鎮守府に足を付けた時から、吹雪の心臓は高鳴った。
ここに兄がいる。もうすぐ会える。
それがたまらなく嬉しく、自然と体も弾んだ。
「ここを登れば、執務室がある所に着くよ」
睦月が目の前の坂を指さして言った。
初めてあったばかりだが、吹雪はこの睦月という少女が何だか好きだった。
同じ位の年齢ということもあったが、人懐っこい笑顔と明るい性格が吹雪の心をすぐに解したのだ。
「えっと……睦月先輩は……」
「睦月でいいよ」
「えっと、じゃあ……睦月ちゃんは長くここにいるの?」
「ううん、睦月もちょっと前に来たばかり。吹雪ちゃんと同じ新兵だよっ」
そんな話をしながら歩いていると、気がつけば赤煉瓦で出来た建物の前に着いていた。
「ここが鎮守府本部! まずはここで長門さんに挨拶しないと」
「長門さん?」
吹雪は首を傾げた。
長門のことは知っている。戦艦長門の魂を受け継ぐ艦娘で、大先輩に当たる人だ。今は秘書艦をやっていると、扶桑が言っていた。
問題はそこではない。
「おにい……司令官に挨拶するのが先じゃないの?」
司令官。その単語を聞いた瞬間、睦月の顔が曇った。
「えーっと……司令官はね……」
困ったように苦笑する睦月に吹雪は違和感を覚えた。
最初に挨拶するのは、提督じゃないのか。提督はこの鎮守府で最高責任者のはずだ。ならば、まずはそこに挨拶に行くのが筋であろう。
それに早く兄に会いたいという気持ちもまた、あった。
「司令官はね、今ちょっと色々あってね……会えないかも」
その言葉を聞いて吹雪は歩みを止めた。
「どうして……?」
「う、うーん」
睦月は目を逸らした。本気で困っているようだ。
「どうしたの、睦月ちゃん?」
不意に別の声が響いた。
二人がその方向に向くと、坂の下から一人、少女が現れた。
美しい少女だった。
睦月と似た服を着ているが、雰囲気は全く逆である。
無邪気で子供のような睦月とは対照的に、落ち着いた佇まいの大人びた印象。
栗色の髪の毛を腰あたりまで伸ばし、桃色の羽根飾りを付けている。
「如月ちゃん!」
睦月が飛びついた。
如月は胸に飛び込んできた睦月の頭を撫でる。
如月。
その名前には聞き覚えがあった。
艦娘の穴にいた頃に、扶桑からよく聞いた名前だ。
最初期から活躍した六人の駆逐艦、第一遊撃部隊の一人。
駆逐なれども、その影響力や実戦経験は計り知れないものがあるという。
「睦月ちゃん、その子は?」
「吹雪ちゃんだよ。今日からここに配属されたんだよ」
「吹雪ちゃん?」
如月の目が吹雪へ向いた。
紫色の、柔らかい視線だった。
吹雪は何だか心が落ち着いていくのを感じた。そうなるような不可思議な魅力が、如月にはあった。
「あ、あのっ、初めまして! 本日を以てこの鎮守府に配属された吹雪と言います!」
「あらあら、話は聞いていたわ。そんなに固くしなくてもいいわ。如月と申します。よろしくね」
かしこまって敬礼する吹雪に如月はにっこりと笑って、敬礼を返した。
「それで、どうしたの? こんな朝早くから」
「うん、実は吹雪ちゃんを本部まで案内したんだけど……長門秘書官に会ってもらおうと思ったら、どうして司令に会わせないのかって……」
最後の方は声が沈んでいた。
如月は睦月の説明で事態を察したのか、悲しげに瞼を閉じる。
そして目を開くと、諭すように言った。
「ごめんなさいね。あの人は……司令官は今、少し問題を抱えているの。今は誰とも会おうとしない。私も何度も会おうとしているんだけど、どうしても駄目なの」
「そんな」
「でもいずれ、きっと元に戻ってくれるでしょう。だから、今は我慢して。ね。とりあえず長門さんに挨拶をした方がいいわ」
優しく肩を叩かれた。
これ以上は無理だ。
そう思えるほど、如月の瞳には悲しみが滲んでいた。
「……はい」
釈然としない。だがここは折れるしかない。
吹雪は気をおとした。
すぐ近くに兄がいる。それが分かるのに会いに行けないのは歯がゆかった。
「いきましょうか、執務室へ。この時間でも、長門さんはきっといるでしょうし」
如月がそう言って扉を開ける。
中の内装は強面な外装からは想像できないほど、質素で落ち着いたものだ。あくまでも軍事要塞なので、当然なのかもしれないが。
如月に先導され、睦月と一緒に進む。入ってすぐ、右側にある階段を上り、奥へ歩いて行くとちょうど端に『執務室』と書かれた表札が見えてきた。
コンコンと、如月がドアを叩いた。
「誰だ」
奥から低く鋭い声が帰ってきた。
「如月です。今日配属される新造艦を連れて参りました」
しばらくして、入れ、と声がした。
「さ、いきなさい」
如月が促した。
吹雪は深呼吸すると、ドアノブに手をかけて、一歩踏み出した。