少女は呆然と、白い灰の前に座り込んでいた。
泣き声を上げず、涙をぽたぽたと零していた。
少女が幸せに暮らしていた家は完全に炭化し、床には溶けて丸く固まった窓ガラスの欠片が転がっている。
もうすぐ収穫の時期を迎えるはずだった畑は、燻って黒い煙は吐き出していた。
(やっと手に入れた幸せが……あの人がくれた幸せが、全部消えちゃった)
少女はそれがどうしようもなく悲しくて、ただ涙を流し続けた。
「悲しむ必要はないわ。だって"それ"は本物ではないんだもの」
そんな少女に、全ての元凶である炎の魔女が告げる。白い灰を冷たい瞳で見下ろし、煤けた外套を靡かせて、絶望する少女へと歩み寄る。
「本物じゃ……ない?」
意味が分からず、掠れた声で問い返す少女。辺りに満ちた熱気で、喉はからからに乾いていた。
「ええ、だってあなたは人間じゃないんだから。古びた偽物は全部捨て去って、本当の自分になりなさい。そうだ———私が新しい名前をあげる」
そう言って、魔女は少女の頭に手を乗せる。びくりと少女は体を竦ませた。
「あなたは今から、ティア。"ティアマト"のティア。かつてマルドゥークに討たれた、銀竜の名よ。あなたには資質がある。きっと、その名前にふさわしい存在になれるわ」
人間ではないと言われ、ティアという名を授けられた少女は、震えながら魔女に問う。
「……わたしは、なあに?」
「ティア、あなたは———"ドラゴン"よ」
少女の質問に、魔女は強い口調で答える。
「ドラゴン……」
「そう、そして私たちの母は"黒"のヴリトラ。あなたは、まだ何も失っていないの。お母様は、今もずっと私たちを見守ってくれている」
少女は目を見開く。
「……ママが?」
「ええ、"ドラゴン"のティアは一人じゃない。お母様と、多くの姉妹がいるのだから。さあ、私と行きましょう」
埋めようのない孤独を抱えた少女は、魔女の囁きに縋り付くしかない。
たとえそれが、間違いだと分かっていても———。
◇
"ドラゴン型の架空武装"を展開させたティアは、広大な地下演習場が狭い檻に見えてしまうほどの巨軀で宙に浮かび、破壊の嵐を周囲に撒き起こす。
無数の電撃は演習場の内壁を抉り、荒れ狂う風は俺たちの動きを封じる。
強風に煽られてバランスを崩したリーザの元に、雷が迸った。
「リーザっ!」
近くにいた俺は体ごとリーザにぶつかって、電撃から回避させる。顔面を柔らかな感触が包み込んだ。息が詰まって頭を動かすと、甘い香りが鼻腔を満たし、艶っぽい声が耳に届く。
「んっ……やっ……も、モノノベ・ユウ!ど、どど、どこを触っていますの!?」
「あ……わ、悪い!」
リーザのふくよかな胸部に顔を埋めていたことに気付き、俺は慌てて離れる。
「ふ、普段なら容赦なく制裁しているところですわよ?けれど……今回は危ないところを救われたようですし、不問にしてさしあげます…………ありがとう、ですわ」
顔を赤くして、ぼそっと小さな声で礼を言うリーザ。
「リーザから感謝されるなんて、今日は雨が降るかもな。って……もう既に大嵐か」
俺は強風に飛ばされないよう体勢を低くしながら、台風の目となっているティアを見上げた。
「……いったい、何が起こっていますの?あのドラゴンは、ティアさん……なんですわよね?」
「ああ、あれはきっとティアの架空武装だ。ティアが"心の輪郭"を象るようにして架空武装を作ったのなら……あいつは今、自分自身を完全にドラゴンだと思い込んでいるのかもしれない」
いきなり暴れ出した理由は、そう考えると説明が付く。
「で、でしたら早く正気に戻さないと!」
「そうだな———けど、どうやって近づくか……」
辺りには風と雷が吹き荒れ、ティアは数十メートル上空に浮いていた。
「モノノベ!」
ティアに接近する方法を考えていると、イリスの声が耳に届いた。同時に俺たちに吹き付けていた風が突然止む。
振り返ると、イリスとフィリル、そして亮の姿があった。三人は比較的近くで練習していたので、援護に来てくれたらしい。
フィリルは自分の上位元素(ダークマター)で形作った架空の書物(ネクロノミコン)を構えている。恐らく空気への物質変換を行い、風の結界を作り出しているのだろう。
暴風の圧力がなくなったことで周囲を見回す余裕ができる。深月、レン、アリエラは、篠宮先生を囲んで遠くの壁際に集まっていた。見たところ、フィリルと同様に空気の生成で風を相殺しているのだろう。ここから離れすぎているため、連携は取れそうにない。
「……大丈夫?」
フィリルが俺たちに声を掛ける。
「ああ、平気だ。ただ……ティアがちょっと大変なことになってる」
「自分をドラゴンだと思い込んでいるのか。しかし、初めて架空武装を作る割にはかなり出来ているな」
亮はティアを見上げて感心している。
「感心してる場合ではありませんわ。何とかしてティアさんを……」
「分かっている。……っで?どうする?」
亮は俺に指示を聞いてきた。
「フィリルは、このままできるだけ広範囲に風の結界を広げてくれ。イリスと亮は爆発を起こしてティアの注意を引いて欲しい」
「分かった、やってみる!」
「はいよ」
そう言ってイリスは自分の架空武装———双翼の杖(ケリュケイオン)を生成し、亮は手のひらに気功波を作り出した。
「———モノノベ・ユウ。では、わたくしはティアさんのところに行きますわ」
リーザも射抜く神槍(グングニル)を構え、頭上のティアに目を向ける。
「いや、待ってくれ。ティアのところには俺が行った方がいい」
「それはそうかもしれませんが……あなた、空は飛べますの?」
不安そうな眼差しを向けるリーザ。風による飛行法は大量の空気を物質変換で作り出す必要がある。
俺の上位元素生成量は皆と比べて著しく少ないため、その方法は使えない。だが———。
「あの高さに届けばいいだけなら、やりようはある。リーザは周囲に避雷針を作って、電撃を誘導してくれ」
「……仕方ありませんわね。なら、任せましたわよ——————聳えろ、鉄塔!」
リーザは射抜く神槍の穂先から、上位元素の塊を四つ撃ち放った。それらは空中で鉄針へと物質変換され、ティアのいる場所を囲むように地面へと突き刺さる。
出鱈目に放たれていた電撃が、四つの避雷針へと収束していく。
「オオシマ、あたしたちもっ!」
「ああ」
イリスは双翼の杖(ケリュケイオン)の先端をティアの方へ向け、集中を始めた。
「来たれ、来たれ、彼方の欠片……」
複数の黒い上位元素が、ティアを囲むように生成させる。
亮も無数の気功波をティアの周りに放つ。気功波はティアを囲むように宙に浮く。
「亮、ティアに怪我はさせるなよ」
「分かっている——————くらえ!」
亮は宙に浮いている気功波を一斉に爆発させる。
「雨玉よ、散れ!!」
水の塊へと変換された上位元素が、一斉に弾け飛んだ。
イリスは"何を作っても爆発させてしまう"という特異な才能を持っている。空間認識力も高く、狙いは外さない。二人の起こす爆発は、ティアを直接傷ついることはなかった。
ルォォォォオオォオォォンッ!
ティアは爆発に驚き、上位元素で形作った太い竜の手足で、立ち込める水蒸気と気功波に攻撃する。だが、水蒸気と気功波に触れた手足の方が、逆に抉られて消滅した。
削られた手足はすぐに復元するが、やはりあれは見せかけだけのドラゴンなのだと、俺は確認する。物質変換前の上位元素は、生成者以外に触れると消滅する脆いモノ。ならば内側にいるはずのティアに到達するのは、それほど難しくはない。
「フィリル、できる限りでいい……道を拓いてくれ!」
俺はそう言うと、ティアに向かって駆け出した。
「了解———エアー・ロード」
背後からフィリルの声が聞こえ、追い風が俺の背中を押す。フィリルの風は俺を追い越し、ティアから吹き付ける風を阻んでくれた。爆発に気を取られているティアは、俺の接近に気付いていない。
走りながら俺は意識を集中し、自分の架空武装を生成する。
「ジークフリート」
右手の中に現れるのは、大口径の装飾銃を象った上位元素の塊。
この架空武装から上位元素を弾丸として放つことにより、俺は最大で三回だけ協力な物質変換を行える。三回分を使い切れば架空武装は消え、もう一度生成するには大きな隙が生じてしまう。だから———。
(三発で、決める)
俺は足を止めぬまま上空のティアに銃口を向け、細かい狙いは付けずに引き金を引いた。
「白煙弾(スモーク・ブリッド)」
放たれた弾丸が空中で細かな塵と空気に変換される。押し寄せる煙に包まれる紅のドラゴン。無数の塵が上位元素を削り、一瞬だけティアから竜の衣を剥ぎ取った。
(見えた!)
煙が暴風に吹き散らされると、再び上位元素の竜は復活してしまう。しかし俺の目はティアの位置を明確に捉えていた。
左胸……心臓の位置!
ティアの真下まで辿り着いた俺は足を止めると、今度は精密に狙いを付け、地面に向かって銃を撃つ。
「空圧弾(エアー・ブリッド)」
大量の空気へと変換された上位元素は、地面に当たって弾け、俺の体を空へと吹き飛ばした。
そしてそのまま、ドラゴンの中へと突っ込む。視界が紅色に染まるが、感触や抵抗は全くない。存在しないに等しい変換前の上位元素は、俺を阻むことができないのだ。
「ティアっ!」
俺は声を上げながら、空いた左手を伸ばす。狙いは外していない。あとは高度さえ足りていれば、この手は届くはず———。
指先に微かな感触を覚えた直後、目の前にティアの姿が現れる。その瞳は虚ろで、何も映していなかった。やはり正気を失っている。
俺たちは……自分をドラゴンだと思い込むティアを、本物のドラゴンにする後押しをしてしまったのかもしれない。
「しっかりしろ!ティアっ!!」
大声で叫びながら、俺は左腕でティアの体を抱き留める。
「——————え? ユウ……?」
瞳に光が戻り、ティアは俺の名を呼んだ。
俺はティアを抱えたままドラゴンの体を突き抜け、落下へと転じる。
近づく地面を睨み、ジークフリートを下方へと向ける。これが、最後の一発。
「———空圧弾っ!」
空気の爆発で落下の衝撃を相殺する。ふわっと地面に降り立った俺は、すぐにティアの様子を確かめた。
「大丈夫か、ティア?」
「…………」
だが、先ほど我に返ったように見えたティアは返事をしない。脱力した体を俺に預け、気を失っている。
あれだけ巨大な架空武装を生成し、大規模な物質変換を続けたせいで、心身共に疲弊したのだろう。
「モノノベー!」
イリスやリーザが、こちらに駆け寄ってくる。遠くにいた深月たちも、俺たちの方に急いで近づいてきていた。
クラスメイトたちは皆、心配そうな表情を浮かべている。だがその中で篠宮先生だけは厳しい眼差しを俺たちに向けていた。
篠宮先生の顔つきを見て、もう猶予がないことを悟る。
俺はぐったりとした様子で眠るティアに視線を移し———彼女の心を侵している怪物(ドラゴン)と相対する決意を固めたのだった。
◇
ティアが暴れたことで演習場はボロボロになってしまったが、幸い怪我をした者はいなかった。
加えて亮や深月が必死に取り成したことで、ティアへのペナルティは一先ず保留された。
ただし篠宮先生には、次はないぞと釘を刺されてしまったが。
(演習場、補修しないと使えそうにないもんな)
俺はティアを背負って保健室へお向かいながら、床から天井まで電撃で損壊した演習場の様子を思い出す。
亮ならすぐに直せると言っていたが、もしみんなの前で力を使えば神であることがバレてしまう。俺はなんとか説得してやめるように頼んだ。
設備に大きな損害が出たせいで、今回の顛末はミッドガルの上層組織であるアスガルへ伝えざるを得ないだろう。もしこれ以上の被害を出せば、アスガルはティアに何らかの処分を下すに違いない。
(起きたら、ちゃんと話をしないとな)
ティアがミッドガルの一員に———本当の意味でクラスの仲間になるために、この子を"人間"にする必要がある。
静かな廊下を歩き、保健室の前までやって来る。ティアを運んでいると、転入したときのことを思い出す。
午後の実践演習でイリスが物質変換に失敗して、俺が保健室に運んだのだ。
「失礼しまーす」
俺はガラガラと横開きこ扉を開くが、室内でさにいたのは何度かお世話になっている養護教諭ではなかった。
「……え?」
ポカンとした顔でこちらを見たのは、昨日言葉を交わした女子生徒———立川穂乃花。体操服の少女は椅子に座って上着を捲り上げ、脇腹の擦り傷を自分で消毒している。
「きゃっ!?」
穂乃花は捲っていた上着を元に戻し、俺に背を向けた。驚きのあまり棒立ちになっていた俺は、その悲鳴で我に返る。
「あ……その、悪かった!少し外で待ってるから」
俺はティアを背負ったまま扉を閉めようとするが、穂乃花は慌てた様子で声を上げた。
「ま、待ってください!背中のティアさん、具合が悪いんでしょう?わ、私なら気にしませんから……どうぞ、中へ」
「……いいのか?じゃあ……お邪魔するぞ?」
他人の部屋に招かれた気分になりながら、俺は保健室に足を踏み入れる。まずは奥のベッドへ真っ直ぐ向かい、眠るティアを背中から降ろした。ベッドに優しく寝かせ、布団を被せてから、俺は穂乃花の方に向き直る。
「えっと、他に誰もいないみたいだけど……先生はどこに行ったんだ?」
「あ、先生なら医務室の方です。私より大きな怪我をした子がいて、その治療をしています」
「大きな怪我?何か、事故でもあったのか?」
穂乃花の腕や足には、いくつか絆創膏が貼られていた。俺が保健室に来る前、自分で処置をしたのだろう。
「……実は、実習中に私が物質変換を失敗してしまったんです。それで、クラスメイトの方にも怪我をさせてしまいました」
それが医務室で手当てを受けているという生徒のことなのだろう。
穂乃花たちのクラスは、俺たちとは別の演習場で実習授業を受けていたらしい。
「そっか、失敗は誰にでもあることだけど……人に怪我をさせたのは、しんどいな」
「はい……後で、きちんと謝ります。許してもらえるかは分かりませんが」
「そうだな。結果がどうなるにしても、それが一番だと思う」
俺がそう言うと、穂乃花は苦笑を浮かべた。
「……悠さんは、下手な気休めは言わない方なんですね」
「悪い———励ますべきだっていうのは分かってるんだが」
「いえ、無責任なことを言う人よりも好感が持てますよ」
そんなことを言われると照れ臭くなってしまう。
俺がポリポリと頬を掻きながら、視線を逸らした。
「あの…ちょっと届かない箇所がありますので……もしよければ……手伝ってもらえませんか?」
「え?お、俺が?」
穂乃花の思いがけない言葉に、俺は目を丸くする。
「はい、背中の……この部分だけで構わないので」
そう言って穂乃花は体操服の上着を少しだけ捲り上げた。
白い肌に目が惹き付けられる。
「まあ……君が気にしないのなら」
俺は戸惑いながらも彼女に近づく。応急処置に関してはニブルで一通り習っている。これぐらいの手当てなら気後れすることもない。
「じゃあ、消毒するぞ。本当にいいんだな?」
消毒液とガーゼを受け取り、彼女に念を入れる。後でセクハラ扱いになっては敵わない。
「お願いします。優しく……してくださいね」
「あ、ああ……分かった」
ごくんと唾を呑み込んで頷く。
俺は椅子に座る穂乃花の後ろにしゃがんで、手当てを始める。
「……っ、ぁん……」
沁みるのか、妙に色っぽい声を出す穂乃花。俺はできるだけ自分の気を逸らそうと、彼女に話かける。
「そういえば穂乃花は、バジリスクの進行方向上にある町で保護されたんだよな?どう見ても日本人なのに、何でそんな場所にいたんだ?」
全校集会の時に感じた疑問を投げかけると、穂乃花は沁みるのを堪えながら答える。
「母が……んっ……世界を飛び回っている人で……あっ……私は母と一緒に、各地を転々としていたんです」
「すごいお母さんなんだな……いきなり引き離されて、寂しくないか?」
「いえ……私たち、結構ドライな関係でしたし。私には父や親戚がいないので……んっ……仕方なく一緒にいた面もあるんですよ。だからむしろ、自立できてホッとしています」
穂乃花の答えは淡々としていた。強がっているわけではないらしい。
「……しっかりしてるな。よし、終わったぞ」
丁寧に消毒した傷口に絆創膏を貼り、手当てを終える。
「ありがとうございます、悠さん」
上着を元に戻し、穂乃花は礼を言う。
「別に大したことはしてないさ。まあ……ちょっと照れ臭かったが、これからも友達を頼るのに、遠慮なんていらないからな」
「は、はい。よろしく……お願します。で、では……私、クラスメイトの方の様子を見に医務室へ行ってみようと思います」
ぺこりと頭を下げ、少し慌てた様子で保健室の出口へ向かう穂乃花。
「ああ、それじゃあな」
俺が片手を上げて応じると、穂乃花は目を細めて微笑む。
「はい———また、お話しできると嬉しいです。それでは……」
扉が閉まり、部屋が急に静まりかえる。
(また、か)
偶然顔を合わせるのを待つより、こちらからメールなどをするべきかもしれない。
ベッドの方に視線を向けると、ティアはまだすやすやと眠っていた。
プルルルルルルルル———!
だがその時、保健室の内線モニターから電子音が鳴り響き、コールサインが点灯する。
「……出た方が、いいのか?」
迷いながら保健室の扉に目をやる。まだ養護教諭は戻ってきそうにない。
(俺に用事って可能性もあるか)
ティアを保健室に連れて行くことは、篠宮先生に伝えてある。もしかしたら俺に何か連絡事項があるのかもと思い、躊躇いつつもモニターの応答ボタンを押した。
軽い電子音が鳴り、画面が切り替わる。
だが、モニターに現れた顔は全く想定していなかった人物のものだった。
『やあ、久しぶりだな。物部少尉』
「……ロキ少佐?」
ニブルにいた頃、直属の上官だった男の名前を口にする。
ロキ少佐は画面の向こうから切れ長の目で俺を見つめ、柔らかな笑みを浮かべた。
『先ほどまで、篠宮大佐と打ち合わせをしていてね。そのついでに、君のいるところへ回線を繋いで貰ったのさ。君が異動する際には、言葉を交わす暇もなかったからな。ずっと話したいと思っていたんだ』
「え……?話なら、この前も———」
『何を言ってい?んだい、物部少尉。私が君と話すのは、ミッドガルに異動してから初めてだろう?』
それを聞いて俺は、これが公の回線であ?ことを思い出す。
リヴァイアサン侵攻の際、迎撃態勢に移った環状多重防衛機構(ミドガルズオルム)の隙を突いて、ロキ少佐は俺の個人端末へ密かに連絡を入れてきた。それはミッドガル側に聞かれてはいけない話をするため。竜紋が変色した"D"の殺害を、俺に依頼するものだった。
「そう……でしたね。ロキ少佐の元で戦っていたのが、まだつい最近のことに思えて、勘違いしていました」
俺は仕方なく話を合わせる。下手な発言をして問題が発生すれば、それは俺を監督する深月の責任になってしまう。
『はは、私もだよ。もう部下ではないというのに、君のことが心配になってしまったね。少し、耳に入れておきたいことがあるんだ。聞いてくれるかな?』
「はい……何でしょうか?」
嘘臭いロキ少佐の笑顔を見ながら、俺は頷く。公の回線で言えることならば、以前ほど不穏な内容ではないはずだ。
『ドラゴン信奉者団体"ムスペルの子ら"が、ティア・ライトニングの奪回を画策しているらしい。ミッドガル側にも注意を促したが、君も気を付けてくれたまえ』
"ムスペルの子ら"……それはティアを事実上の軟禁状態に置いていた組織の名だ。彼らが"D"のドラゴン化について知っているのなら、ティアを取り返そうとするのも理解できる。しかし———。
「奪回……?このミッドガルからですか?近づいた瞬間、環状多重防衛機構に排除されると思いますが……」
『そうだな、ミッドガルの守りは堅牢だ。けれど物資や人員の行き来はある。厳重な検査があるとは言え、絶対ではない。それに今回は……間違いなくキーリも動く』
ロキ少佐はそこで初めて笑みを消す。
「あのキーリが……」
キーリ・スルト・ムスペルヘイム。"ムスペルの子ら"のリーダー。災害指定された"D"……。環状多重防衛機構を突破できるとは思えないが、確かに大きな脅威ではある。
『キーリは強いぞ、物部少尉。今回"ムスペルの子ら"の施設に"D"がいるとの情報を得て、ニブルは可能な限りの戦力を投入したが———キーリ一人に大半が制圧されてしまったのだからな』
「な……」
初めて聞く情報に、俺は息を呑む。
『善戦したのは、私の部隊———スレイプニルだけだ。彼らがキーリを引きつけている間に、施設の裏手から脱出した武装車両を別働隊が確保した。運転手はバジリスクの元へティア・ライトニングを連れて行くよう命令されていたそうだ』
「じゃあ"ムスペルの子ら"は、"D"のドラゴン化について知った上で……」
『捕らえた団体員は詳細を聞いていなかったようだが、少なくともキーリは知っていると見るべきだな。ティア・ライトニングは他の施設から移送されたばかりだったらしい。バジリスクの来訪を待たず、自らの手でつがいを差し出すつもりだったのだろう』
つもりティアは、"生贄"として送られる途中だったということか。昨日亮が言っていたのは本当のことだと知る。ほんの少しニブルの動きが遅ければ、既に二匹目のバジリスクが誕生していたに違いない。
「そこまでしてドラゴンを増やそうとしているのなら……確かに、このまま諦めるとは考えにくいですね」
『ああ、キーリは必ず何らかの行動に出るはずだ。もしもミッドガルに侵入を許した場合は、甚大な被害が予想される。くれぐれも気を抜かないでくれたまえ。スレイプニルで仕留め損なったことを考えると、彼女は恐らく今の君よりも強いだろうからな』
「っ……」
息を呑む。俺を誰よりも強い怪物に育てようとしたロキ少佐の言葉だからこそ、キーリという"D"がどれだけ異常な存在なのかが伝わってきた。
『できればそちらにスレイプニルを送りたいところだが、ミッドガルはそう簡単にニブルの干渉を許してくれなくてね。ゆえに、万が一の時は物部少尉———君に期待する他はない』
「キーリは俺より強いのに……ですか?」
『ああ、それでも彼女を"殺せる"可能性があるのは君だけだ。もしも、君の傍に守りたいものがあるのなら———下らない拘りは捨てたまえ。それが私からの忠告だよ』
全てを見透かしたような眼差しを向け、ロキ少佐は言う。
「……憶えて、おきます」
心臓を鷲掴みにされた心地で、俺は声を絞り出した。
『そうしてくれると助かる。まあ、あくまで念のためではあるが、現在までの蓄積されたキーリのデータは、君の端末に全て送っておく。時間のあるときにでも目を通しておいてくれ』
「はい、色々と……ありがとうございます」
『気にするな、好きでやっていることさ。それと、バジリスクは未だアフリカ大陸を横断中だ。リヴァイアサンの時は急な事態にニブルも混乱していたが、今回は余裕がある。だから余計な心配はしなくて構わない』
ロキ少佐は含みを込めた口調で告げる。この前はイリスを殺すためにニブルから部隊が送られたが、今回はまだそういった動きがないことを示唆しているのだろう。
「……分かりました」
『あと、アスガルから聞いているよ。ドラゴンを圧倒する少年……大島亮というそうだね』
「っ!?」
ロキ少佐は亮の名前を出す。
『彼も脅威だ。もしかしたらキーリと繋がっている可能性もあると私は考えている』
「そんなことはありません。亮は俺たちの仲間です」
俺はロキ少佐の考えを否定する。あいつは神であるため、キーリと手を組むことはない。
『そうか……そこまで彼を信用している訳だね。しかし、用心に越したことはない。彼の監視を頼むよ。それでは、そろそろ失礼しよう。また、話せる機会があることを願っているよ———物部少尉』
口元を皮肉げに歪めて笑うロキ少佐。そして通信はプツンと途切れ、モニターはブラックアウトした。
「…………」
俺はブラックアウトしたモニターを眺めていた。亮の正体を知らせるわけにはいかない。たとえ知られても信じてはもらえないが、あいつの力を見れば、間違いなくニブルは亮を殺そうとする。
そうなれば亮は容赦なくニブルを壊滅させるだろう。創造と破壊を司る神。"世界神"。アスガルやニブル、ミッドガルでは特別な力を持った"D"となっている。
「ユウ……?」
何も映っていない画面を見ながら物思いに耽っていると、背後から声が聞こえた。
「ティア、起きたのか」
ロキ少佐と通信していた声で目覚めたのかもしれない。ティアはベッドの上で上半身を起こし、戸惑った顔で俺を見つめていた。
「どうして……ティアはこんなところにいるの?さっきまで、ユウたちと練習してたはずなのに……」
「———憶えていないんだな。そのことも含めて、これから少し話そう。ここじゃ何だし、砂浜に行かないか?」
俺がそう提案すると、ティアの表情が輝く。
「うんっ、またユウと一緒に海が見たい!」
その笑顔が曇ることを考えると心が痛んだが、俺は駆け寄ってきたティアの手を取った。
ドラゴンのお嫁さんと旦那さま。
きっともうすぐ———このチグハグなおままごとは終わるのだ。
いかがでしょうか?今回は一万字を超えました。次もお楽しみください。