ハズレを見つける目   作:氷菓くん

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ピースは噛み合う誰とでも

 正直に言って、私、絹川ヨルは、自分に彼氏がいることをステータスだと思っている。

 彼がいなければ、私は今頃ほとんどただのボッチになっていただろう。ボッチor彼氏持ち……聞こえの差が激しすぎる。彼氏がいたところで私の交友関係は、その彼の一人分より多く広がったわけではないのに、まるで境界線を跨いだかのような、天と地の差があるように聞こえてしまう。そう聞こえるからには、それをステータスと考えてしまうのも、仕方がないというものでしょう。

 そしてそのことについては、私は彼とウィンウィンの関係にある。私が彼のおかげで境界線を越えたように、彼も私のおかげで「境界線を越えた!」と声高らかに宣言できるのだ。お互い相手を好きにステータス呼ばわりすればいい。本当に好き合っているならそんなことを考えてはいけないだとか、そういう潔癖を言う人間の存在なんて、ステータスを持った我々からすれば取るに足らないことなのだから。

「こんにちはー」

 部室(という名の教室)のドアを横にスライドさせて現れたのは、あまり見覚えのない顔の女子だった。同じ制服を着ているのでウチの生徒なんだろうけど、人の顔を覚えるのが苦手な私にとって「見覚えのない人」という括り方は、全校生徒の九割がそこに属してしまって全く意味がない。

 そしてこれもまた結構な数の人が含まれそうな言い方だけれども、現れた彼女はなんというか、たぶん一晩過ぎたらまた忘れるだろうなという、これといって特徴のない容姿をしていた。いっそ絵に描いたようなモブ顔なら記憶に残るのに、そういうわけでもなく絶妙に人間くさい。

「相談ですか?」

「そう」

「学年と名前をお願いします」

「二年D組、焔野霞(ほむらの・かすみ)

 名乗ると共に、ご丁寧に生徒手帳を見せてくれたので、しっかり漢字でノートに書き込んでおく。画数が多い……、と心の中で愚痴りながら。まったくの同姓同名が校内にいるほどありきたりな名前とも思えないので、カタカナで書いてしまっても問題なさそうなのに、漢字を教えられたらそれをスルーするわけにもいかなくなってしまう。

「焔野さん……ね。一応自己紹介すると、私は」

「二年A組の絹川ヨルさん、ここの部長でしょ? 有名だよ」

「あ、それは光栄です」

 焔野さんは「光栄」という言葉を聞いて、あからさまにというほどではなかったけれど、確かにこちらを嘲るような顔をした。なるほど有名というのは良い意味じゃないらしい。言われるまでもなく、おそらく変人として有名なのでしょう。

「それで、相談内容の方は?」

「内容は、そう、敵討ちをお願いしたいんだけど」

「敵討ち?」

 女子高生が、同じ学年の女に依頼しに来たものが、敵討ちとは。世の中物騒になってしまった。

「そう、敵討ち。いい? 復讐じゃない、敵討ちよ」

「一緒ではないんですか……?」

「復讐は自分のため、敵討ちは誰かのためのものでしょ」

 そうかなぁ、と今まで見たアニメ・漫画の中から、敵討ちに重きを置いていたキャラのことを思い出してみる。真っ先にそういうことを考えた時点で、そもそも私にとって敵討ちだとか復讐だとかいうものは、フィクションの中の概念だった。

「つまりその敵討ちというのは、誰かのためのことであると?」

「そう! それはもう、世のため人のためと言えるくらい」

「……ずばりその、仕留めるべき相手は?」

 予想として、言ってしまえばちょっと生徒からの評判が悪いかな……といった具合の我が校の教師が頭に浮かぶ。とはいえ、あいつだけは本当になんとかしなければ……とまで思わせられるほど無茶苦茶な人は、幸いこの学校に一人もいないと私は感じているけれど。

阿鳩馬恵菜(あはとま・えな)って女、知ってるでしょ?」

「あはとま? いや……?」

 そんな特徴的な響きの名前、一度聞いたら少なくとも雰囲気くらいは忘れなさそうだけれど、残念ながらまったく記憶にない。間違いなく今初めて聞いた。

 そんな「超有名人の名前を出しますよ」ってノリで言われましても……というニュアンスを出して「知らない」と伝えると、焔野さんはまた少しこちらを馬鹿にするような表情を浮かべたけれど、それと同時に今度は若干驚いているような気もした。

 知らないなんて信じられない! という驚き方じゃない。マジで知らないのかコイツ……という、改めて噛みしめる驚きが顔に出ていた。そんな反応をされると、さすがの私も自分がどういった有名性を持っているのか気になってきてしまう。同じクラスの女子の名前を覚えていなかった話でも広まってるのかな……。

「知らないなら、忠告しとく。阿鳩馬恵菜は、一言で表すならそう、泥棒猫だから」

「泥棒猫……。というのは、異性の関係をアレする、アレ的な?」

「そう、ソレ」

 そういうことなら、ようやく話が見えてきた。今回の依頼について焔野霞流の言い回しをすると「復讐」ではなく「敵討ち」となるのは、きっと被害者が一人ではないからなのだろう。一人ではないどころか、知っていて当然という態度を取られるくらい、常習犯なのだと考えられる。……すると脳内に二パターンの美人がイメージされた。オタサーの姫的な、萌え声出してそうで過剰にフェミニンなやつと、モデルみたいなすらっとした出で立ちで、性格がやばいやつと。

 そしてその泥棒猫のどちらかが、あるいはどちらもが、媚び媚びな態度でウチの砂切にすり寄るところを想像する。……彼が誘惑に負けても、私では責められないと思った。女性が好きだから自分も女性の格好をする、そう言ってはそれを実行し続ける男から、私以外の女性を引きはがすことにあたって必要な何かを、私はきっと持っていない。

 そう考えると、実際に彼氏をたぶらかされた人たちからすれば、なるほどそれは敵討ちなのかもしれない。

「それはまあ、困った人ですね」

「そう、だから敵討ち」

「とは言っても、何をするんですか? いじめ行為に加担してしょっぴかれたくはないですよ」

 この部活を何でも屋とは呼ぶものの、実際のところこれは募集の形が普通と逆なこと以外、ただのボランティアだ。呼ばれたから行くのではなく、こっちから案件を呼ぶ、ボランティアとの違いはそこだけ。物理的にせよ精神的にせよ、暴力の類はお門違いでしかない。

「もちろんそんなことはしない。けれどそう、上っ面だけでもいい。認めさせたいの」

「認めさせるって、何を」

「罪でしょ!」

「なるほど、ツミ」

 罪とはまた、大層な言い回し。そんな言い回しはやはり「敵討ち」や「復讐」と並ぶにふさわしい言葉のように思えた。

 ただそれと同時に、石を投げても良いのは罪のない者だけ、という話も思い浮かぶ。私は人の男に手を出したこともなければ、浮気自体したことないけれど。しかし確率の話だ。そんなに有名になるまで他人の男を奪ってきたなら、その中の被害者全員が、潔白な人間だったという保証はあるのだろうか。

 顔も名前も知らない人間の敵討ち。たとえ暴力が一切含まれなかったとしても、ボランティアが請け負うにあたって、そこに歪な物を感じないでもない。

「……要するに、謝ってもらえさえすれば、それでいいと?」

「そう」

「謝ってくださいと言って、謝ってもらえますかね」

「それは無理。無理だった」

 実践済みか……。だとすれば、

「じゃあ、どうしろと」

「それを考えてほしいって話でしょ」

「うーむ……」

 具体的に命じられたことしか致しません……という注意書きはしていないしする気もないので、自分で考えろと言われたらその通りなのだけれども、しかしそれは本当に答えがあることなのだろうか。どこに売っているかわからない商品を探すというより、そもそもこの世に存在するのか不明な物質を探すような気分だ。

「やるだけはやってみますよ。けど」

「けど?」

「成功は約束できません。やってみます、としか」

「そう。じゃあそれでいい」

「いいんですか?」

「だって、何もしないよりはいいでしょう?」

 そう淡々と言った彼女の目にともっていた、それは明らかに復讐の炎だった。焔野霞の使う定義で言っても、やはりそれは復讐の炎だった。

 やってみたけど出来ませんでした……と言わなければならない時が来たら、その炎に焼かれるのは私なんじゃないの……? そんな不安がよぎるには遅すぎた。気付くのが遅かった、もうあとには引けない。

「……じゃあ、その阿鳩馬って人はどこにいるんです?」

「西高」

「は?」

「え、西高も知らない……?」

 西高と呼ばれる高校を知らないわけではない。私の家の最寄り駅から上りの方向へ乗れば、線路から校庭まで見えるような、目立った場所にある高校だ。

「いや、知ってますけど、え、他校なんですか?」

「でしょ? そう思うでしょ? だからやばいんだって」

 他校まで噂がこれでもかと広まる泥棒猫、阿鳩馬恵菜。私はもしかして、とんでもない人物と対面しようとしているのでは……。

 さすがに危機感を抱き始める私に、焔野さんが初めから用意してきていたらしい紙切れが、有無を言わさない圧のある雰囲気でもって手渡された。女子らしい丸文字で、ターゲットの所属する学年とクラス、見た目の特徴、そして恐ろしいことに、彼女の住所や通学ルートまでもがそこに書いてあった。

 敵意を一切感じさせない可愛らしい文字と、その文字で書かれたエグい内容に不気味さを感じる暇もなく、私は「げっ」と声を出してしまいそうになった。「三年生」という三文字が、これほど近寄りがたい意味に感じられたことはない。

 年上が怖いわけではないけれど、一度抱いた危機感は、驚くべき速度で膨らんでいく。この時とにかく自分に誓ったことは、その行いに意味がなかったとしても、全て終わったらこの紙切れは、シュレッダーにかけるか燃やしてしまおうということだった。

「じゃあ、えーと、そう、健闘を祈ってる」

 そう言って去っていく焔野さんの背中が纏うオーラは、戦士のそれだった。謝らせようとしたけど無理だったこと、過激な復讐どころか「上っ面でもいいから謝罪を」と妥協案のような目標しか出さないこと。そこにどれだけの戦いがあったのか、私には想像することさえできない。

 自分は温室育ちなのかもしれない。裏社会を見たような気持ちになる私に、ドアを開いた彼女が思い出したかのように付け加えた。

「あ、そうだ。自信があるなら、あの砂切って人に頼めば、話が早く進むかもよ。……それと万が一の時は、同盟に入れてあげる」

「え? いやぁ、はは」

 返事が思いつかなかった。同盟とやらがどういうものなのか、考えたくないし、絶対に知りたくない。そして今のこの思いを変えたくもない。

 たぶんこいつもダメだろう。そんな目をして、今度こそ彼女はこの部屋から去っていくのだった。ドアが閉められたのを見届けて、私は机に向かってうつむき息を吐く。

 一瞬、手元の紙切れを、ぐしゃぐしゃに丸めて食べてしまおうかと思った。

 

 

 

「阿鳩馬恵菜? 知ってるよ」

 次の日の昼休み。彼は姉から持たされた手作り弁当を小さな口で食べながら、さも当然というように私の問いに答えた。私の恋人あるいは女装家あるいは女好きの砂切流(すなきり・ながれ)はまたしても、なぜか女子に関する情報を完備しているのだった。

「あれが来たの? 彼女のなんというか、討伐依頼みたいなのが」

「まさにそれ。指名手配って感じみたいで」

 私の昼食もお弁当。お互い家に弁当を作りたがる人がいるので、学食を食べることは滅多にない。一方、学校全体で見れば学食を取る人の方がそれなりに多いらしく、昼休みの教室はいつも若干ガランとしていた。とはいえ今のところ、窓から存分に差し込む日差しと、それを遮る暖色のカーテンとのコンビが、人の少ない教室から「寂しさ」を全て吹き飛ばしている。

「指名手配かー」

 コップを兼ねる水筒の蓋にお茶を注ぎながら、なんだか他人事みたいに彼が反芻する。これは彼が今回の件に興味がないわけではなくて、情報屋としての彼はいつもこうなのだ。ライブ感というか、臨場感というか、彼の情報からそういった物を感じたことがない。ポケモン図鑑みたいにいつも淡泊だ。

「その阿鳩馬っていう人、実際どんな感じなの? やばい人……?」

「さあ、そこまでは。噂を聞いただけだから」

 さすがに他校の女子ともなると、彼の情報力も万能ではないらしい。俗っぽいけれど、私はそれでちょっと安心してしまった。かといって別に、今回の件で急に自分と彼の関係を不安がるようなガラでもないけれど。

 仮に砂切がすでに阿鳩馬という女子に接触していたとしても、私はそれで一切焦らない。そこはある意味砂切を信用している。彼の女性へ対する意欲を私は止められないけれど、だからこそもし彼が煩悩に従う道を選ぶなら、「どちらかを選ぶ」ことを自らしようとは思わないはず。だったら私も選ばせない。彼を止めるための物は持っていなくても、彼を受け入れるための物はいつだって私の中にある。

 心身ともに痛みを感じない能力。そのNのおかげで私は、彼が「選ぶ」ことをしなくたって、何のストレスも感じずにいられる。それが私の強みで、私の拠り所だった。

「今回のミッションが、阿鳩馬恵菜に今までのことを謝罪させることなんだけどさ」

「うん」

「出来る気がしなくない?」

「しないね」

 お互いに阿鳩馬という人のことを、想像でしか知らないのだけれども。無理なんじゃないですかね。そんな諦めムードが漂っていた。夜鳥青葉の一件を考えていた時の方が、まだワンチャンス感があった気がする。

「ところで絹川さん、ちょっと面白い話があるんだけど聞いてくれない?」

「聞く」

「今朝の電車でさ、痴漢されたんだけど」

 ふっ、と思わず吹き出すように笑ってしまった。今日の砂切の恰好をジャンルで表すなら「ゆるふわ系女子」だと思うけど、彼は男である。事前情報なしで見た目からそう判断しろというのが、たぶん不可能だと思われるのが本当に彼のすごいところだ。ちょうどいい肉体に、ちょうどいい魂が宿っている。

「いや、笑いごとじゃないんだって、面白い話とは言ったけどさ」

「うん、ごめん。……それで?」

「それでっていうか、びびるよねって話。メイちゃんに守ってもらったから大丈夫だったけど」

 大丈夫っていうのはメンタルが大丈夫だったのか、性別がバレなかったという意味なのか、どっちなんだ。という返しが頭の中に浮かんだけれど、実際被害に合った側としては結構シャレにならない体験だったのかもしれないし、今度は口に出さず我慢しておく。

 潔癖と言えるほどストレスフリーな精神は、こういう時に悪く働いてしまう。女性に生まれはしたものの、私が痴漢に遭う恐怖を理解する日は来ないでしょう。……そう言うと良いことに聞こえるけれども。

「よかったね、相手がなんか、肌以外を全てすり抜けるNの持ち主とかじゃなくて」

「怖いこと言わないで……」

「ごめんって」

 私の発想に、彼はかなり本気でびびっているようだった。誰しもが異能力を持つこの時代、絶対にないと言い切れないのは確かにちょっと怖いのかもしれない。どこまでいっても私にはわからないけれど。

 恐怖や嫌悪という感覚と無縁の私は、どうもこの手の話に真剣になれないらしい。いま目の前にいる砂切という人物が本当に女の子だったとしても、私が適切な対応を取れるのかは相当に怪しいところだ。

「いや、ごめんね本当。怖かったね」

「え、うん。ありがとうだけど、どうしたの急に」

「ちょっと不適切な対応だったなと思って」

「あー……」

 何かを考えるように斜め上を見ながら固まった砂切がじわじわと、心が暗く沈みこんだような表情になっていく。

「なに考えてる……?」

「いや、逆の立場だった時、僕は適切な対応ができるのかなって」

「しなくていい、しなくていい」

 彼女である私をもってして「彼に他の女性を見るなというのは無理でしょう」と言わせる砂切流という男は、なぜか妙なところで真面目かつヘタレだったりする。痴漢に関することなら他の女性の場合はともかく、私に対しては適切も何もないのに。

 けれどもそれが、私たちの運の良さであり、噛み合いである。彼の性質全てが、運命かと思えるほど私と相性が良い。我ながら、彼を受け入れるのに自分ほどの適任がいるのかと思う。

「怖くもなんともないから?」

「そう」

「それはわかるけど、でもなんか、なんかさ」

「考えない、考えない」

 じゃあいいや、という結論を出すことが出来ない彼が、彼のそういうところが正直結構好きでいる。それを可愛らしいと思うことに、彼の見た目が貢献しているのかどうか、自分でもまったく判断できずにいるのだけれど。

「うーむ……」

「それより、私は早速今日の放課後から西高に向かってみようと思うんだけど」

 こちらも学校が終わってから行くことになるので、たとえ彼女の通学ルートを知っていたところで上手いこと会える確率は低いように思うけど、だとしてもとにかく下見の意味でも行ってみなければならない。可能な限りさっさと終わらせたいという気持ちもある。

 そして、あの忠告も忘れていない。

「今回砂切くんの出番はありません」

 えっなんで、と抗議されるだろうなと思っていたのだけれど、彼は私からそう言われるのがわかっていたかのような涼しい顔をしていた。

「依頼人に忠告でもされたの?」

「よくわかりましたね」

「いいけど……」

 彼は私の指示そのものには、一切不満を持っていなかったように思う。けれど、

「僕は絹川さんとの約束ちゃんと覚えてるからね」

 そう言われて、私は少し良心が痛んだような気がした。

 

 

 

 西高から駅までの間。紙切れによる情報のルート内で、一番狭い道を選んで待ち伏せする。なぜ狭い道を選ぶのか、それはもちろん、文面でしか見た目を知らない相手を探すのに、広ければ広いほど見つけられる気がしないからだ。

 当初の予定通り、砂切には今回不参加ということにしてもらった。その際に彼が言った「約束」というのは、私たち二人のルールのことだ。

 ……私は、彼が他の女性に興味を持つことに対しては、一切咎めない。そのかわり彼は、私や家族以外の女性とプライベートで会うのなら、誰と何をするのか正直に話してから向かうこと。そして、彼の「一番」が常に私であること。それがルール、約束だった。

 要するに、浮気がしたければさせてやるから言え、ただし最後はこっちに帰ってこい、という話である。何も一度大きな事件があってこの約束が決められるに至ったとか、そういうことではない。ただ彼がある日、

「絹川さんは浮気ってどこからのことを言うんだと思う……? 手繋いだら……? 一緒に歩いたり喋ったりしてたら……?」

 とびびり散らしていたので、じゃあちゃんとルールを決めましょうと、結構適当に決めたのだ。その時の彼も別に、何かグレーなことを行おうとしていたわけではなくて、将来的に何かの拍子に誤解されて、あるいは認識の齟齬が発覚して、それで私との関係が修復不能になることを恐れていたらしい。それを予感させる出来事があったわけでもないのに、想像というより妄想で、それもかなり真剣に彼が不安そうにしていたのを覚えている。

 けれどそもそもルールを見てもわかる通り、私は、仮に彼が他の女といくところまでいったとしても、それを理由に別れ話をしようという発想には至らない。至れない。それに至るための負の感情が、Nで全てカットされてしまうから。だから彼は何も不安に思う必要なんかなくて、むしろ彼に都合よく感情の半分くらいが欠如した女を捕まえたのだから、世界の誰より安心していればいいのに、どうもそういうわけにはいかないらしい。

 というわけで一応形だけルールが決められたわけだけれども、私はそこに大した意味があるとは思っていない。彼が「約束」と呼ぶあのルールは、彼のための気休めだ。……そう思っていたから、忠告に従ったことに対して、少し後ろめたい気持ちがある。

 彼が何も言っていないということは、それは私から見て、浮気の類に関する不安要素がゼロだという意味のはず。彼のことを疑わない限り、そういうことになる。そして、「疑うこと」と「無駄なリスクを負うこと」は別だと私は考えたけれども、彼は別の考え方をするのかもしれなくて、そうすると私の考え方の方が、なんだかものすごく間違っているような気がしてくる。だからなんだと言えば、それまでの話なのだけれど。

 あなたのことを信用しているから。彼にそう言って、協力を頼めばよかったのだろうか。砂切はあれでも現在「他人の男」である。戦力として見るならおあつらえ向きだ。しかしだからこそ、戦力だとか駒だとか、そういう風に見ることをしたくない。心の中で彼をどこかステータスのように思ってしまうことと、実際の行動として彼を「使って」しまうことは、全然別の話だ。

 しかし、私は間違えたのかもしれない。それが信用を表すことになるなら、もし彼がそれを望んでいるなら、私の「出来ればしたくない」なんていう吹けば飛ぶような思いは、優先するべきでなかったような気がする。来るかもわからず、そして得体の知れない相手を待ち伏せながら、私は選択を誤ったのではないか……という思いが、自分の中で少しずつ大きくなっていくのを自覚していた。

 そしてある時、そんな物が吹き飛ぶくらい意外な、予想外の光景が私の目に映りこんでくる。

「は……?」

 明らかにこちらへ向かって、道の続く先ではなく、私をめがけて歩いてくる男女が一組いた。一方は黒縁の眼鏡をかけた、少々顔色がよくない地味めの女子。そしてもう一方は、どう見ても彼は、砂切流だった。二人は手を繋いでいた。それも恋人繋ぎで。

 唖然として立ち尽くす私に、歩みを早めることなどせずマイペーズを貫いたまま至近距離まで近付き、眼鏡の女は言った。

「こんにちは絹川ヨルさん。阿鳩馬恵菜です」

 彼女の隣で砂切が、万引きかピンポンダッシュがバレた時にでもするんじゃないかという顔をしていた。

「カラオケでも行かない? お金出すから」

 勝ち誇ったような余裕が癇に障る声で言われ、行くけどお金はもらわないと言い切ることだけが、かろうじて私に出来たことだった。

 そうして駅の近くのカラオケに入り、受付を済ませ不完全な防音室に入ると、阿鳩馬は自分以外を椅子に座らせて、

「じゃあ、私ちょっといなくなるので、必要になったら呼んでください」

 と言って出て行ったまま、本当に帰ってこなくなった。

 青ざめる砂切の表情は、人でも殺してきたんじゃないかってところまで悪化していた。

「……砂切くん」

「あのさ、絹川さんあのさ」

 その声は、中学から五年近く付き合ってきてもなお聞いたことのないほど、あわあわと震えていて早口だった。

「今の自分の立場が大体わかるんだけど、でもこういうのって、話せば話すほど嘘に聞こえちゃうというか、でも黙っているのも違うし、本当に僕にできることは本当のことを話すしかないんだけど」

「いや、うん、わかったから落ち着こう。大丈夫だから」

 今の彼はたぶん、土下座しろと言えばするし、反省文を書けと言えば書くし、反省の言葉を映像に残せと言えば残すと思った。彼がしようとしているのは弁明ではなく、まるで命乞いであるように見える。

 それを見た私は、今日の昼休みにそうしてしまったみたいに、吹き出してしまいそうな思いだった。面白おかしかった。ほんの数秒前までの私は、笑いをこらえることになるとは思っていなかったのに。

 さすがに初見の一瞬は驚いたけれど、今はもうその様子を見ているだけでわかる。砂切は、どういうわけか知らないけれど、今回の被害者らしかった。

「今の状況が不慮の事故なのは、その慌てふためきようで十二分に伝わったよ。話しづらかったら食い下がらないけど、どういう経緯でそうなったのかぜひ、ふふっ、聞きたいんだけど……ふふっ」

 全然怒っていないし、その他ネガティブな感情も何一つ抱いていませんよと伝えるために、こっちも自分なりに考えて喋ったのだけれど、その「いつもと違う」様子が逆効果になってしまったらしい。砂切があわあわと何か言いながら、ろくろを回すみたいに手をせわしなく動かすのが面白くて、ついに笑いをこらえることができなくなってしまった。

 なぜ今の状況を事故だと言い切れるのか。それは実のところ、限りなく勘に近いのだけれど、そして私は別に勘が鋭いタイプではないのだけれど、それでもこの勘の正しさを今私は確信している。

 たぶん彼が本当に浮気していてそれがバレたなら、その時はもっともっと激しく、いっそかわいそうになるくらい、言い訳の一言も出ないほど取り乱すような気がする。だから、彼が動揺を一ミリも隠せていない様子でまくし立て始めたということは、たぶん本当に誤解なんだと思う。言ってみれば今さら、私は彼のことを信用していた。

「話したら、信じてくれる……?」

「信じる」

「……じゃあ、あのね」

 ……そして彼の口から語られたのは、阿鳩馬恵菜の恐ろしさだった。

 まず彼女は、焔野霞が私のところへ依頼に来た……という事実を、何かしらの方法で把握していた。口ぶりからするとそれは「私が依頼されたことを知った」のではなく、「焔野が依頼をしに向かったことを知った」らしい。何が違うのかというと、阿鳩馬は何が起こったのかを瞬時に把握しているわけではなく、何が起こるのかを事前にある程度予見していたということになる。

 どういう仕組みでそれが可能だったのかは知らないけれど、結果として、私が彼女を待ち伏せに行こうと思った時には、彼女はむしろこちらへ来ていた……ということらしい。全部今さっき砂切から口伝てで聞いたことだから、他人事みたいな受け止め方になってしまうけれど。

 それで、目的の私とすれ違いになった結果、彼女はまだそのへんにいた砂切に接触を図り、彼を脅して、さっきのような構図で私の前に現れるに至ったらしい。そしてその脅しというのが、焔野霞の持つNについてのことだった。

 彼女のNの名前は「骨拾い同盟(スカルミリオーネ)」。発動条件は対象の人間に「試練」を与え、それを相手が受けること。そしてその試練を突破できなかった者に一度だけ、物理的な不都合を押し付けることが出来る能力……であるらしい。

 つまり今回の試練は「阿鳩馬恵菜に謝罪させること」であり、それに失敗した場合私はその術中にハマってしまって、仮に焔野霞が事故に遭っても、通り魔に刺されても、自殺を試みても、そのダメージ……つまり良ければ病院送り悪ければ死が、私の方へ来ることになってしまう。そしてその「身代わり」状態は、時の流れで解けることはない。

 ……と脅されて、言うことを聞けば形だけ謝ってあげるからとそそのかされた結果、健気にも頑張ってくれた砂切くんは、あのような形で私の前に現れることとなったわけだ。

「もうそうするしかないってその時は思ったんだけど、絹川さんの顔見た瞬間に、あ、やばい、これダメなやつだってなんか直感的に思って、なんかその、理由があるとはいえあれじゃん、そういう手を繋ぐとか、そういうのはこう……」

「わかったわかった、大丈夫だって。ていうかむしろありがとう。私助けてもらってる側じゃん、もっと胸張ってよ」

 いくらそう言ってあげたところで、彼が「それもそうだな、えっへん」となるようなタイプではないことを私はよく知っているので、肌が触れ合うと安心するって話もあった気がするし、とりあえず上書きだと言わんばかりに彼の手を握っておくことにした。やってみてから、なんか手術を控えた子どもを勇気づけるみたいだなと思った。

 とはいえ、いつまでもそうしているわけにはいかない。

「さて、それで、阿鳩馬さんを呼ぶっていうのはどうすればいいんだろう」

 当然の疑問を口にしただけだと思ったのだけれど、なぜか再び砂切の顔色が優れなくなってきた。

「え、どうかした……?」

「いや……」

 小動物みたいになってしまった彼の手からおそるおそる、電話番号が表示された状態のスマホが手渡される。それは確かに彼の私物であり、そこにがっつり顔写真付きで登録されていた番号がつまり、阿鳩馬恵菜の物なのだろう。

 すぐに通話ボタンを押す。四回くらいコールしたあとに、何やらガヤガヤとした場所に繋がった。

「はい、砂切くん? 絹川さん?」

「絹川です。今どこですか?」

「すぐそこのマック」

 ああ確かに道中、というかほぼカラオケの隣にあったなぁと呑気なことを思う程度には、私は余裕を取り戻していた。

「来れますか?」

「ん、了解。すぐ行くから待ってて」

 それから「一曲くらい歌っとけば……?」「えっ、今……?」みたいなやりとりをしつつ五分くらい待っていると、阿鳩馬恵菜がシェイクを持ってお出ましになった。それもシェイクは人数分。一人でここまで三つ持ってくるのは明らかにちょっと苦しそうだった。

 そしておそらく彼女にとっての「失敗」となった私たち二人を見て、彼女はわざとらしく、あるいはあざとく、「ちぇ」とほんの少し不満の声をもらす。

「謝ればいいんだっけ?」

「あー、まあ、はい」

「じゃあ砂切くん、ごめんだけどちょーっと席外してもらえるかな……?」

 あんまり見られたくないから。そう彼女が言うと、まあそうするしかないので、砂切はいったん外へ出た。何も悪いことしていないのに、バケツのかわりにシェイクを持って廊下に立たされているようなものだ、かわいそうに。

「それじゃさっさとやっちゃお。ほらスマホ出して、撮影撮影」

「ああ、はい」

 カメラを構えて画面越しに彼女を見て、ようやく思うことがあった。

 砂切がいいように踊らされてしまったのは、そもそも私が仕事でもないのに依頼を受けたのが原因なこともあって、阿鳩馬恵菜だけを恨む気にはなりきれない。すると私は、それほどのことは何もされていないのに、彼女の謝罪を一番間近で見ることになる。それはひどく違和感のあることだった。

 そしてもう一つ、無駄な争いを起こす気はないので、これは絶対に口に出さないけれど。直接見てもカメラ越しに見ても、阿鳩馬恵菜というその女が、どうしてそんなに男をたぶらかせるのか、いまいち納得できない自分がいる。

「撮り始める時言ってね」

「あ、じゃあ行きますね。はい撮りまーす」

 カラオケルームに用意されたモニターからは何かの宣伝映像が流れていた。今撮っている録画データを見れば、誰もがここがカラオケだと理解できるだろう。

 ぴこんと録画開始の音がなった瞬間、彼女はその場に正座した。あわててスマホの角度を合わせる。

「今までのこと、全部。……本当にすみませんでした」

 カメラの方を見つめてから、何のためらいもなく土下座をした彼女に、私は「あっ」とか「えっ」とか意味のない声を発しそうになる。ギリギリそれを思いとどまった。

 そして何秒が経過してしまったのか。自分が録画を停止しない限り彼女は頭を上げないのだと気付くのに、私は少し時間を要してしまった。

「あっ、あの、終わりました。撮れました」

「ん」

 つまらなさそうな顔をしてスッと立ち上がった彼女の表情からは、もはや少しの反省も感じられなかった。スイッチを切り替えるみたいに、謝罪モードは「はい、おしまい」だ。

 しかし私は、いじめには加担しないという自分の言葉を思い出している。そして「じゃあいいや」と割り切ることのできない砂切のことも。

「それじゃあわたしはもう帰っていいかな。別に忙しくはないけど」

 言いながら彼女は財布を取り出し、明らかに一人分ではない金額をテーブルの上に置いて行く。呼び止めなければ本当にこのまま立ち去って、二度と会うことはないだろうと確信できた。

「忙しくないなら」

 そして呼び止めれば、必ずここに留まってくれるだろうとも確信していた。

「ちょっと聞きたいことがあるんです」

「いいよ」

 ストンと落下するみたいに椅子に座った彼女は、テーブルの上に置いていたシェイクの容器を持って、一口強く吸うと、不満そうな顔で容器を揺らすように降って、それをテーブルの上に戻した。

「何が聞きたいの?」

 買ってもらってしまったものは仕方ないので、私も座り、自分の分のシェイクを一口飲む。バニラ味だった。

「砂切に話したこと、どこまで本当なんですか?」

 あはは、と彼女は笑う。邪悪さの欠片もない普通の女子の声なのに、なんとなく悪役の笑い方だと思った。

「焔野が私のことをあなたにチクるって知ってたのは本当。彼女のNのくだりは全部嘘」

「……はぁ」

 ドッとため息を吐く。そんなことだろうと思った。

 焔野さんの目にともった復讐の炎を私は確かに見たのだ。あれが他人を上手いこと罠にはめて、保険とも呼べる身代わりになる人間を作ってやろうなんて、そんな狡猾なことを企む人間がする目とは思えなかった。

「かわいかったね砂切くん、本当に女の子みたいでびっくりしちゃった。常にあたふたしててかわいいし。ちょっと気に入っちゃった」

「それはどうも」

 揺さぶりをかけるというか、過激な言い方をするなら喧嘩を売ってきているんだろうなと理解できたけど、それを買う気はなかった。

「絹川さんは、彼氏が他の女と手を繋いでても嫌じゃないの?」

 お返しとばかりに問いかけられた。

「そういう感覚がないんですよ」

 見栄をはった。嫌ではないというのは嘘じゃないけど、驚かされたのは事実だ。そして彼女の方はといえば、元々私の答えを知っていたかのように、退屈そうにしていた。

「そういうNだから?」

「……何でも知ってるんですね」

「情報には自信あるよー。あ、ねぇそれ一口くれない?」

 私がストローに口をつけるのを見て彼女がそう言ったので、元々私は一円も出していないし、全部あげるくらいの勢いで容器ごと渡したつもりだった。

 彼女はストローをつまんで私の腕の高さだけ調節すると、そのまま一口飲んで「ありがと」と言った。砂切が同じことをしたらまた別の感想になるんだろうけど、彼女にやられると何か、タバコに火をつけてあげたような気分になる。

「でも「怒り」はあるって聞いてたのに。それも出なかった?」

「出ませんでしたね」

「ふーん……」

 心底、本当に心底、彼女はすでに私への興味を失っているようだった。

「まぁしょうがないか。それじゃあお幸せにね! お金置いてくから時間まで好きに歌っときな」

 阿鳩馬恵菜はおもむろに立ち上がり、今度こそこの部屋を立ち去ろうとする。今度は呼び止めても聞いてくれない気がした。

 部屋を出ていく彼女の背中に最後の質問を投げつける。

「なんで何でもかんでも奢ろうとするんですか……!」

「先輩だからー」

 金を握りしめ走っていって突き返すわけにもいかず、先輩が置いていった三人分の料金より少し多い金額は、空になった彼女のシェイク容器と共にテーブルへ放置されてしまった。

 そして先輩が開いたドアが閉まるより早く、私が再びドアを押して外に出ると、手持無沙汰そうにシェイクを揺らしていた砂切と目が合った。

「待たせてごめん」

「ううん」

 そうは言うものの、その時の彼を見て私が思い出したのは、スーパーの自転車置き場に繋がれた心細そうな犬だった。

「あの人三人分のお金置いて行ったんだけど、どうする? 歌っていく?」

「え、ど、どうする?」

「よし歌おう」

 彼の手を引いて部屋に戻る。そしてこれも、彼にとっては気休めにしかならないのかもしれないけど、ドアを閉めると同時にキスをした。意図的に唐突にそうした。すると突然唇を塞がれた彼が、離れたあとになっても面白い顔をしているので、それをからかった。、

 カラオケは採点ありで歌って、帰りに二人でハンバーガーとポテトを食べてから帰った。駅に向かう頃には彼に笑顔が戻っていたので、全ては丸く収まったのだ。

 

 

 

 

 言おうかどうか迷ったけれど、彼がいつまでも焔野さんを危険人物としてマークしてしまうのもアレなので、帰りの電車で全部話した。

「ネタバラシされたんだけどさ、「骨拾い同盟(スカルミリオーネ)」なんてNは存在しないって」

「えっ」

「何でかは知らないけど、なんかあの人、男女の仲を引き裂くことが趣味なんじゃない? 砂切くんまんまと騙されてしまいましたねー」

 からかうつもりでそんな風におちょくったところ、何やら彼がまた深刻そうな顔をし始めるから、ここまできて墓穴でも掘ったかと、私の方も苦笑を浮かべたまま固まってしまう。

「え、どうしたの。ごめんね……?」

「あ、いや違う違う。騙されたのはなんか、あーマジかーって感じ」

「じゃあ、何か他のこと?」

「いや、うーん、なんというか……。ちょっとここでは話しづらいから、帰ったらラインするよ」

「そう……?」

 それからお互い帰路について、家で夕飯があまり食べられずハンバーガーを食べてきたことがバレた結果ちょっぴり怒られたりして。日も沈んで夜が訪れて、下手したら電車の中での会話を忘れてしまいそうだった頃に、彼からメッセージが入った。

「電車の中で言ってたことだけど。絹川さんのところに行くまでの道中、阿鳩馬さんの身の上話を聞かされたから、そのことについて」

「というと?」

 そこからしばらく、送られてくる長文に既読をつけて読み進めるだけの時間が続く。そして全てを読み終えたあとに、おそらくは電車の中で砂切が抱いたような、何とも言えない気持ちを私も共有することとなった。

 阿鳩馬恵菜。彼女の初体験は小学校を卒業するよりもずっと早くの出来事で、相手は父親だった。その日以来、彼女はずっと父親の相手をさせられた。

 中学を卒業するより前に、彼女に「自分に触れられなくする能力」が発現した。それによって虐待は終わりを告げたが、それから間もなく、彼女の父親はレイプ犯として逮捕された。

 彼女にとって最もショックだったのは、それによって父親の性行為の相手が「誰でもよかった」ことを知ったことだった。父が最後に強姦した相手は大人の女性であり、つまりあの父親は相手が「幼い子供」でなければいけなかったわけでもなく、「実の娘」がよかったわけでもなく、もちろん「阿鳩馬恵菜」を選んでいたわけでもなかったことを知った。

 単なる女の一人として、「誰でもいい女」の一人として、ずっと自分にあんなことをしていたのだと思うと、それが許せなかった。しかしそれが虐待によるストレスで歪んだ思考なのか、本当に心の底からそう思っているのか、本人にもわからない。

 ただハッキリしているのは、この世に五万といる恋人たちは皆、自分だけが選ばれたと思っていること。所詮男というのはヤれさえすれば相手なんか誰でもいいのに、自分が「あなたがいい」と選ばれたなんて勘違いしている。そんな勘違いをした馬鹿なやつらが、何もわかってないようなやつらが、我が物顔で世にのさばっていることが許せない。あの父親よりもっとずっと憎たらしい。本当のことを教えてやらなきゃいけない。……それが、彼女が人の彼氏ばかり狙ってたぶらかす理由だった。

 ……という話がスマホの中に文面として並べられてきた。そして最後に砂切から送られてきた一文が、頭を抱えるような気持ちにさせる。彼も同じ気持ちなのだろう。

「この話も全部嘘なのかな……?」

 正直なところ、その言葉に対する私の答えは、「知らないよ」しかない。阿鳩馬恵菜は、彼女は人を脅すために平然と嘘を吐くけれど、彼女の言うこと全部が嘘だったわけじゃない。情報に自信があると言っていたのは本当だろう。そうでなければ話が通らない。そして「触れられない能力」があると言われれば、それは彼女の評判にすごくしっくり来る物のように思えた。

 複数の相手と関係を持つようなことを、それも他人の彼氏を奪うようなことばかりを続けていたら、命がいくつあっても足りないんじゃないかとは私も考えていた。復讐なんか焔野さんが私に頼らなくたって、過激派と呼ぶべき誰かが同盟とやらに一人でもいれば、とっくの昔に暴力で執行されていたんじゃないかとも思っていた。触れられない能力があるとなったら、その全てに説明がつく。

 たぶらかした男の中に情報力に長けた者がいれば、それがそのまま彼女の物になることもあって(砂切から情報をもらう私もそれに似ている)、彼女自身が何か情報に関するNを持っているというよりは、自分の身の安全を確保するNを持っていた方がむしろ状況的に自然に思える。どうせ嘘だろうと言うには、そこを含めてあまりにも話がそれっぽすぎるのだ。

 問題は、彼女がなぜそれを砂切に話したのかということ。彼女が砂切のことをどれだけ知っていたのかはわからないけれど、そうは言っても初対面である。痛みのわからない私では、もしこの話が本当だとしたら、彼女の気持ちの一滴も理解できないけれど、しかしどうなんだ、話すものなのか。会って数分しか経たない初対面の相手に、そういうことを話すものなのか……?

 悪意をもって解釈するなら、その話も全て男を……というか、砂切をたぶらかすための物だったんじゃはないかという見方もできる。彼はそんな話をされて「ふーんそうなんだ、頑張ってね」と言えるやつじゃない。同情と性行為、砂切をたぶらかすにあたってそれは、かなりおあつらえ向きではないの……?

 どちらの考えが正解なのかはわからない。けれど私は、騙されてありもしない話に同情するのも、賢いフリをしようとして外道になるのも御免被る。

「わからない。でも、わからなくていいでしょ。あの人にはもう会わないよ」

 断言できないことには言及しない。それに越したことはないはず。そろそろいい時間帯なので、私は眠ることにした。

「とりあえず私は寝ます。おやすみ」

 布団の中で最後にそう送ってラインを閉じる。すると「ギャラリー」が目に入り、逆らい難い何かを感じて、私はその中を見た。そして、カラオケで撮ったあの録画を再生する。……すると私はようやく思い出した。長文を読んで、あれこれと理屈で考えるうちに、自分が今日したことを忘れていたらしいことを。

 彼女の話を嘘と断言しないこと。そんな上っ面の気遣いなんて、とっくに手遅れなのかもしれない。砂切の聞いた話は嘘なのだろうか、という疑いについて、私の立ち位置は今度こそ本当に決まった。 

 嘘かどうかはわからない。でも、嘘であってほしい。私は彼女に、阿鳩馬恵菜に、何の恨みもない。彼女は悪意を持って私に接触したのかもしれないけれど、他の人たちはその悪意に人生を狂わせられたのかもしれないけれど、だとしても私は彼女を恨む理由がない。

 私が彼女の悪意から受けた影響なんて、バニラシェイクとカラオケの料金に比べれば取るに足らないほどの、本当にそれくらい小さな物でしかなかった。

 

「……本当にすみませんでした」

 

 そんな声が耳から離れなくなっても、その動画を削除する勇気が、どうしても私には湧かなかった。私へ依頼しに来た焔野さんの目に宿っていた、あの復讐の炎は、それは疑う余地もなく本物だったから。

 

 

 

 

 次の日の放課後、部室には私と焔野さんが向かい合って座っていた。

「まず報告です。阿鳩馬さんに謝罪してもらうことには、成功しました」

「えっ」

 本当に、一切期待していないダメ元だったのだろう。何かしら行動せずにはいられなかった結果の、八つ当たりみたいな依頼だったのだと思う。信じられない……と彼女は表情で表すだけではなく、聞き取れない小さな声で、ボソッと何か一言言っていた。

「映像があります」

「ならそれは、もちろん見せてくれるんでしょ?」

「……何事もなければ」

「どういう意味……?」

 火の粉が飛んだような気がした。もちろん比喩として。

「二つ聞きたいことがあります。それを聞いて何事もなければ、映像はデータごと渡します」

「そう、聞きたいことって?」

「焔野さんのNを教えてもらえませんか」

 一つ、思い当たった説がある。阿鳩馬先輩は「焔野のNの件は嘘だ」と言った。それを聞いた私はやはりと思ったけれども、しかしもしも私の勘が外れていて、身代わりを作るNが実在していたら?

 この説に思い当たらなければ、阿鳩馬先輩をひどい嘘つきだと信じた私は、何の迷いもなく焔野さんに映像を渡しただろう。そうすれば「試練」は乗り越えられることになる。そして仮に阿鳩馬先輩が砂切をたぶらかすために作り話をしていたとしても、その話を彼が私に知らせるところまでは想定していなかった可能性がある。

 たぶらかすことが成功していれば、同情した砂切は私に知らせるどころか、易々と言いふらすようなことはするまいと気を付けるようになったはず。もしも阿鳩馬さんが本気で彼をたぶらかすつもりだったなら、百戦錬磨らしき彼女は、失敗した時のことを考えたていたのだろうか……?

 彼女が自らネタバラシしたわけじゃない。私が「どこまで本当か」と聞いたから、それっぽく納得しそうなことを言ってはぐらかして、それで誰も困らないような状況に持って行った可能性は? 彼女は、たぶん間違いなく悪人なんだろうけど、しかし少なくとも私にとって外道ではなかった。そもそも焔野さんが私のところへ来たところを知ったからって、どうして向こうから出向いてきた?

 形だけと言っていた彼女が這いつくばって謝罪する様子を、敵意の塊のような相手に渡されること以外、誰も困らないような状況を作った可能性は、絶対に無いと言い切れるのか。まずはその可能性から潰す必要があった。

「N? どうして?」

「どうしてもです。教えてもらえなければ、映像は」

「はっ」

 明らかに侮蔑の意味を持って吐き出された笑いだった。

「そう、要するに、何か吹き込まれたんだ?」

「まぁ……」

「わかった、ついてきて」

 焔野さんは席を立ち、一度も振り返らず早足で廊下に出ていく。慌てて追いかけると、彼女が向かったのは流しだった。生徒はほとんど部活に出るか帰宅してしまって、今のところ廊下には誰もいない。

「誰にもチクらないでよ」

 そう言って彼女は蛇口を捻った。たちまち細い水流が流しを這うようにして排水溝へ向かっていく。……そしてその水流の中で、何かが動いた。よく目を凝らしてそれを見る。それはせわしなく動き回っていた。

 水流の中に、魚がいた。鉛筆のキャップくらい小さな魚が、厚みのない水の中を泳いでいる。それもよく見ると、その魚の尾びれはホタルのように光っていた。……いや、少し違う。ホタルとは色が違う。もっとオレンジ色か、赤色の、炎みたいな色を……。

「うわっ」

 突然、流したオイルにマッチを投げ入れたみたいに、流しの中をぼわぁっと炎の線が走った。その小さな炎の川の中を、尻尾だけ光らせた魚が元気に跳ねながら泳ぎ回っている。

「これがわたしのN、水を炎に変える魚、「炎尾魚(エンビギョ)」。……もういい?」

「あ、はい」

 私の返事を聞くが早いか、蛇口がさらに大きくひねられる。流しにぶつかって弾けるような勢いで、白い水流が解き放たれた。おいっ、と思った時には、小さな炎の川は、後から来た水道水の激流に全て消されてしまっていた。魚の姿はもうどこにも見えない。

「火なんか起こしてるところ見られたら怒られるから」

「ああ、そうですよね。すみません」

「で、もう一つの質問は?」

 ……ぺちっ……ぺちっ……と、液体が石を叩く音がする。固い流しに落ちる水滴の音がよく聞こえるくらいここは静かで、部活動の声も今はほとんど届いてこないようだった。

「もう一つは、…………もう一つは、阿鳩馬恵菜の過去のことです」

「ああ」

 察することがあったらしく、ついて来いと背中で言いながら、彼女は部室へ戻っていった。二人で椅子に座り直すと、彼女の方から続きを言う。

「父親がレイプで捕まった話?」

 この焔野という人は不思議な人だな、と思った。誠意のこもっていない形だけの物だとわかっていても、復讐の対象が謝罪している様子を見なければ気が済まないような末期の復讐者なのに、話題を察するや否や無人の廊下から、わざわざよりプライベートに近いこの教室に帰ってきた。なんとなく、昔は今と違う人だったんじゃないかなと考えてしまう。もちろん良い意味で。

「本当なんですね、その話」

「そう、本当。あの女と中学が同じだった友達がいるんだけど、やっぱりそういう話は隠し切れないんでしょう。今では一部で有名な話よ」

「じゃあ、彼女がその父親に、なんというか」

「なに?」

「そういうことをされてたって話も、本当なんですか」

「そういうこと……?」

 首をかしげる焔野さんを見て、私も首をかしげた。阿鳩馬先輩がなぜかあらゆる情報を持っていて私の存在をかぎつけたように、焔野さんが言うところの「同盟」も同じくらい、気味が悪いほど豊富な情報を持っているのだとばかり思っていたけれど、違ったのだろうか。

「また何か吹き込まれたみたいね」

「そう……なんですかね?」

「あの女の負い目みたいな話なら、聞き逃すわけがない。わたしだけならともかく、誰も聞いたことがないんだから、つまり実際なんにもないの」

「そうですか……」

 二色の絵の具を同じ場所に絞り出してぐちゃぐちゃ掻き混ぜるみたいに、私の頭の中で何かがわけのわからない様子になっていく。情報が、良心が、猜疑心が、依頼に対する誠意が、いろいろな物が放り込まれて、全部ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。

 嘘を吐く時は本当のことを混ぜた方がいい……という話は、今の場合、どちら側に適用すればいいのだろう。間違いないのは、誰かが嘘を吐いているということだけ。それ以外に確かなことは何もない。

「というか」

 私が頭の中を整理するより先に、彼女が言った。

「仮にあの女が、例えば父親の玩具にされてたとして、それが何? そういう過去があれば、人の男をたぶらかしてもいいの?」

 まずい、と直感する。炎を生み出すNなんかなくたって、彼女の目の中の炎が、ついに私に触れたように思えた。

「あの女のNなら知ってる、そう、触れられない能力でしょう? そのNはつらい過去が原因で生まれたものだと言われて、あなたはそれに同情して、それでそう、彼女の味方をするの?」

「……もし阿鳩馬恵菜の過去に、我々が想像するのと同じものがあったら、どうしますか」

「どうするって、知ったことじゃないでしょう。もちろん彼女がまともな人間だったら、人並みに同情はしただろうけど」

「…………」

 自分は温室育ちなのかもしれないと、初めにこの教室で、依頼の全貌が明らかになり始めた時に思った。今となって私は、「かもしれない」なんてものじゃないってことを理解した。私には、復讐者の気持ちが、本当にわからなかった。それはNのせい? 違う、砂切がいてくれるからだ。

 今この状況での、適切な対応というのが何なのか、私では見当もつかない。けれど私には、阿鳩馬恵菜のことを軽く扱っていいわけではないことと同じくらい、焔野霞の復讐心を軽んじることも許されないように思える。

「ここだけで」

「え?」

「映像を見るのは、ここだけと約束してください。見せるのは焔野さんにだけです。嫌なら、申し訳ないですけどこれは見せられません」

 実際の映像を広めることだけはしない。それが私の出した落としどころだった。誰に相談したわけでも、誰の意見を聞いたわけでもない。自分一人で勝手に決めた、エゴの塊みたいな落としどころ。

「わかった、約束する」

 彼女はそう言って、自分の荷物の中からイヤホンを取り出した。私が例の映像を表示して、あとは再生ボタンを押すだけという状態にしたスマホを渡すと、彼女はそれを机の上に置いて、川の中をのぞき込むみたいに再生ボタン以外一切手を触れずに画面を見た。

 ほんの数秒の間だけ訪れる、私にとっては無音の時間。画面に釘付けになった焔野さんを見ながら、私の彼女へ対する感想は、「不思議な人」から「不気味な人」へと変わっていった。

 阿鳩馬の過去に何があろうと知ったことじゃない、同情の余地無し。そう言い切った彼女が「その話をするなら」と教室に戻ってきたのは、ただ単に妙な話をしているところを誰にも知られたくなかっただけかもしれない。……と考える暇もなく今度は、ここでだけ見せると言ったら、出来るだけスマホに手を触れず「何も怪しいことはしていない」とアピールしてくる。

 焔野霞という人間の、美学とでもいうのだろうか。価値観、基準のようなものが、私にはまるで掴めない。そして「わからない」と自覚したことで、その感覚を受けたのは今が初めてではないことにも気が付いた。

 彼女は、阿鳩馬恵菜に似ている。何を考えているのかわからないところが、ちょっと似ている。焔野さんは「阿鳩馬恵菜がまともな人間だったら同情していた」と言ったけれども、それなら復讐者と化した彼女はまともなのか? ベクトルが違うだけなんじゃないか、そんな疑念のようなものが浮かんでくる。

 阿鳩馬恵菜の不気味なところは三つある。なぜ他人の男を奪うのか、その意図がわからないこと。多くの人から恨みを買っているらしいのに、根っからの悪人という風には見えないこと。そして、平然と嘘を吐くこと。

 彼女が嘘さえ言わなければ、彼女の生い立ちを信じて、それで全てを把握できる。理解はできなくても把握はできる。なのにそれが出来ないから、彼女はひたすら不気味なのだ。……逆に言えば「把握」こそが、その人の見え方を左右するようでもある。

 私が今の今まで焔野さんを不気味だと思わなかったのは、彼女の動機を把握していたから。言い方を変えれば、たったそれだけの、些細な違いなんじゃないのか。私から見えている景色は、フェアな物なのだろうか……。

 焔野さんがイヤホンを外した。

「はぁ……」

「……それでは、依頼は達成したということで」

「疲れた」

「え?」

「そうか、疲れてたんだ……」

 私の目の前で、ふふふ、と笑う。「炎」という印象を抱いたことが嘘だったように、いや、その印象を抱いたからこそか。彼女は抜け殻のようだった。あるいは、燃え尽きたようだった。しかし灰になったわけじゃない。さっきまでそこにあった炎が嘘みたいに、まるでどこかに流されていったような……。

「ありがとう、絹川さん」

「いえ」

「また何かあったら来てもいい?」

 社交辞令のようなことを言いながら、彼女は荷物をまとめて部屋から出ていこうとしていた。

「もちろんです」

「よかった。じゃあ、本当にありがとう」

 背を向けて出ていく彼女から、かつての闘争心のようなものを感じることはなかった。かつてと言っても、たった二日前のこと。私に依頼を伝えに来た彼女は、憎き相手に対する徹底抗戦の意思を全身に纏っていて、それが良いことだとは言えないけれど、でもあの時の彼女は今ほど、傷心の少女のように弱々しくはなかった。

 たとえそちらの方が自然だったとしても、弱った人間を見るのはあまり気分のいいものじゃなかった。元々弱っていたのだとわかっていても同じことだ。

 机の上には、最後まで映像を再生し終えて、静止した画面を映すスマホが置かれている。私はそれを手に取りラインを開いた。昨日の夜砂切におやすみなさいをしてから、今朝のおはようを言う前に、彼から一枚の画像が送られてきていた。メッセージも一つ。私はそれをとっくに既読している。

 その画像とは電話帳のスクショだ。阿鳩馬恵菜の番号は消去しましたよ、という証明だった。朝っぱらからそれを見た時、私は笑ってしまった。弁明しようとすればするほど嘘っぽくなるって話を、忘れてしまうのが早すぎるんじゃないかと。

 どこまでも、どこまでも恵まれている。私は何に復讐することもない、だから弱ってしまうこともない。砂切もきっとそうだろう。私たちは恵まれている。

 ……なぜ阿鳩馬さんはあんなにあっさり、私に形だけの謝罪を見せてくれたのだろう。今さらそんな疑問が浮かぶ。そんな「そもそも」の話が、全て終わったあとにならないと浮かんでこないほど、今回はいろいろなことに振り回されていた。

 形だけの謝罪は、焔野さんや他の人たちが要求しても、一向に受け入れる様子がなかったという話のはずなのに。それも砂切から聞いた話では、彼女の方からこちらへ出向いてきてくれたなんて、それじゃ明らかにおかしい。焔野さんの話す阿鳩馬恵菜の像にあまりにもそぐわない。

 まるで私が助けられたみたいだ。自分を中心とする憎しみの渦にうっかり首を突っ込んでしまった部外者を、わざわざ助けに来てくれたみたいじゃないか。しかしそうだとしたら、そのついでに砂切にあそこまでちょっかいをかけていったのか……? この考え方では、どうも人物像が噛み合わない気がする。

 散らばる点がまったく繋がらない。ミッシングリンクは依然闇の中。誰が嘘つきだったのかもわからない。得たものといえば、こんな世界が自分のすぐ傍に広がっているんだという教訓くらいのもの。

 そしてある一つの言葉が、妙に頭の中に残っている。へばりつくみたいにしつこく残って、忘れられない。

 

「選ばれたなんて勘違いをしている」

 

 彼女の生い立ちがどんな物であったとしても、幸せに生きてきた人間がそんな言葉を使えるだろうか。たとえ作り話の台詞でしかなくても、幸せの中にいる人間がそんな言葉を思いつくだろうか。

 ふと、そんな話を突然聞かされた砂切は、いったいどんなリアクションを見せたんだろうかと気になった。もっと言うなら、もしも私が同じような話をしたら、彼はどんな反応をしてくれるんだろうと想像した。

 ……痴漢の話をしていた時のことを思い出して、その手の話で対応の是非を試すような真似をしては彼がかわいそうだ、という結論に達する。けれどそのおかげで、たとえ私が唯一無二として選ばれたわけじゃなくても、少なくとも事実として、砂切流には絹川ヨルがお似合いだと思えた。

 

 




 N紹介。

・「表面的(トペイン)
所持……絹川(きぬかわ)ヨル
能力……心身ともに苦痛がカットされて感じなくなる能力。ただし「怒り」だけは本人が苦痛と感じないためカットされない。しかしそれによって、「どこまでが怒りなのか」の線引きが明確化できない以上、心の苦痛は完全なカットが出来ないままとなっている。


・「独立した悪夢(メイデントークン)
所持者……砂切流(すなきり・ながれ)
能力……ある金属生命体とテレパシーで会話する能力。使役しているように見えるのは能力ではなくコミュニケーションの結果。金属生命体がどこから来たのか、なぜ彼のもとへやってきたのかは不明。


・「炎尾魚(フィレ・オ・フィッシュ)
所持者……焔野霞(ほむらの・かすみ)
能力……水を炎に変える魚を召還、使役する能力。召喚された魚は尾びれが燃えているが、これが何かに引火することはない。このNが初めて発現した時は、マックでハンバーガーを食べていたという話を、彼女は誰にも話さない。ダサいと思ってるから。同じ理由で彼女は大抵このNのことを「エンビギョ」と呼ぶ。


・「展示物(スケアクロウ)
所持者……阿鳩馬恵菜(あはとま・えな)
能力……対象を自分に触れられなくさせる能力。対象にするものは生き物でも無機物でも、任意でいくつでも選択できる、発動と解除も自由。発動したものに対してはすり抜けるのではなく、見えない壁が隔てるような状態となることで「触れられない」が成立する。


※一本目の話である「ハズレを見つける目」にもN紹介を付け加えました。
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