自分の部屋で正座する。透明人間と対面しているみたいに、正面に一見余計な間を空けて。
自然と背筋が伸びる。意識しなくても息が深くなる。私は、自分でも気味が悪くなるくらい冷静に、スマホのカメラを正面に、つまり何もない壁に向けた。
「どうですか」
通話を繋げている相手から、私みたいな人間にさえ顔色をうかがって生きていそうな、この世で一番気の弱そうな女性の声で答えが返ってくる。
「やってみるね」
……手を伸ばしてもまだ少し届かない、ちょうど良く離れた距離。スマホのカメラで映していた私の目の前、余分に空けておいたスペーズで変化が起こった。
空間が、黄色く縦に裂ける。電気的な光の黄色で、空中に一本線が入ったかと思うと、それは伸縮するような見栄えで円形に広がった。その円の向こう側、黄色い光を丸い額縁とした、裂けた空間の先に、どこか別の部屋の白い壁が映し出されている。
空間を繋げる能力。通話相手から聞いていた通りの能力だった。
「出来た」
喜びや達成感というよりは安堵の色が強い声。その声の主が、向こうの部屋の壁を遮る形で、裂け目を介して私と向かい合い座った。向こうも正座をしていて、首から上はちょうど、裂け目による額縁の外にあって、口元さえ見えることはない。たぶんお互いにそうだ。
「こ、こんにちは」
彼女が、胸元で控えめに手を振っているのが見えた。
「こんにちは」
ネットでやりとりをしてきた仲とはいえ、通話だって何度もしてきた仲とはいえ、こうして物理的に直接対面すると、妙な初対面感がある。年上なのにおどおどした振る舞いをする彼女の気持ちが、私もきっとよくわかる。立場が逆だったとしても、私だって堂々とはしていられない。
だからなおさら、私は中学生の身分として、この状況に緊張しない方がおかしいと言える。
「それじゃ、えっと、約束の物だけど」
そう言って彼女は、抜き身のナイフの、刃の側面を摘まんで、ハサミでも貸すみたいにひょいとこちらへ向けた。光の額縁を白く細い腕が通り抜けて、「こちら側」へ入って来る。その腕を見た私は、強く握りしめたら折れてしまいそうだと感じた。
そして同性の私から見ても、それがいわゆる「魅力」であることを理解できてしまった。綺麗だな、と思ってしまった。
ふぅっと息を吐いて、努めて、余計なことは考えないようにする。
「ありがとうございます」
ナイフの柄を掴んで受け取る。彼女の腕は、逃げるみたいにすぐ引っ込んでいった。なので私は、約束通りの金額をこぶしの中に入れて、それを空間の裂け目にずいっと差し出す。
聞いた話では、この空間の裂け目は、開いた本人以外の生物が通過出来ないようになっているらしい。私がその円の中に腕を通せば、通した部分は一瞬で目に見えないほど細かく、バラバラにされて消えてしまうとか。
「……本当にいいの?」
私では入れない向こう側から、すぐには腕が伸びてこなかった。
「大丈夫だよ、別に。あげるよ」
相手は、大人だ。私から金を受け取ること自体に抵抗があってもおかしくない。けれどこれはケジメだ。
「いいんです。私は正しいことをしますから。今はお金を払うことが正しいことなんです」
こぶしを差し出したままそう伝える。折れてしまいそうな白い腕は、顰蹙の中をかいくぐるようにして伸びてきた。
開かれた手のひらに、こぶしの中の金銭を渡す。それを掴んで、彼女はやっぱり、逃げるみたいにその手を引っ込めた。
「……ごめん、ありがとう」
彼女がお金に困っていることを知っていたので、感謝の言葉を向けられると正しいことどころか、むしろ善行を積んだような気持ちになってしまう。ギブ&テイク以上のことはここにないのに。
手元のナイフを眺める。これといって特徴のない、普通のナイフに見える。ついでに、私の腕は彼女のそれと違って、醜い切り傷だらけであることも再確認した。浅い物から深い物まで、自分で付けた傷が無数の跡となって残っている。
それを見ると、あいつらの顔が思い浮かぶ。笑った顔が世界一醜い、あいつらの顔。
「あの、鞘峰さんのことを、信用してないわけじゃないんですけど」
「うん」
「これ、本当にそういう能力の物なんですよね……?」
鞘峰と名乗る彼女のNは、空間を繋ぐだけの物じゃない。空間を繋ぐことも、出来る物だ。
彼女のNは、様々な能力を持った「剣」を作る能力。空間を繋ぐことは、その一例になっている。そして約束通り受け取ったこのナイフもまた、特殊な能力を持っている……はず。
信用していないわけでは断じてないけれど、私は、絶対に失敗が許されないのだ。人間、追い込まれると心が醜くなってしまうのは、私も否定出来そうにない。
「試してみていいよ」
そう言って
「えっ……」
試していい。そう言われてすぐにそれを実行できるほど、私は逸脱していない。まともなままでは、試すだなんてそんなこと、出来るわけがない。
「あ、いや、試さなくてもいいけど。でもそれ以外、証明できないでしょ……?」
露骨に顔色をうかがう声音。鞘峰さんのそんな声を聞くたび私は、自分に嫌気が差す。同族嫌悪なのかもしれない。彼女の声を、振る舞いを、「いじめられそう」と直感的に見てしまうのが、我ながら心底嫌だった。
けれど理解に苦しむのは、何でもないように差し出されたその腕だ。恐怖の類の感情が、そこからはまったく感じられない。痛みを知らないみたいに、弱々しい彼女の全てと相反して、その腕は淡々と私に差し出されている。
私は、ナイフを持って、その細い腕に刃を当てた。当てたまま、ほんの少しも動かさないように気を遣って。
「鞘峰さんがやってください。人のは切ったことないので、万が一があります」
差し出された腕はそのままに、彼女の腕のもう片方が手首までだけ、裂け目からこちら側へ来る。はっとするほど冷たい、繊細そうな指が、私の手を優しく包み込む。本当に優しく、弱った小鳥にそうするみたいに。
その指に力がこもったことを敏感に感じ取って、私は思わず、刃から目をそらした。
「…………?」
しかしそこから、お互い微動だにすることがなかった。なんだろうと思って、刃をもう一度見た時、
「……本番の時、ちゃんと出来る?」
そう問われた。たったそれだけ。そんな一言だけで私は、カッ……と、頭に血が上ったことを自覚した。その言葉は、今の私にピンポイントだった。
「出来ますよ。それとこれとは別です。……今だって、万が一があってもいいなら、やりますけど」
自分の腕の、一番深い傷を見ながら言った。
「いいよ、やってみて」
何の躊躇もなくそう返事を寄越されて、彼女の指が、ナイフを握る私の手から離れた時。今まで自分にしてきたみたいに、私は迷わず刃を引いた。今、今という時に限って私は、私を根性なし呼ばわりされることが心外だった。
ぷつぷつと、縫い目の間を抜け出すみたいに湧いてくる小さな赤。それが彼女の白い肌の上で、大きな一滴の塊となる。その一滴は一筋の線になり、重力通りに腕を伝っていった。
見慣れたはずの光景が、なんというかそう……背徳的に見えた。
「うん、これで大丈夫。やってみて」
合意の上とはいえ切りつけられたというのに、彼女の声音はその弱々しさに反して、まるで少しの揺らぎも感じられない。
受け取ったナイフの能力は、切りつけた相手と自分のダメージを共有する物……と聞いている。切りつけるより以前のダメージは引き継がれず、切りつけた後二十四時間の間に受けるダメージが、全て共有される。
だからそう、今私が自分を傷つければ、彼女にも……ということになる。そして、試してみてもいい、そう言われていたから、今さら躊躇することもなく、私は私の腕を切った。
「……疑ってすみません」
「ううん、いいんだよ。むしろその方が正しいよ」
何も触れていないはずの彼女の腕に、二本目の切り傷が出来たのを見て、私は確認を終えた。……人を疑うことによって生じる傷があるのなら、それを可視化したような赤い二本線だった。
もっと違う形で、普通の友達として会いたかった。誰かに対してそんなことを思ったのは、この日が初めてだった。
相談屋、なんでも依頼引き受けます!
……なんていう文句を謳っていたら、それは致し方なく、困った人が来る場合も当然ある。「(一人の高校生に可能な範囲の相談でお願いします)」という言葉を添えたところで、そんなものに大した意味、効力はないのだ。
「そこをなんとか……」
両手のしわとしわを合わせて、祈るように頭を下げる男のことを、たぶん私は、恐ろしく冷たい目で見ていたように思う。
「いや、ダメなんですって。わかるでしょう……? 私は闇の業者じゃないんですよ」
絹川ヨル、相談屋の部長……と言っても他の部員は、助手兼彼氏の砂切流だけ。そんな私は今もしかすると、人生のうち何度か訪れる類の、かなり洒落にならないピンチに対面しているかもしれません。
目の前の男が、いったい何を相談しに来ているのかというと、いわゆるこう、つまり、言ってしまうと、「ヤらせてほしい」ってやつだった。何でも相談を受け付けるという、「何でも」をそのまま受け取った、ある意味純粋な人が、ここに。依頼人の彼と、部長の私は、この部室という名の、何の変哲もない教室に二人きりだ。
「そこをなんとか……!」
「いや、なんとかではなくて。気持ちの問題ではなくてですね、ここで「いいよ」と言ってしまうと、最悪この部活が消えてしまうんですよ」
相談屋というのは、実際のところもしかすると部活ではないのかもしれない。部費の概念はなく、実施の有無が部長である私に一任されている「コレ」は、もはや部活ではないと糾弾されれば返す言葉もない。
けれどもこれを部活と呼び、部室として空き教室が(少なくとも空いている間は)私に貸し出されているのは、それは私が何も問題を起こしていないからこその「温情」で成り立っていることだ。Nにより個人個人の「個性」の概念が多様化した現代には、こういう温情だって運が良ければ実在し得る。
しかしそこで、私がこんな依頼を受けて、万が一それが大人にバレたら、それでもうおしまいになってしまう。それを言うなら阿鳩馬恵菜の件だって限りなく黒に近いグレーなのだけれど、だからこそ余計なリスクを負うわけにはいかない。
喧嘩の仲裁をしたのであって、土下座を強要したわけではない。何かあった時そう言い張るためにも、そして阿鳩馬恵菜を取り巻く世界へこれ以上不用意に踏み込まないためにも、あの録画映像はとっくの昔に消去した。目の前の男も、少なくともこの部室からは消去、もとい退去させざるを得ない。
「そこを、そこをなんとか……!」
「壊れたラジオみたいになってもダメな物はダメなんですって……。本当に、いい加減にしてもらえないと人を呼びますよ」
「えっ……」
学校の生徒同士のやり取りにおいて、人を呼ぶぞという脅しは「警察呼びますよ」に等しい威力を持つ。けれど忘れてはいけない。警察にせよ教師にせよ友人にせよ、呼んだ相手がこの場に来てくれるまでは、自分が無力だということを。
この教室の、出入り口のドアに付いた窓は擦りガラス。その反対側、校庭が見える側の窓は今、カーテンが閉め切られている。防音性はスッカスカなことが唯一の救いかもしれない。しかし極論を言うなら、依頼とも呼び難い依頼を持ってきた彼は今、その後の人生を棒に振ることと引き換えに、ある程度なんだって出来るのかもしれない。
私のNは自分の内面を守るばかりで、出来事そのものを止める力はない。物理的な意味では身を守る力さえない。例えば彼が「声」や「音」を奪う能力の持ち主なら、万が一の際順当にいけば私は、砂切になんて言い訳をするか考えるはめになる。
まさかね、とは思うものの、相手が高校生にもなって何を考えているのかわからないので、自然と私の目つきはいつにも増して鋭くなっていっただろう。
「いや、人を呼ぶのは、ちょっと」
「でしょう? なので悪いとは思いますが、お引き取りしてもらうということで……」
「……わかりました」
がっかり……と、全身のオーラでその落胆を叫びながら、彼は何もせずこの場を出て行った。
……自分が相手をしているのが本物の狂人だったらどうしようと、ちょっと真剣に考えてみたりはしたけれど、まあ実際はこうなる。普通はそうだ。誰しも犯罪者にはなりたくない、というのもあるけれど、現代においてはまた少し違う意味があったりもする。
教室の中に貼り出されるわけでもあるまいし、私たちはみんな他人のNについてほとんど知らない。どうやら私はそこそこの有名人になってしまっているらしいので、私のNを知っている人は普通より多いのかもしれないけれど、まさか校内の常識という規模で知れ渡っているわけではないでしょう。
相手にどんな力があるのかわからないこと、それが現代の抑止力になっている。バトル漫画の世界じゃないので、Nにはバランスという物がない。確率的には今この瞬間にも、同じ地球上に「秒で世界を終わらせられる人」と「秒で世界を蘇らせられる人」が何人も存在していたっておかしくはない。
だから捨て身の行動は無駄になりやすい。狂人は昔と比べて、もう一歩狂わないと行動を起こせなくなっている。それがNの当たり前になった世界だ。誰もが慎重に、あるいは臆病になった世界というのは、たぶんNがなかった頃より、ちょっと良い時代になったんじゃないかな……と私は思っている。生まれた時からNの存在が当然だった立場で言っても、ただの妄想と変わらないことだけれども。
さて帰るか、と荷物をまとめる。相談屋へ来る依頼者は、待っていれば来るというものでもない。来る時は大抵放課後すぐに来る。さっきの性欲の問題児たる彼もそうだった。迷いに迷ってから来るとか、何かのついでに覗きに来るとか、そういうことは滅多にない。
だから今日はさっきのでおしまい。当たりか外れかで言うなら外れだった。依頼に貴賤をつけることは、あまり好きではないのだけれど。ああいう人が来ると愚痴の一つも浮かんできてしまうというものでしょう。
下駄箱で靴を履き替えて門を出た私は、今日はいつもと少し違う予定があるので、駅に着いたら家とは逆向きの電車に乗った。三駅ほど行ってから降りるまでの間、窓からはずっと夕日が差し込んでいた。車窓からの夕日に照らされれば、座ってイヤホンをしたまま居眠りする学生だってなんだか絵になる……なんて学生の立場で思ってみたりしたのは、自画自賛に含まれるのだろうか?
降りたら徒歩でしばらく歩く。そのうちたどり着いたアパートの二階、一番隅の部屋の前に立ちインターホンを鳴らすと、待ち構えていたんじゃないかという早さで足音が聞こえて、ガチャリと鍵が開けられた。
「いらっしゃい」
私を迎えたのは、子どもがサンタさんでも歓迎しているんじゃないかというほど、跳ねる気分がそのまま乗った声。
「どうも」
玄関に出てきた女性は、背が私とそんなに変わらない。むしろ若干低い。人間、高校生ともなれば身長なんて大体完成するはずだから、同性の大人と比べて高かったり低かったりしたところでだからなんだという話だけれど、彼女の場合低いのは身長だけではないように思う。例えばそう、態度の意味での腰とか。
「ヨルちゃん、何かあった?」
「え、なんでです?」
「なんか疲れてるかなって」
疲労、それは私にとって重要な概念になっている。私のNは疲労感をカットするが、疲労そのものをカットするわけではないからだ。疲れを感じないことを理由に動きまわっていると、必然的にそのうち倒れてしまうことになる。
そうならないために適度に休養を取るか、誰かに「休め」と指摘してもらわなければならない。そして経験上、他人が「疲れてるんじゃない?」と言う時、それは大体合っている。
けれど今回ばかりは違うと思われた。これは疲れているんじゃなくて、うんざり感が抜けきらなかっただけ。
「そうなんですかね。まあ、若干の心当たりは無いわけじゃないけですけど」
「ど、どんな……?」
「相談屋に来た人の話なんですけど」
私は玄関と廊下を通り過ぎてリビングに着いたかと思えば、我ながらここが自分の家であるかのように自由に、そこらへんに腰を下ろして、今日来たやばい人について語る。
あんなやつ現実にいるんですね、正直なめてました。……なんて話をすることが、はたして彼女にどういう印象を与えるのか、私にはわからない。彼女は私が相談屋をやっていることに肯定的だけれど、そういう問題ではなくて。
鞘峰銀という人は、率直に言って危ない。害があるとか制御できないという意味ではなく、明日死んでいてもおかしくないという意味で。私が今日の依頼者へ対するうんざり感をここに引きずってきてしまったのは、容易に想像できることがあるからだった。
ヤらせてくれと頼まれれば、おそらく二つ返事で了承してしまうのが彼女、鞘峰銀だと認識している。なぜかといえば彼女は、人から求められることに異常に飢えているから。今日の依頼者と彼女を関連付けてしまう自分に、改めてうんざりする。人の心がないと言われればそれまでだ。
「それはまた、大変だったね」
「ええ、まあいいんですけどね」
私ともあろう者が、変質者の半歩手前にあるような人と対面したくらいで、疲労困憊となるはずがない。肉体的疲労は感じなくても蓄積するけれど、精神的な負担というのは、感じていなければつまり存在しないことと同じなのだから、ああいうトラブルにはむしろ耐性がある方である。
けれど私が今後この話を砂切にすることはないだろう。無駄に心配させるだけだから。じゃあなぜ鞘峰さんには話すのかというと、人から求められることに飢えている彼女にとって、会話は酸素みたいな物だから。砂切にとっての会話は例えるなら食事がいいところだけれど、鞘峰さんは酸素だから。よほどのことでなければ取捨選択なんか考えず、まず大前提として話すしかない。
「それよりも、前に会った時から今までで、他にもいろいろ面白いことがあったんです。聞いてくださいよ」
「うん、聞きたい聞きたい」
私の隣に座った鞘峰さんが、子どもみたいに目を輝かせている。彼女とそれほど歳が離れているとは思えなくなる。彼女はいわゆる童顔なので、本当にそう見えてしまう。……けれど私は、彼女が大人であることに安心してしまう。人から求められることに飢えている友達が、大人ではなくて同い年だったら、危うさはさらに増していたことだろう。
鞘峰さんに話した土産話は、
振り返ってみると、自分でも驚くほど「愉快」とは無縁のエピソードばかりだけれど、それがセラピーだとでも言うように鞘峰さんは私の話を聞く。一方私は、それを見ると心配になってきてしまう。
私はは正義感が強いわけじゃない。むしろ熱い情や激しい愛とは無縁の人間だ。けれど彼女と知り合った私は、「放っておく」という選択を取ることができなかった。それが続いて今に至る。もちろん、放っておきたいというわけではないのだけれども。
初めて彼女と知り合ったのはモンハンで遊んでいた時だった。彼女が「下手ですけど装備を作るの手伝ってほしいです」みたいな感じで人を募集していて、なおかつそこにまったく誰も寄り付いていなかったので、私が気まぐれで声をかけてみたのだ。そしていざクエストへ向かうと、彼女はマジでドン引きするくらい壊滅的な下手くそで、もう全部こっちでやるから安全圏で待っててくれと思わず言ってしまったことを覚えている。
世界中の人から「お前には生きる価値がない」と言われたんじゃないかというくらい、彼女は画面越しで文字のやりとりをしているだけなのにそれが伝わるほど、ひたすらに申し訳なさそうに、消え入りそうにしていた。しかしそれでいて装備作りをやめる気はさらさらなかったようなので、私は興味本位で聞いてみた。なぜそんなにその装備がほしいのかと。
それがないと友達と遊べないから、と答えられた。たしかに彼女の作ろうとしていた物はいわゆるテンプレ装備で、それくらい持っていて然るべきという風潮が無いわけではなかったけれど、だからって別に「友達のために」と言って作るようなものではない。というかそんな物は存在しない。ゲームっていうのはプロでも目指さない限り遊びなんだから、そんなところで変な気を使ってどうするって話だ。さらに言うなら私ではなく、その友達が装備作りを手伝えばいいだけの話じゃないかとも思った。
けれどその時、彼女にそれを言うことはできなかった。なんとなく、それが禁句である気がしたから。
そうして、そのド下手くそ状態だと問題は装備だけじゃあるまいと思いつつも、じゃあまた用があったら呼んでとフレンド登録し合って、解散してから数日後。彼氏にでも振られたのかという悲壮感でもって、友達とやらに嫌われたと、半泣きになって彼女は私に報告してきたのだった。
……なんとなくわかるだろうか。彼女はたぶん、いつもそんな感じなのだ。そうしてしばらくネットでの付き合いを続けるうちに、彼女の言う「友達」とやらを、私が供給しなければならないと考えるようになった。なんというか本当に、漠然と危機感を覚えたから。
それが今に至る。住んでいる場所が近かったのはただの奇跡だった。そして今になって思えば鞘峰さんは、砂切がいなければ学校でボッチ確定だった私の、数少ない友人と呼べる存在になっていたりする。彼女と一緒にいると、友達とはなんぞや、という問いを常に受けているような気持ちになるけれども。
「いろいろあったんだね。なんかすごいね、相談屋って」
「たまたまですよ」
「そう……?」
それからしばらく砂切の話をする。これが賢いタピオカブームへの乗り方だ! とか言いながら彼が、専門店の行列に並ぶのではなく、業務用スーパーから安くタピオカを買ってきたけれど、いざ開けてみれば小豆みたいな形の「タピオカ……?」が出てきた話とか。
鞘峰さんはどんな話でも基本聞きたがるけど、笑い話を聞いている時が一番楽しそうに見える。私のまわりで何か面白いことをする人と言えば大抵砂切なので、彼にはその調子で頑張ってもらいたい。
そうしてストックしてきた他愛もない話を続けているうちに、太陽はいよいよ本格的に沈みこんで、外が暗くなってきた。しかしまだ家には帰らない。別れ際の玄関にて、子犬みたいな目で見られても楽しくはないから。
「今日泊まっていっていいですか?」
砂切も、デートに誘うたびに私がそんな顔をすればきっと幸せなんだろうな。その時の鞘峰さんの顔を見て、そう思った。
「うん、大歓迎!」
「よし、そうとなればカラオケですよ」
私は颯爽と立ち上がる。そして部屋に置かれたタンスに全体重をかけ、ズズズ……と横にスライドさせる。その裏から出てくるのは、白い壁紙の貼られたこの部屋には場違いな、ところどころ錆びた鉄製のドア。私はそのドアを開くことに慣れている。
開いたドアの先には下りの階段がある。ここはアパートの二階であるはずだけれど、その階段はなぜか地下へ続く。ここがもし「開けてはいけない」と言われている場所であったなら、階段の続く先にあるのは血の海だろうと思えるほど、謎の鉄製ドアを抜けた先はずっと暗く、錆びついた空間が続いている。
やがて階段の終点に到着すると、おびただしい数の剣が飾られた部屋に出る。扉を通り抜けて以降続くディストピアの独房みたいな雰囲気は、剣の飾られた地下室にたどり着いたところで変わらない。壁も床も天井も電球も、一つの隙もなく女子高生とは無縁としか思えないデザインになっている。
あとからついてきた鞘峰さんがいま準備するねーと言って、飾られた中から数本の剣を持ちだしていく。
この部屋の壁には
様々な能力を持った「剣」を作るN。ただしそのNによる「剣」の定義は、友達の定義以上に曖昧だ。
剣の紋章がある、錆びついた暗い部屋、異空間。ここは彼女の作った剣である。様々な能力を持った剣を作るNでこの部屋を作れるのだから、つまり定義なんか気の持ちようなのである。
しかし彼女の作る剣には、定義がほぼ無いということ以外に、もう一つ特徴がある。それは「大抵の場合欠点を持つ」こと。例えばこの異空間の部屋はデザインが欠点となっている。彼女が望んだわけではなく、Nで部屋を作ろうとすると、勝手にホラーチックなデザインになってしまうらしい。定義が曖昧な変わりに効果も曖昧、けれど確実に便利。それが彼女のNの性質ということになる。
刀身の側面に「コンセントとして使ってくれ」と言わんばかりの形で穴が開いている剣は、どこに繋がれることもなくそのままコンセントとして使われる。そしてその剣に繋がれたことで電力を供給された、柄の部分がマイクの形になっている小さな剣を私は手渡された。当然これは、実質的に剣ではなくマイクである。
あとはパソコンから大音量で音楽を流せば、ここでカラオケができる。部屋のデザインなんていうのは、隔離された地下室と、その他多くの便利な剣が持つ便利さに比べれば、この上なくどうでもいいことだった。
これだけの物がタダで使える。これが人脈の力! Nが当たり前の物となっている現代では、人脈の力がこんなにも大きい! 人脈の力というフレーズで、またしても阿鳩馬恵菜のことが脳裏をよぎり、どれだけ印象に残っているんだとそろそろうんざりしてきたけれど、大きな声を出して好きな曲を歌えば、そんなこともすぐに吹き飛んでいった。
わたしは聴いてる方が好き。そう言って一曲も歌おうとしない鞘峰さんが、私の隣でどんな顔をしているのかは見なくても知っている。彼女は人から求めらることに飢えていて、Nというのはこの時代、個人のアイデンティティの一つだから。
やった、やった……! 膨大な「喜び」が体中から湧いてくる。アスファルトを蹴って走ることが、こんなに心地良いと思ったことは今までなかった。
仕返しや復讐なんてことをしてしまっては、憎む相手と同じレベルまで自分も堕ちてしまうんだよ……なんて言う人がいる。あれを言う人は馬鹿だ。
まずそもそものことを考えてみてほしい、いじめっ子といじめられっ子、どっちが上でどっちが下か。復讐は同じレベルに堕ちる行いじゃない。元々相手は下になんかいないんだから、堕ちようがない。復讐は、まず自分を相手と同じレベルにまで引き上げる、最低限やらなければならない行いなんだ。
私をいじめていた三人のNは、電気を起こす物と、視界を奪う物と、自分の見た物聞いた物をそのまま映像化できる物。つまりダメージを共有するナイフの能力が発動してしまいさえすれば、あいつらのなかにその能力を止める術を持つ者は誰もいなかった。だからこそやっぱり上手くいった。
私がナイフで三人を切りつけたところを、映像化の能力で偏向気味に大人へ見せられたら、悪者にされるのは私の方だろう。いくらいじめの証拠を集めていたって、最後にナイフを振り回してしまったら、私は、ただの被害者としては見てもらえなくなるだろう。
だからこそあの能力、だからこその脅し! 脅しの有用性は、あいつらが私に教えてくれたことだった。私はハッタリを使った。ダメージを共有する能力は、私の意思次第でいつでも使えるのだと言った。本当は二十四時間で効果は切れるけど、そんなことあいつらにわかるはずもない。
結果、完全に形勢逆転。あいつらは私に手出しできなくなって、むしろ私に怯えるようになった。私の体に何かあれば、気分次第でそれが自分にも共有されるとなったんだから、むしろ過剰に優しく接してくるようになったくらいだ。もちろんその優しさは上っ面の物だけど、あいつらが媚びてくるなんて、それ以上に魅力的な娯楽はない!
もしも大人に、このナイフで私のやったことがバレる日が来れば、きっと私より鞘峰さんが責任に問われるだろう。だからこれは約束通り明日彼女に返す。私だってあいつらを見て笑うことに一生執着するつもりはない。中学を卒業するまでの、あと少しの間だけ。それを過ぎたらもう今度こそ、鞘峰さんから何も借りなくていい人生を築くのだ。
ただ、これを返す時、一つだけ彼女に文句を言おうと思う。恩を仇で返すわけじゃないけど、ダメージの共有は私から相手に対してだけではなく、相手から私に対しても適用されるとは聞いていなかった。「共有」という言い回しから向こうは伝えたつもりになっていたのかもしれないけれど、これについては冷や汗をかかされたので文句を言わずにはいられない。
けれどそれ以上に、ちゃんとお礼も言おう。復讐と形勢逆転のために、このナイフは最高だった、最適だった。ただ強い力を持つんじゃなくて、自分と同じ痛みを相手に与えるというところがいい。自分たちのしてきたことをようやく思い知らせてやったような、清々しい気持ちになる。
あまりにも上手くいったから。理由もなく、見慣れた風景の中を走り回るだけで、腹の底から笑いが出てきて仕方がなかった。
N紹介
・「
所持……
能力……様々な能力を持った剣を生み出す能力。ここで言う「剣」の定義は曖昧で、実質的には「なんでも作ることが出来る能力」に限りなく近い。ただし大抵の場合、作った剣には何らかの欠点が生まれてしまい、これを取り除くことは出来ない。
・「
所持……相談屋に来た男。
能力……他者の性的な欲求や意識などを、自身のエネルギーに変換する能力。粘膜の接触が発動の条件であり、またこのNで得られるエネルギーが枯渇すると、その所持者は月を見た狼男のように、理性を手放すことになってしまう。そうなってしまった場合、彼がどのような行動を起こすのかは想像に難くない。このNは現代において病に近い扱いを受ける。
ちなみにこのNによって理性が飛んでしまった場合、それが収まるまでの間N所持者本人にはやけに神々しい羽が生える。これが飛んだ理性と相まって絶妙に気持ち悪い。