決意
俺———物部悠には、秘密があった。
三年前、故郷の町を"青"のヘカトンケイルから守るため、"緑"のユグドラシルと取引を行ったこと。
ユグドラシルから送られてくる力の情報———旧文明の兵器データはあまりに膨大で、ダウンロードを行うたびに記憶が失われてしまうこと。
このことを知っているのはこの世界の神、大島亮だ。あいつは創造と破壊を司る"世界神"と呼ばれる存在で、何でもできる。しかし、記憶を取り戻すことは神でもできないと言う。
何でも人間の脳は複雑で、むやみに手を加えれば後遺症が残ったり、もっとひどい状態になるとのこと。
さらに亮はユグドラシルからダウンロードを行うたびに記憶を失うだけでなく、体への負担も掛かってくることを教えてもらい、"白"のリヴァイアサン戦では精神と体力を回復してくれた。
しかも、記憶は元に戻せなくてもあいつの持っている杖を使って過去の映像を映し出せるようで、見たい時はいつでもいいと言われている。
だが俺は一度も頼んだことはない。もし過去を見ても、自分がどれだけのもの失ってしまったのかを思い知らせてしまう。正直知ろうとすると怖くなる。
もしそのことを知れば妹の深月はきっと傷つく。だから亮以外の人には隠してきた。深月が苦しむ顔は、見たくなかったから———。
けれど、もう手遅れだったのだ。
俺は———深月が本当の妹でないことすら、忘れてしまっていた。彼女への大切な
俺が俺であること。ただ、それだけで深月を傷つけてしまう。俺はいつの間にかそんなモノに成り果てていた。
そのことを自覚したのは、ほんのついさっき。
俺はこれまで亮以外には誰にも言わず、胸の内に
今の俺にとって一番大切なはずの少女、イリス・フレイアに、抱えきれなくなった重荷を無理やり背負わせてしまう。
胸を
イリスは俺の話を黙って聞いてくれた。
「悪い。いきなりこんな話を聞かせて……」
話を終えた後、俺は罪悪感を覚えながら謝る。
(俺は、何をやってるんだ)
自分弱さに呆れ、強い後悔が湧き上がるが……もう時間は戻せない。
「うん……色んなことをいっぺんに言われて、頭の中がグルグルかも」
苦笑交じりの声でイリスは答えた後、俺の背中に手を回した。
悔恨に
「でも———モノノベがあたしを頼ってくれたことだけは、ちゃんと分かったよ。だから大丈夫!」
イリスは俺から身を離し、正面から瞳を覗き込んでくる。
「今度は、あたしがモノノベを助けるから」
はっきりと決意の表情を浮かべて、イリスはそう宣言した。
その眼差しには一切の迷いがない。ただ———俺だけを見つめている。
「イリス……」
「これ、オオシマ以外の皆には秘密のことなんだよね? だったら続きは部屋で聞かせて。もっとちゃんとモノノベの話を聞いて、どうすればいいか考えたいの」
そうして俺たちは船室に入り、ベッドに二人並んで腰掛けて話を続ける。
具体的にどんな記憶を失ったのか。何故秘密にしなければならなかったのか。
真剣な顔で問いかけるイリスに、俺は全て正直に答えた。しかし、亮が神であることをうっかりバラさないようにあいつのことも話した。
やがて質問も途切れ、部屋には静寂が満ちる。
イリスは無言で天井をしばらく見上げた後、ぽつりと言葉を
「モノノベは、あたしを好きになっちゃったことが……一番しんどいんだね」
「いや、それは———」
とっさに否定の声を上げるが、それは尻ずぼみになって消えてしまう。
イリスの言葉は核心を突いていた。俺は過去の自分を———深月との約束を裏切ってしまったことが、何より辛いのだ。
(たとえ兄妹になっても、深月のことをいつまでも、誰よりも好きでいる。大人になったら結婚する)
幼い頃の俺は、深月にそう誓ったらしい。
そんな大切な約束を忘れ、イリスに心を奪われた俺は、もはや深月が知る物部悠とは別人。
ゆえに耐えられなかった。これ以上、物部悠の
「無理しなくていいよ、モノノベ。あたしは、それでも嬉しいから」
「嬉しい……?」
イリスの言葉に理解できず、俺は問い返す。するとイリスは体を寄せ、俺の肩に頭を預けた。
「うん、だってあたしがこうしたいのは今のモノノベで……今のモノノベはあたしを好きで———これって、両思いってことでしょ?」
「まあ、そういうことになるが……」
「ならいいの。あたしはそれが分かっただけで、すっごく幸せ」
頬を染めて微笑んだイリスは、上目遣いでい見上げる。
俺は罪悪感に満たされた胸の内が、微かに温かくなるのを感じた。
「モノノベ、今は悩んだり迷ったりするんじゃなくて、これからのことを一緒に考えようよ」
「これからのこと?」
「そう、何とかして
それを聞いた俺は、ポカンと口を開ける。
理解できない。本当に分からない。どうしてイリスは
「本気で、言ってるのか?」
「え? うん、もちろん本気だよ。モノノベは、やっぱり難しいと思う?」
「いや、難しいとか簡単とか、そういう話じゃなくて……それがどういう意味か、分かっているのか? もし万が一、俺が記憶を取り戻せたとしたら———」
それは、あまりに残酷な事実。だから最後まで言葉にすることは出来なかった。
けれどイリスは、俺の言いたいことを察したらしく、少し寂しげに笑う。
「モノノベは———今のモノノベじゃなくなっちゃうね。分かってる……でも、いいの。あたしはモノノベを助けるって、決めたから」
はっきりとイリスは告げる。
今の幸せが失われるかもしれなくても、それで構わないのだと。
どうしてそこまで強くなれるのか。
思えば出会った時からそうだった。俺はイリスのことを、一度たりとも理解できたことはない。いつも彼女は、俺の予想を良い意味でも悪い意味でも裏切ってみせた。
たぶんこんなにも理解不能だからこと……彼女に
呆然とイリスの顔を見つめていると、彼女は少し照れた様子で視線を逸らす。
「えっと……偉そうなことを言ったけど、具体的な方法はまだ何も思い浮かんでないの。ごめんね」
「謝らないでくれ。ありがとう、気持ちだけで十分だ」
記憶を戻す方法など存在するとも思えないが、俺は心から礼を言う。
「あ、でも一つだけ気になったことはあるよ。モノノベはあまり気にしてないみたいだったから、すごく意外だったんだけど……」
「何がそんなに気になったんだ?」
「モノノベはユグドラシルと契約したせいで、記憶を
「あ、ああ。けどそれは仕方ない代償で———」
俺はダウンロードされるデータがそれほど膨大であることを伝えようとする。身体や精神的にも負担が掛かるため、亮が和らげてくれることを伝えようとする。だがイリスは俺の言葉を途中で遮り、強い懸念を込めた口調でこう言った。
「本当に? あたしはそんな風に思えないよ。どうしてモノノベは、ユグドラシルのことを全然警戒してないの?
いかがですか? 次もお楽しみください。