洛陽、そこは帝がおわす国の中枢。まだ幼さの残る霊帝はいつものように城下を眺めながら、十常侍の一員であり側仕えの趙忠と談笑をして過ごしていた。
「ご飯がなければお菓子を食べればいいじゃない。」
これを素で発言するまでに浮世離れした育ちをしてしまったのも、この国の暗部と言えるかもしれない。しかし裏を返せば、まだ幼い時分に国の頂を任せることとなり、その小さな体には重すぎる責任を負わせまいと十常侍を筆頭に奮闘した結果でもある。特に最も歳が近かった趙忠からしてみれば、姉代わりとしてやり過ぎなほどに穢れから保護してきた。
そうして国を治めるものとしてはあまりにも足らないことが多すぎる帝となってしまっても、子を持つことを許されない十常侍らにとっては、孫代わり娘代わりとして目に入れても痛くない存在なのだ。
「これでよい。我らがお守りしていけば済む話なのだから。」
こう言うのは十常侍筆頭の張譲。
水鏡がまだ洛陽に居た頃はよく教育について衝突もしたが、友であるからこそ水鏡は彼らの気持ちを汲んで「後のことは頼む」と去ったのだ。水鏡が書いた『天の子』という著書はそんな水鏡の思う天という願望だったのかもしれない。
「爺ぃじ、おいたは、だめ」
まだ幼少の霊帝がこう言って水鏡の処刑を止めた時、彼は涙した。感謝だったのか、それとも後悔か…その涙の理由は彼にしかわからない。
ともあれ以来水鏡は帝とは袂を別つこととなった。目と鼻の先に私塾を建てたのも、十常侍らへ教育の大切さを示す抗議の意味もあったのかもしれない。そして国を捨てきれない気持ちの表れでもあった。
時折お忍びで張譲が水鏡を訪ねてくることもある。友というのは捨てようとして捨てきれないものだ。
しかし、それらが綻びる時も刻一刻と近付いてきていた。
「…陰の者は何と?」
「はっ、それがどうにも掴みきれていないようです。」
「急げ。時はそうない。」
張譲は苛立ちをみせて男を睨みつけた。
老体とは思えない威圧に震えあがる男は汗を拭いながら部屋を飛び出していく。その行く先は涼州。かつて不戦の条約を結んだ、今や半独立国家とも言える騎馬民族の地。
そこに放った密偵からの報告が、ある日を境に途切れつつあった。あの地に手を出すのは慎重に事を運ばなければ痛い目に合うのは経験から分かっているが、そうは言っていられない事情が張譲にはあったのだ。
「なんとしても…儂の目が黒いうちはなんとしても…!」
願うのはただ一人、帝のため。思うのはただ一つ、国のため。
我が子でなくとも、子というのは良きものよと水鏡は言った。それは痛いほどわかる。だからこそ為さなければならないのだ。
かつて運動会という催しに招待されたときに目にした光景を思い出すたびに心が軋むが、いずれ胸の鼓動など止まるもの。そんなことで足を止めるわけにはいかない。
希望に満ちてキラキラと輝く瞳、真っ直ぐな姿勢。いつも思い返すのは表彰台に立って満面の笑みを浮かべるあの男子生徒だ。学友たちにもみくちゃにされて嬉しそうにはにかむあの姿。
『…主上様もただの娘であれば、ああして学友に囲まれ過ごしていたのだろうか。』
ふと頭によぎってしまったことを今でもハッキリ覚えている。
それから張譲は私塾に寄り付かなくなった。自らの想いをこれ以上育てないために。そしていずれ国を盛り立ててくれるであろう、あの屈託のない笑顔を浮かべていた男子の健勝を祈りながら。
・・・
・・・
「で、ヌシは董白とどこまで進んどるんじゃ?」
「はぁ?!」
道場の更衣室で着替えをしている最中、唐突に繰り出された質問に翠は振り向いて棚に背を当てた。
「何を驚いとんじゃい。あれほど良き男と幼馴染っちゅうんじゃから子を作る算段なんぞ付いとるんじゃろ?」
「Δ×ω〇Σμ▼?!!!ば、馬っ鹿、きゅ、急に何言いだすんだよ!!」
「なんと…!ヌシ、まだ何もしとらんのか!」
「あ、当たり前だろ?!だって…その…あいつとは…まだ付き合ってるわけじゃないというか…」
真っ赤になりながら俯く翠だったが、「まだ」と言ってしまっている以上そういった考えはあるのだろう。それに気付いた成公英はくすりと笑った。
「それは良い事を聞いた!それならわっちが初物貰える可能性もあるわけじゃな!」
「な…!」
「ほんと、お姉さまったら奥手なんだから。女子なら誰だってそのくらい考えるでしょ?」
見るからに狼狽する翠とは対照的に、素っ裸のまま仁王立ちして満足そうに笑う閻行。彼女とて自分より強い男を婿に貰うという夢を叶えたいのだ。むしろこの世界においてこうまで奥手過ぎる翠は珍しい部類だと言える。今度帰ってきたら伝えようとしているうちに、渡せず終いの恋文は束になってしまっていた。
「そういえば、詠ちゃんも告白しようか悩んでるみたいだよ。お姉さま、先越されちゃうよ?」
「なんだって?!」
考えてみれば、もうそろそろ詠らもお年頃。月なんかは特に歳を重ねるごと兄にべったりになっていくし、詠との膝上争奪戦は激しさを増している。鶸から伝え聞いた話によると、一時期喧嘩してギスギスしていたが、ある話し合いを以て結託したらしい。兎にも角にも、翠の恋路は障害が増えていくのだった。私塾での一刀を考えればその壁はさらに高まるのだが、今の翠は自分の気持ちに精一杯で知る由もなかった。
そうしてかれこれ一年の月日が過ぎた。桃の花が咲き誇り、紅白の垂れ幕がぐるりと囲む水鏡塾。
そこでは初めてとなる卒業生を送る式典が行われていた。卒業証書を水鏡から一人ずつ受け取り、あるものは達成感を、またあるものは寂しさを浮かべながらそれを手にした。これからは守られた立場から守っていく立場へと変わるのだ。人によっては、すぐにでも兵として前線に出ることもあるだろう。国の中枢で働く者もいるかもしれない。もちろん地元へ戻り家業を手伝う生徒もいる。しかしここで培われた知識や経験は必ず糧となる。水鏡はその為に、私塾をひらいたのだから。
「校歌斉唱!」
卒業生も在校生も一斉に立ち上がると、音頭を合わせて高らかに歌いだす。
遥かに仰ぎ、大樹山
希望を抱く、わが友よ
並び通いし、白き学び舎
ああ我らの、水鏡塾
涙を流す者もいる。よく見てみると、保護者や教師の一部も泣いているようだ。成長を喜ぶ半面、その物悲しさもあるのかもしれない。
最後に、卒業おめでとうという水鏡の言葉を受けて、卒業生たちは誰からともなく帽子を天高く放った。舞い散る桃の花びらに、その光景は良く映えた。
「董白さん、その…わ、わたくしが居なくても大丈夫ですの?わたくし、貴方のことが心配で…何か困ったことがあればすぐに仰ってくださいまし?わたくし何処からでも駆けつけますわ!お手紙もたくさん書きますから!」
「ありがとうございます!」
最後にギュッと抱きしめると、慈しむように頭を撫でた。傍らでは李儒も涙ぐんでいるようだ。会長、副会長の間柄だが、その絆はだいぶ強固に築きあがっている。
「会長…いえ、麗羽様。後のことは任せてください。」
「玲さん…!そうね、今日からあなたが会長…董白さんの事をよろしくお願いしますわ!」
「はい!」
いつの間にやら真名まで交換し合うほどの間柄になっていたらしい。二人は固く握手を交わすと微笑み合った。
「董白さん、今更ですが…わたくしの真名、麗羽と申します。中々勇気が出ず授けられなかったのですが、受け取っていただけますか?今日を逃せば機会はいつになるかわかりませんから。」
「では僕のことは一刀と。故郷へ帰ってもお元気で、麗羽姉さん!」
「…っ!ありがとうございます。もう心残りはありませんわ!」
そう言うと涙をぬぐい、踵を返す。
「斗詩さん、猪々子さん、真直さん!行きますわよ!」
「「「はい!!」」」
花吹雪の中を颯爽と歩むその姿を見て、一刀はあんなカッコイイ人になれたら良いなと思ってしまうのだった。自身の資質からすれば方向性がまるで違うのだが、得てして人はそういったものに憧れを持つものだ。
少し離れたところでは同じく卒業を迎える孫策、周瑜、太史慈が孫権に一時の別れを伝えているようだ。孫権は気丈に振舞ってはいるが内心寂しいに違いない。そんな様子を察してか、母である孫堅に乱暴に頭を撫でられていた。
「あ~あ!在学中に天下一武道会獲るはずだったのにな~!」
「ふっ、毎年決勝まで進んだのだから良しと思え贅沢者。」
「しかも三度も同じ相手に…!あ~もう、悔しい!」
水鏡塾運動会で獲得した天下一武道会の出場権。それは三年前から太史慈が継続して獲得していた。翌年の大会には孫策も出たがったが、塾内での太史慈との決勝戦で決着がつかず引き分けという事で太史慈が権利を保持したのだ。喜び勇んで参加した太史慈は三年連続で決勝まで勝ち進んだが、決勝の相手…関羽の父に敗れ、三年連続で準優勝となっていた。年齢の垣根を越えた大会でその成績であれば十分誇れるのだが、やはり彼女はそれで満足するタマではないのだろう。
「…伯符、いつまで木の上で飲んでるんだ。そろそろ行くぞ。」
「もうちょっとだけ~」
「ダメだ。」
「ちぇ。」
卒業にあたって親より授けられた字。これも彼女たちが大人になった証だ。
ぶーぶーと文句を言いながらスルスルと木から降りてくる孫策。教師の隙を見ては授業を抜け出し、こうして木の上で寝ていた彼女にとってはここが思い出の場所なのだろう。
「…ありがとね。」
そう言って一度幹に手を当てて、彼女は振り返った。その目は、一人の将とならんとするギラギラしたものへと変わっていた。後に、江東の麒麟児と呼ばれることとなる孫伯符の顔に。それを見た孫堅は満足そうに大きく笑うと、彼女らを連れて私塾を去っていくのだった。
月日は巡る。皆、私塾に入学したのは九才のころ。最終学年である六年生の生徒たちはもう一五才を迎える。この世界では立派に大人だ。これから先、卒業生たちがどんな運命を辿るのかは誰も知りえない。しかし私塾の教えが糧となり果てのない暗い道を先陣斬って歩もうとも、それは灯りとなるはずだ。
「良きかな良きかな。」
水鏡は自室で一人呟いた。
こうして月日は過行く。
一刀らも五年生になり、少しずつ大人へと近付いていく。相変わらず朝は李儒と孫権がやり合って、私塾では物陰からねっとりとした陰湿な視線が向けられ、休み時間には夏侯惇から絡まれるという相変わらずの日々を送っていた。
「董白くん、お口拭いて~」
「もう、しょうがないなあ。」
「えへへ~」
「…かたじけない、董白殿。」
劉備は日に日に甘えん坊へと成長し、
「董白、これについて貴方の意見を聞きたいのだけれど。」
「ああ、えっと…僕ならそっちの街道は通らないかな。」
「それはどうしてかしら?安全面を考慮すればこちらのほうが行軍に最適なはずでしょう?」
「そうなんだけど、多分、その道はきっと相手も警戒してると思うんだ。だから僕ならこう迂回して…」
「ふむ…」
曹操とはあらゆる面で切磋琢磨、
「ねぇねぇ董白く~ん、私とお茶でもどう?」
「張郃殿、馬に蹴られるぞ。先ほどから孫権殿が怖~い顔で睨んでいる。」
「ふふっ、それが面白いんじゃない♪」
「…ふっ、わからんでもないが。どれ董白殿、それでは私と逢引でもどうだ?」
学友たちとは仲を深め、
「皆さ~ん!先日の試験の答案を返していくわよ~!まずは…公なんとかさ~ん!」
「公、孫、瓚だよ!!だからなんであたしで落とそうとするんだ!」
公孫瓚は相変わらずの様子で。
皆も(一部を除いて)成長を続けながら、私塾での生活を謳歌していた。その頃になると、一刀と孫権の関係も変化を見せ始めていた。
始めの方こそお互い照れもあったが、今では二人の空気感は恋人同士のそれに近いものとなっていた。無論、気持ちを打ち明けているわけではないが、それでも笑い合いながら話す二人の間に友情以上のものがあるのを周囲も見て取れるほどに。
「あの…これ。」
「あっ…!え、えっと…う、うん。」
二人とも赤らんだ顔でそっぽを向きながらこっそり本を渡しているのは、今ではお馴染みとなった光景だ。
いつの間にか始まっていた交換日記。きっかけは王学科の授業で、一刀の隣に座った孫権が教師にバレない様に竹簡の端に文字を書いた。
『この間は朝から騒いでごめんなさい。』
それを見た一刀が、
『平気だよ。いつも一緒に私塾に通えてうれしい。』
それを見た孫権が悶絶。
結局、突然机に顔を突っ伏して足をバタバタし始めた孫権のおかげで教師にバレて叱られてしまったが、その後も授業ごとに竹簡の交換といった形でひっそりと筆談は続けられた。それは次第に形を変え、今では交換日記という形で今に至る。
「ふぉぉ~~~っ!!」
今日も今日とて、夜の女子寮に姫のものとは思えない声が轟くのだが…最も迷惑を被っているのは同居人だろうことは間違いない。
今回もお付き合いくださりありがとうございます!とうとう袁紹たちも卒業です…ここから一刀らの卒業まで駆け足気味になりますが、私塾編は後に回想という形でも登場しますのでご安心ください。
それでは皆さんのご感想お待ちしております!