなたが罪悪感に苦しむだろうと思って。……無駄なことでしたけどね」
……彼女は、私と違ってまともな心を持った「人間」だったのに。今さら私が謝ったって何の意味もない。彼女は、何も悪さをしていないのに。今さらここにいてもいいと言ったって、そんな言葉には何の価値もない。
水着の幽霊は音も立てずに窓をすり抜けて、その姿のまま冬の冷たい風が吹く外へと出ていった。迷いなく、すばやく、一刻も早くこの場を去ろうとするかのように一瞬で消えていった。未練がなかったわけではないはずなのに。しかし言われなくても、二度と近づきたくなかったのだろう。
私はずっと覗き込んでいた望遠鏡を下ろした。そうしなければ彼女の姿が見えないからとはいえ、ずっと望遠鏡を覗き込んでいた私は、傍から見れば間抜けに見えたのだろう。あるいはこの冬の空の下に水着姿で飛び出していった幽霊のことも、仮に誰かの目に映ることがあったとすれば、その時は間抜けに映ってしまうのかもしれない。
けれどもきっと、他の誰も彼女の姿を見ることはできないのだ。私がそうであったように。灰暮廻が、彼女を単純に「幽霊」としか認識できていなかったように。
幽霊にはきっと熱の概念がないのだ。暖かいとか冷たいとか、そんな感覚とは私以上に無縁なのだ。そう信じるしかない。人間は、見たいようにしか物事を見れないのだ、という話を思い出した。
これ以上ここにいる理由もなく、私は灰暮家を出た。もちろん念入りに戸締りをしてから。
ほとんど日が沈んでしまった帰り道で、遅くなってごめん……と事情を説明する文章を親に送りつつ、依頼主にも依頼達成の報告をしておく。通話をかけた方がいいかと思ったけれど試みた結果繋がらなかったので、それも文章で送っておいた。
望遠鏡の用が済んだことも、あの付き添い女子の連絡先に向けて報告しておく。こちらも一応通話を試みたが繋がらず、連絡は文章によるものとなったけれど、特に問題はないだろう。
数分後、二人から感謝を表す文章がとどいた。付き添い女子の方からももらえるとは思っていなかったので少し驚かされる。
こうして、与えられただけの依頼を達成することはできた。……しかしその時の私は、その「ありがとうございました」という文字を見ても、少しも喜ぶことができなかった。人としての心が欠けている私でも、それはストレスを感じないというだけのことだから、普段なら嬉しいことは人並みに嬉しいはずなのだけれど。
それからしばらく経ち、冬休みも終わったあと。私の通う高校から男女が一人ずつ消えた。神隠しなどではなく、単純に学校を辞めたのだ。
中々ないことなので噂好きの人たちはその話題で盛り上がったらしい。私はそういうことに疎いので何も聞かなかったけれど、私の彼氏がその噂を聞いたらしく詳しい内容を教えてくれた。
どうやら学校を辞めたその二人は、お互い妊娠させたさせられたとかいう話で、三年生なのにも関わらずこの時期に辞めていったのだという。あり得ない話ではないのだろうけど、まさか自分の通う学校でそんな話を聞くことになるとは私も思っていなかった。
しかし、噂の詳細はそれだけでは終わらない。渦中の二人の実名まで、すでに一部の人間には知れ渡っているというのだ。彼氏の話を聞く中で、私もその名前を教えてもらった。それを聞くまでは、どうせ知らない名前なのだろうと思って、どうせ自分には関係ない話なのだろうと思って、聞き流すつもりでいたのだけれど。
結果として、私はまた、あの水着の幽霊のことを思い出すことになる。
渦中の二人のうちの片方、男の方の名前は、ひどく聞き覚えのある物だった。私はあの幽霊のことが本当に、本当に気の毒で仕方がない。
N紹介。
「
所持……灰暮廻に付き添う女子生徒
能力……幽霊が見える望遠鏡を出す能力。見える幽霊は人間のものとは限らず、死者の霊とはまた別の「本来見えないはずのもの」が見えることもある。どうしてもという理由がなければ、基本的に覗かない方が賢明。