All I Need is Something Real 作:作図
家庭科室はバニラエッセンスの甘い匂いに包まれていた。雪ノ下は慣れた風に冷蔵庫を開けて、卵やら牛乳やらを持ってくる。彼女は慣れた様子でエプロンをつけ、様々な調理器具もテキパキと準備をし終えた。
この作業の手際のよさといい、雪ノ下はかなり料理の腕がたつとみていいだろう。料理の腕が壊滅的な女子しか知らないためか、もし雪ノ下も料理が出来なかったらどうしよう…という不安を抱いていたが、この分なら大丈夫そうだ。俺はほっと安堵の息を漏らした。
「由比ヶ浜さん、エプロンまだ着けていないの?それともやっぱり着られないの?…結んであげるからこっちに来なさい」
「え、あ、その…いいの、かな」
「早く」
「ごごめんなさい」
雪ノ下が指摘するのも無理はないだろう。由比ヶ浜さんのエプロンはだらっとしていて、結び目もでたらめだった。着慣れていないのが伺える。
俺も料理は一通りできるので、家庭科室備え付けのエプロンをそそくさとつける。紫がベースで黄色のストライプが施されているなかなかハイカラなデザインだ。雪ノ下はそんな俺の姿を見ると、どこか訝しげに言葉を放つ。
「別に私だけで充分ですよ。先輩は比企谷君と一緒に、味見だけしてもらえれば大丈夫です」
「そ、そうか?ただ食べるだけっていうのも、何だか申し訳ないんだが」
「お構い無く。一人に二人ついても、どちらかが手持ち無沙汰になるだけですから」
「…まぁそうだな。なら何かあったら声をかけてくれ」
そう言われておとなしく、俺は比企谷の隣に腰を下ろした。
「あのー…。先輩?」
「ん? 何だ?」
「いや、何すかそのエプロン…」
「あぁ、これか? さっきここから借りてきたんだ。なかなかハイカラだろ?」
「は、ハイカラ…?」
比企谷が俺のエプロンに気を取られている最中、雪ノ下が由比ヶ浜さんのエプロンを手早く結ぶ。早速クッキー作りに取り掛かるようだ。
「あ、あのさ、ヒッキー…。か、家庭的な女の子って、どう思う?」
「別に嫌いじゃねぇけど。男ならそれなりに憧れるもんなんじゃねぇの」
「そ、そっか…。よーしっ! やるぞ!」
それを聞いていっそうとやる気を出したのか、由比ヶ浜さんはクイッとブラウスの袖をまくった。これはきっといいクッキーが出来るにちがいない…!
* * * * * * * * * * * * * * *
「ど…どうしてこうなったんだ…」
俺の期待とは裏腹に、真っ白な皿に大量に盛り付けられているのはドス黒い石炭のような『何か』。強烈な刺激臭をぷんぷんと撒き散らすそれは、まるで禍々しい世界の混沌を凝縮しているかのようだ。
由比ヶ浜の料理の腕前はそれはもう凄まじかった。
卵は殻が入っているし、小麦粉はダマになっている。さらにバターは固形のまま。当たり前のように砂糖は塩にすり替わっている。
まるで去年の里中や天城達*1を見ているようだった。いや、材料がしっかりと正しい分こちらの方が重症かもしれない。
「理解できないわ…。どうやったらあれだけミスを重ねることができるのかしら…」
雪ノ下も酷く困惑していた。小声であるあたり由比ヶ浜への配慮はしているようだが…。
「み、見た目はあれだけど…食べてみないとわからないよね!」
「…そうね。味見をしてくれる人が二人もいることだし…」
二人の視線が俺と比企谷に集まる。
「ははは、面白い冗談だな雪ノ下! これは毒味というんだ…。ジョイフル本田で売ってる木炭みたいになってんぞこれ」
「お、落ち着け比企谷。雪ノ下が準備した材料に変なものは入ってなかった。大丈夫だ。…多分」
それに、由比ヶ浜さんがクッキーを上手くなるためにも、ここで俺達が撤退するわけにはいかない。それに俺にも彼女の背中を押した以上責任がある。俺はと覚悟を決めて、皿に盛り付けられているクッキーを一枚手に取る。
「いただきます…ペルソナアアアアア」カッ
自分に活をいれる為の叫びと共に、思いきってクッキーを一枚頬張ると、見た目通りの不快な食感が口の中に広がる。魚の
間違いなく彼女らと肩を並べる料理の腕前の持ち主であるのは間違いないだろう。三人が様子を伺うようにして俺の顔を覗きこむ。由比ヶ浜はどこか申し訳なさそうだ。なんとか口の中の異物を退けて、作り笑顔をしてみせる。
「由比ヶ浜さん大丈夫だ。次、頑張ろう。は、初めは皆こんなもんだ」
「いやいや…。皆が皆こんなんだったら、人類は多分滅亡してますよ」
…確かにそれは否定できない。
「比企谷君も文句ばっかり言ってないで食べなさいよ。私もその…食べるから。依頼を引き受けたのも彼女に付き添ったのも私よ? 責任くらいとるわ」
そういって彼女は皿を自分の側に引き寄せる。彼女の名誉のためにもいうが、雪ノ下は実際かなり頑張って教えていた。俺の入る隙もないほどに。
「マジで? お前ひょっとしていい奴なの? それとも俺のことが好きなの?」
「…やっぱりあなたが全部食べて死になさいよ。鳴上先輩。あとはこの男が全部食べるそうです」
「そうか助かる。…骨は拾うからな」
「ごめんなさいおかしなことを口走りました。皆でちゃんと食べましょう」
そういって比企谷と雪ノ下も皿に盛り付けられている
「…死なないかしら」
「俺が聞きてえよ…」
「保険証は持参したほうがいい」
「もろ危険物扱いっ!?」
「あながち間違ってないだろ…。由比ヶ浜…お前も食うんだ。人の痛みを知れ」
「うっ…まぁそうだよね! …いただきます」
【クッキー処理中…】
「鳴上先輩、その…大丈夫っすか。クッキー?ほとんど先輩が食べてましたけど」
「大丈夫だ。こういうのは慣れてる」
材料だけはまだ正常であったのが幸いしてか、慣れたら意外と食べる事ができた。だが、俺の味覚が既におかしくなってしまった……という可能性も捨てきれないのが悲しいところである。
ともあれ、俺は彼女らの『
「慣れているって…。それはそれで問題だと思うのだけれど…。その…ありがとうございます」
「気にするな。それよりも、由比ヶ浜が今後どうすればいいか考えよう」
「そりゃ先輩……由比ヶ浜が料理しないことっすよ」
「全否定された!?」
「比企谷君、それは最後の解決方法よ」
「それで解決しちゃうんだ!?」
彼女は肩をがっくしと落とし、深いため息をつく。
「たはは……。やっぱりあたし料理に向いてないのかな…。才能ってゆーの?そういうのないし」
それを聞いて雪ノ下は、呆れたような短いため息をついた。どうやら、彼女の中の何かを焚き付けてしまったらしい。
「…なるほど。解決方法が分かったわ」
「ほー、どうすんだ?」
「努力あるのみ」
「え? それって解決方法か?」
「あら、努力は立派な解決方法よ。正しいやり方をすれば、だけれどね。由比ヶ浜さん。あなたさっき才能がないって言ったわね?その認識を改めなさい。最低限の努力もしない人間には才能のある人を羨む資格はないわ。成功できない人間は成功者が積み上げた努力を想像できないから成功しないのよ」
雪ノ下の言うことは確かに正論ではあるのだが、無機質な鋭利なナイフのような、冷たさと鋭さも兼ねていた。比企谷も思わずうわぁ…と声を漏らしている。
「で、でもさ、こういうの最近みんなやんないって言うし。…やっぱりこういうの向いてないんだよ」
「…その周囲に合わせようとするのやめてくれないかしら。ひどく不愉快だわ。自分の不器用さ、無様さ、愚かしさの遠因を他人に求めるなんて恥ずかしくないの?」
あまりの剣幕に、言われた由比ヶ浜は言葉を失い涙目になっている。まずいな…流石に止めた方が良さそうだ。
「おい、流石に言いすぎじゃないか」
「あら、私は本当の事を言っているだけですよ」
「だとしてもだ。…彼女は大切な誰かのために、手間のかかる手作りクッキーに挑戦してるんじゃないか。彼女が自信を無くした時に追い込むような事を言ってどうする?正論を言うことだけが、いつでも正しい訳じゃない」
「そんなのはただの甘えよ! 上部だけの建前を言ったって、彼女の為にもならないわ」
そうして、俺も雪ノ下も口を閉じきり黙りこんでしまう。重たくなった空気の中で、今にも泣き出しそうなか細い声が漏れだす。沈黙の中やけにはっきりと聞こえるそれは、由比ヶ浜さんから発せられていた。
しかし次の瞬間。彼女はこの場の誰もが予想だにもしなかったある一言をいい放つ。
「か、かっこいい…」
「「「は?」」」
三人の声が重なった。俺も驚いて顔を見合わせてしまう。
「なんていうか本音をちゃんと言い合ってるって言うのかな?確かに言葉はひどかったし、ぶっちゃけ軽く引いたけど…」
「うんまぁだろうな。俺も相当引いた」
比企谷がそれに同調してみせるも、なお由比ヶ浜はニコニコと笑っていた。
「そういうところだよ。なんか本音って感じする。あたし、人と合わせてばっかりだったから、こういうバッサリと言われたのとか始めてで…」
そう、由比ヶ浜は逃げなかった。
「ごめん。次はちゃんとやる」
一通り述べた後に由比ヶ浜が雪ノ下を見つめ返すと、今度は彼女が言葉を失った。雪ノ下は何か言うべき言葉を探しているようだが、見つからないようだ。
「…正しいやり方ってのを教えてやれよ。由比ヶ浜もちゃんということ聞け。」
二人の無言を壊すように言ったのは比企谷だった。彼はああ見えて、周りの事を良く見ている人だと思う。今の一言も、何を言えばいいか困っていた雪ノ下を気遣ってのものだろう。
「そうね…。一度お手本を見せるから、その通りにやってみて」
そういって立ち上がると雪ノ下は手早く調理を始めた。その手際は見事なもので、今後の料理に参考になるだろうと、俺自身もじっくりと見させてもらう。
待つこと数十分。焼き上がったクッキーはそれは見事なものだった。雪ノ下は完成したそれを手際よくお皿に移すと、すっとこちらに差し出した。
「その、さっきはすいませんでした。先輩にも変に当たってしまって…」
「気にするな…俺もすまなかった。これ、ありがたく頂くよ」
>雪ノ下と上手く和解できたようだ。少し彼女の事を知れた気がする。
>新たな絆を手にいれたことで、"月"属性のコミュニティである"雪ノ下 雪乃"コミュを手にいれた!
期待感を胸にクッキーを一つ手にとって口に含むと、俺の表情からは自然と笑みがこぼれた。これは……! すごい……!
「おっおいしい…! ち、ちゃんと食べられるぞっ! あぁ、これはいいものだ…。……料理ができる女子なんて実在したんだな…」
本当に…! 本当に感動した……! 今までの価値観が塗り替えられるとはまさにこのことか。女子からの…。女子からの手作りクッキーがこんなに美味しいだなんてッッ!
陽介とクマにも自慢してやろう…! きっと彼らもこれを食べたら泣いて喜ぶに違いないと、確信出来るくらいには美味しかった。思わずもう一枚、もう一枚とクッキーを手に取ってしまう。
「クッキーをそんなに美味しそうに食べる人初めてみたわ…。…先輩、あなた本当に今まで何を食べてきたんですか?」
>辛い記憶がよみがえる…。
「…そっとしておけ」
比企谷と由比ヶ浜さんも、雪ノ下のクッキーには心打たれたようで、思い思いの感想を述べる。
「うまっ! お前何色パティシエールだよっ!?」
「ほんとおいしい…。雪ノ下さんすごい」
「ありがとう。でもねレシピに忠実に作っただけなの。だから、由比ヶ浜さんにもきっと作れるわ。むしろ作れなかったらどうかしてるわ」
「…あたしにも雪ノ下さんみたいなクッキー作れる?」
「ええ。レシピと同じようにやればね」
「大丈夫だ、もしまた失敗しても鳴上先輩が食ってくれる」
「おう、任せてくれ」
「そこ受け持っちゃうんですかっ!? うーっ、絶対美味しいの食わせてやります!」
「ああ、頑張れ。今回は俺も手伝うよ。いいだろ?」
「だから私ひとりでも平k… いえ、やっぱりお願いするわ。なら今回は比企谷君に食べてもらいましょう」
「えぇ…。…頼むから絶対成功してくれよ」
こうして由比ヶ浜のリベンジが始まった。
* * * * * * * * * * * * * * *
由比ヶ浜の指導は正直なところ大変だった。それは、初めは俺も手伝う事に少し微妙な反応をしていた雪ノ下が、今では比企谷にも手伝いを要請したほどにだ。
だが、その甲斐あってか前のクッキーとは比べ物にならないほどの一品が完成した。あの出来の悪さから考えると天と地の差。成功したと言っても良いくらいの出来
しかし、この出来とは裏腹に、女性陣は未だに満足していないご様子。
「なんでうまくいかないのかなぁ…。言われた通りにやってるのに」
「そんなことないだろ。初めのものと比べたらかなりの進歩じゃないか。これからもコツコツ練習していったら、きっともっと美味しくなるよ」
「あ、ありがとうございます。うーんでもやっぱり雪ノ下さんのと違う」
由比ヶ浜は落ち込み、雪ノ下は頭を抱えている。さて、どうしたものかと思っていると、彼はクッキーを齧りながら、今までの根底をひっくり返す事を言ってのけた。
「あのさぁ、さっきから思ってたんだけど、なんでお前らうまいクッキー作ろうとしてんの?」
「はぁ?」
由比ヶ浜は何いってんだという顔を比企谷に向ける。
「はぁ…お前、ビッチのくせに何もわかってないの?バカなの?男心っつーんがなんもわかってないのな」
「だからビッチ言うなっつーの! し、仕方ないでしょ! 付き合ったことなんてないんだから」
「比企谷、つまりはどういうことだ?」
具体的な中身を話すように聞くと、息をふぅ…と一つ吐いて語り始める。
「ふぅ…。お前らはハードルを上げすぎなんだよ。せっかく手伝りクッキーなんだ。手作りの部分をアピールしなきゃ意味がない。店と同じようなものを出されたって嬉しくないんだよ。むしろ味はちょっと悪い位の方がいい」
「悪いほうがいいの?」
「あぁ、そうだ。上手にできなかったけど一生懸命作りましたっ! ってところをアピールすんだよ。そしたら男は絶対勘違いすんだ、悲しいことに」
「なるほど、つまり気持ちが何よりも大事って事だな。確かに一理ある」
確かに俺も、チョコレートを貰った時は純粋に嬉しいと思えた。それは彼女達が必死に作ってくれたという気持ちが伝わったからだろう。できればしっかりとレシピを見て、直斗に教わりながら作って欲しかったが…。
「…ヒッキーも揺れんの?」
「あ?あーもう揺れに揺れるね。むしろそれだけで好きになるレベル。つかヒッキーって呼ぶな」
「そういえばなんでヒッキーなんだ?俺も呼びたいんだが」
「えっいや…なんとなく?」
「そんな馬鹿っぽい渾名で呼ばないでください。いやマジで」
「馬鹿っぽいって何っ!?」
「今までは手段と目的を取り違えていたということね…。由比ヶ浜さん、依頼のほうはどうするの?」
「あれはもういいや! 教わった事を活かして頑張ってみるよ! 失敗は成功のもと? って言うしね! …ありがとね、雪ノ下さん」
振り向いて由比ヶ浜は屈託のない笑顔で笑っていた。ああ、彼女はきっと、美味しくなったクッキーを意中の人に渡せるんだろうなと思った。
ふと、もしかしたら、いや、多分。彼女の意中の相手というのは彼…、比企谷なのかもしれないな…なんて思った。もちろん、それは決して口には出さないけれど。
「本当に今日はありがとう。先輩も、あと…。そ、その、ヒッキーも…。また明日ね!」
手を大きく振って今度こそ由比ヶ浜は帰っていった。
>初めての依頼を解決したことで奉仕部の絆の芽生えを感じる。
>新たな絆を手にいれたことで、"愚者"属性のコミュニティである"奉仕部"コミュを手にいれた!
to be continued
タイトル日本語訳
『失敗は成功のもとってね。』